第21話 別の道
シグベルが屋敷を訪ねてきたのは、常罪区から戻った翌日の朝だった。
シグベルがここに来ること自体は珍しくない。以前にも助言や情報を持って現れたことがある。だが今日のシグベルには、それらの時とは違う空気があった。テオドアが応接間に案内しようとすると、シグベルは首を振った。
「ロゼリア様と、二人でお話ししたい」
テオドアがロゼリアに取り次いだ時、その声にかすかな緊張があった。シグベルが「二人で」と言うのは初めてだった。
ロゼリアがシグベルを執務室に通す。銀色の髪が朝の光を受けて輝いている。穏やかな青い瞳がテーブルの上の帳簿を一度だけ見た。何かを確かめるように。
「お忙しい中、失礼いたします」
「いいえ。……お座りください」
二人が向かい合って座った。テオドアが茶を運び、静かに退出した。扉が閉まる音が、執務室に響く。
シグベルは茶に口をつけず、ロゼリアの顔を見ていた。探っているのではない。ロゼリアの状態を、見定めている。
「常罪区の状況は把握しています」
シグベルが切り出した。
「物資が途絶え、ドルグが動き始めている。住民の間であなたへの不信が広がっている。ルカ・フィッツの件が流された」
全て知っている。ロゼリアが自分の足で確かめに行ったことを、シグベルは教会の管理権限と独自の情報網で把握していた。
「あなたのやり方は、限界を迎えています」
穏やかな声だった。責めているのではない。事実を、事実として述べている。
「正規の物資を入れ、ドルグの影響力を削ぎ、住民の信頼を築く。あなたが一つずつ積み上げてきたものは確かに成果を出しました。ですが、それを支えていたのはルカ・フィッツという一人の商人です。一人に依存した仕組みは、その人間がいなくなれば崩れる」
ロゼリアは何も言えなかった。正論だ。シグベルの言うことは、全て正しい。
「クレイヴは、あなたのやり方の弱点を正確に突いてきました。ルカを使ってあなたの信頼を壊し、物資を断ち、住民の間に不信を植える。一つの行動で三つの柱を折った。……見事というほかありません」
シグベルの声に皮肉はなかった。クレイヴの手腕をそのまま認めている。敵を正しく評価できる人間だ。だからこそ、この人の計画には冷徹な合理性がある。
「ロゼリア様。改めて、提案させてください」
シグベルがロゼリアの目を真っ直ぐに見た。
「私の計画に合流していただきたい。クレイヴの根を全て把握してから、一度に断つ。それが最も確実な方法です」
「以前にも伺いました。その間、住民にはソルミナの苦しみに耐えてもらう、と」
「ええ。それは変わりません」
シグベルの声に揺らぎはなかった。ロゼリアは言葉を継いだ。
「昨日、常罪区でソルミナの離脱症状に苦しむ住民を見ました。手が震えて起き上がれない人がいた。レイン様が診察してくださいましたが、あのまま放置すれば体が持たない人も出てくる。……シグベル様の計画では、それを承知の上で待つのですか?」
シグベルは少し間を空け、静かに答えた。
「ええ。承知の上です」
ロゼリアは無意識のうちに膝の上で手を強く握る。
「倒れる者もいるでしょう。命を落とす者が出る可能性もある。私はそれを分かっています」
シグベルの声はどこまでも穏やかだった。だがその穏やかさの中に、決して揺らがない芯が通っている。
「ロゼリア様。この都市にいるのは罪人です。罪を犯し、裁かれ、償いのためにここに来た人間たちです。——苦難は、贖罪の一部です」
ロゼリアの目が、わずかに見開かれた。
「神は安楽な償いなど求めておられません。罪を背負い、苦しみ、それでも倒れずに歩き続ける。その先にこそ赦しがある。ソルミナの苦しみは理不尽ですが、この都市に理不尽でない苦しみなどない。住民が耐えることそのものに、意味があるのです」
教会で男に「あなたはまだ償っていない」と告げた時の声と同じだった。穏やかで、優しくすらあり、そしてブレることがない。シグベルの言葉は、敬虔な信仰に裏打ちされている。この人にとって、住民の苦難は計画の犠牲ではなく、贖罪そのものだ。
だからこそ、冷徹でいられる。だからこそ、住民が倒れることを「承知の上」と言い切れる。
ロゼリアは息を吸って、吐いた。手の震えを抑える。
「……シグベル様。それは贖罪ではありません」
シグベルの表情がかすかに動いた。
「罪を犯した人間が償いを果たすべきだということは、私も否定しません。罪の重さに向き合い、自分の意志で償う。それが贖罪です」
ロゼリアは詰まりそうになりながらも必死に言葉を紡ぐ。シグベルの言うことは正しいが――受け入れてはならない、線がある。
「でも今、常罪区の住民に起きていることはそうではない。ソルミナで体を壊され、離脱症状で倒れ、ドルグの品を受け取らなければ働くこともできない。それはシグベル様が仰る苦難でも試練でもありません。自分の意志で選んだ苦しみではないのです」
ロゼリアの譲れない一線。一度深く呼吸をして、続ける。
「知らされずに苦しめられて、耐えることを強いられて、それが贖罪だと言うのなら――」
ロゼリアの目がシグベルを射るように見た。
「それは贖罪ではなく、復讐です。罪人だからどんな苦しみを受けても仕方がないと。罪を犯したのだから報いを受けるのは当然だと。……それは神の赦しではなく、人の裁きです」
執務室に沈黙が広がった。
シグベルの穏やかな青い瞳が、じっとロゼリアを見ている。その目の奥で、何かが揺れたように見えた。だがすぐに静まり、元の深い色に戻った。
「……あなたは、私の信仰を否定なさるのですか」
低い声だった。怒りではない。だが、今までのシグベルからは聞いたことのない響きがある。怖い、とすら思った。それでもロゼリアは逃げることなく、シグベルと向かい合う。
「信仰を否定はしません。でも、信仰の名の下に住民の選択肢を奪うことには反対します」
「選択肢、ですか」
シグベルがその言葉を繰り返した。噛みしめるように。
「私はつい先日、信じていた人間に選択肢を奪われました」
ルカのことを話すのは、初めてだ。シグベルがぴくりと眉を上げた。この角度で持ち出すとは思わなかったのだろう。
「黙っていたのは、私を守るためだったそうです。善意でした。でも善意であっても、知るべきことを知らされなかった。信じるか疑うかすら、自分で選べなかった。……あの痛みを知った今、住民に同じことをするわけにはいかない」
シグベルは何も言わない。窓から差す朝の光が、テーブルの上の帳簿に影を落としている。
「あなたは、自分の痛みを基準に政治をなさるのですか」
ようやく出てきたのは、そんな問いだった。非難ではない。確認だ。
「はい」
ロゼリアの答えは短かった。
「私の痛みは、住民の痛みと同じだからです。知らされずに、選べずに、誰かの計画の中に組み込まれる。それが贖罪であれ善意であれ信仰であれ、選択肢を奪われることに変わりはない」
長い沈黙があった。シグベルの瞳に浮かんでいるのは、敬意と、失望と、そしてどこか——この答えを予感していた諦めのようなもの。
「……あなたは変わりませんね」
シグベルが微笑んだ。穏やかで、どこか悲しい笑みだった。
「私はあなたの考えを理解します。理解したうえで、同意はしません」
「分かっています」
シグベルの手は取れない。彼の道を選ぶことは、ロゼリアにとって裏切りだからだ。灯を返してくれた住民を犠牲にする。その選択肢は、初めからない。
「クレイヴは、あなたが思っている以上に危険な相手です。ルーディック様の死がそれを証明しています。あなたの道を行くのであれば、それ相応のお覚悟を」
「覚悟はできています」
嘘ではなかった。だが、覚悟があることと方法があることは違う。ロゼリアにはまだ、クレイヴに対抗する具体的な手段がない。シグベルもそれを分かっている。分かっていて、問わなかった。
シグベルが立ち上がる。
「美味しいお茶をありがとうございます」
玄関まで見送ると、シグベルは門の前で一度だけ振り返った。
「ロゼリア様。私はあなたの敵ではありません。ですが、味方にもなれないかもしれません」
「ええ。……分かっています」
シグベルの銀色が朝の光の中に遠ざかっていった。
***
シグベルを見送った後、ロゼリアは執務室に戻った。椅子に座ると、どっと疲れが押し寄せる。
正しいことを言ったのか、分からない。シグベルの計画に乗れば、クレイヴを確実に排除できたかもしれない。住民が苦しむ時間は長くなり、命を落とす者も出るかもしれないが、最終的には都市が救われる。長い目で見ればそちらが正解だったのではないか。
でも、ロゼリアにはそれができなかった。
正しさの形が一つではないことを、この都市で学んだ。シグベルの正しさも本物だ。信仰に根ざした、揺るがない正しさ。ただ、自分の正しさとは重ならない。
テオドアが執務室に入ってきた。シグベルが去ったのを見計らっていたのだろう。
「ロゼリア様。アーロットへの書状の件ですが」
「返事がありましたか」
「いいえ。まだです。ですが、別の筋から可能性が出てきました」
ロゼリアが顔を上げた。
「レイン先生のところに昨夕、薬草商が定期の納品に来たそうです。レイン先生がその商人に、薬草以外の物資——塩や穀物を追加で運べないかと打診してくださったとのこと」
「レイン様が?」
「ええ。薬草商はアーロットとの輸送路を持っていますし、門の通行許可も取得済みです。薬草だけを運ぶには荷台に余裕がある。追加の物資を載せることは可能だと。……ただし、量は限られます」
ロゼリアの胸に、小さなものが灯った。
「量は」
「ルカの納品の三分の一程度かと。薬草商の荷台の余剰分ですから、大量には運べません。ですが、屋敷と常罪区の最低限の需要を賄うことは不可能ではない」
三分の一。ルカが運んでいた量には遠く及ばない。だが、ゼロと三分の一の間には途方もない差がある。
「レイン様にお礼を伝えてください」
「先生は『当然のことをしただけです』と仰っていたそうですが」
当然のこと。レインにとっては、そうなのだろう。この都市の住民を診る医師として、住民に物資が届かないことは医療の問題でもある。だからレインは自分の持っている繋がりを使った。
「テオドア。薬草商との契約条件を詰めてください。支払いは屋敷の予算から」
「承知しました」
「それから、明日の巡回で、エミルにこのことを伝えます。正規の物資が、少しずつ戻ると」
少しずつだ。一日では変わらない。一週間でも足りないかもしれない。だが止まっていたものが動き始める。それだけで、意味がある。
テオドアが退出し、ロゼリアは一人になった。
シグベルの言葉が頭に残っている。「あなたの道を行くのであれば、覚悟をしてください」。覚悟はある。方法はまだ足りない。でも今日、一つ道が開いた。レインが開いてくれた道。
ルカがいなくても、この都市のためにできることがある。テオドアがいて、レインがいて、ギフティオがいて、ヒルダがいて、カーラがいる。一人で全部を背負う必要はない。
ロゼリアは帳簿を開いた。薬草商の契約条件を整理するために。いつだって、数字は嘘をつかない。
そしてロゼリアも、嘘はつかない。あの老女に「なんとかする」と言った言葉を、一つずつ形にしていく。




