第22話 紙の剣
テオドアが帳簿を閉じたのは、朝食の前だった。
「ロゼリア様。三件です」
テオドアが執務机の上に、薄い紙束を置く。門の通行許可証の写し。ロゼリアが領主代行として管理する書類の一つだが、実際には見たこともなかったものだ。
「薬草商の輸送路を精査したところ、門を通過する荷のうち三件が、商人名義と実態の間に齟齬があります」
テオドアの指が紙の上を滑る。正規の商人名で許可が出ているが、荷の量と頻度が申告と合わない。一件は半年以上前から月に二度、申告よりも重い荷を運び入れている。残る二件は許可証の発行日が不自然に近く、新しく作られたルートの匂いがする。
「この三件がクレイヴの流通に使われている、と」
「断言はできません。ですが、帳簿上の不備は明確です。許可証の記載内容と実態に食い違いがある以上、差し止めの根拠にはなります」
ロゼリアは紙束を手に取り、数字を目で追った。テオドアの分析は正確だ。帳簿を読み、数字の裏にある流れを見抜く。横領犯の技能が、今はロゼリアの武器になっている。
「まだ動きません」
テオドアが顔を上げた。
「先に常罪区を見てきます。数字だけでは判断できないことがある」
テオドアは一瞬だけ間を空け、それから頷いた。ロゼリアが帳簿の外にも目を向けるようになったことを、この人はどう見ているのだろう。
「承知しました。差し止めの書式を整えておきます」
***
厨房を覗くと、ギフティオが竈の前に立っていた。
鉄板の上に、小さな四角い菓子が並んでいる。薄く黄色がかった生地で、焼けた端が微かに色づいている。傍らには蓋をした壺が二つ。スープだ。
「ギフティオ、それは」
「ビスケットです。粉と塩と、油を少し」
ギフティオが鉄板を竈から下ろしながら答えた。焼き立ての菓子からほのかに甘い香りが立ち上る。砂糖の匂いだった。
「砂糖も使ったのですか。残りは――」
「足りますよ、料理人の勘を信じてください。屋敷の食事は塩と香辛料で工夫できます。でも甘いものだけは代わりが利かない」
ギフティオの声に迷いはなかった。
「常罪区に届ける物資に加えてほしいのですが」
「もちろんです。スープは冷めても美味しく食べられるよう仕立てましたし、ビスケットは日持ちする。……腹を満たすだけなら穀物と塩で十分ですが」
ギフティオが鉄板の上の菓子を一つ手に取り、眺めた。
「配給じゃなくて、食事にしたいんです。受け取った人の顔がほんの少し変わるような」
ロゼリアはビスケットに目を落とした。素朴で、飾り気がなくて、でも丁寧に形が整えられている。限られた材料の中から甘味を絞り出す判断は、合理的とは言い難い。テオドアなら眉を寄せるだろう。
でもギフティオがこれを作ったのは、合理性ではなく信念だ。料理で人を笑顔にする。この人はずっとそれだけを信じている。
「ありがとうございます。持っていきます」
***
常罪区の門を、カーラとヒルダを伴って通った。
衛兵の検問はいつも通り素っ気なかった。領主代行の通行を拒む理由はないが、歓迎する気配もない。荷を確認する目つきだけが鋭い。
門を抜けると、埃っぽい風が吹きつけた。常罪区の匂い。土と汗と、作業場から漂う石灰の白い粉。
「カーラ、何か変わったことがあったら教えて」
「了解です」
カーラが軽く返事をして、小さな鼻をくんくんと動かした。この場所に馴染んでいるような、いないような、不思議な立ち方をする。ヒルダは何も言わず、静かに周囲を見渡している。元革命家の目は、人の動きと空気の流れを読むことに長けていた。
物資の配布場所は、前にレインと訪れた時と同じ建物の前だった。エミルを通じて事前に伝えてある。住民が数人、壁に寄りかかって待っていた。
ロゼリアが木箱を下ろし、穀物と塩の袋を並べた。スープの壺を開けると、温かい湯気が立つ。ギフティオのビスケットは布に包んで、その横に置いた。
住民たちが近づいてきた。だが足取りは重い。ロゼリアと目を合わせず、黙って塩の袋を受け取る男。穀物を抱えて何も言わずに去る女。信頼が壊れた後の距離は、こういう形をしている。
スープの壺に手を伸ばした老女がいた。あの日、「なんとかしてくれるのかい」と訊いた人だ。覚えている。
老女がスープを受け取り、傍らに置かれた布包みに目を留めた。
「これは何だい」
「ビスケットです。屋敷の料理人が焼きました」
老女が一つ手に取った。素朴な四角い菓子を口に運び、噛む。
ロゼリアは老女の表情を見ていた。ほろりと崩れる生地の感触が伝わったのだろう。老女の咀嚼が一瞬止まり、目がわずかに見開かれた。
「……甘いね」
小さな声だった。それ以上は何も言わなかった。でも老女の手が、二つ目のビスケットに伸びた。
その様子を見ていた別の住民が、遠慮がちにビスケットを手に取る。口に入れて、同じように目を丸くした。「甘い」。その言葉が小声で繰り返される。常罪区の空気の中で、砂糖の甘さは鮮やかだったのだろう。
壁は崩れていない。ロゼリアへの不信は消えていない。でもビスケットを口にした瞬間だけ、住民の顔から固さが薄れた。配給ではなく食事。ギフティオの言葉の意味が、ここにある。
カーラが袖を引いた。
「ロゼリア様。あっちの方角、ちょっと嫌な匂いがします」
カーラが指した方向に、数人の住民が集まっていた。配布場所から少し離れた路地の入口だ。その奥に人影がある。住民に何かを手渡している。
ドルグの手下だった。
ロゼリアは動けなかった。止める権限はある。領主代行として違法な流通を取り締まることはできる。だが今ここで力ずくで止めれば、住民の怒りはドルグではなくロゼリアに向く。離脱症状に苦しむ人間にとって、今の痛みを消してくれるソルミナは、正規の穀物や塩より切実だ。
ロゼリアの正規物資は明日のためのもの。ドルグのソルミナは今の痛みを消すもの。この非対称を、ここでは覆せない。
ヒルダが隣に立った。声は出さず、ただ静かにその光景を見ている。ヒルダの目には、ロゼリアとは違うものが映っているのかもしれない。革命家として、こういう構造を知っている人間の目。
「……戻りましょう、ロゼリア様。ここでできることはもうやりました」
ヒルダの声は穏やかだった。撤退を促しているのではない。今日の分は果たした、と言っている。
***
配布場所を離れようとした時、エミルが追いかけてきた。
「ロゼリア様。ちょっといいですか」
エミルの顔は硬かった。ロゼリアに向ける目に、以前のような気安さは戻っていない。だが今日のエミルには別の感情がある。怒りだ。ロゼリアに対してではない。
「さっき見たでしょう。ドルグの奴ら、ばら撒いてるんです。ソルミナを。前は夜の労働に来た人間にだけ渡してた。働く代わりにソルミナをやる、って形で。でも今は違う。夜の労働に関係ない人間にまで、ただで配ってる」
エミルが声を落とした。
「やめたかった人たちにも行き渡ってるんです。レイン先生の診察を受けて、離脱の苦しみに耐えて、ようやく抜けかけてた人たちのところにまで来て、ただで配って元に戻してる。——夜の労働に自分で行ってた人間はまだ分かる。でもやめようとしてた人間まで巻き込むのは違う」
ロゼリアはエミルの言葉を聞きながら、胸の奥が痛むのを感じた。選択肢を奪っている。やめるという選択をした人間から、その選択を取り上げている。
「エミル。教えてほしいことがあります」
エミルの目が警戒を帯びた。
「ドルグの荷が、どこから入ってくるか。住民の間で何か噂になっていませんか?」
強制はしない。答えるかどうかはエミル自身が決めることだ。ロゼリアはただ問いを置いて、待った。
エミルが黙り込んだ。拳を握り、ほどき、また握っている。
「……知らないですよ。俺は。でも――」
言葉を切った。怒りと逡巡が顔に出ている。
「ドルグの品は、常罪区の中で作ってるんじゃない。外から来てる。荷が動くのはいつも夜で、方角は――深罪区の方からだって、聞いたことがある」
深罪区。ロゼリアの中で、テオドアの帳簿分析と、今のエミルの言葉が重なった。
「それだけです。俺が知ってるのは。……あんたのことは、まだ信用してない」
エミルはそう言い切った。だが背を向ける前に、一瞬だけ足を止めた。
「でもドルグがやってることは、もっと信用できない」
それだけ残して、エミルは住民たちの方へ戻っていった。
***
屋敷に戻ると、テオドアが執務室で待っていた。差し止め書類の書式は既に整えられている。
ロゼリアは外套を脱ぎ、椅子に座る前にテオドアに告げた。
「エミルから聞きました。ドルグの荷は深罪区の方角から入っていると」
テオドアの目が細くなった。
「帳簿と一致します。私が不審と見た三件の通行許可証のうち、二件の荷の申告経路が深罪区に近い外縁区の倉庫を経由していました。直接の接点は証明できませんが、方角は重なります」
ロゼリアは椅子に座った。机の上に置かれた差し止め書類の束を手に取る。
三通の書類。一通ごとに、通行許可証の番号と、差し止めの理由が記されている。理由は全て同じだ。「許可証の記載内容と実態の齟齬」。事務的で、乾いた文言。だがこれが通れば、クレイヴの物流の一部が止まる。
「テオドア。これで止められるのはどの程度ですか?」
「全体のうち、確認できた分だけです。クレイヴはすぐに別のルートを作るでしょう。時間稼ぎにしかなりません」
「どのくらい時間が稼げますか?」
「十日か、二週間か。新しい名義を用意し、許可証を取り直すまでの間です」
二週間。長くはない。だがその間に、次の手を打てる。
ロゼリアは机の引き出しからインク壺を出し、ペンを取った。
署名をすれば、名目上の領主代行が初めて実権を行使することになる。ダイダリーに来てから、ロゼリアが振るってきたのは帳簿を読む力と、使用人たちの信頼と、自分の足で歩く行動力だけだった。領主代行という肩書きは飾りに過ぎなかった。
今、その飾りを本物に変える。
ペン先にインクを含ませた。一瞬だけ、手が止まった。
これは宣戦布告だ。通行許可証の差し止めは書類上の手続きに過ぎないが、クレイヴはその意味を正確に読み取る。領主代行が動いた。名目上の権限を実権として振るい始めた。放置していい相手ではなくなった、と。
シグベルの言葉が頭に浮かんだ。「クレイヴは、あなたが思っている以上に危険な相手です」。分かっている。分かっていても、止まることはできない。
ロゼリアはペンを紙に下ろした。
一通目に、署名を書く。二通目。三通目。インクが乾くのを待つ間、テオドアが黙って立っていた。
「テオドア。まずはここからです」
テオドアが頷いた。その表情は変わらないが、差し止め書類を受け取る手つきが丁寧だった。
「承知しました。門番への送達は明朝が最も確実です。衛兵の当直の交代時間に合わせて提出すれば、引き継ぎの混乱に紛れる前に処理される」
「お願いします」
テオドアが退室し、ロゼリアは一人になった。
インク壺を片付けながら、帳簿の数字を頭の中で反芻した。三件のうち二件の経路が、深罪区に近い外縁区の倉庫を経由している。エミルが言った「深罪区の方から」という噂。
深罪区。シグベルの管理権限下にある場所。ギフティオが二年を過ごした場所。ロゼリアが一度も足を踏み入れたことのない場所。
クレイヴの流通を止めるには、門を通る荷を差し止めるだけでは足りない。根を辿らなければならない。そしてその根は、深罪区に繋がっている。
シグベルの顔が浮かんだ。あの穏やかな声の奥にあった、揺るがない意志。シグベルは深罪区の中で何が起きているかを知っているはずだ。知っていて、計画の一部として放置している。
深罪区に入るには、シグベルの許可がいる。あるいは――許可なしで入る方法を見つけるか。
ロゼリアは地図を広げた。外縁区、常罪区、そして深罪区。深罪区と常罪区の間には区画の壁がある。通常は教会の管理する門を通る以外に行き来する手段はない。
だが、この都市の壁には穴がある。ルカがそうだったように、正規のルートの外にも道はある。
帳簿を閉じた。今日打てる手は打った。次の一手を考える時間は、テオドアが差し止め書類を届けるまでの一晩。
厨房の方角から、ギフティオの包丁の音が聞こえた。明日の支度を始めているのだろう。常罪区で老女がビスケットを口にした時の、あのかすかに驚いた目を思い出す。
甘い、と老女は言った。
ロゼリアの手元には甘いものはない。インクと紙と、数字だけ。でもそれが、今のロゼリアの武器だった。




