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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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第6話 商人の流儀

 翌朝、外縁区の空気は一変していた。


 ロゼリアがシグベルと共に外縁区を歩いたのはつい数日前のことだ。あの時、住民たちの目にあったのは無関心だった。領主代行が歩いていようと、特に関心を持たない。それがこの都市の空気だった。


 今朝は違う。


 通りを歩く住民たちが、すれ違う衛兵を見る目に色がある。敵意と呼ぶほど強くはない。だが信頼の欠片もない。昨夜の出来事を知っているのだ。死者が起き上がり、それを止めたのは領主代行と神官だったことを。衛兵は遅れてやってきた。住民たちは、それを見ていた。


 ロゼリアは屋敷の窓からその光景を眺める。


「空気が変わりましたね」


 隣に立つヒルダが、静かに言った。


「住民の不満に火がついたわけではありません。ただ、今まであった漠然とした不信が――形になった」

「形になった不信は、怖いものですか?」

「扱いを誤れば。ですが、何かを変えるにはまず不信が形を持たなければ始まらない」


 まるで革命家のような言葉だった。ロゼリアはそこに踏み込まず、窓の外に目を戻した。衛兵の詰所の方角で、何人かの衛兵が集まって話し込んでいるのが見える。彼らもまた、この変化を感じ取っているのだろう。


 昼前にテオドアが報告に来た。


「外縁区の衛兵が、住民に対して声明を出しました」

「声明?」

「物資の配給が滞っているのは衛兵の管理の問題ではなく、商人の納品に不備があるためだ、と」


 ロゼリアの手が止まった。帳簿を繰る指が、そのまま紙の上で静止する。


「……誰の名前を出しましたか?」

「名指しはしておりません。しかし、この都市に定期的に出入りする商人がそもそも限られている以上……」


 テオドアは言葉を切った。その沈黙が十分に答えだった。


 ルカ・フィッツ。この都市に通い続ける数少ない行商人。前領主の知己。衛兵が商人の名を挙げずとも、住民にとって心当たりは一人しかいない。


「さらに」


 テオドアが続けた。声の温度がわずかに下がっている。


「先代の領主と行商人の関係を問題視する向きもあるようです。曰く――前領主が特定の商人を優遇し、その結果物資の流れが歪んだ。領主と商人が組んでいたのではないか、と」


 死人に罪を着せるのは容易い。反論する口がないからだ。そしてその死んだ人間と親しかった商人にまで泥を塗れば、衛兵は自分たちの横流しから目を逸らすことができる。


「……見事な責任転嫁ですね」

「衛兵とはいえ、追い詰められれば手段を選ばないということです。昨夜の一件で、彼らも自分たちの立場が揺らいでいることを感じ取ったのでしょう」


 テオドアの言葉には、どこか経験者の響きがあった。追い詰められた人間がどう動くか。帳簿をごまかし、責任を他者に擦り付ける。その手管を、この老獪な家令は知りすぎるほど知っているのだろう。


 ロゼリアは帳簿を閉じた。


「ルカに会わないと」


 そう口にした瞬間、別のことが頭をよぎった。執務室の引き出しの中に仕舞ったままの、あの小さな粒。ルカが前回置いていった香辛料の中の、正体不明の木の実。


 あれが何なのか、まだ確かめていない。


 ルカを信じるかどうか。その判断を下すには、まだ材料が足りなかった。


***


 ルカが屋敷に現れたのは、その日の午後だった。


 しかし、いつもとは様子が違った。軽い足取りで応接の間に入ってきたルカは、鞄を机に置くなりにこりと笑った。だが発した声には、これまでにない硬さがあった。


「ご存知ですかね、領主代行殿。俺はどうやら都市の物資不足の元凶になっているようです」


 前置きも挨拶も抜きだった。ルカの目の奥で、何かが強張っている。


「今朝、検問で一時間も止められました。今まではこんなことなかったんですが。荷を全部開けさせられて、一つずつ確認。嫌がらせですよ。おまけに市に品を下ろそうとしたら、住民に白い目で見られた」


 笑いながら言っているが、笑えていない。商人にとって信用は命だ。それが崩されかけている。


「……帳簿のズレは、商人の側に原因があると」

「ええ、そういう話になってるみたいですね。前の領主と俺がグルで物資を横流ししていた。都合のいい筋書きです」


 一瞬だけ、ルカの声から柔らかさが完全に消えた。前の領主。その言葉を口にした時、ルカの表情に走ったものをロゼリアは見逃さなかった。怒りでも悲しみでもない。もっと複雑な感情の翳り。


 だがそれは本当にわずかな間のことで、すぐ軽い調子に戻る。


「で、俺は自分の名誉のためにここに来ました。正直に言いますよ」


 ルカはロゼリアの目を真っ直ぐに見た。


「物資庫を見てください。俺が何をどれだけ納品したか、記録が残っているはずです。衛兵が受け取った数と、実際に住民に配られた数を突き合わせれば、どこで消えているかは一目で分かる」


 ――この男を、どこまで信じていいのか。


 それを考えるよりも、物資庫の問題が先だ。帳簿のズレの正体を確かめる好機を、ルカに対する疑念ひとつで逃すわけにはいかない。


「それは、私も考えていたところです」


 ロゼリアが即答すると、彼は少し意外そうな顔をした。


「……早いですね」

「帳簿を見れば分かります。商人の問題ではなく、受け取った後の問題だと」

「なら話が早い」


 ルカの表情が変わる。商人の顔だ。取引の形が見えた時の、計算が回り始める目。


「ただ、問題がある。領主代行が正面から物資庫に乗り込めば、衛兵は隠します。前もって片付ける時間を与えてしまう。抜き打ちでなければ意味がない」

「わかっています。だから――」

「俺の納品に同行すればいい」


 ロゼリアが言いかけた言葉を、ルカが先に言った。目が合う。ルカは肩をすくめた。


「商人は物資庫に入れます。荷を預ける時に中を確認する権利がある。助手が一人増えたところで、衛兵はいちいち顔を覚えちゃいない」

「ですが、この顔は覚えられています」

「ええ。だから変装してもらいます」


 ルカの視線が、ロゼリアの全身を上から下へ流れた。値踏み。だがこれまでの商人としての値踏みとは違う目だった。


「その格好じゃ無理です」


 ロゼリアは自分の姿を見下ろした。領主の前妻から借りた衣服。仕立ては質素だが、それでも布地の質が庶民のものとは違う。


「衛兵が馬鹿だとしても目はあります。金髪に白い肌、背筋の伸びた令嬢が荷担ぎの手伝いに来ましたなんて言っても、子どもだって信じませんよ」


「髪は隠せます」

「髪だけの問題じゃないんですよ」


 ルカが一歩近づいた。


「立ってみてください」


 唐突な指示だった。ロゼリアが怪訝な顔をすると、ルカは「いいから」と手で促した。椅子から立ち上がる。


「そこから扉まで歩いてください」


 言われるまま数歩歩いたところで、ルカが声をかけた。


「はい、そこ。それです」

「……何ですか?」

「歩き方が優雅すぎる」


 ロゼリアは足を止め、振り返った。ルカは腕を組んでこちらを見ている。その顔は真剣だった。


「優雅……?」

「背筋がまっすぐで、歩幅が一定で、足音がしない。商人の助手は荷物を担いで歩きます。疲れるし、重いし、道は悪い。あんな歩き方をする人間は一人もいない」


 自分の歩き方が優雅だと言われたのは初めてだった。王都では、むしろ歩き方の優雅さが足りないと指摘されたことの方が多い。グランツフェルト家は華やかな家柄ではなかったから、社交の場では常に足りない側だった。


 それがここでは逆に目立つ。


「……どう歩けばいいんですか」

「もっと雑に。肩の力を抜いて、歩幅をばらつかせて。あと、少し猫背で」


 ロゼリアは言われた通りにしようとした。肩を落とし、歩幅を崩し、背中を丸める。数歩歩いて、ルカを振り返る。


「……どうですか」

「ぎこちないですね。演技してるのが丸わかりだ」


 容赦がなかった。ルカは首を傾げ、少し考えてから言った。


「体で覚えた方が早い。荷を持ってください」


 ルカが鞄から布袋を取り出した。ずしりと重い。穀物だろうか。ロゼリアがそれを受け取ると、予想以上の重さに体が前のめりになった。


「それを担いで、もう一度歩いてみてください」


 重い。だがそれだけで、自然と歩き方が変わった。背筋を伸ばしていられない。歩幅が乱れる。足音が出る。


「そうそう、それです。荷を持つと体が勝手に庶民の歩き方になる」


 ルカが笑った。今度は作り物じゃない。単純に面白がっている。ロゼリアは荷を担いだまま、少しむっとした顔でルカを見返した。


「楽しんでいるでしょう」

「まさか。真剣な仕事の話です」


 口ではそう言うが、明らかに目が笑っている。先ほどまでの硬さが嘘のように消えていた。


「次は服です。さすがにその布地は駄目だ」


 ルカは鞄の中を漁り、くしゃくしゃに丸められた衣類を引っ張り出した。


「商品じゃないですよ。俺の替えです。洗ってはありますが、まあ……ご令嬢が着るものじゃないことは認めます」


 粗い布地の上着と、使い込まれた帯紐。行商人が道中で着るような、飾り気のない実用着だった。


「上から羽織って帯で締めれば、下の服は隠れます。丈があるんで」

「……これを着ろと」

「嫌なら他をあたりますが、時間がないでしょう?」


 ギフティオの言葉が頭をよぎった。一週間。それが塩が尽きるまでの猶予。その間に物資の流れを正さなければ、また死者が歩く夜が来る。


 ロゼリアは上着を手に取った。


「少し席を外してください」

「ああ、はい。もちろん。廊下で待ちます」


 ルカは頷いて素早く部屋を出た。控えていたヒルダはルカが残した麻の上着と帯紐を一瞥し、それからロゼリアを見た。


「支度をいたしましょう」


 ヒルダはまずロゼリアの衣服に手をかけ、襟元の留め具を外した。令嬢の着付けは胸元を高い位置で締める。その形のまま上着を羽織れば、内側の布地が首元から覗いてしまう。ヒルダは衣服を肩から緩めて、布地が体に沿って自然に落ちるよう整え直した。


 その上から、ルカの上着に袖を通す。袖が長い。肩幅もやや広い。ルカの体格に合わせた衣服だから当然だ。布地は柔らかく擦り切れかけており、かすかに埃と、もう一つ――何か甘い香辛料のような匂いがした。ルカが常に品物を担いでいるせいだろう。


「袖を折ります」


 ヒルダが袖を手際よく折り込んだ。


「帯はもう少し下の方が自然でしょう。貴族の位置とは違います」


 ヒルダの手は庶民の装いに迷いがなかった。ルカの帯紐を腰の低い位置で結び、上着の裾を整える。元の衣服の布地が裾から覗かないよう、丈を確かめるように一度引いた。


「髪も目立ちます。まとめ直しましょう」


 ヒルダがロゼリアの金髪を解き、簡素に結い直した。飾り気のない一つ結びで頭の低い位置にまとめ、帽子の中に収まるようにする。貴族の面影が、ひとつずつ剥がされていく。


「……よろしいかと」


 ヒルダが一歩引いて全体を見た。その目に、かすかに複雑な色が浮かぶ。何を思ったのかは口にしなかった。


「ルカを呼んでください」


 ヒルダが扉を開け、ルカが戻ってきた。


 一歩踏み込んだルカの足が止まった。目がロゼリアの姿を捉え、まばたきが一つ遅れる。


 飾り気のない上着に帯紐、髪を隠した帽子。ルカ自身の替えの服を纏った令嬢が、荷を抱えて立っている。見慣れた自分の衣服が、まったく別の人間の上に乗っている。その違和感と、それから――何か別のものが、ルカの表情を一瞬だけ止めた。


 だがすぐに、軽い調子が戻ってくる。腕を組み、首を傾げた。


「……まだ少し背筋がいいですが、荷を持てばごまかせる。合格点です」

「厳しいですね」

「命がかかってますからね」


 軽い調子で言ったが、それは冗談ではなかった。ルカは自分の信用を賭けてロゼリアを物資庫に連れ込む。失敗すれば、商人として二度とこの都市に入れなくなるかもしれない。


「それで、物資庫にはいつ」

「明朝の一番です。物資庫への納品は朝が基本で、衛兵の交代直後が最も人が少ない」

「ですが、手ぶらで納品には行けないでしょう」


 ロゼリアが指摘すると、ルカは小さく頷いた。


「都市の外に荷置き場があります。一度に全部は持ち込めないので、街道沿いに仮の置き場を作ってある。今日のうちにそこまで行って、明朝の分の荷を担いで戻ります」


 つまり今日中に都市を出て、荷置き場で一夜を過ごし、翌朝新しい荷と共に検問を通る。商人が仕入れを持って戻ってくる、ごく普通の納品の体裁が整う。


「一人、融通の利く衛兵を知っています。明朝の当番に入っているはずだ」


 ロゼリアはルカの目を見た。融通の利く衛兵。誰のことかは訊かなかった。ルカがその名を出さないのは、相手を守るためだろう。商人は取引先の情報を安易に明かさない。


「ああ、一つだけ」


 ルカが付け加えた。


「俺の指示に従ってください。何が見えても、その場では反応しないこと。声を上げたり、顔に出したりしたら終わりです」

「心得ています」

「……でしょうね。あなたは旦那の腹を開かせても顔色一つ変えなかった人だ」


 ルカの声にほんの少しだけ、からかいとも感嘆ともつかない響きがあった。ロゼリアは答えなかった。代わりにヒルダへと告げる。


「屋敷を頼みます。テオドアには、明日の昼までに私が戻らなければ、帳簿の写しを軍事都市へ送るようにと伝えてありますから」


 ヒルダがロゼリアとルカを交互に見た。何かを量るような目だったが、口にしたのは別のことだった。


「お気をつけて。……足音を立てることをお忘れなく」


 最後の一言に、ロゼリアは思わず目を瞬いた。ヒルダの口元がかすかに動いた。笑ったのかもしれない。


***


 夕暮れの都市を、二人は歩いた。


 ルカが先を行き、ロゼリアが半歩後ろをついていく。助手の位置だとルカは言った。主人の隣ではなく、半歩後ろ。荷を分けて持ち、同じ速度で歩く。


 外縁区を抜け、都市の門に向かう道すがら、住民たちとすれ違う。誰もロゼリアに気を留めなかった。帽子の下の金髪も、上着の下の白い肌も、夕闇の中では見えない。ルカの助手として歩く分には、ただの行商の手伝いだ。


「いい感じです」


 ルカが振り返らずに言った。小声だが、声音には少しだけ余裕が戻っていた。


「足音も出てる。さっきより自然だ」

「荷が重いだけです」

「それでいいんですよ。自然になろうとするより、重さに任せた方が嘘がない」


 門が見えてきた。衛兵が二人、退屈そうに立っている。ルカの足取りが変わらない。商人が都市を出入りするのは日常のことだ。


「ルカ・フィッツ。明朝の納品で戻ります」

「助手は」

「新しく雇った。荷が増えたんでね。ああ、もちろん罪人じゃない」


 衛兵がロゼリアを一瞥した。帽子を目深に被った小柄な人影。大した興味もなさそうに視線を外し、通行を許可した。


 門を抜ける。都市の外は、風の匂いが違った。灰色の城壁の向こうに広がるのは、緩やかな丘陵と、遠くに霞む街道。空はもう暮れかけていて、最後の夕焼けが西の端を細く染めている。


 罪人都市の外に出たのは初めてだった。ここに来た時は馬車の中で、景色を見る余裕もなかった。


「……広い」


 思わず漏れた呟きに、ルカが振り返った。


「初めてですか。外に出るの」

「ええ」

「そうですか」


 ルカはそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ歩く速度を落とした。ロゼリアが景色を見る時間を作るように。


 それが意図的なものだったのか、ただ疲れただけなのか。ルカの背中からは読み取れない。


 街道を半刻ほど歩いたところで、道を外れて木立の中に入った。下生えを分けた先に、防水布を被せた荷がいくつか積まれていた。木の幹に縄を渡し、布で囲った簡素な置き場。周囲には獣除けの香草が撒かれている。


「ここが俺の中継地です。一度に全部は持ち込めないんで、ここに分けて置いてある」


 ルカは防水布を捲り、中の荷を確かめ始めた。手つきは慣れている。塩、穀物、油、干し肉。品目ごとに分けられた袋を選び、明朝の納品分を取り分けていく。


「これだけあれば物資庫に入る口実としては十分です。量としても、いつもの納品と変わらない」


 手を動かしながら、ルカは淡々と説明する。この男がこうして一人で荷を運び、一人で野営し、一人でこの都市に通い続けてきたのだと、その手つきが語っていた。


 荷の整理が終わると、ルカは火を起こした。手慣れた動きで枝を組み、火打ち石を打つ。干し肉と固いパンを出す。行商人の夜は質素だ。


 小さな火を挟んで、二人は向かい合った。


「明日の段取りを確認します」


 ルカが火を見ながら言った。炎に照らされた横顔は、屋敷で見る時とは少し違って見えた。


「検問を通ったら、物資庫まで俺が案内します。荷を預ける手続きの間に、庫内の棚を確認してください。入荷の記録板が壁に掛かっているはずです。品目と数量が書いてある。それを覚えてください」

「覚えるだけですか?」

「証拠は頭の中に入れておいた方がいい。……あとで帳簿と突き合わせれば、どの品がどれだけ消えているか分かる」


 ロゼリアは頷いた。帳簿の数字は頭に入っている。現場の記録と照合すれば、ズレの正体が見えるはずだ。


「もし衛兵に怪しまれたら」

「俺に任せてください。口八丁は商人の本業です」


 軽く言ってから、ルカは火の向こうでロゼリアを見た。


「ロゼリア様、一つだけ訊いてもいいですか」

「何ですか」

「なんでそこまでやるんですか。この都市のために」


 ロゼリアは少し考えた。嘘は言いたくなかった。だが、本当のことをすべて言う義理もない。


「この都市のためではありません」


 正直な答えだった。ルカが少し目を見開く。


「帳簿が合わないことが気持ち悪いだけです。数字の辻褄が合わない状態を放置できない。……変な理由でしょうけど」


 ルカは数秒間黙り、それから小さく笑った。今日何度か見た笑みの中で、一番力の抜けた笑い方だった。


「変じゃないですよ。商人だって帳簿が合わなきゃ気持ち悪い。……いい理由だと思います」


 火が爆ぜた。小さな火の粉が夜空に舞い上がり、すぐに消えた。


 沈黙が降りた。嫌な沈黙ではなかった。それぞれが明日のことを考えている、静かな時間。虫の声と、火の音だけが夜を満たしている。


 ロゼリアは膝を抱え、火を見つめた。ルカの上着の麻布が、焚き火に温められて柔らかい。香辛料の残り香がかすかに鼻をくすぐる。


 ――そういえば。


 あの粒のことが、また頭をよぎった。香辛料の中に混じっていた正体不明のもの。今ここで訊くこともできる。二人きりだ。他に聞く耳はない。


 だがロゼリアは、口を開かなかった。明日、物資庫に入る。ルカの協力がなければ成り立たない計画だ。今この場で疑念を突きつければ、明日は消える。たとえルカが潔白だったとしても、疑われたという事実が二人の間に亀裂を入れる。


 ……本当に、それだけの理由だろうか。


 火越しに見えるルカの横顔。先ほどまでの軽い調子はどこにもなく、ただ静かに炎を見つめている。商人の仮面を外した、素の表情。


 今は、訊かない。訊けない。その二つの違いを、ロゼリアは自分の中ではっきりさせられなかった。


「寝てください。夜明け前に出ます」


 ルカがそう言って、自分は火の番をする姿勢を取った。ロゼリアが何か言おうとすると、先に遮られた。


「交代はしません。助手は朝が早いんです。商人の流儀ですよ」


 反論する余地のない、あの商人の声だった。ロゼリアは小さく息を吐き、横になった。地面は硬かったが、疲労が勝った。


 目を閉じる直前、火越しにルカの横顔がもう一度見えた。炎を見つめる目は、何かを考え込んでいた。あの人懐こい笑みはどこにもなく、ただ静かに、火の揺れを目で追っている。


 ――あれが、この男の素顔なのだろうか。


 考えがまとまる前に、意識が沈んでいった。


***


 夜明けはすぐに来た。


「起きてください。出ますよ」


 ルカの声で目が覚めた。まだ薄暗い。空の東端がようやく白み始めたところだった。


 体が強張っている。地面で眠った代償だ。だが意識は明瞭だった。ロゼリアは身を起こし、帽子を被り直した。


 ルカは既に荷をまとめ終えていた。火の跡を土で丁寧に消している。来た痕跡を残さない。行商人の習慣なのか、それとも別の理由があるのか。


 納品用の荷が二人分に振り分けられていた。ルカが大きい方を背負い、ロゼリアに残りを渡す。ずしりとした重みが肩にかかった。昨日より重い。


「行きましょう」


 ルカが歩き出す。ロゼリアは荷を担ぎ、半歩後ろについた。昨日の夕方より、自然に体が動いた。重さに慣れたのではない。ルカの歩幅に合わせることを、体が覚え始めていた。


 朝靄の中、罪人都市の門が近づいてくる。灰色の城壁が朝の光にぼんやりと浮かび上がっている。


 ルカが振り返らずに言った。


「ここからは商人と助手です。俺が話す。あなたは黙って荷を持つ。いいですね」

「ええ」

「もう一つ。何があっても、俺の隣にいてください」


 最後の言葉だけ、声の調子が少し違った。商人の指示ではない何かが滲んでいるような。


 だがロゼリアが問い返す前に、ルカは前を向いて歩き出していた。


 二人は並んで、門へ向かった。


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