第5話 死者が歩く夜
その夜、ロゼリアは執務室で帳簿を広げていた。
衛兵の物資庫をどう検分するか。その段取りを詰めているところだった。テオドアは既に下がっており、屋敷は静まり返っている。窓の外は闇。この都市の夜は暗い。王都のように魔術灯が通りを照らすこともなく、月明かりだけが灰色の街並みをぼんやりと浮かび上がらせている。
不意に、遠くで声がした。
叫び声。それも一人ではない。外縁区の方角から、複数の声が夜の空気を裂いている。
ロゼリアが窓に駆け寄ると、通りの向こうに灯りが揺れていた。松明だ。人が走っている。その足音と声の切迫した調子が、ただの喧嘩や酔っ払いの騒ぎではないことを告げていた。
廊下に出ると、既にヒルダが立っている。彼女もまた、眠ってはいなかったらしい。
「外縁区で騒ぎが起きています。使いの者が来ました」
ヒルダの声は落ち着いていたが、その目は鋭い。使いの者――息を切らせた外縁区の住民だという――が伝えた内容は端的だった。
死者が起き上がった。
ロゼリアの足が止まる。葬儀の日に衛兵が言っていたことが頭をよぎった。弔いの刻を過ぎた死体は穢れを宿し、起き上がる。あの時は遠い話に聞こえた。だが今、それが現実に起きている。
「行きます」
気づけば声が出ていた。
「ロゼリア様」
ヒルダが一歩前に出た。
「お供します」
止めることはしないが、有無を言わせない声だった。ロゼリアが一人で夜の街に出ることを、彼女は許さない。止めるのではなく、ついていく。それがヒルダの選択だった。
「テオドアは屋敷で住民の受け入れを。ギフティオ、あなたも残って」
階段の下にいたギフティオに声をかける。ギフティオは一瞬だけ何か言いたげな顔をしたが、すぐに頷いた。
「……わかりました。お気をつけて」
屋敷を出ると、夜風が冷たく肌を刺した。走る。外縁区の通りを、松明の灯りを頼りに。すれ違う住民たちの顔は青ざめ、子どもを抱えた女が泣きながら走り去っていく。
現場は、外縁区の外れだった。
空き地のような場所。住居と住居の隙間に取り残された、誰のものでもない土地。そこに、それはいた。
人の形をしていた。だが、人ではなかった。
肌は土気色に変わり、眼窩には光がない。関節がありえない角度に曲がったまま、それでも二本の足で立っている。口が開いているが、声は出ない。ただ、低い呻きのような音が喉の奥から漏れている。
弔われなかった死者の成れの果て――アンデッド。
一体ではなかった。空き地の奥に、もう二つの影が蠢いている。いずれも身なりは粗末で、この都市で身寄りなく死んだ者たちだと知れた。弔いの手順を踏む者がおらず、放置された遺体が夜を迎えて起き上がったのだ。
そして、その只中に一人の男が立っていた。
銀の髪が月明かりに冴え冴えと光っている。神官の衣が夜風に翻り、その手から淡い光が溢れていた。
シグベルだ。
彼は祈りの言葉を唱えている。穏やかな声の中に、冷たく硬い芯があった。掲げた手のひらから青白い光が放たれ、最も近いアンデッドの胸を貫く。死者の体が一瞬硬直し、それから糸が切れたように崩れ落ちた。
一体目が倒れる。だが残りの二体がシグベルに向かって動き出していた。速くはない。だが止まらない。恐怖も痛みも知らない足取りで、じわじわと距離を詰めてくる。
シグベルは冷静だった。二体目に手をかざし、再び光が走る。神の力を借りた聖なる術。しかし今度は一撃で沈まなかった。アンデッドの体が揺らぎはしたが、倒れない。膝をつきかけてから、また立ち上がる。
「――穢れが深い」
シグベルの声に、初めてわずかな緊張が混じった。弔いの手順を長く踏んでいない遺体ほど、穢れは深く、鎮めるのに力がいる。そしてシグベルが二体目に集中している間に、三体目がその背後に回り込もうとしていた。
「シグベル様!」
ロゼリアの声が飛んだ。シグベルが振り返る。三体目のアンデッドが、腐りかけた腕を振り上げているところだった。
シグベルは身を翻す。衣の裾が掠めるほどの距離。神官とは思えない身のこなしで攻撃を避け、至近距離から聖別の光を叩き込んだ。三体目がよろめくが……まだ、動いている。
「ロゼリア様、下がっていてください!」
シグベルの声は鋭かったが、ロゼリアの足は止まらなかった。下がったところで何も変わらない。シグベル一人では三体を同時に相手にできない。二体目はまだ立っており、一体目を倒した場所の近くで、地面に転がっていた別の遺体がぴくりと動いた気がした。
――まだ増える。
弔われていない遺体がまだあるなら、夜が明けるまでに次々と起き上がる可能性がある。シグベルが動いている者を倒しても、新しく起き上がる者がいれば切りがない。
必要なのは、まだ起き上がっていない遺体を先に処置することだ。
ロゼリアは走った。シグベルの戦いの脇を抜け、空き地の奥へ。
「ロゼリア様、左!」
ヒルダの声が飛んだ。的確な警告にロゼリアが足を止めると、すぐ左手の地面に横たわる遺体が見えた。ヒルダは暗がりの中で状況を把握し、ロゼリアの目になっていた。
遺体の傍に膝をつく。まだ動いてはいない。だが、指先がかすかに痙攣しているのが見えた。時間がない。
弔いの手順には塩が要る。聖別された塩を遺体に振り、祈りの言葉と共に魂を鎮める。だが今、手元に塩はない。
――代わりになるものは。
必死で頭を回す。グランツフェルト家の教育は、堅実で実用的だった。領地の管理に必要な、基礎的な魔術。その中に、浄化の術式があった。大掛かりなものではない。井戸の水を清めたり、保存食の腐敗を遅らせたりするための、地味で実用的な術。
塩の代わりにはならない。それでも、穢れの侵食を一時的に遅らせることはできるかもしれない。
ロゼリアは地面に指を押し当てた。
冷たい。湿った土が指先にまとわりつく。雨の後の腐葉土のような、重く、暗い感触。この下にも弔われなかった死者がいるのかもしれないと思うと指が竦みそうになったが、構わず動かした。
紋様を描く。浄化の術式。王都では使う機会もなかった知識が、今この瞬間に意味を持つ。爪の間に土が入り込み、白い手が汚れていく。だが指先に微かな光が灯り、紋様が淡く輝いた。
それと同時に、遺体の痙攣が止まる。完全な封印ではない。ただの時間稼ぎだ。今はそれで十分。
立ち上がり、次の遺体を探す。
「奥にもう一体います」
ヒルダの声が空き地の隅を指し示している。ロゼリアは駆け寄り、同じように紋様を刻む。二度目は手が勝手に動いた。それでも、指先が温度を失っていく。術を使う度、わずかに体力を削られる感覚がある。大した術ではないものでも、こんな場所で使うのは初めてだった。
背後で、シグベルの祈りの声が響いている。二体目を完全に沈めたらしい。聖別の光が一際強く輝き、アンデッドが地面に崩れる音が聞こえた。
だが三体目がまだ動いている。シグベルの息が上がっているのが、声の端々から伝わった。連続して術を行使する負担が彼を追い詰めている。いくら神官とて、その力は無限ではない。
「シグベル様、未処理の遺体は押さえました。応急ですが起き上がりは遅らせています」
「――何をしたのですか」
シグベルの声に、驚きが混じっていた。三体目を相手にしながら、一瞬だけロゼリアの方を見る。その目に浮かんでいたのは、怒りでも安堵でもなく、純粋な驚愕だった。
「浄化の術式です。塩の代わりにはなりませんが、時間は稼げます」
「……あなたが術式を」
その問いに答える間もなく、三体目が突進してきた。シグベルが正面から受け止め、両手で聖なる光を押し込む。アンデッドの体が軋み、抵抗し、そしてようやく崩れ落ちた。
静寂が戻った。月明かりの下、空き地には動かなくなった死者たちが横たわっている。
シグベルは息を整えながら、ロゼリアを見た。あの穏やかな微笑みは今はなく、代わりに真剣な目がこちらを見据えていた。
「助かりました。……正直なところ、間に合わないかと思いました」
「シグベル様が先にいてくださったからです」
「それでも、未処理の遺体を押さえるという判断は正しかった。あのまま起き上がっていたら、私一人では」
シグベルは言葉を切った。それ以上の弱音は、この男の矜持が許さなかったのだろう。
だがロゼリアはそこにこだわらなかった。問うべきことは別にある。
「シグベル様……なぜこんなに、弔いの済んでいない遺体があるのですか」
シグベルの表情が変わった。穏やかさが戻ったが、それは以前見た微笑みとは違う。覚悟を決めた人間の、静かな表情。
「塩が足りないのです」
「……塩が」
「この都市では、弔いの手順に聖別した塩を使います。ですが、ここ数ヶ月、配分される塩の量が目に見えて減っている。私は何度も衛兵に改善を求めました。ですが神官には物資の管理に口を出す権限がない。聞き届けてはもらえませんでした」
シグベルの声は淡々としていた。怒りを飲み込んだ後の、静かな声だ。
「私の管轄する教会の周辺では、手持ちの塩でなんとか弔いを維持してきました。ですが、教会の外では――手が回りきらない場所が出てしまった。今夜がその結果です」
ロゼリアは黙って聞いていた。シグベルの言葉の裏にあるものが、少しだけ見えた気がした。この男は予見していた。塩が足りなければいずれこうなると。だが権限がなく、変えられなかった。だからこそ、権限を持つ人間――領主代行を、最初から求めていた。
あの葬儀で真っ先に接触してきたこと。教会の視察に連れ出したこと。すべてが繋がる。
「ロゼリア様」
シグベルが一歩近づいた。月明かりの中、青い瞳が真っ直ぐにロゼリアを見ていた。
「これが、この都市の現実です。帳簿の数字の向こう側に、こういうものがある。……あなたにはそれを変える力がある。私にはない力が」
それは懇願ではなかった。事実の提示であり、静かな要請。
ロゼリアが答えようとしたとき、足音が聞こえた。速い。全力で走ってくる人間の音だ。
「お待たせしました!」
現れたのはギフティオだった。両腕に布袋を抱え、息を切らせている。屋敷から外縁区の外れまで、それなりの距離があるはずだ。それでもその顔には笑みが浮かんでいた。
「屋敷の塩をありったけ持ってきました。しばらく料理は薄味になってしまいますが……まあ、命あっての食事ですからね!」
屋敷に残って、外の騒ぎを聞いて、状況を察して、自分の判断で塩を掻き集めて走ってきた。この男はそういう人間なのだと、ロゼリアは今初めて理解した気がした。
布袋を開くと、白い塩の結晶が月光を受けて光った。量は多くない。屋敷の備蓄をかき集めたのだろう。料理人にとって塩は命綱だ。それを躊躇なく差し出してくるこの男の底抜けの明るさに、ロゼリアは一瞬だけ目頭が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう、ギフティオ」
「お礼は後ほど、美味しい塩を補充していただいてから承ります」
にこやかに言って、ギフティオはシグベルに塩を差し出した。シグベルは一瞬だけ目を見開き、それから静かに受け取った。
「感謝します」
シグベルが塩を聖別し、ロゼリアが応急処置を施した遺体に正式な弔いの手順を行う。祈りの言葉が夜の空気に溶けていく。遺体から穢れが抜け、ただの骸に戻っていく。
すべてが終わったとき、東の空がうっすらと白み始めていた。
衛兵たちが遅れてやってくる。現場を見て、顔色を変えた者がいた。アンデッドの残骸と、それを処理した神官と領主代行。衛兵の中の一人――一際若い男が、ロゼリアたちの姿を見て何かを言いかけ、飲み込む。
ロゼリアはその衛兵の顔をしっかりと目に焼き付けた。
帰り道、ロゼリアは空を見上げる。灰色の夜明け。体は疲弊していたが、頭は冴えている。
帳簿の数字が、人の死に繋がっていた。物資の横流しは、生活の不便ではなく、命と尊厳の問題だ。塩が足りなければ死者は弔われず、弔われなければ死者は起き上がる。
もう猶予はない。
「ギフティオ」
「はい」
「あの塩で、どのくらい持つの?」
「正直に申しますと、一週間がいいところです」
一週間。その間に、物資の流れを正さなければならない。
ロゼリアの歩みに、迷いはなかった。




