第4話 帳簿と商人
屋敷に戻ったロゼリアは、上着を脱ぐより先にテオドアを呼んだ。
「テオドア。一つ訊きたいことがあります」
「何でしょう」
「ルカという行商人を知っていますか。外縁区の市で会いました」
テオドアの表情はほとんど動かなかった。ただ、わずかに目を伏せる間があった。
「ルカ・フィッツ。先代の領主様が気に入られ、屋敷への出入りを特別に許可していた商人です」
「商人にそこまでの便宜を図るのは、普通のことですか?」
「普通ではありません。ですが、この都市に好んで出入りする商人はごく限られております。罪人都市ですから。名のある商人はまず来ません。罪人相手の商売は信用に関わる。来るのは他で商売ができない者か、あるいは――」
テオドアはそこで言葉を切った。小さく息を吐き、続けた。
「いずれにせよ、選り好みができる立場にはございません」
ロゼリアは黙って頷いた。「あるいは」の先に何があったのか。テオドアがわざわざ飲み込んだ言葉が気にはなったが、今は追及する場面ではなかった。
「では、帳簿を見せてください。領主代行を引き受けた際の条件です」
テオドアが一瞬だけ口元を引き結んだ。それから小さく息を吐いた。
「……お約束通りお出しいたしますが、あまり期待はなさらないでいただきたい」
通された執務室で、テオドアが棚の奥から取り出したのは、埃を被った数冊の帳簿だった。帳簿と呼ぶのも憚られる代物だ。表紙は擦り切れ、中の紙は端が折れ、書き込みは複数の筆跡が入り交じっている。
ロゼリアは帳簿を開き、一頁ずつ目を通し始めた。令嬢としての教育は、こういう時の支えになる。グランツフェルト家は華やかな家柄ではなかったが、堅実を重んじる家だった。領地経営の基礎、帳簿の読み方、数字の扱い。社交の場では何の役にも立たなかった知識が、ここでようやく意味を持つ。
数字を追い、入荷と消費と在庫を頭の中で照合していく。その作業に没頭していたところへ、扉が叩かれた。
「失礼しますよ。根を詰めているようでしたので、お茶をお持ちしました」
ギフティオだった。盆の上に湯気の立つ茶と軽食が載っている。にこやかに言ってから、机の上に広がった帳簿を見て首を傾げた。
「おや、帳簿ですか。何かお調べで?」
「都市の物資の流れを把握しようと思って。……ギフティオ、あなたは毎日の食材を扱っていますよね。最近、手に入りにくくなったものはありますか」
「油ですね」
笑顔のまま、即答した。
「ここ二月ほど、卸値が跳ね上がりました。以前は月に一度まとめて仕入れられたんですが、今は半分も入ってこない。仕方がないので蒸し料理の比率を増やしております」
「油だけですか」
「塩もです。油と塩が足りないのは困ります。保存食が作れなくなる。それに――」
ギフティオの声が一瞬だけ真剣になった。
「塩は弔いにも使うものですから。この都市では切らすわけにはいかない」
弔い。葬儀で聞いたアンデッドの話が頭をよぎった。正しく弔われなかった死体は、起き上がる。その弔いに塩が必要なのだとすれば、塩の不足は単なる生活の不便では済まない。
――外縁区のマルタも、同じことを言っていた。穀物と油と塩の配給が足りない、と。屋敷の台所でも、市場の住民の間でも、同じものが不足している。偶然の一致とは思えなかった。
「ありがとうございます、ギフティオ。とても参考になりました」
「いえいえ。あ、それとロゼリア様」
部屋を出かけたギフティオが、ふと振り返った。笑顔のまま、何でもないことのように言った。
「帳簿にかかりきりで食事を抜くのは感心しませんよ。体が弱ると判断力も鈍ります。……毒を盛られるより先に、飢えで倒れたら格好がつきませんから」
一瞬、部屋の空気が止まった。テオドアが微かに顔をしかめる。
ロゼリアは目を瞬いた。冤罪のことを言っているのか。それとも、ただの冗談なのか。ギフティオの顔には悪意の欠片もなかった。ただ、その笑顔のまま、彼は「次のお食事は腕によりをかけますね」と付け加えて、今度こそ部屋を出ていった。
――不思議な男だ。
毒、という言葉をあんなにあっさりと口にする人間を、ロゼリアは他に知らない。悪気がないのは分かる。だがその裏に何があるのか、まだ掴めなかった。
ロゼリアは改めて帳簿に目を落とし、ギフティオが言った品目の数字を確認する。
そして、手が止まった。
「テオドア。この三ヶ月の穀物の入荷記録を見ると、月ごとの入荷量はほぼ一定です。ですが、在庫の減り方が月によってばらつきがある」
ロゼリアは指で数字を辿りながら続けた。
「消費量が一定なら、在庫の減り方も一定のはずです。ところが先月だけ在庫の減りが極端に大きい。住民の数が急に増えた記録はない。油にも同じ傾向が出ています。入荷しているはずの量が、現場に届いていない」
テオドアは黙った。答えないことが、答えだった。
「足りないのではなく、どこかに流れている……?」
独り言のように呟き、ロゼリアは帳簿を閉じた。冷めかけた茶を一口飲む。物資の流れを外から確認する必要がある。内側の記録が信用できないなら、外側から照らし合わせるしかない。つまり、都市に品物を運び込む人間に訊く。
「テオドア。ルカ・フィッツが次に来たときは、すぐに知らせてください」
テオドアが小さく頷いた。
***
――ルカが屋敷を訪れたのは、それから三日後のことだった。
「お待たせしました。ちょうど良い品が入りましたので、真っ先にお届けに上がりましたよ」
応接室で、ルカは如才のない笑みと共に品物を並べた。小さな瓶に入った油と、紙に包まれた塩、それからひと握りの香辛料。
油と塩。ギフティオが「困る」と言っていたものだ。偶然にしてはできすぎている。
「……これは、通常の納品ですか」
「いえいえ、今回は特別です。新しい領主代行にご挨拶がてら、ということで。もちろんお代はいただきますが、卸値でお出ししますよ」
取り入ろうとしていることを隠す気がない。あるいは、隠す気がないように見せること自体が計算なのか。
「ありがたく頂戴します。屋敷の食材は不足していますので。……ただし、これで貸し借りができたとは思わないでください」
「手厳しい。商人としては、貸し借りこそが財産なんですが」
「貸し借りは対等な相手と結ぶものです。こちらの足元を見た上での贈り物は、投資と呼ぶべきでしょう」
一瞬、ルカの目が動く。笑みは崩れなかったが、その奥の温度がわずかに変わった。
「……投資、ですか。ご令嬢は商売の言葉もお使いになる」
「グランツフェルトの出ですから。飾り言葉より数字の方が馴染みがあります」
ルカはそう言って、ようやく本当に笑った気がした。社交の笑みではなく、予想を裏切られたときの反射に近い笑いだ。
ロゼリアはヒルダにお茶を頼み、本題へと入った。
「この都市に物資を運び込む際、どういう手順を踏みますか?」
ルカの笑顔がほんの一瞬だけ固まる。すぐに戻ったが、ロゼリアはそれを見逃さなかった。
「まず都市の入口で衛兵の検問を受けます。荷の中身を申告して、通行の許可をもらう。許可が出れば、品物を衛兵の管轄する物資庫に預けます。物資庫から先は衛兵が都市内に分配する仕組みです」
「つまり、物資の分配は衛兵が握っている」
「そうなりますね。この都市で衛兵が大きな顔をしていられるのは、剣を持っているからだけじゃない。住民は衛兵を通さなければ物が手に入らない。逆らえば物資を止められる」
ルカの説明は淀みなかった。だがその後、一拍の間を置いて、声からわずかに軽さが消えた。
「自分が持ち込んだ品物が、届くべき場所に届いていないとしたら。それは商人としても気持ちのいいものではありません」
ロゼリアはルカの目を見た。人懐こい猫のような瞳。だがその奥に、今だけ別の色が覗いていた。
「届いていない、というのは」
「あくまで仮定の話ですよ」
すぐに軽い調子が戻る。ルカはヒルダの用意した茶を一気に飲み干した。
交渉を終えルカが荷をまとめて立ち上がったとき、ロゼリアはもう一つだけ尋ねる。
「あなたは先代の領主にも品物を届けていたと聞きました。何年もこの都市に通い続けている。……なぜですか?」
ルカの足が一瞬止まった。それからゆっくりと振り返り、少し困ったような、けれど本気の混じった笑みを浮かべた。
「商人が同じ客のところに通い続ける理由なんて、一つしかないでしょう。儲かるからですよ」
飄々とした返し。だが、その笑顔がほんの少しだけ遅れたことに、ロゼリアは気づいていた。
「では、また次の納品のときに。必要なものがあればお伝えください」
ルカは軽く頭を下げ、扉に向かった。その途中で一度だけ足を止め、振り返らないまま言った。
「……あんまり無茶はしないでくださいよ、領主代行殿。市で衛兵に啖呵を切ったって話、もう広まってますから」
声は変わらず軽やかだった。それが忠告なのか心配なのか、ロゼリアには判別がつかない。振り返らなかったのは、表情を見せたくなかったからだろうか。
扉が閉じる。
「隙のない男ですね。権力には逆らわない。でも、巻かれているだけでもなさそうです」
ヒルダの言葉を聞きながら、ロゼリアは机の上に残された品物を見た。油と塩と香辛料。紙を開くと、鮮やかな赤い香辛料の粉の中に、見覚えのない小さな粒が混じっていた。乾燥した木の実のようにも見えるが、ロゼリアの知る香辛料の類ではない。色も形も、王都で学んだどの薬草とも一致しなかった。
――これは、何だろう。
混ぜ物にしては量が少なすぎる。仕入れの段階で紛れ込んだのか、それとも別の荷と一緒に運ぶうちに混じったのか。ルカが気づいていないのか、気づいていて黙っているのか。
考えを巡らせる頭の片隅で、ルカの笑みがちらつく。困ったような、本気の混じった、あの一瞬の表情。
振り払うように、ロゼリアは立ち上がった。
「テオドアを呼んでください。衛兵の物資庫について、もう少し詳しく知りたいの」
「承知しました」
ヒルダが部屋を出ていく。一人になった応接の間で、ロゼリアは窓の外を見た。灰色の空の下、衛兵の詰所の屋根がかすかに見えている。
帳簿のズレ。ギフティオの証言。マルタの訴え。ルカから聞いた流通構造。そして、香辛料に混じった正体不明の粒。
点は増えている。だが、まだ線にはなっていない。
あそこに、どうやって切り込むか。
足元の地面は、まだ頼りない。だが少しずつ、踏み固められ始めている。




