第28話 ここにいる
翌朝、ヒルダが執務室の扉を叩いた。
「ロゼリア様、できました」
手に持っているものを見て、ロゼリアは立ち上がった。
灰色の服だった。
ヒルダが両手で広げて見せた。身頃、袖、裾。全て繋がっている。襟元は控えめに折り返され、腰のあたりで細い紐が結べるようになっている。装飾はない。飾りのない、実用的な仕立て。
だが布そのものが美しかった。灰色の中にかすかに青い筋が一本だけ走っている。織り手の、小さな主張。常罪区の住民が届けてくれた布。それがロゼリアの体に合わせて仕立てられている。
「カーラが夜明け前に裾を仕上げてくれました。寝ぼけながら縫ってましたけど、針目はまっすぐです」
ヒルダの声は淡々としていた。だが目の下の影は昨日より濃い。二人とも、夜通し針を動かしていたのだ。
「……着てみてもよいですか」
「そのためにお持ちしたのです」
ヒルダが部屋を出た。ロゼリアは一人で服を手に取った。
軽い。王都の服とは違う。絹でも綿でもない、この土地の糸で織られた布。手触りが少しざらついている。だがそのざらつきに、なぜか安心した。
袖を通すと、肩の幅が合った。腰の紐を結ぶと、身頃が自然と体に沿う。ヒルダは採寸などしていない。目で見て、覚えていたのだ。
窓ガラスに自分の姿が映った。鏡ではないからぼんやりとしているが、それでも分かる。灰色の服を着た女が立っている。金色の髪と、この都市の色の服。
王都の令嬢の姿ではなかった。
グランツフェルトの紋章もない。家名を示す色もない。灰色の布に青い筋が一本。それだけ。
それだけで、十分だった。……これが、今のロゼリアだ。
***
灰色の服のまま、屋敷を出た。
昨日と同じように外を歩くが、今日は違う。答えはもう出ている。足取りも、目線も違う。この都市の空気を、昨日とは別の気持ちで吸っている。
外縁区の教会の前を通りかかった時、扉が開いた。
出てきたのはシグベルだ。銀髪が朝の光を受けて白く輝いている。穏やかな顔に、落ち着いた笑み。だが灰色の服を着たロゼリアを見ると、わずかに彼の視線が揺れた。
「おはようございます、ロゼリア様」
「おはようございます」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。シグベルはクレイヴの取引のことを知らないかもしれない。知っているかもしれない。この人は都市のことを深く知っている人間だ。何かが動いたことくらいは察しているだろう。
「新しいお召し物ですね」
「ヒルダとカーラが仕立ててくれました。……常罪区の住民が届けてくれた布です」
シグベルの目が一瞬だけ細くなった。何を読み取ったのか、ロゼリアにはわからない。
「残られるのですね」
問いではなかった。確認だった。
「はい」
「……そうですか」
シグベルが微笑んだ。穏やかで、少しだけ寂しい笑みだった。
「あなたのやり方では、いずれ手が届かない場所が出てきます。一人ずつ救うことには、限界がある。この都市にはあなたの優しさでは触れられない場所がある」
ロゼリアは否定しなかった。それは正しいかもしれない。深罪区の隔離区域。シグベルが管理し、ロゼリアがまだ踏み込めていない場所。あそこに何があるのか、ロゼリアはまだ知らない。
「それでも、手が届く場所から始めます」
「ええ。あなたはそう仰る方だ」
シグベルの声に非難はなかった。諦めとも違う。ただ、道が違うということの確認。
「私はあなたの敵ではありません、ロゼリア様。ですが――」
「味方にもなれないかもしれない。……前にも同じことを仰いましたね」
シグベルが目を見開いた。それから、小さく笑った。今度の笑みには、かすかな敬意が混じっていた。
「覚えておいでですか」
「忘れていません」
二人はそれ以上何も言わなかった。シグベルが軽く頭を下げ、教会の中に戻っていく。ロゼリアは歩き出した。
和解はしなかった。これからもしないだろう。でもこの人がこの都市にいることは、悪いことではないとロゼリアは思った。道が違う人間がいることは、選択肢が一つではないという証拠だから。
***
屋敷に戻ると、ルカが廊下にいた。
応接間から出てきたところだった。手に何か――帳簿の一部だろうか、紙束を持っている。テオドアに何かを渡しに行くところか、あるいは受け取ったところか。
ロゼリアを見て、ルカの足が止まった。
視線が灰色の服をなぞっている。昨日までロゼリアが着ていた服とは違うものを着ていることに気づいている。だがそれについて何か言おうとはしない。言えないのか、言わないのか。
廊下に二人きりだった。昨日は戦いの場だった。クレイヴが目の前にいて、返すべき言葉があった。今は違う。静かな廊下に、朝の光が窓から差し込んでいる。戦う相手はいない。ただ二人がいるだけ。
「ルカ」
「はい」
ルカの声は低く、静かだった。昨日クレイヴの前に立った時と同じ声。全部を言ってしまった人間の落ち着きがある。
ロゼリアはルカの瞳を見た。猫のようだと思ったことがある。飄々としていて、どこを見ているかわからない目だと。でも今のルカの目は違う。まっすぐにロゼリアを見ている。逸らす気配がない。
「昨夜、言いかけたことがあります」
ルカの肩がわずかに動いた。
「あなたがいなくなってから、屋敷が静かだったと」
「……ええ」
「続きを言います」
ロゼリアの心臓がトクトクと速くなっている。落ち着いているつもりでも、ほんのりと頬が熱を持った。
「あなたがいなくなった後、屋敷は静かでした。帳簿の数字しか聞こえなかった。テオドアの報告も、ヒルダの声も、ギフティオの包丁の音もあったのに――あなたの声だけがなかった。それだけで、全部が遠くなった」
ルカが息を吸って、止めた。目が揺れている。
「あなたを許すとも許さないとも、今は言えません。あの日、あなたが黙っていたことを、簡単に片づけることはできない」
ルカが小さく頷いた。それを覚悟している顔だ。
「でも」
ロゼリアの声が、わずかに柔らかくなった。自分でも気づいた。気づいたが、直さなかった。
「あなたがここを選んでくれてよかったと、そう思います」
廊下に静けさが落ちた。
窓からの光が、二人の間に差している。埃が光の中を舞っている。
ルカの目から、何かがこぼれかけた。涙だろうか。それとも、もっと深い場所にあるものか。痛みではなかった。痛みなら見たことがある。これは違う。名前をつけられないまま、ルカの目の奥で光っている。
「……縁の切れる人間じゃなかったんですか」
ルカの声がかすれた。笑おうとした——あの飄々とした笑みを作ろうとして、失敗した。唇が震えている。
「クレイヴの言葉で自分を呼ばないでください」
ロゼリアは言った。
「あなたがどういう人間かは、あなたが決めることです。クレイヴが決めることでも、私が決めることでもない」
ルカが口を開いて、閉じた。そしてもう一度開いた。
「……はい」
一言だった。だがその声に含まれていたものを、ロゼリアは全部聞いた。
二人の間にテーブルもない。扉もない。廊下の真ん中で、ただ向かい合っている。中途半端な距離のはずだった。でも不思議と、遠くなかった。
ロゼリアは踵を返した。振り返らなかった。振り返ったら、もう一つ余計なことを言ってしまいそうだったから。
背後でルカが何か言った。小さすぎて聞き取れなかった。聞き取れなくてよかった、とロゼリアは思った。今はまだ。
***
執務室の椅子に座り、帳簿を開いた。テオドアが整えた通行許可証の差し止め候補。二件の書式が挟まっている。署名欄が空白のまま、ロゼリアを待っている。
ペンを取り、インクをつけたところでテオドアが執務室に入ってきた。帳簿を小脇に抱えている。
「ロゼリア様。裏取りの結果をご報告します」
「お願いします」
テオドアが紙束を広げ始めた。ロゼリアはペンを置いて、報告を聞く姿勢を取った。クレイヴの流通経路の詳細。ルカの証言との照合結果。次の一手の候補。
ヒルダが茶を持ってきた。テオドアの分も。何も言わずに置いて、出ていく。
廊下の向こうから、ギフティオの包丁の音が聞こえる。昼食の仕込みが始まっている。今日のスープは何だろう。昨日試していた根菜の甘みだけのものか、それとも別の新作か。
玄関の方で何かが落ちる音がした。カーラだ。ヒルダの「気をつけなさい」という声と、カーラの「すみません」が重なる。
応接間の方に、気配がある。ルカがいる。さっき廊下で話した後、自分の場所に戻ったのだろう。紙束を抱えていた。テオドアの帳簿仕事を手伝っているのかもしれない。
テオドアの報告が続いている。数字と名前と日付。帳簿の言葉だ。ロゼリアが一番よく知っている言語。
一瞬だけ窓の外を見た。灰色の空。この都市の空はいつもこの色だ。王都の金色の朝とは違う。でもこの灰色の下で、人が動いている。レインが常罪区を巡回している。ヴェーダが案内をしている。エミルがどこかで住民と話している。
何も終わっていない。クレイヴはまだこの都市にいる。物資は足りない。常罪区の信頼は完全ではない。深罪区には踏み込めていない。名誉回復は遥か先だ。
でもロゼリアはここにいる。
灰色の服を着て、帳簿を開いて、この都市の朝に座っている。隣の部屋にルカがいる。廊下にヒルダがいる。厨房にギフティオがいる。どこかでカーラが物を落としている。テオドアが目の前で数字を読み上げている。
自分で選んだ場所に、自分の足で立っている。
ロゼリアはペンを取った。通行許可証の差し止め書類に、署名をした。テオドアが静かに頷く。
新しい一日が始まっていた。




