第27話 自分で選ぶ
眠ったのか眠れなかったのか、自分でもよく分からない。窓の外が白んでいることに気づいた時、椅子に座ったままだった。帳簿は閉じたまま、一度も開いていない。
厨房の方から、包丁がまな板を叩く音が聞こえる。ギフティオだ。この屋敷では、どんな朝でもギフティオの包丁の音から一日が始まる。
ロゼリアは立ち上がった。体が強張っている。一晩中同じ姿勢でいたせいだ。肩を回し、首を伸ばし、窓の外を見た。
灰色の空。この都市の朝はいつもこの色だ。王都の朝は金色だった。朝日が石造りの屋敷の壁を染めて、父が書斎の窓を開ける音がして——
止めた。今はその記憶に浸っている場合ではない。
答えを出さなければならない。テオドアとルカの言葉が頭に残っている。急がないというのは嘘だ。クレイヴは返事を待つ間に次の手を打ってくる。
だが答えが出ない。
執務室の空気が重い。壁が近い。もう一晩ここにいたら、空気の重さに押し潰されて、出てきた答えが自分のものなのか部屋の圧力のせいなのか分からなくなる。
ロゼリアは立ち上がり、思い切って部屋を出た。
***
廊下を通って厨房の前を過ぎようとした時、ギフティオが顔を上げた。
「おや。お早いですね」
竈の前に立つギフティオの手元に、見慣れた壺がある。スープだ。常罪区への配給用。もう一つ小さな鍋があり、そちらからは違う香りがしていた。
「今日は二種類ですか」
「ええ。いつもの塩味のと、もう一つ試してみたいものがあって」
ギフティオが小さな鍋の蓋を取った。湯気の中に、かすかに甘い匂いが混じっている。
「根菜の甘みだけで作ってみたんです。砂糖は使ってない。常罪区には歯が弱い方がいるでしょう。あの人が飲めるようなものを、と」
ロゼリアは鍋の中を覗いた。薄い黄色のスープが静かに煮えている。
「……美味しそうですね」
「でもまだ味が定まらないんですよ。塩を足すか、このままいくか。明日もう一度作り直すつもりです」
明日。ギフティオは明日の話をしている。明日のスープの味を、今朝から考えている。
ギフティオにとって、明日もここで料理をすることは疑問の余地がない。この都市の厨房に立ち、鍋に火をかけ、常罪区に住む歯の弱い人のために味を工夫する。それが明日も、その先も続いていく。ギフティオの中では、それは決まっていることだ。
「少し、外を歩いてきます」
「お食事は戻ってからですか?」
「ええ。お願いします」
ギフティオが頷いて、竈に向き直った。ロゼリアが何を抱えているか、この人は察しているかもしれない。だが訊かない。ギフティオの優しさは料理の中にあって、言葉の中にはあまり出てこない。
玄関を出た。朝の空気が冷たかった。
***
外縁区の通りを歩いていると、後ろから足音が駆けてきた。
「ロゼリア様!」
カーラだった。息を切らして走ってくる。手に何か持っている——小さな包みだ。
「どうしました」
「テオドアさんに頼まれて、門の衛兵に書類を届けるとこです。……ロゼリア様こそどうしたんですか、こんな朝早くに」
「少し歩きたくて」
「へえ」
カーラが隣に並んだ。頼んでもいないのに、自然に歩調を合わせてくる。彼女はこういうところがある。空気を読んでいるのか読んでいないのか分からない距離の詰め方。
しばらく並んで歩いた。カーラが時折、通りの建物を目で追っている。外縁区の朝は静かだ。住民がちらほらと出歩いているが、ロゼリアに気づいて目を向ける人もいれば、無関心に通り過ぎる人もいる。
「ロゼリア様」
カーラが言った。前を向いたまま。
「なんですか?」
「私、ここの仕事まだ全然慣れてないんですよ。ヒルダさんには怒られるし、テオドアさんには溜息つかれるし、ギフティオさんの包丁は怖いし」
「……それは頑張ってください」
「だから辞められると困るんです」
ロゼリアの足が止まりかけた。カーラの横顔を見た。カーラは前を向いている。何気ない口調だったが、目が笑っていなかった。
「ここがなくなったら、私また行くとこなくなるんで。……別にロゼリア様のためとかじゃないですけど。自分のためです」
自分のため。その言葉が、妙に胸に残った。カーラにとって、この屋敷は居場所だ。常罪区に戻る以外の選択肢を、ロゼリアが作った。その選択肢が消えることを、カーラは怖がっている。
だがカーラはそれを『あなたのために残った方が良い』とは言わない。『自分のため』と言う。自分の居場所を守りたいという、正直な理由。
——誰かの言葉に似ている、とロゼリアは思った。
「大丈夫です。すぐにどこかへ行ったりしません」
「ほんとですか」
「本当です。……多分」
「たぶんって何ですか」
カーラが膨れた。ロゼリアは小さく息を吐いた。笑いではなかったが、それに近いものだった。
常罪区の方に足を向けたところで、カーラが「あ、書類」と思い出したように包みを掲げ、門の方角に走っていった。
***
外縁区を抜けて、常罪区との境に近づいた時だった。
見覚えのある姿が二つ、常罪区の入口のあたりに立っていた。
レインだ。診療鞄を提げ、いつもの無表情で立っている。その隣に、ヴェーダがいた。太い腕を組み、常罪区の中を覗き込むような姿勢で。
二人がここにいる理由は、見ればわかった。レインの巡回だ。ヴェーダが案内を引き受けている。レインは常罪区の住民に壁を作られない人間だが、地理に詳しいわけではない。ヴェーダが一緒にいれば、住民が閉ざす扉も開く。
ロゼリアが近づくと、レインが先に気づいた。
「ロゼリア様。往診に行ってきます」
それだけだった。レインはいつもそうだ。多くを語らない。必要なことだけ言う。だが今日は、一瞬だけ間があった。何か言いたげな——だが言わないことを選ぶ間。
「離脱症状が落ち着いてきた患者が三人います。薬の在庫は厳しいですが、経過は悪くありません」
医師としての事実報告。淡々として、感情がない。だがその報告が意味するものを、ロゼリアは理解している。レインが始めた往診が効いている。ソルミナの離脱に苦しむ住民が、少しずつ回復している。ロゼリアが始めて、レインが引き継いで、今も続いている。
「……ありがとうございます、レイン様」
レインが小さく頷いて、常罪区の方に歩き出した。
残ったヴェーダが、ロゼリアを見ている。太い腕を組んだまま、何かを量るような目だった。
「先生の荷物持ちだよ」
ヴェーダが言った。
「別にあんたのためじゃない。ここの連中の顔色が悪いのを見てられないだけだ」
素直じゃない。最初からそうだった。「飯をくれるのかい」と詰め寄り、「手伝うよ」と名乗り出て、ルカの件で距離を取り、そして今、レインの隣にいる。
「ヴェーダ」
「何だい」
「……ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしてない」
ヴェーダが背を向けて、レインの後を追った。だが二歩ほど歩いてから、振り返らずに言った。
「——あんたも、さっさと決めな。顔に出てるよ」
ロゼリアは立ち尽くした。
レインとヴェーダの背中が常罪区の中に消えていく。ロゼリアがここにいなくても、二人は往診に行く。薬を配り、患者を診て、住民の顔色を見る。ロゼリアが始めたことが、ロゼリアの手を離れて動いている。
種を蒔いた。それが芽を出し始めている。自分がいなくなったら、この芽はどうなるのだろう。枯れるかもしれない。枯れないかもしれない。
でも――自分はこの芽を見ていたい、とロゼリアは思った。
***
屋敷への帰り道で、テオドアとすれ違った。
帳簿を小脇に抱え、足早に歩いている。門の方角——通行許可証の裏取りで、門番か商人に確認に行くのだろう。ロゼリアを見て足を止めた。
「ロゼリア様。お散歩ですか」
「少し。——何か進展はありますか」
「クレイヴの情報の裏取りを進めています。ルカの証言と帳簿の突き合わせで、いくつか確認できた点があります」
テオドアが手元の帳簿を開きかけて、やめた。ここは道の真ん中だ。
「詳細は戻ってからご報告します。それと——」
眼鏡の位置を直しながら、テオドアが言った。
「次の通行許可の差し止め候補を二件、追加で見つけました。クレイヴの流通をさらに細くできます。書式は整えてありますので、ロゼリア様のご署名をいただければ」
次の手。テオドアは次の手を打とうとしている。クレイヴへの返事がまだなのに、テオドアは既にその先を見ている。
「テオドア」
「はい」
「……あなたは、私がここに残ると思っていますか」
訊いてしまった。訊くつもりはなかったのに。
テオドアが一瞬だけ間を空けた。それから、眼鏡の奥の目がロゼリアを見た。感情の読みにくい目だ。だがその奥に、かすかに温かいものがあった。
「ロゼリア様が不在になった場合の都市運営は極めて困難です。物資の確保、常罪区の住民との関係維持、クレイヴへの対抗——いずれも現状の人員では立ち行かなくなります」
帳簿を見る限り。テオドアはどこまでも帳簿の人間だ。
「それは私が残る理由にはなりません」
「ええ。存じております」
テオドアが帳簿を小脇に抱え直した。
「ですが、帳簿に書かれていないこともございます。——私がこの屋敷にいるのは、利になるからです。最初はそうでした。今も、半分はそうです」
テオドアが目を伏せた。この人がこんな言い方をするのを、ロゼリアは初めて聞いた。
「残りの半分については、帳簿に記載する方法がまだ見つかっておりません」
それだけ言って、テオドアは歩き出した。「戻りましたらご報告を」と背中越しに付け加えて、門の方に消えていった。
ロゼリアは道の真ん中に立ったまま、テオドアの背中を見送った。
この人は、ここにいる。帳簿に記載できない理由で。
***
屋敷に戻ると、廊下でヒルダと出会った。
ヒルダの手に、灰色の布があった。あの服だ。仕立て途中の——いや、昨夜見た時より形が進んでいる。袖が両方ついていた。裾もまっすぐに整えられている。
「ヒルダ。それは」
「夜のうちに少し進めました」
ヒルダの声は淡々としていた。だが目の下にうっすらと影がある。夜通し縫っていたのだ。
「カーラが裾を仕上げてくれました。あの子、手先だけは器用ですから」
ヒルダが服を広げた。灰色の布。かすかに青い筋が一本混じった、織り手の小さな主張。それがロゼリアの体に合わせて仕立てられている。まだ完成ではない。襟元の始末が残っている。でも形はもう見える。
「あと半日もあれば仕上がります」
ヒルダが布を丁寧に畳みながら、ロゼリアを見た。この人の目はいつも静かだ。革命家だった人間の目。教え子たちに問いを渡し、教え子が行動を起こし、血が流れた。その全てを知った上で、ここにいる。
「ロゼリア様」
「はい」
「どちらを選ばれても、それがロゼリア様の選択であるならば、私はそれを尊重します」
ロゼリアは息を呑んだ。
ヒルダは知っているのだ。クレイヴの取引のことをどこまで知っているかは分からない。だが屋敷の空気を読む人間だ。ロゼリアが何かを選ばなければならない状況にあることは、察している。
「私は教師でした。教え子たちに選択肢を渡して、選ばせた。その結果に責任を取れなかった。……それが私の罪です」
ヒルダの声は静かだった。視線が一瞬、常罪区の方角に向いた。
「選ばせたのに、結果を一緒に背負わなかった。私だけがここにいて、あの子たちは――まだ向こうにいる」
それ以上は言わなかった。言えないのか、言わないことを選んだのか、ロゼリアには分からなかった。
「だから、こう思うのです。選択肢を持つこと自体が、大切なのだと。何を選ぶかではなく、選べること自体が」
ロゼリアの目頭が熱くなった。
選べること自体が大切だ。
王都の法廷では選べなかった。結論は決まっていた。罪人都市に送られた時も選べなかった。全て、誰かが決めた結論の中に押し込まれた。
でも今は違う。クレイヴは二択を突きつけた。だがそれでも——ロゼリアには選ぶ力がある。ここにいる人間たちが、その力を与えてくれた。
「ヒルダ」
「はい」
「その服を――仕上げてください」
ヒルダの手が止まった。ロゼリアの目を見た。そしてゆっくりと、頷いた。
「承知しました」
それだけだった。だがヒルダの目に浮かんでいたものを、ロゼリアは確かに見た。
***
執務室に入り、扉を閉めて一人になった。
テーブルの前に立つ。帳簿があり、ペンがあり、そしてインクの瓶がある。窓から朝の光が差し込んで、テーブルの上に薄い影を作っている。
王都に帰りたくないのではない。
帰りたかった。ずっと。名誉を取り戻し、父と母の前に立ち、「私は何もしていない」と証明したかった。グランツフェルトの令嬢として、もう一度あの場所に立ちたかった。その気持ちは今も消えていない。
でもクレイヴの手から受け取る名誉は、クレイヴの鎖と同じだ。
あの男は「用意する」と言った。無実の証明を。だがクレイヴが用意した証明は、クレイヴが引き上げることもできる。与えられたものは、与えた人間に返す義務を負う。ルカがそうだった。居場所を与えられ、罪悪感で縛られ、値踏みされた。
それは名誉回復ではない。別の形の冤罪だ。誰かが用意した結論を受け入れて、「これがあなたの道です」と言われる。あの法廷と何が違うのか。
クレイヴの二択では選ばない。
あの男が突きつけた二択。都市を捨てて王都に戻るか。それとも都市に居座って、クレイヴの経済圏に逆らい続け、物資を絶たれ、住民の信頼を削られ、いずれ潰されるか。どちらを選んでもクレイヴの手の中だ。去っても従っても、クレイヴが勝つ。
名誉回復か、この都市との心中か――その問いの立て方自体が、選択肢を奪っている。どちらかしかないと思わせることで、三つ目の道を見えなくしている。選べないようにしておいて、『他にないだろう』と言う――かつてドルグに向かって叫んだ言葉が、今度は自分に返ってきた。
でも、三つ目の道はある。
この都市に残る。そしてクレイヴには潰されない。クレイヴの経済圏を排除し、この都市をクレイヴに必要とされる場所ではないものに変える。物資は別のルートで確保する。帳簿を読み、署名を重ね、一つずつ流通を剥がしていく。テオドアが既にその準備を始めている。レインが医療を繋いでいる。ヴェーダも動き始めている。
道はある。細くて、険しくて、時間がかかる。でもない道ではない。
そして、王都への名誉回復も捨てない。クレイヴの手から受け取るのではなく、自分の力で掴む。それが今ではなくても。この都市で積み上げたものが、いつか王都にまで届く日が来るかもしれない。――来ないかもしれない。でもそれは自分の手で歩く道だ。
この都市に残るのは、王都に帰れないからではない。潰されることを受け入れるからでもない。
ギフティオが明日のスープの味を考えている。カーラが「辞められると困る」と言った。レインの巡回にヴェーダが付き添っている。テオドアが帳簿に書けない理由で帳簿を開き続けている。ヒルダが夜通し服を縫っていた。
この場所で、自分は確かに積み上げた。泥にまみれ、拳を受け、涙を流して、それでも帳簿を開き続けた。王都にいた頃の自分にはなかったものが、ここにはある。
名誉は奪われ、名前は傷つけられた。でもここでは名前ではなく、行動で知られている。領主代行として。帳簿を読み、荷を検分し、排水路を這い、常罪区に足を運ぶ人間として。
その自分を、手放せるか。
手放せない。
手放したくない。
これが、答えだ。
ロゼリアは椅子に座り、背筋を伸ばした。もう揺れることはない。
応接間にルカがいる。
昨夜の言葉がまだ胸の中にある。……離れたくなかった。利己的で、ただの弱さだと思った。でも今朝カーラが「自分のため」と言った時、同じ形をしたものを見た気がした。自分の居場所を守りたいという、素直な感情。ルカが抱えていたのもそれだったのかもしれない。
ルカの告白に、まだ答えられない。許したのかどうかも分からない。でも一つだけ分かっていることがある。
昨夜、言いかけて止めたことがある。でも飲み込んだ言葉の先を、自分自身は知っている。ルカがいない屋敷は静かだった。静かで、冷たくて、帳簿の数字しか聞こえなかった。
感情に名前をつけるのはまだ早い。でもこの人を隣に置くことの意味は、もう目を逸らせない。
クレイヴの前に出る時、この人に隣にいてほしい。それは戦略ではなく——いや、戦略でもあった。でも、それだけではない。
***
ロゼリアは応接間に向かった。
扉を叩くと、中から「はい」という声がした。そのまま扉を開けると、ルカが立ち上がりかけている。窓辺の椅子に座っていたのだろう、膝の上に何かの包みがある。寝ていなかったのか、昨日よりも隈が濃い。
「ルカ」
ルカがロゼリアの顔を見た。何かを読み取ろうとしている。だが読み取る前に、ロゼリアが言った。
「クレイヴに返事をします」
ルカの目がわずかに動いた。何の返事か、分からないはずがない。
「――隣にいてください」
ルカの体が固まった。
隣に。その言葉を、ルカはどう聞いたのか。ロゼリアには、彼の心は分からない。それでもじっと見つめていると、ルカの喉が動いた。何かを飲み込む動き。それから、静かに頷いた。
「……はい」
一言だけ。だがその声は震えていない。空っぽになった後の、静かな確かさがあった。
***
クレイヴが屋敷に現れたのは、昼前だった。
テオドアとルカの言った通りだ。「急がない」は嘘だ。一日しか待たなかった。
ヒルダが「お客様です」と告げた時、ロゼリアは既に執務室で待っていた。ルカが隣に立っている。テオドアもいる。
「お通ししてください」
足音が近づき、扉が開いた。
昨日と同じ穏やかな笑み。同じ仕立ての良い服。同じ品のある物腰。だが執務室に入った瞬間、クレイヴの目が動いた。ロゼリアの横に立つルカを捉える。
一瞬のことだ。だがその一瞬に、何かが過ぎる。驚きではない。失望に近い——いや、確認だ。そこにいるのか、という確認。
クレイヴの視線がルカからロゼリアに戻った。穏やかな笑みは崩れていない。
「お答えをいただけますか」
「ええ」
ロゼリアは立ったまま答えた。昨日は座っていた。今日は立っている。
「あなたの条件では、選びません」
クレイヴの表情は動かなかった。
「名誉はあなたに差し出されるものではありません」
結論は決まっている。ロゼリアは自分の中で育った確かなそれを、少しずつ形にしていった。。
「冤罪の証明は、自分の力で掴みます。あなたが私を潰そうとするなら、ここで戦います。——あなたの二択の中では、選びません」
執務室に沈黙が落ちた。
クレイヴがロゼリアをまっすぐに見据えた。穏やかな目の奥で何かが動いている。計算しているのだ。この答えを聞いた上で、次の手を。
「そうですか」
クレイヴの声は変わらなかった。穏やかで、温かく、残念そうで。
「それは……残念です」
嘘か本当か分からない。この男の言葉はいつもそうだ。
「ですが、一つだけ申し上げておきます」
クレイヴの目がロゼリアを射た。穏やかな笑みの下に、初めて温度の違うものが見えた。
「この都市の物流は、私の手の上で動いています。あなたがいくら帳簿を読んでも、署名を重ねても、物が止まれば人は飢える。——正しさだけでは人は食べていけない。ルーディック様が、それを証明なさった」
脅迫ではなかった。事実の提示だった。だからこそ重い。ロゼリアはその重みを受け止め、真正面から答えた。
「私は、この都市の領主代行として……あなたをここから排除します」
クレイヴの眉がわずかに動いた。初めて見せた反応だった。
「必要な物資は別のルートで確保します。あなたが握っている流通を、一つずつ剥がしていく。時間はかかるかもしれません。でも——」
ロゼリアの目がクレイヴを見据えた。
「この都市を、あなたに必要とされる場所のままにはしません。それが私の答えです」
執務室に再び沈黙が落ちた。
クレイヴが微笑んだ。穏やかに。だがその笑みの温度が、昨日とは違っていた。
「お若い。――けれど、ルーディック様よりは手強いかもしれない」
クレイヴが背を向けた。扉に向かう。昨日と同じように部屋を見回す素振りはなかった。もう見る必要がないのだ。この部屋にいる人間のことは、全て把握している。
扉に手をかけたところで、クレイヴがルカの方を見た。
「ルカ」
ルカの肩が強張った。だが逃げなかった。クレイヴの視線を受け止めた。
「……私をあまり困らせないでくれ」
静かな声だ。叱責でも怒りでもない。親が子に向けるような、失望と愛情の入り混じった音。
ルカは何も答えなかった。答える必要がないからだ。ルカはもう、この男の言葉で動く人間ではない。
クレイヴが出て行き、足音が遠ざかる。今度こそ、本当に。恐らく彼は、もうここにやってくることはないだろう。
ロゼリアは息を吐いた。長く、深く。体の奥に溜まっていたものが、息と一緒に抜けていくような感覚だった。
隣でルカが同じように息を吐いた。二人の呼吸が、一瞬だけ重なる。
ロゼリアはルカを見なかった。見たら、また言ってはいけないことを言ってしまいそうだった。
でも、隣にいる。この人が隣にいる。
それだけで今は十分だった。




