第26話 縁の切れる人間
テオドアが戻ってきたのは、扉が閉まってすぐだった。廊下で待っていたのだ。ロゼリアが呼ぶ前に、もう執務室に入っていた。
「――お聞きになりましたか」
廊下にどこまで聞こえていたかはわからない。だがテオドアは、途中まで同席していた人間だ。クレイヴの声の質も、会話の方向も、掴んでいる。
「聞いてはおりません。ですが、あの方が何を切り出したかは想像がつきます」
ロゼリアはテオドアを見た。
「……冤罪の真相を持っている、と言われました。真犯人の名前と証拠を握っていると。――条件は、領主代行を辞めてこの都市から手を引くこと」
テオドアの表情が変わらなかった。変わらなかったことが、テオドアの答えだった。クレイヴの申し出は、彼の想定の範囲内だったのだ。
「取引としては、筋が通っています」
テオドアの声は冷静だった。
「あの方はロゼリア様にとって最も価値のあるものを差し出し、代わりにご自分にとって最も邪魔なものを除こうとしている。交渉としては正攻法です。問題は信頼性ですが」
眼鏡の奥の目が細くなった。
「あれは急かさないことで時間を奪う人間です。『考えてください』と言って去ったのであれば、返事をしなかったこと自体が、次の手の口実になります。考える時間は猶予ではなく、罠です」
ロゼリアは頷いた。わかっている。わかっていても、冤罪の二文字が頭から離れない。
そこへ、扉の向こうから声がした。
「——あの人が言ったことは、半分は本当です」
ルカだった。
扉は閉まったままだ。廊下に立っているのだろう。テオドアが扉を開けると、ルカが壁にもたれかかるようにして立っていた。顔色が悪い。クレイヴが屋敷にいる間、ルカはずっとここにいたのだとロゼリアは悟った。
「入りなさい」
テオドアが短く言った。ルカが執務室に足を踏み入れる。ロゼリアと目が合い、すぐに逸らした。
「半分は本当、とは?」
ロゼリアの声が自分でも硬いことに気づいたが、直せなかった。
「冤罪の証拠を持っていることは、おそらく本当です。あの人は嘘をつく時でも、材料は本物を使う。……でも『急がない』は嘘です。あの人が条件を出す時は、断れないように追い込んでいる」
ルカの声は低く、抑えられていた。だがその奥に、長い時間をかけて知った人間の実感があった。彼はクレイヴの下にいて、手口を肌で知っている。
「テオドアの言う通りです。返事を待つ間に、次の手を打ってくる。返事をしなかったことを理由にして」
テオドアがルカを見て、ルカがテオドアの視線を受け止めた。この二人の間に信頼はない。だがクレイヴに対する認識は一致している。
「情報を確認します」
テオドアがロゼリアに向き直った。
「クレイヴが語った冤罪の真相が事実かどうか、ルカの証言と帳簿の記録で裏を取ります。いくらか時間をいただきたい」
「お願いします」
テオドアが帳簿を手に取り、退出しかけた。ルカも続こうとする。
ロゼリアは声をかけなかった。
そしてそのまま、一人になった。
帳簿を開けば、数字が並んでいる。テオドアの几帳面な筆跡。通行許可証の番号、日付、品目、数量。いつもなら読める。いつもなら数字の向こうに道が見える。
今は見えない。
数字の代わりに、クレイヴの声が頭の中を回っている。「あなたは人に希望を見せる。だからこそ、この都市では毒になる」。「王都にお戻りなさい。名前を取り戻して」。「あの子もいずれ、元の場所に帰るでしょう」。
王都に戻れば、縁の切れる人間。
その事実が、一番深い場所に刺さったまま抜けない。
「ロゼリア様、カーラです。お茶をお持ちしました」
不意に声がかけられた。そのまま通すと、カーラが盆を持って入ってくる。茶の香りが執務室にふわりと広がった。恐らくギフティオが淹れたものだろう。
「……ありがとう」
「あ、それと」
カーラが盆を置きながら、何でもないことのように言った。
「ルカさん、廊下にいます。入りたそうにしてるのに何も言わないんですよ、あの人」
ロゼリアの手が、ティーカップに伸びたまま止まった。
カーラはロゼリアの顔を見て、それ以上は何も言わなかった。彼女の言葉は報告でも助言でもない。ただ事実を、ロゼリアの前に置いた。
ルカが廊下にいる。入りたくて、入れないでいる。仮面のないルカには、用があると嘘をつくこともできない。彼にできるのは、ただそこに立っていることだけ。
ロゼリアは目を閉じる。
呼ぶべきではない。今の自分は冷静ではない。クレイヴの言葉が頭を回っている状態でルカと向き合えば、言ってはいけないことを言ってしまうかもしれない。
それでも。
『縁の切れる人間』。あの言葉を、ルカはどう聞くだろう。
「……通してください」
カーラが小さく頷いて、出て行った。
十秒ほどの沈黙があった。それから廊下に足音がして、扉が開いた。
ルカが立っている。
彼は入口に立ったまま、最初の一歩を踏み出せないでいる。ただロゼリアの顔を見ていた。何を言えばいいかわからない、という顔だ。商人の仮面がない。飄々とした笑みもない。あるのは、不安だけだ。
「……どうぞ中へ」
ルカが一歩、二歩と部屋に入る。扉を閉めようとして、閉めきれないのか、少しだけ開いたままにした。逃げ道だ、とロゼリアは思った。それがルカのものが、ロゼリアのものかは分からないが。
二人の間に、テーブルがある。ロゼリアは席を立たなかった。ルカも座らなかった。中途半端な距離が、二人の今をそのまま映していた。
沈黙が重い。
耐えきれず、ロゼリアが先に口を開いた。
「クレイヴに言われました」
ルカの体がわずかに揺れる。
「私は人に希望を見せる。それがこの都市では毒になる、と」
自分の声が冷静であることを確認した。だが次の言葉は、確認する前にこぼれ落ちた。
「あなたにとって、私は毒でしたか」
言ってから、息が止まった。
何を訊いている。何を確かめようとしている。クレイヴの論理をルカにぶつけて、何がしたいのか。自分でも分からないのに、訊かずにいられなかった。
ルカが黙りこむ。
即座に否定しなかった。嘘をつけない今のルカは、首を振って終わらせることができない。正直に答えようとしている。その間の長さが、ルカの答えの重さだった。
「毒じゃなかった」
静かな、低い声だった。
「……でも、あなたのそばにいると、前の自分に戻れなくなる。それが怖かった。怖かったのに、離れられなかった」
ロゼリアは何も言えなかった。ルカの言葉が、クレイヴの言葉と重なっている。毒になるとクレイヴは言った。ルカは毒じゃなかったと言う。だが前の自分に戻れなくなる――それは毒ではないのか。人を変えてしまうものは、薬なのか毒なのか。
「クレイヴは」
ロゼリアの言葉がかすかに揺れた。
「あなたのことを、私が王都に戻れば縁の切れる人間だと言いました」
ルカの目が変わった。
まるで殴られたような顔をした。一瞬、呼吸が止まる。それからゆっくりと、顔の奥にあるものが表面に浮かび上がってくるのが見えた。恐怖だった。ルカが一番怖れていたものを、クレイヴが正確に言い当てている。
「……あの人は、いつもそうだ」
ルカは動揺を抑えようとして、抑えきれていない。
「一番痛いところを、一番穏やかな声で言う」
ルカの手が、ズボンの布を掴んでいた。指が白くなっている。
「縁の切れる人間。あの人にとっては、そうなんでしょう。俺はあの人の道具で、あなたがいなくなれば用済みになる駒で――あの人の目にはそう見えている」
声が途切れた。ルカが一度息を吸い、吐いた。震えを止めようとしている。
「でも俺にとっては、そうじゃない」
ルカの目がロゼリアを見た。その目はひどくまっすぐで、ロゼリアは視線をそらすことができなかった。
「俺がクレイヴのそばにいたのは、罪悪感だけじゃなかった。……あそこが居場所だったからです。他に行く場所がなかった。クレイヴは俺を必要としてくれた。それが、どういう形であっても」
彼の話は途切れ途切れだった。言葉を探している。選んでいるのではない。正確に言おうとしているのだ。
「でもあなたの屋敷で帳簿を見て、常罪区を一緒に歩いて。あなたが正しいことをしようとしているのを隣で見ていて——俺も少しだけ、まともな人間になれた気がした」
ロゼリアの胸の奥で、何かが軋んだ。
「だから黙っていた。本当のことを言えば、あなたのそばにいられなくなる。守りたかったのは嘘じゃない。でもそれだけじゃなかった」
ルカの声が、ほとんど聞こえないほど小さくなった。
「離れたくなかったんです」
執務室に静けさが落ちた。
離れたくなかった。
あの日——執務室で「出て行ってください」と言った日。ルカが飲み込んだ「それでも」の先に、これがあった。守りたかった。でもそれより先にあった、直接的な理由。ロゼリアのそばにいたかった。まともな自分でいたかった。その感覚を手放したくなかった。
利己的な、人間の弱さ。
ロゼリアの視界が歪んだ。目が熱い。涙ではない。涙になる前の、もっと生々しい何か。
「それを――今、言うのですか」
ここから先を言うべきではない。でも、堰が切れたようにロゼリアの言葉は止まらなかった。
「あの時言ってくれたら良かった。帳簿を一緒に見ていた時に。常罪区を歩いていた時に。――どうして今なのですか」
なぜもっと早く言わなかったのか。その問いは、裏を返せば――あの頃に聞いていたら、何かが違ったかもしれないと思っていることの告白だ。
ロゼリアはそれに気づいた。気づいて、口を閉じようとした。だが一度溢れ出したものは、もうロゼリアの制御を離れている。
「あなたがいなくなった後、屋敷がどれだけ静かだったか――」
それでも必死で口を噤んだ。全部は言わない。言ったら認めてしまう。ルカがいない場所は、もう自分の居場所ではなくなっていたことを。
でも、ルカには届いていた。
ルカの瞳に宿る光が変わったのが見えた。飲み込んだ言葉の続きを、ルカだけが正確に聞き取っている。
二人とも、言いすぎたことに気づいていた。でも取り消せない。取り消したくない。
ロゼリアが深く息を吸って、吐いた。手がまだ震えている。テーブルの縁を掴んで、自分を立て直そうとした。完全には立て直せない。だが、かろうじて。
「……クレイヴへの返事を考えなければなりません」
自分の声がどこか遠くから聞こえた。実務の言葉に逃げているのではない。実務の言葉でしか自分を支えられない。今のロゼリアに残っている柱は、それだけだった。
ルカが何かを言いかけた。唇が動いたのが見えた。だが声にはならなかった。
それからルカは、小さく頭を下げた。
「……おやすみなさい」
静かな声だった。扉に向かい、出て行く。あの夜と同じ言葉。だがあの時のルカは商人の笑みを残していた。今夜のルカには何も残っていない。全部を言ってしまった後の、空っぽの静けさだけがある。
扉が閉まった。
***
ロゼリアは再び一人になった。
帳簿を開き、ページを繰った。数字が並んでいる。一つも読めなかった。
視線が滑って、部屋の隅で止まった。
椅子の背にかかっている布がある。灰色の布。ヒルダとカーラが仕立てている、あの服。まだ途中だった。身頃の形はできているが、袖は片方だけ。裾は断ち切ったままで、糸が数本垂れている。
あの布。常罪区の住民が届けてくれたもの。青い筋が一本だけ混じった、織り手の小さな主張。それがロゼリアのための服になりかけている。まだ形になりきっていない。途中のまま、ここにある。
王都に帰るなら、この服は要らない。
窓の外を見た。暗い。今日は月が出ていない。この都市の夜は灯りが少なくて、月がなければ何も見えない。
だが屋敷の中には音がある。奥でテオドアが帳簿をめくる紙の音。階下でカーラが何かを落とした小さな物音と、ギフティオの低い笑い声。
そして、応接間にルカがいる。
王都か、この都市か。名前か、居場所か。
答えは、まだ出ない。




