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冤罪令嬢、罪人都市の領主になる  作者: 野塩いぜ


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25/25

第25話 選べない朝

「通行許可証の裏の名義二件、いずれも帳簿の数字と一致しました。ルカが語った流通経路は、少なくとも帳簿で追える範囲では正確です」


 テオドアの報告にロゼリアは頷いた。応接間を仮の部屋にしているルカは、この場にいない。情報は使う。信頼とは別の話として。テオドアが昨夜そう言い、ロゼリアもそれを受け入れた。受け入れたはずなのに、応接間の方角をちらりとも見ないように気をつけている自分がいる。


 テオドアの話が終わりかけた時、ヒルダが執務室の扉を叩いた。


「ロゼリア様。お客様です」


 客。この屋敷を訪ねる人間は限られている。レインか、シグベルか。だがヒルダの声には、そのどちらでもない硬さがあった。


「お名前は」

「クレイヴ、と」


 空気が変わった。テオドアの手が帳簿の上で止まる。ロゼリアの背筋に冷たいものが走った。


 クレイヴ。ここまで影だった名前だ。ドルグの背後にいた存在。ルカを縛っていた人間。前領主を排除した黒幕。茶葉の包みを五つ送り、使用人の名前を全て知っていた男。その男が、名乗って、正面から屋敷の門を叩いた。


「……お通ししてください」


 ヒルダが頷いて退出する前に、テオドアが低い声で言った。


「私も同席します」


 もちろんだ。この相手に一人で会うつもりはない。ロゼリアは頷き、帳簿を閉じて、テーブルの上を整えた。手が震えていないことを確かめた。


 ルカの顔が一瞬だけ頭をよぎった。ルカはこの男を知っている。この男の前に出れば、ルカがクレイヴの下を離れたことが確定する。それはロゼリアにとって不利になりかねない。だがそれ以前に――ルカには今、仮面がない。商人の笑みも、飄々とした距離感も、あの夜に屋敷の門を叩いた時に全部脱いでしまった。あの状態をクレイヴの前に晒すことはできない。


 同時に、ロゼリアは自分自身のことも分かっていた。ルカがこの部屋にいたら、自分は冷静でいられるだろうか。あの声を聞きながら、あの目を横に感じながら、クレイヴと向き合えるだろうか。


 答えは出ていた。だから口に出さなかった。


***


 応接間ではなく、執務室に通した。テオドアの判断だ。応接間にはルカがいる。それに、執務室はロゼリアの領分である。この都市を治める権限を持つ人間の部屋に、客として招き入れる。そこには立場を示す意味がある。


 足音が廊下に聞こえた。ヒルダの案内する静かな歩調と、もう一つ。


 扉が開く。


 最初に目に入ったのは、服の仕立ての良さだった。上等な布地の外套、きちんと整えられた襟元、磨かれた靴。この都市では見ることのない身なりだ。王都の社交界に出ていても違和感がない——いや、少し違う。服の型が王都の最新のものではなかった。数年前の流行に近い。この都市に長くいる人間の服だ。


 顔は穏やかだった。険がない。三十代後半か四十代か、年齢を読みにくい顔立ちで、口元に薄い笑みを浮かべている。銀を帯びた暗い髪が耳の上で整えられ、額を出した髪型が清潔な印象を作っている。


 品がある。それが第一印象だった。王都にいた頃、ロゼリアの父が交流していた商家の当主たちを思い出す。権力を持ちながら威圧しない、柔らかな物腰で場を支配する人種。あの空気に似ている。


 だが執務室に入った瞬間、その男の目が動いた。


 椅子に座る前に、視線が部屋を一巡する。窓の位置、扉の位置、テオドアとの距離。品定めではなかった。調度品の格を見ているのでも、窓からの眺望を確認しているのでもない。もっと切迫した——逃げ道を確かめる動き。


 王都の客人がする仕草ではなかった。父の社交の場で見た紳士たちは、部屋に入る時にまず主人の席を探し、次に自分が座る椅子を確認し、三番目に茶器の銘を見た。この男が見たのは、そのどれでもない。


 一瞬だった。ロゼリアが見落としても不思議ではない速さで視線は戻り、男は穏やかな笑みのまま軽く頭を下げた。


「お初にお目にかかります。クレイヴと申します。——お会いできて光栄です、ロゼリア様」


 声は穏やかで、よく通った。敵意がない。むしろ温かいと言ってもいい響きだった。


「お掛けください」


 ロゼリアは自分の声が平坦であることを確認した。男が腰を下ろす。その動作は滑らかで、育ちの良さを感じさせた。テオドアがロゼリアの斜め後ろに立っている。


「テオドアは私の家令です。同席させます」

「もちろん、承知しております」


 承知している。名前も、役職も。当然だ。茶葉の手紙に使用人の名前を全て書いた男だ。


 クレイヴが改めてロゼリアを見た。値踏みではなかった。ロゼリアがこれまで対峙してきた相手——衛兵やドルグ——の目とは全く違う。敵意がないのに、逃げ場がない。目を合わせていると、何故か椅子から立てなくなるような感覚があった。


「あなたのお仕事ぶりは、伺っております」


 声に嫌味はなかった。社交辞令とも違う。この男は本当にロゼリアの仕事を知っている。知った上で、ここに座っている。


「ルーディック様がお亡くなりになった後、この都市は空白に落ちるところでした。それを食い止めたのはあなただ。帳簿を読み、物資を回し、住民のもとに足を運ぶ。——ルーディック様も、喜んでおられるでしょう」


 ルーディックの名前が、クレイヴの口から出た。ロゼリアの手が膝の上でかすかに強張る。この男がルーディックの名を口にする資格があるのか。ルーディックを排除した張本人が。


 だがクレイヴの声には、作り物とは思えない悲しみが滲んでいた。


「あの方は……善い方でした。正しいことをしようとされた。ただ、この都市では正しさだけでは足りないことがある。それが、あの方にとっての不幸だった」


 ロゼリアは黙って聞いていた。反論はしない。この男がどこまで語るのか、見極める。


「あなたは違う」


 クレイヴが言った。声の温度が変わらない。穏やかなまま、静かに核心に触れてくる。


「あなたは人に希望を見せる。ルーディック殿にはできなかったことです。あの方は正しかったが、人はついてこなかった。あなたには人がついてくる」


 褒めている。称えている。その言葉に嘘はないとロゼリアの直感が告げている。だからこそ、次の言葉が来ると分かった。


「だからこそ、この都市では毒になる」


 ロゼリアの肩が動いた。わずかな反応だったが、クレイヴの目はそれを逃さなかった。


「希望は人を動かします。でもこの都市の人間は、希望を持った後で裏切られることに耐えられない。期待しなければ穏やかに暮らせた人間を、あなたは揺さぶっている。――お気づきでしょうか」


 ロゼリアは答えない。クレイヴの言うことを否定できなかった。常罪区の住民がロゼリアを信じ始めた後で、ルカの件が露見し信頼が崩れた。物資が止まった時の、住民たちの顔。ドルグの手下が「領主代行が余計なことをした」と言い回った時の、カーラの報告。希望を見せて、その希望が届かなかった時の反動。


 それはロゼリアも分かっている。だが――


「それでも、何もしないよりましだと仰るかもしれない。そう仰る方でしょう、あなたは」


 見透かされている。ロゼリアの反論を先に封じている。穏やかな声で、壁を一枚ずつ剥がすように。


「……それは、あなたの本題ではないでしょう」


 ロゼリアは声を低くした。揺さぶりに乗らない。乗りたくない。この男のペースで話を進めさせてはいけない。


 クレイヴが微笑んだ。怒りもなく、失望もなく、ただ「やはりそうですか」という顔で。


「その通りです。本題に入りましょう」


 そして、穏やかな声のまま続ける。


「ここからは、二人でお話しできませんか。あなただけに、聞いていただきたいことがあります」


 ロゼリアはテオドアの方を見なかった。見れば、テオドアの表情に判断を預けてしまう。


 シグベルも同じことをした。テオドアの同席を断り、二人で話したいと言った。だがシグベルの時と今は違う。この男は――敵だ。ここまでの会話で品定めをし、ロゼリアの反応を見て、その上で本題に入ろうとしている。テオドアを退席させることの意味もわかっている。この場に知恵者を置かないことで、ロゼリアの判断を孤立させる。


 分かっていた。でも、退席を拒むことは弱さを見せることだ。一人で聞けないと認めることになる。怯えていると示すことになる。ロゼリアの矜持は、それを許さない。


「テオドア。少し外してください」


 テオドアが一瞬だけ間を空けた。その一瞬に、彼なりの査定が詰まっている。ここまでの会話を聞いた上で、この男を主人と二人にすることの危険を計算している。目を細め、クレイヴを見つめ、それからロゼリアに視線を戻した。


「……承知しました。お呼びがあれば、すぐに」


 テオドアが退出する。扉が閉まる音が、執務室に小さく響いた。


 そしてとうとう、二人になった。


 クレイヴの手がテーブルの上で組まれる。その時、ロゼリアの目が手に止まった。


 指は細く、手入れされている。清潔で、品のある手だ。だが爪の際に、うっすらと染みが残っていた。暗い褐色の、何かの痕跡。薬品か、土か、それとも別のものか——ロゼリアには判別がつかない。落とそうとして、落ちきらなかったもの。


 王都の紳士の手ではない。


「——あの子のことは、あまり責めないでいただきたい」


 不意に、ルカの話が来た。


 ロゼリアの呼吸が止まりかけた。この男は今、ルカのことを切り出した。取引の本題に入ると言いながら、最初に出したのがルカだった。


「あの子はあの子なりに、あなたを守ろうとしていた。方法が拙かっただけです」


 あの子。ルカを「あの子」と呼ぶ。親が子を語るような距離感。その言葉だけで、この男とルカの間にあったものの形が透けて見えた。


 そしてクレイヴはルカの感情を知っている。守ろうとしていたことも、それがロゼリアの望まないやり方であったことも。全部見えていて、全部理解して、その上でここに座っている。


「あなたが私の話を受け入れれば、自然と縁の切れる人間です」


 クレイヴの声の調子は変わらない。


「あの子もいずれ、元の場所に帰るでしょう」


 元の場所。クレイヴの下。ルカの居場所だった場所。


 ロゼリアの指先が冷たくなっていく。「責めないで」と言った口が、同じ息で「縁の切れる人間」と言う。ルカの感情をわかった上で、それを「その程度のもの」と値踏みしている。あるいは――ルカの感情の全てを把握した上で、ロゼリアへの交渉材料に使っている。


 どちらにしても、この男にとってルカの心は駒の配置でしかない。


「……本題を」


 ロゼリアの声がかすかに硬くなった。自分でも気づいている。動揺を見せた。クレイヴの目が、それを拾っている。


「ロゼリア様。あなたの冤罪の件です」


 冤罪。その言葉が、クレイヴの口から出た。


「真犯人がいます」


 ロゼリアの胸の奥で、何かが大きく動いた。


「被害に遭われた令嬢のお身内の方です。家督相続に絡んだ犯行でした。優秀な令嬢が邪魔だった——よくある話ですが、あなたにとってはよくある話では済まなかった」


 クレイヴの手が組み直された。爪の際の染みが、午前の光の下でかすかに見える。


「使われた毒は、この都市で作らせていたものです。私の管理下にある品でした。流通経路も、どこに渡ったかも、全て把握しています」


 この都市で作った毒が、王都の令嬢の茶に入っていた。それをこの男は「把握している」と言う。流通経路を、と。つまりこの男の手は、この都市の壁の外に……王都にまで届いている。罪人都市の闇商人が、王都の貴族の茶会に毒を流し込める経路を持っている。


 ロゼリアの背筋を、新しい種類の恐怖が這い上がった。


「真犯人の名前も、証拠も、私の手元にあります」


 真犯人がいる。証拠がある。名前がある。


 ロゼリアの頭が一瞬真っ白になった。


 冤罪。あの法廷。身に覚えのない罪を突きつけられ、弁明の機会すらなく、名前を奪われ、この都市に送られた。ずっと――ずっと、どこかで思っていた。真犯人がいるなら、いつか証明できるなら、奪われたものを取り戻せるなら。


 その「いつか」が、今、目の前の男の手の中にある。


「条件があります」


 クレイヴの声は変わらない。穏やかで、温かく、急かさない。


「領主代行をお辞めになり、この都市から手をお引きください。それだけで結構です」


 それだけ。それだけのことが何を意味するか、ロゼリアには分かっている。


「荷の検分も、排水路を這うことも、泥にまみれることも、もうなさらなくていい」


 ロゼリアの具体的な行動を、一つ一つ並べてみせた。排水路を通ったことまで知っている。あの夜、泥だらけで帰ったことまで。


「グランツフェルトの令嬢がなさることではないでしょう」


 侮辱ではなかった。敬意の形を取っている。あなたにはもっとふさわしい場所がある、と。


「王都にお戻りなさい。名前を取り戻して、ご自分にふさわしい場所でお暮らしになればいい。——無実の証明は、私がご用意します」


 執務室に沈黙が落ちた。


 ロゼリアは動けなかった。


 頭の中で二つのものが衝突している。王都。グランツフェルトの名前。父と母。奪われた日々。全てを取り戻せる。冤罪を晴らし、家名を回復し、この灰色の都市から出て行ける。それが欲しくないと言えるか。嘘だ。ずっとそれが欲しかった。そのために、領主代行を引き受けた。


 だが条件は――この都市を手放すこと。


 テオドアの帳簿。ヒルダの鋭い眼光。ギフティオの厨房。カーラの不器用な笑い。レインの背中。常罪区の住民たち。彼らに「なんとかします」と答えた自分の声。


 その全てを、手放す。


「……よくお考えください」


 クレイヴが立ち上がった。彼はロゼリアを急かさない。


「急ぎません。あなたが納得された上でなければ、意味がありませんから」


 扉に向かうクレイヴの背中を目だけで追う。ロゼリアはどうしても動くことができなかった。


 クレイヴが扉の前で、ふと振り返る。視線が執務室を一巡する。入室時と同じ動きだったが、今度は出入口ではなく、部屋の中を見ていた。テーブルの上の帳簿、壁にかけられた地図、窓辺に置かれた花のない花瓶。


「良い屋敷ですね」


 それだけ言って、男は出て行った。


 扉の取手に触れたクレイヴの手を、ロゼリアは見ていた。あの染み。爪の際にうっすりと残る、落ちきらないもの。あの手で、この都市の何を動かしてきたのだろう。あの手で、ルーディックの死を手配し、ルカを縛り、茶葉の手紙を書いたのだろうか。


 扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 ロゼリアは椅子の上で、長い息を吐いた。手がテーブルの縁を掴んでいた。いつからそうしていたのか、自分でも分からなかった。


本日から第五章、物語もクライマックスです。

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