第24話 それでも
朝、ヒルダがロゼリアの部屋を訪ねてきた。
手に灰色の布を抱えている。常罪区の住民が届けてくれた、あの布。ロゼリアが執務室のテーブルに広げたまま置いていたものだ。
「ロゼリア様。お召し物の件ですが」
ヒルダがロゼリアの前で布を広げた。よく見ると、布の端に細かな針目が入っている。縫い始めの印だった。
「カーラと二人で、こちらを仕立てようかと。あの子は手先が器用ですし、私も多少は針仕事ができます」
灰色の布。かすかに青い筋が一本だけ混じっている。織り手の、小さな主張。
「深罪区から戻られた時のお召し物は、もう使い物になりません。替えの服が必要ですから、いっそ新しく」
ヒルダの声は実務的だった。だがその目に浮かんでいるのは、事務的な判断とは違うものだ。この布を、ロゼリアのために使いたい。ヒルダはそう言っている。
「……お願いします」
ロゼリアは頷いた。それ以上は訊かなかった。ヒルダも何も加えなかった。布を丁寧に畳み、部屋を出ていく。
仕立てにはしばらくかかるだろう。今はまだ、形のない布だ。
***
異変が起きたのは、その日の昼だった。
テオドアが執務室に入ってきた。その後ろに、レインがいた。
テオドアが足音を荒くすることは滅多にない。レインが予告なく屋敷に来ることももはや珍しくはないが、今日のレインの顔には切迫したものがあった。二人が同時に来たという事実だけで、ロゼリアには何が起きたか察しがついた。
「薬草商からですか?」
テオドアが頷いた。
「『本日をもって、ダイダリーへの輸送を停止する。理由は語れない』とだけ」
ロゼリアの手が、持っていたペンの上で止まった。薬草商ルート。レインが開いてくれた、唯一の物資供給路。ルカの三分の一しかない、それでもゼロではなかった命綱。
「語れない、ということは」
「誰かに止められた、ということです。門の外に荷台ごと引き上げたとのことで、アーロットに戻ったのでしょう」
ロゼリアの通行許可差し止めが、クレイヴの流通を細くした。その報復が来た。ロゼリアが止めたのは三件だったが、クレイヴはロゼリア側のたった一本の線を断ち切ることで応じた。三対一。だが一を失った側のダメージの方が、遥かに大きい。
「屋敷の食料は」
「穀物が十日分。塩は二週間。油が五日。……再びルカがいなくなった直後と同じ状況に戻ります」
レインが口を開いた。
「食料だけではありません。離脱症状の緩和に使う薬草の在庫が、あと数日分です。新しく入る見込みがなくなった以上、常罪区の患者に処方を続けることが難しくなる」
物資だけではない。医療まで止まる。ソルミナの離脱症状に苦しむ住民の治療が、薬草の枯渇で打ち切られる。レインが積み上げてきた巡回診療の成果が、根こそぎ崩れる。
ロゼリアは奥歯を噛んだ。積み上げたものが、また崩れていく。
「レイン様。巡回は——」
「続けます」
レインが遮った。いつもなら相手の言葉を最後まで聞く人間が、今日は遮った。
「薬がなくても、できることはあります。診察と、経過観察と、水と塩の指導。……何もしないよりはましです」
レインは診療鞄を提げ直した。
「常罪区に行ってきます。状況が悪いときほど、顔を出すことに意味がある」
レインが屋敷を出ていく背中を見送りながら、ロゼリアは思った。この人は最初からこうだった。言葉ではなく行動で示す。「今度はそうはしたくない」と言った日から、一度もぶれていない。
***
夕刻、カーラが外から戻ってきた。朝のうちに常罪区の様子を見に行かせていたのだが、戻りが遅い。走って帰ってきたカーラの顔が強張っていた。
「ロゼリア様。常罪区、ひどいことになってます」
カーラの報告は断片的だが、空気を嗅ぎ取る力がある。
「ドルグの手下が動いてて、『領主代行が余計なことをしたから物が止まった』って言って回ってる。嘘じゃないから、みんな信じてる」
嘘じゃない。通行許可を差し止めたのはロゼリアだ。その報復として薬草商が止められた。因果を辿ればロゼリアの行動が起点にある。ドルグの言い分は——事実だ。
「エミルは」
「エミルは……エミルはまだ何も言ってない。でも、周りの人たちの顔がすごく怖かった」
カーラの声が小さくなった。ロゼリアはカーラにそっと触れた。
「ありがとう。危なくなかったですか」
「大丈夫です。走るの得意ですから」
カーラの作り笑いは、あまり上手ではなかった。
疲れ切った彼女を下がらせた直後、再び門が叩かれる。
テオドアが応対に出て、戻ってきた時の顔に、ロゼリアは見たことのない色を見た。困惑だった。
「ロゼリア様。届け物です」
「届け物?」
テオドアが執務室のテーブルの上に、木箱を一つ置いた。小ぶりで、丁寧に作られた箱。蓋には何の印もない。
ロゼリアは慎重に箱を開けた。
中に入っていたのは、茶葉だった。一目で分かる上等な品だ。包みが五つ。そして小さな封書が一通。
封書を開くと、丁寧な筆跡で文字が綴られていた。
『ロゼリア・グランツフェルト様
ダイダリーの厳しい環境の中で、よくお務めのことと存じます。
ささやかではございますが、お茶をお届けいたします。
テオドア殿、ヒルダ殿、ギフティオ殿、カーラ殿にもお一つずつ。
どうぞお体にお気をつけて』
署名はない。読み進めたロゼリアの指先が冷たくなっていく。
五つの包みに、名前が全て書かれている。テオドア、ヒルダ、ギフティオ、カーラ。そしてロゼリア。五人分、ぴったり。
脅迫の言葉は一つもない。丁寧で、温かく、礼儀正しい。だがこの手紙が告げていることは明白だ。
お前の屋敷に誰がいるか、知っている。名前を知っている。人数を知っている。
「テオドア」
なるべく平常心を装ったが、テオドアを見れば失敗に終わったことが分かった。
「この茶葉を検分してください。毒物が含まれていないかの確認を」
「……承知しました」
テオドアが箱を持って退出する。毒が入っている可能性は低い。クレイヴの手口はそういうものではない。ルーディックの時もそうだった。直接手を下さない。道具を使い、状況を作り、善意の顔をして相手を追い詰める。
この茶葉は脅迫ではない。挨拶だ。
——あなたのことは全て見ています、という挨拶。
***
その夜、ロゼリアは眠れなかった。
物資が止まった。常罪区の信頼が再び揺らいでいる。そしてクレイヴの手が、屋敷にまで届いている。
執務室のテーブルに帳簿を広げていたが、数字が頭に入らない。通行許可の差し止めは効いている。クレイヴの流通を細くしたことは確かだ。だがクレイヴは即座に別の角度から返してきた。薬草商を止め、屋敷に手が届くことを示し、住民を煽動して信頼を削る。一手に対して三手を返された。
打つ手がない。
テオドアの帳簿分析は優秀だ。だが帳簿で読めるのは数字の流れだけで、クレイヴの次の手は予測できない。レインの医療は住民の体を支えているが、ソルミナの供給そのものは止められない。ギフティオの料理は人を笑顔にするが、腹がを膨らませるための材料がなければ笑えない。
ロゼリアの手元には、インクと紙と数字がある。それだけだ。それだけでは、足りない。
窓の外に目を向けた。月が出ている。この都市の夜は暗い。王都のような灯はなく、月明かりだけが灰色の街並みを浮かび上がらせている。
——この都市に来た最初の夜も、こんな月だった。
あの夜から、ずいぶん遠くまで来た。でもまだ、足りない場所にいる。
そう思った時、門が叩かれた。
二度、三度。叩き方に躊躇がある。力を込めきれないような、けれど引き返すこともできないような、中途半端な音。
ロゼリアは席を立った。こんな時間に門を叩く人間は限られている。カーラが侵入してきた夜を思い出した。テオドアを呼ぶべきだが、足が先に動いた。
玄関に出ると、テオドアが既に廊下に立っていた。この人も眠れなかったのだろう。二人で玄関の扉に向かう。
テオドアが扉を開けた。
月明かりの中に、人影が立っていた。
茶色の癖毛。猫のような目。だが、あの飄々とした笑みはなかった。笑っていない顔のルカを見るのは、あの日――執務室で「出て行ってください」と言った時以来だった。
……ルカだ。
瞬間、ロゼリアの呼吸が止まる。
体が固まる。視界の端が白くなる。心臓が大きく一度打って、それきり止まったかのように胸が静まり返った。
ルカがいる。
ルカが、屋敷の門の前に立っている。目の下に影があり、頬がわずかに痩せていた。この人もまた眠れない夜を過ごしていたことなど、顔を見れば分かる。
ルカがロゼリアを見た。
その瞬間、あの日の全てが戻ってきた。何かを言いかけて飲み込んだ声。出ていけと自分が言った声。ルカの背中が扉の向こうに消える音。執務室の床に膝をつき、涙が落ちた感触。
全部が、一度に、胸の奥を殴った。
「——なぜ」
声が掠れた。それ以上の言葉が出なかった。
「……許されに来たんじゃありません」
ルカの声は低かった。震えている。抑えようとして、抑えきれていない。いつもの軽さは影も形もなく、剥き出しの声だった。
「クレイヴが動いています。あなたの物資を止めた。屋敷にも手が届いている。——次はもっと直接的に来る」
ロゼリアは何も言えなかった。言葉が喉に張り付いて動かない。ルカの目を見ている。その目の奥に、あの日飲み込んだ言葉の残滓がある。見えてしまう。見たくないのに、見える。
「前の領主の時と、同じことが起きる」
ルカの声がさらに低くなった。
「それを知っていて、黙っていることは——もう、できません」
それだけだった。ルカはそこで口を閉じた。
あの日飲み込んだ言葉の先を、今夜も言葉にはしなかった。だがその代わりに、ここに立っている。クレイヴの下を離れ、夜の屋敷の門を叩き、笑顔の仮面を外した顔で、ロゼリアの前に立っている。
言葉にしなかった。だが、来た。
ロゼリアの手が震えていた。怒りなのか、痛みなのか、それとも——分からない。分かりたくない。この人の顔を見ていると、冷静でいられなくなる。あの日積み上げた怒りの壁が、揺らぐ。揺らいではいけないのに。
「……テオドア」
ロゼリアは背後に立つテオドアに声をかけた。自分の声が震えていないことを確認するのに、全ての力を使った。
「この人を、応接間に」
ルカの目が一瞬だけ揺れた。拒絶されるとも、受け入れられるとも取れない言葉。ロゼリアはそれ以上何も言わなかった。ルカの目を見続けていたら、もう一つの言葉が――言ってはいけない言葉が――口を突いて出そうだったから。
「……承知しました」
テオドアが一瞬の間を空けてから頷いた。その一瞬に、テオドアなりの判断が詰まっていた。
ルカが門をくぐった。屋敷の中に入る。ルカがロゼリアの横を通り過ぎた時、風が動いた。あの匂い——乾いた草と、旅の埃と、かすかな香辛料の残り香。変わっていない。時間が経っても、この人の匂いだけが変わらない。
ロゼリアは足を踏ん張って、その場に立ち続けた。そうしないと今にも膝から崩れ落ちそうだった。
ルカが応接間に入る足音が聞こえる。それを確認してから、ロゼリアは執務室に戻った。扉を閉めた。
扉に背中を預けて、目を閉じた。
心臓が、今になってようやく動き出した。速い。痛いほど速い。手を胸に当てて抑えたが、抑えきれるものではなかった。
***
応接間でテオドアがルカから聞き取りを行っている間。ロゼリアは執務室で待っていた。
同じ場所にいられない。あの顔を見ていると、冷静でいられない。だから聞き取りはテオドアに任せた。テオドアなら感情に流されず、情報の真偽を見極められる。
一刻ほどして、テオドアが執務室に戻ってきた。
「概要をまとめました」
テオドアが紙束を置いた。ルカが語ったクレイヴの流通構造。門を通る荷のルート、深罪区内の製造拠点との接続、常罪区での配布網、そしてクレイヴ自身がどこにいるか。
「情報の信頼性は」
「帳簿と照合できる部分は一致しています。差し止めた三件の通行許可証のうち、二件の背後にいた人物名が語られました。帳簿からは見えなかった裏の名義です」
テオドアが眼鏡を外し、拭いた。
「ロゼリア様。情報は使えます。信頼とは別の話として」
信頼とは別の話。テオドアの言葉は正確だった。ルカの情報が正しいかどうかと、ルカを信じるかどうかは、違う問題だ。
「ルカは今、どこに」
「応接間にいます。指示があるまで待つと」
ロゼリアは目を閉じた。
ルカの情報を使う。それはルカの帰還を受け入れることとは違う。情報を検証し、使えるものは使い、クレイヴに対抗する。ルカ個人をどう扱うかは、その後の話だ。
そう割り切れるはずだった。
でもルカの声が頭から離れない。あの震えた声。あの日飲み込んだ言葉の先に、何があったのか。ロゼリアにはまだ分からない。分かりたくないのかもしれない。
「テオドア。ルカに伝えてください」
テオドアが待つ。
「情報は受け取ります。検証が終わるまで、屋敷に滞在することを許可します。——それ以上のことは、今は何も約束できません」
テオドアが頷いた。その目に何が浮かんでいたか、ロゼリアは見なかった。
***
テオドアが退出した後、ロゼリアは一人になった。
帳簿を開こうとして、手が止まった。指先が震えている。寒いのではない。感情だ。名前をつけたくない感情が、指先にまで来ている。
あの日、執務室の床で泣いた。涙が乾いた後、帳簿を開いて数字に没頭した。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは人間だ。
でも今夜、嘘をつかない数字よりも、嘘をついた人間の声の方が、胸に響いている。
窓の外の月は変わらない。だが屋敷の中に、一つ気配が増えている。応接室にルカがいる。あの日追い出した人間が、同じ屋根の下に戻っている。
ロゼリアは帳簿を閉じた。
明日からまた数字と向き合う。ルカの情報を検証し、クレイヴへの次の手を打つ。物資を取り戻し、常罪区の信頼を立て直す。やるべきことは山積みで、感情に浸っている暇はない。
だが今夜だけは。
今夜だけは、何も考えずに、月を見ていた。
第四章は完結です。明日からはクライマックスの第五章の投稿となります。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。




