第29話 冤罪令嬢、罪人都市の領主になる【完】
常罪区に花が咲いたとカーラが報告してきたのは、風が温くなり始めた頃のことだった。
「花っていうか、雑草なんですけど。でも黄色い花がついてて、ヴェーダさんが『踏むな』って怒鳴ってました」
カーラの報告はいつも断片的だが、空気を掴む力がある。ロゼリアは帳簿から顔を上げて、窓の外を見た。灰色の空に、前よりも少しだけ青が混じっている。季節が変わっている。この都市に来てから、もう何度季節が変わっただろう。
***
クレイヴの流通がダイダリーから消えたのは、雪が溶け始めた頃だった。
テオドアの帳簿戦略とルカの内部情報で通行許可を一つずつ潰し、代替の物資ルートをレイン達の協力で構築した。時間がかかった。何度も物資が底をつきかけ、何度も住民の不満が噴き出した。だがそのたびにロゼリアは帳簿を開き、署名を重ね、足を運んだ。
最後の一件を差し止めた日、テオドアが珍しく報告の後に一言加えた。
「あの男の流通は、もうこの都市にはありません」
クレイヴがどこに去ったのかは分からない。捕まったわけではない。この都市で商売が成り立たなくなり、別の場所に移っただけだろう。完全な決着とは言えないかもしれない。だがダイダリーは、もうクレイヴに必要とされる場所ではなくなった。
クレイヴが最も恐れたのは、それだったのだろう。必要とされていることが最大の武器だった男から、必要性を剥がした。暴力ではなく、帳簿とペンと署名で。
テオドアの報告を聞いた夜、ロゼリアは執務室で一人になって、長い息を吐いた。勝利の高揚はなかった。ただ、重い荷物を一つ下ろした時のような、静かな疲労感があった。
***
王都から書状が届いたのは、それからしばらく後のことだった。
テオドアが封書を持ってきた。王都の紋章が押された封蝋。ロゼリアが最後にこの紋章を見たのは、冤罪の判決文の上だった。
手が震えるかと思ったが――自分でも意外なことに、震えなかった。封を切り、中の紙を開く。
クレイヴの流通経路が明るみに出たことで、ダイダリーで製造されていた違法な毒の出所が王都で特定された。その毒が使用された事件の再調査が行われ、真犯人が拘束された。
ロゼリア・グランツフェルトに対する罪状は取り消される。名誉の回復と、領地への帰還の権利が認められる。
帰還の権利。
ロゼリアは書状を最後まで読み、静かに閉じた。
涙は出ない。この手に、欲しかったものがある。ずっと欲しかったもの。あの法廷で奪われて、夜ごとに思い返して、いつか取り戻すと誓ったもの。それが今、ここにある。
でも不思議と、胸を満たしたのは喜びだけではなかった。
名誉は、後からついてきたのだ。クレイヴの手からではなく、自分が積み上げたものの結果として。
窓の外を見た。灰色の空。黄色い花が咲き始めた都市。厨房からギフティオの料理の音がする。廊下でヒルダの声がする。どこかでカーラが走っている。深罪区の奥にある壁の冷たさが、まだ指に残っていた。あの扉の向こうは、まだ開けていない。
――だから、帰還の権利は使わない。そのことに、迷いはなかった。
***
書状のことは、食事の席で全員に伝えた。
テオドアは深く頷いた。想定の範囲内という顔だったが、眼鏡を外して拭いた。レンズが曇っていたのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。
ヒルダは「そうですか」とだけ言って、ロゼリアのティーカップにお茶を足した。いつもより少しだけ多かった。
ギフティオは「お祝いの料理を作りましょう!」と言って、翌朝から三日間かけて新作を五品試した。全部美味しかったが、ギフティオ本人は「まだ足りない」と言い続けた。
カーラは目を丸くして、それから笑った。「よかった」と言った。それだけだった。それだけで十分だった。
ルカは、その場にいなかった。
***
ルカを見つけたのは、屋敷の裏手だった。
壁に背を預けて立っていた。夕暮れの光が横から差して、茶色の癖毛を金色に染めている。ロゼリアが近づく足音に気づいて顔を上げた。
「書状のこと、聞きました」
ルカの声は静かだった。
「テオドアに教えてもらったんです。冤罪が晴れたって」
「ええ」
ロゼリアはルカの隣に立った。壁に背を預けるのは令嬢のすることではないが、もうそんなことを気にする自分はいない。灰色の服の背中が、石壁に触れた。
「おめでとうございます」
ルカがそう言って笑った。彼の顔には、あの飄々とした笑みが戻っている。でも目が違う。目だけが別のことを言っている。
「王都に、帰るんですか」
ルカの声が、ほんのわずかに掠れた。何でもないことのように訊いている。しかしその指先は、壁の石を掻いていた。
ロゼリアは答えなかった。代わりに、ルカの横顔を見た。
ルカが怯えている。縁の切れる人間だと言われたあの日から、彼はずっとこの恐怖を抱えていた。ロゼリアが王都に帰れば、ルカとの縁は終わる。名誉が回復されれば、ロゼリアがこの都市にいる理由がなくなる。
でもルカは引き止めない。「行かないでくれ」とは言わない。それを言う資格が自分にはないと思っている。
馬鹿な人、とロゼリアは思った。声には出さなかった。
「帰りません」
ルカの指が止まった。
「ここにいます。ここが、私の場所ですから」
ルカがロゼリアを見た。目が揺れている。笑みの残骸が唇に残っていて、でもそれを維持する力がない。そんな顔をしている。
「……ほんとに?」
子どものような、確かめるような、信じたいのに信じきれない声だった。
「本当です」
「後悔しませんか。王都に帰れるのに。名誉が戻るのに」
「名誉は戻りました。でも私はもう、それだけの人間ではありません」
ロゼリアは壁から背中を離し、ルカの正面に立った。
夕暮れの光がルカの顔を照らしている。目の下の影は以前より薄くなった。痩せた頬も戻っている。あれからずっと、ルカもここで暮らしていた。帳簿を手伝い、物資の手配に走り、テオドアと頭を突き合わせて流通の穴を探した。クレイヴの下にいた頃の技能を、今度はロゼリアのために使った。
「ルカ」
「はい」
「あの日、あなたは離れたくなかったと言いました」
ルカが息を呑む音がした。
「私も、同じです」
ルカの目が見開かれる。唇が開いて、閉じて、また開いた。何かを言おうとして、言葉にならない。
「離れたくない。あなたと。――もう二度と、屋敷が静かになるのは嫌です」
自分の声が震えていることに気づいた。落ち着いた声を作ることを、もう忘れていた。
ルカの手が動き、ロゼリアに触れた。
指先が冷たかった。緊張しているのだ。この人は今、ロゼリアの手に触れることに、全身で緊張している。
ロゼリアは逃げなかった。
ルカの指がロゼリアの指に絡んだ。ゆっくりと、確かめるように。触れていいのか、まだ指先で訊いている。
ロゼリアは自分から、ルカの手を握り返した。
ルカの息が漏れた。長く、震えた息。抑え込んでいたものが溢れ出すように、彼はゆっくりと息を吐く。
「……俺、ずっと」
ルカの声が途切れた。
「ずっと、あなたのそばにいたかった。まともな人間になりたかったとか、居場所が欲しかったとか、全部本当だけど、でも一番は——」
ルカの目が赤くなっていた。泣いてはいない。泣く手前で止まろうとしている。
「ただ、あなたが好きだったんです」
言ってしまった、という顔をした。言うつもりがなかったのに出てしまった言葉。でも今度は、言った後の顔が違った。恐怖ではなく、覚悟がある。
ロゼリアの目から涙が落ちた。
そのことに、彼女自身も驚いた。泣くような場面ではない。嬉しいのか、悲しいのか、それとも長い間堪えていたものが解けたのか——わからない。わからないまま、涙が頬を伝った。
「泣かないでください」
ルカの声が慌てていた。空いている方の手でロゼリアの頬に触れようとして、止まった。触れていいか分からないのだ。
「泣いていません」
「泣いてますよ」
「泣いていません。これは——」
言葉が見つからなかった。空いている手で不器用に目元を擦う。
「……あなたが好きです」
ロゼリアが言った。涙声で、不格好で、普段のロゼリアらしさは欠片もない。
それでも、ルカは笑った。泣きそうな顔で笑った。あの飄々とした笑みではなかった。何も隠していない、彼本来の笑顔。ロゼリアが初めて見る顔だった。
「……俺も」
ルカの声が震える。
「俺も、好きです。ずっと」
繋いだ手を、どちらからともなく強く握った。
夕暮れの光の中で、二人は壁にもたれて並んで立っていた。手を繋いだまま。他に何も言わなかった。言わなくてよかった。
屋敷の中から、「夕食ですよと」ギフティオの声がした。続いてカーラの走る足音。テオドアの咳払い。ヒルダの「走らないの」という注意。
日常の音だ。この屋敷の、この都市の、日常の音。
ルカが手を握ったまま、小さく笑った。
「……行きましょうか。ギフティオの食事が冷めますよ」
「ええ」
ロゼリアはルカの手を離さなかった。繋いだまま、屋敷の中に歩き出した。
灰色の空の下、黄色い花が咲き始めた都市で、新しい日が暮れていく。明日もここで帳簿を開く。明日もこの人が隣にいる。
——ロゼリア・グランツフェルトは、罪人都市の領主になった。
誰かに決められたのではない。自分で選んだのだ。
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