第2話 罪人たちと利害の一致
声が聞こえる。
――動機は十分だ。
高い天井の裁きの間。ロゼリアは証言台に立っている。いや、立たされている。目の前に並ぶ裁判官たちの顔は霞んで見えない。ただ声だけが、やけに鮮明に耳に届く。
――被告は被害者と確執があった。それだけで十分ではないか。
違う。私じゃない。声にしようとするのに、喉が詰まって音にならない。唇が動くのに、空気だけが漏れる。
傍聴席のざわめき。こちらを見る無数の目。同情も、疑問もない。結論はもう決まっている。この場は手続きだ。誰もがそれを知っていて、誰もがそれを受け入れている。ロゼリアを除いた全員が。
――被告を贖罪都市ダイダリーへ送る。領主の妻であれば不満はないでしょう。
違う。自分じゃない。叫びたかった。だが叫んだところで何が変わっただろう。叫ぶほどに『必死で言い逃れをしている』と映るだけの場所で。
声が出ない。手が動かない。足が床に縫い止められている。
裁判官の一人が、書類に判を押す音がした。乾いた、取り返しのつかない音。
――決まりだ。
……目を覚ました。
天蓋のないむき出しの天井。石壁に染みついた湿気の匂い。窓の外には灰色の空が広がっている。
心臓がまだ速い。額に汗が滲んでいた。ロゼリアは仰向けのまましばらく天井を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
――ああ、そうだ。ここは罪人都市だ。
記憶が戻る。婚姻。葬儀。あの検死。銀髪の神官の忠告。昨日の出来事がまとめて押し寄せ、夢の残滓と混ざり合う。
夢でも何でもない。自分は今、死んだ領主の屋敷で一人目を覚ましたのだ。
寝台から足を下ろし、洗面台に向かう。冷たい水で顔を洗うと、夢の名残がようやく離れた。鏡に映る自分の顔は青白く、目の下に薄い影がある。
信じてもらえなかった。あの法廷では、誰にも。
弁明の場は与えられた。形の上では。だが裁きの場に立ったとき、ロゼリアは悟ったのだ。結論はもう出ている。自分がここにいるのは手続きのためだと。声を上げることに意味はなかった。
――だから、もう期待しない。
鏡の中の自分にそう言い聞かせた。誰かが信じてくれることを。誰かが味方になってくれることを。期待した分だけ、裏切られたときの痛みは深くなる。それはもう知っている。
冷たい水の雫が顎から落ちた。ロゼリアはそれを拭い、背筋を伸ばした。
身支度を済ませ、部屋を出る。婚礼衣装は脱いだが、代わりに着るものは屋敷の衣装部屋から見繕うしかなかった。領主の前妻のものらしい服が残されており、それを借りることにする。年嵩の女性のものだったのか、肩幅が合わず、丈も長い。裾を折って間に合わせたが、鏡を見る気にはなれなかった。他人の衣服は、自分がこの場所に属していないことを嫌でも思い出させる。
廊下を歩くと、階段の下で一人の老年の男が待ち構えていた。銀混じりの髪を丁寧に撫でつけ、背筋を伸ばした痩身の男だ。身なりはこの都市の水準からすれば整っている方だが、どこか擦り切れた気配がある。長く仕えてきた人間の体に染みついた礼節と、それとは別の何かが同居していた。
「テオドアと申します。この屋敷の家令を務めております」
丁寧だが温度のない挨拶だった。王都の使用人であれば、新しい主人に対して多少の愛想を見せるものだ。テオドアにはそれがない。必要な情報を過不足なく伝えるという意思だけが声に乗っていた。
「屋敷の管理と都市の帳簿は私が預かっております。……もっとも、帳簿と呼べるほど整ったものではありませんが」
最後にわずかに口元が動いた。自嘲なのか皮肉なのか、判別しがたい表情だった。
テオドアに案内され、屋敷の一階に降りる。広間と呼ぶには狭い部屋に、もう一人の女が立っていた。
濃い赤毛を無造作に束ねた、三十代半ばほどの女性。使用人の装いをしているが、その眼差しはおよそ従者のものではなかった。ロゼリアを見る目が、値踏みしている。あるいは、品定め。何ができる人間で、何ができない人間か、見極めようとする教師のような目だった。
「ヒルダです。侍女をしております」
短い自己紹介。テオドアと違い、愛想がないのではなく、愛想を必要としていない人間の話し方だった。
「お召し替えのお手伝いもいたしますが、あいにくこの屋敷にはご令嬢向きの衣装はございません。ご不便をおかけします」
言葉は丁寧だが、どこか試すような響きがあった。令嬢がこの環境に耐えられるのか。ロゼリアはそう問われている気がした。
「構いません。着られるものがあるだけで十分です」
ヒルダは一瞬だけ目を細めた。感心とも意外とも取れる、微かな反応だった。
そのまま食堂に通される。食堂といっても長机がひとつ置かれただけの簡素な部屋だ。既に一人の男が厨房から料理を運んできていた。
さっぱりとした黒髪に、人の良さそうな笑みを浮かべた青年。使用人の中では最も若く見えた。
「ギフティオです。料理を担当しております。どうぞ、温かいうちに」
机に置かれたのは素朴なスープと硬めのパン。王都の朝食と比べれば質素だが、湯気の立ち方も盛り付けも丁寧だった。十分すぎるほどの心遣いが見える。
ロゼリアは礼を言って席についた。
スプーンを手に取ったところで、ふと気づいた。テオドアとヒルダが、少し離れた場所からこちらを見ている。何か様子を窺うような視線だった。
――そうか。この屋敷の使用人は全員、罪人なのだ。
罪人都市で領主に仕える者たちが善良な市民であるはずがない。テオドアも、ヒルダも、目の前で微笑んでいるギフティオも。何をしたのかは知らない。だが、普通の人が越えない一線を越えた者たちだ。
分かっている。分かっていて、目の前の料理に手をつけなければならない。
ロゼリアはスープを一口すくい、口に運んだ。
――美味しい。
意外なほどに。野菜の甘みが丁寧に引き出されていて、体の芯に染みるような味だった。空腹も手伝ってか、自然とスプーンが進む。
二口、三口と食べ進めたところで、ギフティオの表情が変わったことに気づいた。笑顔のまま、けれど目がわずかに見開かれている。
「……お口に合いましたか?」
「ええ、美味しいです」
ロゼリアが端的に答えると、ギフティオは束の間黙った。それから「それは良かった」と笑ったが、その笑みの奥に、何か釈然としないものが一瞬よぎった気がした。
テオドアが小さく咳払いをした。ヒルダは腕を組んだまま、表情の読めない目でこちらを見ている。
――何だろう、この空気は。
ロゼリアには彼らの反応の意味がわからなかった。ただ、自分が何かを試されていたのか、あるいは予想外のことをしたのか、そのどちらかであるらしいことだけが伝わった。
食事を終えると、テオドアが本題を切り出した。
「ロゼリア様。率直に申し上げます」
テオドアの声から、わずかに残っていた使用人らしい柔らかさが消えた。
「領主閣下の死去により、この都市は領主不在の状態にあります。正妻であるあなた様には領主代行の権限が移譲されますが、それを辞退された場合――都市の自治権は中央に回収されます」
「中央に回収されると、どうなるのですか」
「軍事都市アーロットからの派遣官が管理を引き継ぎます。自治権を失った罪人都市がどう扱われるか……ご想像にお任せします」
テオドアの目が静かにロゼリアを見据えていた。脅しではない。しかし懇願でもない。事実を提示し、判断を委ねる。その距離の取り方が、この男の本性なのだろうとロゼリアは思った。
「私たちが領主代行を必要としている理由は、おわかりいただけたかと存じます」
ヒルダが口を挟んだ。
「問題は、あなたにそれを引き受ける理由と覚悟があるかどうかです」
沈黙が落ちる。三人の視線がロゼリアに集まった。
引き受けなければどうなるか。領主代行を辞退すれば、ロゼリアはこの都市でただの罪人になる。王都に声を届ける術もなく、名誉を回復する機会も永遠に失われる。
だが領主代行の地位があれば。少なくとも、中央と交渉する立場は残る。実績を積めば、発言権も生まれるかもしれない。わずかな可能性でも、自分の無実を証明する道が潰えるよりはいい。
――打算だ、とロゼリアは自覚していた。この都市を救いたいわけではない。使用人たちに忠誠を誓いたいわけでもない。ただ、ここで膝を折れば本当に終わる。それだけは許せなかった。
今朝、鏡の前で自分に言い聞かせたばかりだ。期待しない、と。誰かを信じることも、誰かに信じてもらうことも。だからこれは信頼ではない。取引だ。
「引き受けます」
声は思ったよりも静かに出た。
「ただし、条件があります」
テオドアの眉がわずかに動いた。ヒルダの目が鋭くなる。
「私がこの都市のために身を捧げるなどとは思わないでください。私には私の事情があります。……その上で、領主代行を務めるなら、都市の帳簿をすべて開示してもらいます」
「帳簿を」
テオドアが反復した。その声に、かすかな緊張が混じる。
「先ほど、帳簿を預かっているとおっしゃいましたね。整っていないとも。領主代行が都市を把握するのに、帳簿の確認は最低限の手続きのはずです」
ロゼリアは視線を外さなかった。
「……出せない理由がありますか」
一瞬の沈黙。テオドアの表情は動かなかったが、その目がわずかに伏せられる。
「……ございません。すべてお出しいたします」
折れたのか、それとも最初からそうするつもりだったのか。テオドアの口元に、先ほどと同じ判別しがたい表情が浮かんでいた。
「結構なことです。この都市で、事情のない人間などおりませんので」
ヒルダはそれだけ言って組んでいた腕を解き、小さく息を吐いた。その表情は読めなかったが、敵意ではなかった。
ギフティオだけが、少し離れた場所から変わらない笑顔でこちらを見ていた。
「では、お祝いのお茶でもお淹れしましょうか」
誰も笑わなかった。ギフティオ自身は笑っていたが、それが冗談だったのか本気だったのか、ロゼリアには判断がつかなかった。
こうして、濡れ衣を着せられた令嬢と三人の罪人の奇妙な協力関係が始まった。信頼でも忠誠でもない。ただ利害が一致しただけの、頼りない足場。
それでも足場は足場だ。何もない虚空よりはましだった。
ロゼリアは窓の外を見た。灰色の空の下に広がる罪人都市の街並み。あの向こうに、自分がここにいるべきではないという証明が、きっとある。
それを掴むまで、この場所で立ち続ける。
――たとえその足場が、罪人たちの上に築かれているものだとしても。




