第1話 夫が死んだ
結婚式の翌日、夫が死んだ。
悲しいかと問われれば、否だ。顔を合わせたのはたった一度きり。婚姻の儀式を終え、形ばかりの祝杯を交わし、翌朝にはもう冷たくなっていた。悲しむほどの時間すら、与えられなかった。
それがロゼリア・グランツフェルトの、罪人都市での始まりだった。
正式には贖罪都市ダイダリーという。だがその名で呼ぶ者を、ロゼリアはまだ一人も見ていない。贖罪などという言葉を信じる者はこの都市にはいないのだろう。誰もがただここを『罪人都市』と呼んでいた。
灰色の空の下、粗末な棺が墓地へ運ばれていく。棺の中に横たわるのはルーディック――この罪人都市の領主であり、昨日までロゼリアの夫であった男だ。
葬儀に参列する者は少ない。屋敷の使用人が数人、衛兵が形式的に並んでいるだけ。王都の葬儀であれば花と弔辞に埋もれるはずの場が、ここではただ風の音と砂利を踏む足音だけで満たされている。隔離された罪人の都市で、罪人たちの領主が死んだ。それだけのことだと、この場の空気が告げていた。
ロゼリアは白い衣装を纏っていた。昨日の婚礼衣装だ。
今朝、使用人が持ってきたのは灰色の粗末な布地だった。罪人が弔いの場で着るものだという。ロゼリアはそれを押し返した。自分はまだ裁かれていない。少なくとも、罪人として扱われることを受け入れたつもりはない。
だから今、花嫁衣裳で夫の葬儀に立っている。喪の色ではなく祝いの白。滑稽だろうな、とロゼリアは思う。しかし笑う者は誰もいない。ここでは他人の不幸にも、他人の意地にも、いちいち興味を持つ余裕がないのだ。
棺を囲む人間の中に、一人だけ見覚えのない青年がいた。茶色のくせ毛に人懐こい顔をした若い男で、商人風の身なりをしている。昨日の婚礼の場にはいなかった。彼は棺の傍に立ち、じっとルーディックの顔を見下ろしていたが、その表情はどこか硬い。弔いの悲しみとは違う、何か別のものを飲み込んでいるような顔だった。
ロゼリアの視線に気づいたのか、青年がふとこちらを見た。一瞬だけ目が合い、彼は軽く会釈をする。愛嬌のある顔立ちには似つかわしくない、ぎこちない表情だった。
――誰なのだろう。
問いかける間もなく、棺の横に立つ別の人物が口を開いた。
「死因は心肺の停止です」
淡々と、まるで天気を報告するかのような口調。診療所の医師だというその人物――レインは、死因の説明を求められてなお感情の色を見せない。悼むでもなく、詫びるでもなく、ただ事実だけを置いていく。
「持病の悪化か、別の原因があるのか……現時点では断定できません」
ルーディックの主治医であったはずの人間の、それが報告のすべてだった。
沈黙が落ちる。衛兵の一人が居心地悪そうに足を組み替えた。誰もが追及しないのか、あるいは追及する意味がないと思っているのか。この都市では領主の死さえ、深く掘り返す価値のない出来事なのかもしれなかった。
だがロゼリアは、一つだけ訊かずにはいられなかった。
「――毒の可能性は」
自分の口からその言葉が出たとき、奇妙な感覚があった。毒。茶に毒を盛ったという偽りの罪で、この都市に送られてきた自分が。
レインはわずかにこちらを見た。感情のない瞳がロゼリアを捉え、それからまた棺に戻る。
「否定はできません」
それきりレインは黙った。追及を拒んでいるのではなく、それ以上語ることが本当にないのだとでも言うように。ロゼリアの問いに対しても、周囲の誰一人として反応を見せなかった。毒かもしれないと言われても、この場の空気は変わらない。
――毒を盛ったとされる女が、毒で死んだかもしれない男の棺の前に立っている。それを誰も気にしていない。
ここはそういう場所なのだと、ロゼリアは改めて思い知った。
だが、思い知ったところで引き下がる理由にはならなかった。
「調べてください」
ロゼリアの声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「死因が断定できないのであれば、断定できるまで調べるのが道理ではありませんか」
沈黙が変質した。先ほどまでの無関心な沈黙ではない。ロゼリアに向けられる視線の温度が、明らかに変わった。
「……何を調べろと?」
衛兵の一人が口を開いた。退屈そうに欠伸を噛み殺していた男が、初めてロゼリアの顔をまともに見た。
「領主は死んだ。医者が診た。それで終わりだ。あんた、ここがどこだかわかってるのか」
「罪人都市でしょう。だからといって、死因の究明を省略していい理由にはならないはずです」
「省略も何も、ここじゃそんなもんに割く人手も金もねぇんだよ。王都の裁判所じゃあるまいし」
嘲りを含んだ声だった。衛兵の目が、ロゼリアの白い婚礼衣装を上から下まで舐めるように見る。場違いな女。そう言いたげな目だった。
ロゼリアは視線を受け止め、引かなかった。
「人手の問題であれば、医師がここにいます。レイン様、改めてお訊きします。検死は可能ですか」
レインの視線がゆっくりとロゼリアに戻った。相変わらず感情の読めない目だった。棺の中の遺体と、ロゼリアの顔を交互に見比べ、それからごくわずかに首を傾げた。考えているのか、面白がっているのか、どちらともつかない沈黙だった。
「可能か不可能かと問われれば、可能です。ただし――」
「待て」
別の衛兵が割り込んだ。先ほどの男より年嵩の、この場を仕切っているらしい人物だ。
「埋葬の時刻は決まっている。死体をいつまでも晒しておくわけにはいかん」
「何か理由が?」
「あんたは知らんかもしれんがな」
年嵩の衛兵は顎で墓地の先を示した。ロゼリアの目に、墓地の奥の区画が映る。他の墓石とは明らかに異質な一角。地面に鉄杭が打ち込まれ、鎖が幾重にも巻かれた墓がある。
「この土地では、弔いの刻を過ぎた死体は穢れを宿す。早い話が――起き上がるんだよ。ここの墓地にはそういう連中を縛りつけておくための杭と鎖が常備されてる」
アンデッド。死体が歩き回る。王都では伝承の中の出来事だったが、この都市では現実の問題として扱われているらしい。衛兵の声に脅しの色はなかった。ただ事実を述べている。この土地で死体を放置すれば、それは勝手に起き上がる。
「刻限は正午までだ。それを過ぎれば、棺に鎖を巻くことになる。そうなりゃあんたの旦那は墓の中で永遠に暴れ続けることになるが、それでもいいのか」
突きつけられた現実だった。ロゼリアは一瞬だけ、唇を引き結んだ。
時間がない。だが、このまま何も確かめずに土を被せれば、真実は永遠に埋まる。
視線をレインに向けた。
「……どれくらい時間がかかりますか」
「短時間であれば、腹を開いて臓腑の状態を確認するのが最も早い。毒であれば痕跡が残っている可能性がある」
淡々と、まるで料理の手順でも説明するような口調だった。周囲の空気が凍りついた。衛兵の一人が露骨に顔をしかめる。レインはそんな反応など気にも留めていなかった。
「どうしますか」
問いかけはロゼリアに向けられていた。お望みなら開きますが、という声音。医師としての判断ではなく、依頼者の意思を確認する手続き。
ロゼリアの胸の内で、王都での記憶が一瞬よぎった。裁きの場で叫ばなかった自分。結論が決まった法廷で、声を上げることに意味がないと悟った自分。あの時は引いた。引くしかなかった。
だが今ここで引いたら、同じことの繰り返しだ。
「お願いします」
声は震えなかった。
レインは一つ頷き、棺に歩み寄った。衛兵たちの間にざわめきが走ったが、誰も止めなかった。止める権限のある人間が――領主の妻が、許可を出したのだ。
レインの手が、棺の蓋に触れる。その手つきは迷いがなかった。
ロゼリアは目を逸らさなかった。自分が求めたことだ。その結果から、目を背ける資格はない。
作業はそう長くはかからなかった。レインは慣れた手つきで遺体を調べ、やがて静かに手を止めた。布で手を拭きながら、棺の傍に立つ。
「臓腑に目立った異変は見当たりません。変色や壊死の兆候もなし。……毒の痕跡は確認できませんでした」
何も出なかった。ロゼリアが覚悟を決めて踏み込んだ先に、手がかりはなかった。
「ただし」
レインは付け加えた。
「毒にも種類があります。痕跡を残さないものも存在する。今回の結果で毒の可能性が消えたわけではありません。……消えていないだけで、証明もできませんが」
何も確定しない。疑惑は残り、しかし証拠はない。
聖別された塩を撒き、レインが棺を閉じた。衛兵たちが無言で棺を持ち上げ、墓穴に降ろしていく。正午の刻限が近いのだ。慌ただしく土が被せられていく中で、ロゼリアは衛兵たちの視線を背中に感じていた。
ロゼリアを見る目が、変わっている。
嘲笑ではない。敵意とも違う。嫁いだ翌日に夫の死体を開けと命じた女。白い婚礼衣装のまま、棺の中の臓腑から目を逸らさなかった女。衛兵たちの視線には、そういう生き物を見る時の――理解の及ばないものに対する、本能的な警戒があった。
――異常者を見る目、だった。
構わない、とロゼリアは思った。怖がられることは、侮られることよりましだ。
埋葬が終わり、参列者が散り始めた頃、一人の男がロゼリアの傍に歩み寄る。
銀の髪に青い瞳。柔らかな物腰の、端整な顔立ちをした男だった。神官の衣を纏い、穏やかな微笑みを浮かべている。葬儀の場にあって、彼だけが場の空気に馴染んでいた。死と弔いに慣れた者特有の自然な佇まいだった。
「ロゼリア様、でしたね。シグベルと申します。この都市で神官を務めております」
丁寧な挨拶。声は落ち着いており、押しつけがましさはない。
「領主閣下の突然のご逝去、さぞお心細いことでしょう。何かお力になれることがあれば、いつでもお申しつけください」
「……ご厚意に感謝します」
ロゼリアは短く応じた。この都市に来てから、初めてまともな言葉を交わした相手かもしれない。だが警戒を解く理由にはならなかった。善意であれ打算であれ、今のロゼリアに見分ける余裕はない。
シグベルは微笑んだまま小さく頷き、それから一歩引いた。去り際に、ほんの少しだけ声を落として言った。
「身の回りにはお気を付けを」
ロゼリアが顔を上げる。シグベルの青い瞳が、穏やかなまま、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「……次の葬儀は、あなたのものかもしれません」
それだけ言って、シグベルは踵を返した。銀髪が風に揺れ、神官の衣が翻る。その背中はあくまで穏やかで、今の言葉が脅しだったのか忠告だったのか、判別させない静けさを纏っていた。
ロゼリアは墓地に一人残された。
灰色の空。風に削られた墓石。鉄杭と鎖に繋がれた墓。名前も知らない死者たちの眠る――あるいは眠れずにいる者たちの土の上に、白い婚礼衣装が揺れている。
検死では何も見つからなかった。何かを見つけようと動いたのは自分だけ。この都市で、領主の死に疑問を持ったのも、自分だけだった。
それが何を意味するのか、今はまだわからない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
ここで終わるつもりはない。
風が吹く。罪人都市の乾いた風が、花嫁衣装を攫うように、冷たく通り抜けていった。
本日より連載開始です。完結まで一カ月弱、毎日更新します。異世界ラブサスペンス、楽しんでいただけたら嬉しいです。




