《五章 運命ノ歯車ハ》
それは忘却の女、ルナが孤児院で働き始めてから三日後の夜のことだった。
「今日の夜ご飯は何にしようかな」
アデルディアさんはどこか行くところがあるらしいし、外食に行くのもありかもしれない。
そんなことを考えながら、私はいつも通り仕事を終えて家に向かっていた。
あの日、私の目の前で子供の怪我が治ったことについて、家に帰ってからアデルディアさんに何度も聞かれた。あれは私がやったのかとか、なぜできると思ったのかとか、いろいろな事を聞かれたが、私自身も何も分からないため答えられなかった。
でも、あの時私は子供の血を止められると確信していたことだけは覚えているの。あんな力を使った記憶はないはずなのに、まるで体に染み付いていたかのようだった。
「あれ、前に人が立っている。え、後ろからも?」
ふと路地裏を通っていると、謎の男達に二人に両端を塞がれてしまっていた。
「あの、そこを通してくれませんか?」
問いかけに反応はない。
「すみません、通りますよ?」
「────キャ!?」
男は横をすり抜けようとした私の右腕をいきなり掴んできた。
「離してください!!」
振りほどこうと力を入れるがびくともしない。必死で抵抗しても、男はまったく動揺しなかった。それどころか、私の左手を壁に押し付ける。
「ちょっと離してって!!でないと助けを」
叫ぼうとした私の口元をもう一人の男が押さえた。叫ぶどころか呼吸すらも危うい状況で必死に抵抗するが、何も改善してくれない。
(誰か、助けて!!)
絶望的な状況で、私は心の中で最後の助けを呼んだ。
誰も来るはずがない、そうあきらめかけたその時────奇跡は起きた。
「────寄ってたかって弱い者いじめ?ダサいことしてんじゃないよ、お兄さん達」
闇夜に現れたのは一人の女だった。
闇夜の薄暗い光すらも取り込む黒いロングドレス。スカートには切れ込みが入っており、動きやすさとデザイン性が両立していた。
「邪魔をするなら殺すぞ?」
「殺すですって?この私に向かってそんな馬鹿な事を言う人がまだいたのね」
作戦に邪魔が入ったことを悟り、男が女を脅したが、何の意味もなかった。それどころか、自身に向けられた敵意をものともせず、むしろ脅し返しさえしたのだった。
「女に何ができるってんだ?それにこっちは二人、人数差もある」
「────へぇ。で、その相方はもう倒れてるけどどうするの?」
全ては女の手の上だった。ルナを取り押さえていた男が一人、女の足元にのされている。そして、女は残った一人の背後で囁いたのだ。
「な、何を!?いったいどうやって!?」
「力は無闇に見せるものじゃないの。ここぞという時まで取っておかないとね」
女は片手を振りかぶると、男の首めがけて手刀を叩き落とした。うめき声とともに、残った一人も地面に倒れ込み、その場にはルナと女だけが立っていた。
「さて、これでもう大丈夫よ。遅れてごめんなさい、怪我はないかしら?」
「えぇ、助けていただいたおかげで殆どありません。でも、少しだけ手を切ってしまって」
助けようと差し出された女の手を掴んだルナだったが、男に襲われたときに壁に擦ったせいでルナの手からは血が流れていた。
「……血が出ているわよ。しっかりと、縛って、おきなさい」
女の呼吸は少し乱れていた。
「だ、大丈夫ですか?何か怪我でも」
「いえ、平気よ。少し動き、すぎただけだから。もういいから早く帰りなさい」
慌てるルナを前にして、女は離れるようにと急かしてくる。
「でも、まだお礼だって」
それでも食いつこうとするルナに何度も首を横に振る女。
「そんなのはいいわよ。ただし、夜には気をつけるようにしなさい。貴方はきっと狙われるだろうから」
「は、はい?」
女の最後の言葉が何だったのかを問い詰めたかったルナだが、女に熱心にせがまれるのて諦めてその場を後にするのだった。
ルナが去った後、女は背中を壁にもたれかかり、夜空を見上げながら小さく呟いた。
「彼女の血、あれは危険ね。匂いだけでもこんな風になっちゃうのだから」
女の口元からは、長く伸びた二本の犬歯が顔をのぞかせていた。
「ハァ、ハァ。流石に限界が近いわね。ちょっとだけ吸わせてくれないかしら……いやだめよ。そんなことしたら殺してしまう」
抗えぬ欲求を何とか抑え、鎮めることだけに意識を向けるが、今なお滞留しているルナの血の香りが女を昂ぶらせる。しかし、理性を上書きすることはなく、何度かの深呼吸ののちに高まった感情は収まったのだった。
名前も顔も知らない関係ではあったが、それでも女はルナを助けた。そして、彼女の煌めきに焼かれてしまっていた。
人を惹きつける才能は、今なおルナに健在であった。
「でも、やっぱり気になるわね。また今度会ってみようかしら」
ルナと女が再度出会うのは、そう遠くない未来の話であった。
すでに運命の歯車は廻り始めていた。ルナという小さな歯車が噛み合ったことにより、こと帝国においても、決して小さくない事態を引き起こしていくのだった。
***
意図せずルナを危険に晒したアデルであったが、そんな事態を知る由もない。彼は一人、薄暗いバーを訪れていた。年季の入った店のカウンターにはまばらに人がおり、一人の時間を楽しむ人もいれば、男女の仲を深めているものもいる。そんな場所にアデルが来たのは、とある目的があってのことだった。
アデルはカウンターに近づき、白髪と整った髭が似合うマスターに金貨を一つ差し出す。
すると、グラスの水滴を拭いていたマスターは、カウンターの上の金貨をそっと受け取った。
「注文はいかがなさいますか?」
「ここ最近の噂に関して面白いものはないか?」
「注文は以上でしょうか?」
「それと、国境で行われている十字架が吸血鬼対策か教えてほしい」
見知らぬ土地で、見知らぬ人から情報を集めるというのは難しい。それでも、必ず国の内情に詳しい者はいるのだ。例えば、帝都で長く店を構えており、そして裏に関わる機会の多そうな仕事に携わる人物。
世の中の金持ちが費やす先は大抵女か酒が全て。まして、情報通の商人であればいい店を知っている。だから俺は売れてそうな商人を探してここの情報を手に入れた。
どうやらこの店はある程度上級階級の人間が訪れることの多い店らしい。ここであれば、望む情報が得られるだろうとの算段があって来たのだ。
「王国の人間、ですか」
「分かるんだな。だがそんなことはいい。何故ここまで大規模に吸血鬼を探している?街中でも暗部の連中を見かけたが」
「ここからは更にリスクが上がるため……」
俺は無言で追加の金貨をカウンターに置いた。
「わかりました。どうやら国の連中は”ウェルバ”という吸血鬼の組織を追っているようです」
「どんな奴らだ?」
「そこまでは分かりません。ですが、ここ最近帝都では行方不明者が相次いでいます。その周囲の関係を追っているのではないでしょうか?」
「いい情報だ」
「他にも情報はあるのですが、これ以上は国防に関わるものが多く……」
「それはいい。別口で探すさ。ここまでの情報、感謝する」
「それが仕事でございます」
マスターはそういうと、酒の注がれたグラスを俺の前に静かに差し出した。
「これは?」
「私からのサービスでございます」
夜はまだ長い。だが、アデルの使命は更に長く、終わりのないものであった。
ルナを守る、それをできるのは、しなければならないのは自分だけだという認識が少しずつ心を蝕んでいた。それは本来捨てたもの、しかし『ルナ』が与えてくれたもの。取り戻した心はときに限界を超えた力を引き出す一方で、限界を超えてなお活動をさせてしまうのだ。
だからルナを一人にした、してしまった。普段ならばあり得ない致命的な油断、綻びが暗躍する者からルナを守りきれない事態を引き起こしかけたことを、アデルはまだ知らない。
そしてアデルは、自分自身が限界をとうに迎えていることも、まだ知らない。
『アデルのミス』
アデルのミスはルナを自由にしようとしていることです。結局、ルナは『ルナ』なので色々な騒動に巻き込まれます。『ルナ』であれば対処できましたが、ルナにはその力がありません。
アデルはまだルナを狙う者に気づいておらず、帝国についての情報を集めようとしていたため、今回のような事態が起こりました。
アデルはまだルナにどうやって接するべきか分かっておらず、『ルナ』が消えたことを受け止めきれてもいないため、ストレスがすごいです。自分のミスがルナにまで被害を与えると自覚しているため、より神経を擦り減らしているのも、限界を超えている原因です。




