06月24日 晴
これから綴る日記を、私以外の人が読んだなら、バカな人間のふざけた妄想だと笑うだろう。
それでいい。誰がどう思おうと構わない。
この小さな奇跡は私にとっては真実なのだから。
☆ ★ ☆
震えは身体全体に広がっていた。
呼吸が荒くなるのを感じる。
緊張している。喉の奥が痺れる程に乾いている。
サクラからのメール。でも、サクラはもう……。
悪戯かも知れない。誰が何の為に?
夢が続いているのかも知れない。こんなにはっきりしているのに?
ぐるぐると思考が渦を巻く。
答えを得るのは簡単だ。メールを開けばいい。ボタンを一つ押せばいい。指先をホンのちょっと動かすだけだ。
それができない。勇気が出ない。
心がありえない何かを期待している。
私は携帯を手にしたままの状態で凍り付いていた。壁掛け時計の秒針が急き立てるように冷たい音を刻む。
目を閉じ、胸に手を置いた。飛び出しそうな心臓を押さえる。
希望なんていらない。私の人生にはもう必要ない。
どうせ、誰かの悪戯か間違いに決まっている。
大きく息を吐いた。温度が逃げていく。冷え切った心が戻ってきた。
もう大丈夫。今以上の絶望はない。
メールを開いた。
意味が解らなかった。だから、もう一度読んだ。
考えるよりも先に身体が動いていた。
跳ねるように立ち上がり、パジャマを脱ぎ捨てた。
ハンガーに掛けたシャツと制服に袖を通す。
デスク上の教科書を鞄に詰め込み、打ち破るようにドアを開け、階段を駆け下りる。
「お姉ちゃん、どうしたの」
夢の世界から抜けきってないモミジの声を、
「先に行くから」
振り払い玄関に滑り込んだ。
「カエデ、どうしたのよ。そんなに慌てて」
「行って来る」
スニーカーに足を入れながら、ママに答える。
「こんな時間から? ちょっと、朝ゴハンどうするの?」
「今日はいらない」
最低限だけを残して、家を飛び出した。
時間を確認した。まだ七時。学校まで徒歩で約二十分。朝のホームルームが八時三十五分からだから、かなり早い。
それでも走った。一分一秒でも早く。心が跳ねる。
ありえない。待っているのは絶望と落胆だけなのに。
そんな考えを意識の隅に押し込み、ひたすらに足を動かした。
三分と掛からなかった。
小さなコンビニ。ここは学校と私の家、そしてサクラの家の中間になる。
店の駐車場脇に立つ電柱に背を預けて、大きく乱れた呼吸と鼓動を整える。
流石にこの時間は人が少ないが、こういう所を見られるのは恥ずかしい。
ポケットから携帯を取り出す。白とピンクを基調としたボディ。サクラのとは色違いだ。
メールを確認する。内容はシンプルだった。
【待ってて。信じて】
どこで待つのか。何を信じるのか。全く記されていない。
でも、サクラからのメール。それだけで信じるには十分だった。
サクラとは待ち合わせして学校に向かう約束だった。その場所がここ。
ここで待っていれば、きっと……。
きっと、どうだというのだろう。サクラが再び私の前に現われる?
ありえない。サクラはもう居ない。それが現実であり絶対だ。
なのに、私はここでこうしている。
訝しげな視線を向けながら、スーツのおじさんが歩いていく。
コンビニのアルバイトが店の中から、ちらちらと様子を窺っている。
みんな、私をバカだと思ってるに違いない。
きゅっと下唇を噛んだ。
人が増えてきた。その殆どは私と同じ緑を基調にしたブレザー姿。
通学路から少し離れているが、それでも多い。
時折、物珍しげな視線を投げつつ、私のすぐ前を過ぎていく。
恥ずかしい。目を伏せたままやり過す。
時間はもうすぐ八時。絶望に押しつぶされそう。
心の中でメールを反芻する。
【待ってて。信じて】
私はサクラを信じてる。だから待ってる。
少し元気が戻った。
サクラは約束を破った事はない。
八時二十分を過ぎた。
ここから学校まで、走れば五分で滑り込める。
まだ時間はある。もし、あと十分待って……何も無かったら。
ならもっと待つだけだ。日が暮れたら、明日もここで待てばいい。
明日がダメなら、あさって。ずっとずっと待てばいい。
三ヶ月。私は我慢した。今さら、どうって事ない。
でも、待っても待っても、何も無かったら。私の心が現実を認めてしまったら。
漠然とした恐怖を感じる。私はどうなってしまうのだろう。
不意の電子音が思考を遮った。聞きなれた曲。私の携帯だ。
【非通知】の文字がディスプレイに浮かんでいた。
サクラかも知れない。一瞬、本気でそう思った。
「も、もしもし……」
消え入りそうな声で相手の反応を待つ。受話器の向こうに耳を澄ます。
自分の心臓の音だけが嫌に大きく聞こえる。濃度の高い沈黙が、ひたすら続く錯覚を覚えた。
「……………………」
電話が遠い。聞き取れない。
「サ……」
サクラなの? 言葉が出ない。微かに開いた唇が震えるだけだ。
判ってる。だってサクラはもう居ないのだから!
「……デ? ……る?」
微かに声が形を持ち出した。はっきりとはしてないが、おぼろげに耳に届く。
少しハスキーな声は、私の願望が聞かせている幻聴だろうか?
「……エデ? ……える?」
心拍数が上がる。ありえない。
その声。忘れられない。いや、ずっと聞きたかった声。
「サクラ?」
息を漏らした程度の声しか出なかった。
「カエデ? 聞こえる?」
聞き間違いではない。小さいがハッキリと聞こえた!
「サクラ……なの?」
ありえない答えを願った。生まれて初めて神様に心から祈った。
もう少しでいい。勘違いでも構わない。もう少しだけ、サクラと話させてください!
「うん。三ヶ月ぶり……だね」
涙が溢れた。いつもの冷たい物とは違う。心が溶けるような熱のある涙。
「ずっとずっと待ってたんだよ」
「ごめん。違うの。目覚ましが壊れてて」
朝が弱いサクラのいつもの言い訳だ。目覚ましが壊れてたとか、鳴らなかったとか。
その度に私は意地悪気に頬を膨らまして、顔を背けるのだ。
「もう」
「ごめん。今度は絶対遅れないから。ね、機嫌直して」
サクラが下から上目使いで、両手を合わせる。その仕草が可愛くて、つい微笑んで許してしまう。
三ヶ月前まで至極普通だったイメージが、熱くなった目蓋の裏に浮かぶ。
「今度、遅刻したら許さないからね」
いつも通りの台詞は、震えて、途切れて、声にならなかったと思う。嗚咽を堪えるのが、涙を拭くのが精一杯だった。
「良かった。やっと微笑んでくれた」
あまりに小さく儚かった。
周りの人には、ただ泣いているだけに見えただろう。
でも、私は三ヶ月ぶりに微笑んだ。
今の私にできる精一杯だった。




