06月23日 晴
今日から日記をつける事にした。
正確に言えば、この日記帳を買ったのが24日の放課後だから、昨日の日記を書いている。
その日の出来事を記すのが日記だとするなら、いきなりのルール違反だ。
でも、昨日の夜が始まりだった。この夜から私の時計は動き出したのだから。
☆ ★ ☆
大皿の水を拭き取り、食器棚に戻した。
これで今日の片付けは終了だ。
エプロンを外しながら、冷蔵庫にマグネットで張られた当番表を確認する。
私の家では家事は交代で担当する事になっている。
明日は夕食の支度が私で、片付けは妹のモミジ。ゴミ出しがパパで、ママは当番なし。
「カエデ、お疲れ様」
ママの声に振り返った。
少し下がった目尻の柔らかい印象。
スキンケアを趣味としてるだけあって、張りのある肌がその外見を年齢より遥かに若く見せている。腰まで伸びた髪は、私より艶ややかな黒。
「どう? たまにはママと映画でも見ない?」
レンタルビデオで借りてきたと思われるDVDのケースを振ってみせる。タイトルは知っている。高校野球をテーマにしたコメディ映画。確か漫画が原作だったと思う。
「いい。勉強しないといけないから」
「まじめなんだから、たまには生き抜きも……」
「別に見たくないし。先にお風呂入るね」
「そう、仕方ないわね。一人で見るわ」
残念そうに溜息を溢すママの横を擦り抜ける。
私の部屋は二階にある。着替えを取る為に、階段に足を掛けた所で、
「あ、お姉ちゃん、お姉ちゃん」
今度はモミジに止められた。
妹のモミジは中学一年。大きな瞳がくっきりした眉の下で輝いている。控えめな鼻にふっくらした輪郭。少し長めになった髪は、カチューシャで留められていた。
私はママに、妹はパパに似ている。
さっきまで隣の居間でテレビを見てたのに、なんの用だろう。
「あのねあのね。私ね私ね。今週の日曜に駅前のショッピングモールに行こうと思ってるの」
私の家がある藤見野市は、典型的な新興ベッドタウン。田舎然とした部分が急速に都会化しつつある。
先月中頃にできた駅前のショッピングモールはその象徴とも言える。オープン時にはかなりの混雑だったらしい。約一月が経ち、人が減ってきたくらいで足を運ぶ。モミジらしい選択だ。
「お姉ちゃんも一緒に行かない? すっごいすっごい美味しいクレープ屋さんがあるんだって」
「いい。忙しいから」
一言で切り捨てて階段を上る。
後ろで顔を見合わせて溜息を溢す二人が想像できた。
サクラが死んでから塞ぎ込んでいる私に、気を遣ってくれているのは解ってる。それに答えられない自分が腹立たしいし、悪いとも思う。
でも、どうする事もできない。
私にとって、サクラはすべてだった。
サクラの居ない世界は、私にとって何の意味もない。
いっそ、死んでしまおうとも思ったが、ママや妹を悲しませたくは無かった。
いや、違う。自分の命を絶つ程の勇気がなかっただけだ。
それに、自殺した人間は地獄に落ちると言う。それが本当なら、天国のサクラと二度と会えなくなる。宗教を信じる訳ではないが、くだらない迷信でも私はそれが怖かった。
濡れた髪をバスタオルで拭きながら自室に向かう。
途中、居間から聞こえてくるママとモミジの笑い声が遠い世界のように思える。
ちょっと前まで、私もあそこで笑っていたハズなのに。今は自分の存在すら曖昧になってきている。
自室に入ると大きく息を吐いた。
私の部屋は四畳半のフローリング。
部屋にはクローゼットが一つに、本棚が二つ。小学生から使っているデスクにベッド。あちこちに置かれた小さなヌイグルミは、サクラとゲームセンターで取った戦利品。
デスクに座り、通学用のバッグから教科書と参考書を取り出す。
数学に世界史、英語と古文。
とりあえずは数学から。ノートをめくりながら今日の内容を反芻し、明日の授業範囲に目を通す。
予習復習なんて言えば聞こえは良いが、記号の羅列を頭に入れていくだけだ。
今の私にとって、テストや成績なんて意味はないが、こうして無駄に脳を使っている時間は、何も考えなくて済む。
ひたすらノートにシャーペンを走らせる。
中学校の頃、私は勉強が嫌いじゃなかった。定期テストが近づくと、切羽詰ったサクラが教科書とノートを手に押しかけて来たものだ。
私が唯一サクラに恩返しできるのは、その時だけだった。
だから私は勉強が好きだった。サクラの為に、どんな質問にも答えられるようになりたかった。
小さな乾いた音で我に返る。折れた芯がノートの上を転がっていた。
時計を見る。日付が変わろうとしていた。
古文のノートを畳み、軽く伸びを一つ。今日はこれくらいにしよう。
ベッドに身体を投げ出し、タオルケットに包まって目をつむる。
やっと終わる。形骸化した日をなんとか消化した。
あとどのくらい過ごせば私の人生は終わるのだろう。あとどのくらい待てばサクラに会えるのだろう。
意識が闇に溶けていく。このまま目が覚めなければいいのに……。
笑っていた。太陽のように明るい澄んだ表情。
「いつまで暗い顔してるのさ。あたしは優しく微笑んでるカエデが好きだな」
サクラはいつもの笑顔だった。
無理。サクラの居ない世界は、私にはつらすぎる。笑うなんてできない。
「やっぱり私がカエデを苦しめてるのかな。ごめん」
サクラの表情が曇った。その瞳に涙が浮かぶ。
違う。サクラのせいじゃない。私が悪いの。私が勝手に落ち込んでるだけなの。
懸命に訴えるが、サクラの表情は沈んだまま。
違うのサクラ!
自分の声で目が覚めた。泣いていた。
夢。
そう。サクラはもうどこにも居ない。さっきのサクラは私の脳が見せた虚像に過ぎない。
でも。でも今の私を見たら。サクラは。
溢れた涙が頬を伝い枕に落ちる。
そんな自分が……悔しくて、悲しくて、情けなくて。
「サクラ、つらいよ。苦しいよ」
なのに、泣き言を漏らすしかできなくて。
不意に小さな電子音に顔を上げる。枕元に置いた携帯がメールの着信を告げていた。
反射的に手に取り、頭が真っ白になった。
ありえない。指先が震える。
ディスプレイに浮かんでいる送信元の名前は【弥生 桜】だった。




