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第四話 盾影の射線

 二本目をつがえる間に、矢が肩をかすめた獣が距離を半分に詰めた。


 レノルは下がらなかった。そこまで下がれば岩が肩を隠す。同時に、目の前の獣も隠す。


 獣の長い尾が山側へ曲がった。一直線に来るのではない。岩棚の上を横へ走り、レノルの下流側へ回ろうとしている。


 矢を肩の後ろへ向けた。正面からなら幅広い胸が鏃を受ける。横へ走る一歩で、前足と後ろ足の間が開く。


 弦を放した。


 獣の身体が岩棚の上で傾いた。幅広の矢は肩の後ろから入り、灰褐色の毛の間で矢柄を震わせた。深さは足も声も止めるほどではない。それでも右の前足が岩の縁から外れ、掛け趾が一度空を掴んだ。


 長い尾が反対へ振られ、獣は身体を戻した。そのまま止まらず、低く唸って岩棚を蹴る。


 下から登ってきたもう一頭が、レノルの左側へ出た。


 三本目を抜く。矢をつがえた時には、二頭の身体が上下の岩棚で一度重なっていた。傷ついた一頭は下流側へ。新しく登った一頭は、その後ろからレノルへ真っ直ぐ来る。


 真っ直ぐな獣の胸が開いた。


 レノルは引いた。


 その獣が、岩棚の縁を一段下りた。


 鏃は胸の毛の上を抜け、後ろの石に当たった。硬い音がし、矢柄が中ほどから折れて跳ねた。


 獣は止まらない。下りた棚を蹴り、石段へ戻ってくる。


 レノルは二歩下がり、肩を隠す岩の陰へ入った。盆地側へ下る道には、傷ついた獣が回りつつある。そちらへは下らず、左手の長弓を縦にして岩の間へ身体をねじ込んだ。背負い具が擦れ、肩紐が引かれる。抜けた先の石段を流れ跡の方へ横切りながら、右手を腰の革袋へ入れた。


 指に触れた種莢を一つ掴んだ。


 追う獣の幅広い胸は、岩の間を通らなかった。下の棚へ身体を振り、岩の張り出しを回ってくる。尾の先が見えなくなるまでに、レノルは種莢を握ったまま、さらに石段を二つ越えた。


 通ってきた石段の縁に、夜の湿りを残す黒い土があった。獣が回り込んでくる岩より、レノルの側にある。ここからなら、土も、その向こうの岩の端も見えた。


 種莢の合わせ目へ爪を掛け、指先でひねって縦に割る。熟した種も殻も、右の掌に残したまま、黒い土へ手の内側を向けた。


 弓は下がっている。矢はつがえていない。


 一息。黒土から目を離さず、レノルは石段を退きながら短い呪句を唱える。岩の向こうを回る爪音が近づいてきた。


 二息。熟するまで茂り、枝を重ね、垣を越えて入るものへ棘を向けてきた茂みの働きを、その一点へ渡す。岩の端から灰褐色の頭が出た。


 呪句を結ぶと、掌の種から色と青い匂いが失せた。同時に、離れた黒土の下を根が走った。


 獣が石段を駆け上がる。レノルはもう一段退いた。次の息には、黒い枝がレノルの脛ほどの高さまで吹き上がった。


 石段へ掛かった獣の前足に、茂みが横から絡みついた。棘が短い毛を割り、三本の趾の間へ入る。獣は高い腰を跳ね上げたが、次の前足を出せなかった。


 茂みは成り立った。


 その間、傷ついた獣は止まらなかった。


 レノルが弓を下ろし、離れた土へ術を結んでいた間に、岩棚の外側を走っていた。長い尾の先が下流側の岩の陰へ消える。レノルと盆地側の斜面の間に回り込んだ。


 茂みに捕らえた獣の肩が一度下がった。後ろ足が岩を蹴り、根が湿った土を盛り上げる。長くは保たない。


 その向こうに、旧道の下の戦いが一瞬だけ見えた。


 一頭が大盾の正面へ胸から当たっている。男の踵が大石の間でずれ、盾の上端がレノルから見て右へ傾いた。もう一頭は岩棚から低く身を落とし、大盾の下縁へ掛け趾をかけていた。


 盾の下から、革の裂ける音がした。


 大盾の男は、正面の一頭を押し返そうとしなかった。右手の槍が盾の陰から下り、横の獣の前足へ浅い鉤を掛けた。


 男の右肩が後ろへ引かれる。獣の足が盾の縁から外れた。


 次に槍の主穂が見えた時には、下向きに短く打ち込まれていた。


 男と獣の間に、盾がまた立った。レノルの位置からは、槍がどこへ入ったかも、男の下半身がどう動いたかも見えなくなった。


 距離だけなら、今は男にも茨の守りを送れる。だが、その術は呪句を終えるまで相手を見分け続けなければならない。盾と岩壁の向こうへ消えた男を、レノルは術の対象にできなかった。


 それ以上見ている時間はなかった。


 茂みの根が土から半分抜けている。傷ついた獣は下流側の退き道にいる。


 レノルは長弓を左手に持ったまま、一息を長く吐き、一定の調子で足を踏み出した。


「駆ける足よ、我が足に重なれ」


 最初の一歩では、速さは変わらない。二歩目で、一対の足輪に編まれた腱が左右の足首へ張る。三歩目の着地に呪句の終わりを重ねると、脚だけではなく、腰と息が前へ送られた。


 岩段を下る。


 一歩ごとにレノルの身体は速くなり、岩壁と大石の間を抜けた。いつもの走り方より、足裏が地へ留まる時間が短い。長弓の上端が岩へ当たらないよう、弓を身体の外へ傾ける。


 前の岩陰から、傷ついた獣が出た。


 赤く濡れた矢柄が肩の後ろで揺れている。獣は岩棚から下り、レノルの行く先の涸れた流れ跡へ入った。


 このまま走れば、流れ跡の中へ追い込まれる。丸い石が重なる場所では、足輪の速さを使い切れない。


 下端の土まで、まだいくつかの岩がある。


 レノルは歩幅を詰めて、走る調子を崩した。突然、自分の腿が重くなったように感じた。速さを殺し、丸い石へ片足ずつ下ろす。


 獣の爪は滑らなかった。前足の三本の趾が石を捉え、外へ開いた掛け趾が丸い縁の下へ入る。石の数が多いほど、掛ける場所も多い。


 下端の草が、獣の向こうに見えた。あそこまで通せば、下り口を塞がれる。草の際から石の隙間にも土が続いていると見て、レノルは二つ目の種莢を抜いた。


 指で縦に割り、種と殻を掌へ残す。傷ついた獣が通る数歩先の、白い石の隙間へ右手の内側を向けた。


 一息。石の隙間の一点を見据え、短い呪句を唱える。


 二息。種の働きを送っても、根の入る土がない。石の下へ何も渡っていかない。


 最後の音まで唱えた。手の中の種莢は色と匂いを失い、乾いた粉になった。


 茂みは生えなかった。粉だけが指の間から白い石へ落ちた。


 長弓を引く幅はない。レノルは弓を縦に戻し、石の流れ跡を下った。


 前には傷ついた獣。後ろからは、茂みを破った音が近づいてくる。


 流れ跡の下端で、何か重いものが岩へ当たった。


 大盾だった。


 岩壁の切れ目の向こうから、最初に盾の上端が現れた。下側の面に土と血が付き、下縁の革が長く垂れている。盾の後ろから、大盾の男が左脚を引きずるように出てきた。


 その外腿の布が、血で黒く濡れていた。


 男を追って、短い通り道の奥で爪が鳴った。


 男はその一頭へ盾を向けたまま、流れ跡へ後ずさりしてきた。盾の幅が通り道を塞ぎ、獣は横へ出られない。男の背の向こうには、盆地へ下る斜面が見えていた。


 傷ついた獣がレノルの前で向きを変えた。


 人間が一人増えても、止まりはしなかった。頭を低くし、大盾の男が出てきた流れ跡の下端へ走る。


 男は岩壁の切れ目まで下がると、大盾の左縁を岩へ当て、右の縁を流れ跡へ張り出させた。通り道から追う一頭も、流れ跡を下る一頭も、盾の表側へ寄る。


 傷ついた獣の肩が、張り出した盾の右半分へぶつかった。男は右足を岩の根元へ据え、盾を押し返す。獣の頭が岩壁側へ滑り、前半身が盾と岩の間へ斜めに押し込まれた。


 長い尾が高く打ち付けられ、石粉が舞った。獣は頭を引こうとしたが、盾の縁が顎の下へ食い込む。通り道の一頭は、その身体に塞がれて前へ出られない。


 男が身体を岩壁側へ寄せた。盾の盆地側の縁と、流れ跡の丸石の間に、人の身体ひとつが通る隙間が残った。


 男はレノルの顔を見ず、隙間へあごを振った。


 レノルは迷わなかった。


 長弓を肩の後ろへ傾け、丸石の際をすり抜けた。盾の盆地側の縁を回り、その裏へ身体を入れる。板が軋み、男の左腕が押し戻された。レノルは男の背へぶつかりそうになりながら、土の上へ抜けた。短い通り道からの爪音は、盾の向こうに残った。


 向こう側には、長弓を立て、弦を十分に引ける幅があった。


 そのまま下れば、旧道を外れて盆地側の斜面へ出られる。大盾の男はそのために隙間を開けた。


 レノルは走らなかった。


 二歩だけ進み、踵を土へ沈めた。振り返り、男の身体が重ならない盆地側へ片足を開く。四本目の幅広の矢を抜いた。


 盾の縁から、獣の左肩の後ろがはみ出していた。頭は岩壁へ押さえられ、腰はまだ流れ跡にある。レノルの立つ斜め下からは、肩の後ろに刺さった矢が、呼吸のたびに上下するのが見えた。


 同じ肩の後ろへ、四本目を放した。


 鏃が入る。獣の前足がたわみ、大盾の表で爪が滑った。


 レノルはあごを引いた。指はすでに次の矢を抜いている。


 五本目をつがえる。


 獣の頭が動き、盾の縁から口が出た。低い喉鳴りが、息を吐く音へ変わる。後ろ足が石を蹴ったが、高い腰は身体を前へ運べなかった。


 五本目を四本目のすぐ後ろへ射ち込んだ。


 獣の胸が一度盾へ当たった。


 それが最後だった。


 三本の矢を身体に残したまま、獣は盾の横へ崩れた。腰が石の流れ跡に落ち、長い尾がレノルの靴の前まで伸びた。


 短い通り道の奥で、別の喉鳴りがした。


 男は倒れた獣から盾を外し、通り道の出口へ向け直した。奥にいた一頭が死骸を越え、盾の盆地側へ頭を出す。そのさらに上で、茂みを破った一頭の爪音も近づいていた。


 二頭が、また一つの鳴き声で互いの位置を知った。


 レノルは矢袋の口で指を横へ滑らせた。手に取ったのは、幅広の鏃ではない。細身で、硬い対象に当たっても折れにくく作った矢だった。


 大盾の男が盾を上げ、その縁を獣の頭へ向ける。レノルは男の盆地側で弓を引いた。盾の縁の外に、獣の肩が見えていた。


 短い通り道から出る一頭へ、六本目を放した。


 獣が首を振った。細い鏃が肩の表を浅く切り、向こうの土へ落ちた。


 新しい血が毛の上へ一筋走った。


 獣は飛び掛からなかった。尾を水平に伸ばしたまま、大盾とレノルと、石の上に倒れた一頭を見た。


 上の岩棚へ出てきたもう一頭も、下りる足を止めた。


 短い通り道の向こうの旧道には、槍で倒された一頭が横たわっている。レノルの前にも、三本の矢を受けた一頭がいる。


 低い喉鳴りが、一声ずつ交わされた。


 肩を切られた獣が、後ろへ一歩下がった。


 大盾の男は進まなかった。槍先を盾の横に残し、レノルと並ぶ。


 もう一頭も下がった。二頭の尾がほぼ同じ時に向きを変え、一頭は上の岩棚へ、一頭は旧道の曲がりへ退いていく。


 二人とも追わなかった。


 レノルは七本目を抜かなかったが、右手を矢袋の口から離さず、長弓も立てたままにした。大盾の男も槍の穂を下げない。


 灰褐色の背は、曲がりと岩棚の陰に一度ずつ現れた。尾が見え、頭が見え、また尾だけになる。やがて二頭分の爪音は、朝の山の音の中へ消えた。


 レノルはすぐに弓を下ろさなかった。退いていく長い尾が本当に二つだけかを見る。上へ退いた一頭の足下から小石が落ち、道へ届くまでの間に、新しい喉鳴りはしなかった。


 曲がりまで下がった一頭は、一度だけ低い姿勢で立ち止まった。外側へ開いた前足の趾の上に、肩の傷から流れた血が残っている。その後ろには誰もいない。獣は頭を回し、先に退いた一頭の匂いを追って曲がりの向こうへ消えた。


 それでも二人は、さらに息を数える間、背中を見せなかった。


 風が戻った。


 旧道の下で低木が鳴り、遠い盆地で川が光っている。群れの喉鳴りが止むと、レノルの息の音と、大盾の男の粗い呼吸が近くなった。


 男が大盾の下端を土へ降ろした。


 その時、左足が一度沈んだ。


 レノルは弓を下ろした。


「脚を見せてくれ」


 男は旧道の曲がりをもう一度見た。返ってくる影がないことを確かめてから、盾の内側へ身体を寄せた。


「浅い傷だ。血を止めれば歩ける」


 左の外腿の布に、上下へ開いた二つの穴があった。男が布を上げると、歯が擦った傷が腿の外側を走っている。肉は深く開いていない。それでも血は膝の上まで流れていた。


 レノルは持っていた水で土と毛を流し、折った布を傷へ押し付けた。


「このまま押さえていてくれ。あとは傷が閉じるのを助ける」


 男は布の上へ自分の掌を置いた。


「ああ、頼む」


 レノルは湧水の際で採られた薬草の陰干し葉を出した。二つに折り、中央の葉脈を親指の腹で揉み崩すと、乾いた青い匂いがした。


 薬草を傷へ当てず、レノルは男を見た。葉を握った右手の内側を向け、目を離さずに唱える。


「葉を戻す力よ、傷ついた身を助けよ」


 葉を戻す草の働きを、男の身体が血を止め、裂けた場所を塞ごうとする働きへ重ねた。


 呪句を結ぶと、陰干し葉は掌の中で青い匂いまで失い、細かな屑になった。術はレノルの手ではなく、男の身体へ結びついている。


 傷は開いたまま、布の下で血をにじませていた。


 男が布を押さえている間、レノルは傷と旧道を交互に見た。岩の陰にあった日が流れ跡の下まで届き、茂みの影が短くなる。男の呼吸も、少しずつ落ち着いていった。


 日向が流れ跡の丸石一つ分だけ広がった頃、男は布を少し上げた。血のにじみは、押さえ始めた時より小さくなっている。


 それでも、男が立ち上がると、左足は右より遅れた。


 レノルは交換するための布を二枚渡した。男はそれを腰の袋へ入れ、今当てた布の上から革紐を巻いた。


 次に、二人は大盾を見た。


 下縁の革包みは中ほどまで裂け、垂れた縁から木が見えていた。下側の板が合うところに細い割れが入り、表から押すとわずかに開く。裏側では、横に渡された留め木の結びが一か所緩んでいた。


 腕を通す革帯はどちらも残っていた。


 男は腿の傷をかばいながら盾を倒し、裏の留め木を元の位置へ押した。レノルが盾の縁を支える。男は携えていた革紐を割れの下へ回し、表と裏を強く結んだ。


 この紐で、持ち帰る間は板が外れずに済む。裂けた革を張り直し、割れた板を補う仕事は、道具のある場所へ戻ってからになる。男が盾を立てると、下の板は外れず、腕の帯も重さを受けた。


 二人はそれから矢を探した。


 レノルが倒した獣からは、最初に肩の後ろへ入った一本と、盾の後ろから射ち込んだ二本を抜いた。鏃に大きな欠けはなく、矢柄も転がした時に曲がりを見せない。血を拭い、別布でまとめた。


 細身の矢は土の上にあった。鏃の片側に毛と血が薄く残っていたが、再び使える。


 石に当たった一本は、折れた矢柄と鏃だけを拾った。最初の一本が消えた割れ目には、腕を差し込んでも指が届かない。


 四本を戻し、レノルの矢は十六本になった。


 日は頭の上近くへ上がっていた。


 二頭をそのまま道へ残せば、夕方には血の匂いが山の獣を呼ぶ。涸れた流れ跡の下端も、雨が降れば水の道に戻る。そこで腹を開けば、血や肉片を雨水がさらい、下の斜面へ汚れと匂いを広げてしまう。


 大盾の男は倒した一頭の後ろ足に革紐を掛けた。レノルはその一頭の前足を持つ。二人で旧道の山側へ引き、水の走る筋から外れた土の上へ移した。


 男は左脚を深く曲げない。その分、レノルが引く時間を長くした。一頭ずつ運び、終えるたびに呼吸を整えた。


 二頭を横たえた土は乾いていた。風は旧道から山側へ抜け、残す匂いを人の通る道と反対へ運んでいく。


 二人は水を飲み、朝に持ってきた食べ物を口に入れた。レノルは固いパンを半分に割り、一切れを立ったまま食べた。男は岩へ腰を下ろし、左脚を伸ばしたまま、自分の袋から干し肉を出した。傷へ巻いた布に新しい血が広がらないことを見てから、作業を始めた。


 朝食からまだ半日しか経っていない。それでも、二人の身体には、旧道へ登った分と、石の上を走った分と、四頭の力を受けた分の空腹があった。


 レノルは背負い具の定位置から刃物を抜いた。黒い背の下で、丸みを持つ研ぎ面が日の光を返した。


 倒れた二頭の毛は、生きていた時より濃く見えた。背の黒い筋と、腹の淡い毛の間に、日の色がまだらに残っている。肩から前足へ続く皮は厚く、掛け趾を使った時の斜めの力を、生きている間ずっと受けていた。


 槍で倒された個体の左肩には、大きな傷がなかった。


 レノルはその皮と、革紐で縛られた大盾を交互に見た。


 矢傷のない肩の皮を広げると、男の大盾の下半分を覆える幅があった。新しい革として使うなら、このまま持ち帰ればよいわけではない。残った肉を落とし、腐らせず、張りと柔らかさを残す仕事がある。それでも、割れた盾の縁に必要なものは、今ここにあった。


「こっちの肩の皮なら、盾の繕いに使える」


 男は自分が倒した獣の横に膝をついた。皮の縁に指を当て、前足までの幅を確かめる。


「盾を張り直したい。皮は俺が多く取ってもいいか。その分、脂と足裏と掛け爪はそっちへ多く回す」


「ああ。それで分けよう」


 レノルが倒した個体の皮には、矢が三本通った傷がある。広い革として取れても、使える場所は少ない。


 大盾の男は傷のない皮を肩から前足まで残し、二頭から取れる脂と、厚い足裏、外側の掛け爪をレノルの布へ多く置いた。レノルは掛け爪の数と足裏の大きさを揃え、脂の包みを少し大きくする。


 二人は互いの取り分を一度持ち上げた。


 盾の男は傷を庇う左脚に皮の重さが偏らないよう、背負い具の右へ寄せた。レノルは脂の包みを腰の近くへ下げ、爪を布の内側へ包み込んだ。


 硬貨は出さなかった。男の荷では肩の皮が大きく、レノルの荷では脂と足裏の包みが重い。地へ下ろしたどちらの荷も、片手で軽く扱える量ではなかった。


 肉は匂いが強く、そのまま運ぶには二頭分は重すぎた。二人は切り分けた後の残りを、さらに山側の窪みへ運んだ。旧道と涸れた流れ跡からは、低い土の盛り上がりが間に入る。


 レノルは土の上の血へ乾いた砂をかけた。刃物を拭い、使った布とは別の布へ包む。洗って乾かすまで、革鞘には戻さない。


 作業を終えた時、日は西側へ傾き始めていた。


 朝に青黒かった遠い山は、今は尾根ごとの色を分けていた。近い山裾には新しい葉の緑が残り、その奥の谷は深い青に沈む。さらに遠い山並みは、雲が空へ置いた影のようだった。


 足もとの石の際では、小さな花の茎が風に揺れていた。春の終わりの日差しが、汗の乾きかけた腕を温めている。


 盆地では川が長く光り、ラネダルの城壁の外を、下流へ流れていく。畑と道はここからでは色の違いにしか見えない。それでも人はあの中で水を分け、門をくぐり、夕の食事の支度を始めている。


 この旧道から見えない山の向こうにも、二頭が退いた道が続いていた。倒した二頭が群れの中でどんな位置にいたのか、残った二頭が今夜どこへ戻るのかを、レノルは知らない。


 大盾の男が荷を背負った。左足に重みを掛けた時、顔がわずかにこわばった。それでも踏み出した足は土を捉え、すぐに座り込むことはなかった。


 男は大盾を左腕へ通さず、背負い具の横へ結んだ。底の革紐を締め、割れが大きく開かないことを確かめる。


 レノルは十六本の矢が並ぶ矢袋の口を絞った。足輪に編まれた腱に切れはない。走った分の熱は腿の奥に残っていたが、歩く足に傷はなかった。


 男が旧道の山側へ向いた。


 レノルは盆地へ下る道へ向いた。


 二人の間で、名前は交わされなかった。次にどの道を選ぶかも、何日休むかも言わなかった。


 それでも、男の荷には盾を直す皮があった。レノルの荷には、男の盾が作った場所で倒した獣から取ったものがあった。


 先に歩き出したのは男だった。岩壁の曲がりまでは、槍の石突が土へ下りる音がした。足音より少し長い間を置きながら、遠ざかっていった。


 レノルはその音が曲がりの向こうへ消えてから、歩き出した。


 背中の荷は、独りで狩りに出た朝より重かった。


 レノルは肩紐を締め直し、その重みを自分の歩幅へ馴染ませながら、盆地へ下っていった。


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