20.腐ってやがる(お前もな)
森の奥で、戦いが始まっていた。
私は結界の内側から、遠くに見える光と影を見つめていた。
これ以上近づくのは、流石に自殺行為だ。モブの分際で、戦場に踏み込むつもりはない。でも、目を離すことだけは、できなかった。
最初の衝突は、激しかった。
黒く変色した樹々の間から、異形の獣たちが溢れ出す。
以前、私が遭遇したものより、明らかに大きい。体表を這う蔦は、まるで意思を持っているかのように、武器を絡め取ろうと伸びていた。
「……来る!」
ガルドの怒号が、夜の森に響く。
彼の剣が、先頭の獣の前脚を一閃で叩き斬った。黒く濁った体液が飛び散る。以前のような迷いのない、力強い軌道。鍛錬を取り戻した身体が、ちゃんと応答していた。
直後、横から別の獣が躍りかかる。
ガルドの死角。
「ガルド!」
ユリウスの声とほぼ同時に、氷の槍が宙に展開し、獣の側面を貫いた。
精度の高い魔導。思考がクリアになった彼の本領だ。
「……助かった」
「当然です。後方支援担当ですから」
短いやりとり。
なのに、二人の声には、以前のような甘さはない。あるのは、戦友としての信頼と……それでも消しきれない、何かだ。
前方では、フロレンティアと殿下が、大樹への道を切り開いていた。
「左! 蔦が!」
「分かっている!」
殿下の光魔導が、絡みつく蔦を焼き払う。
言葉に詰まることは、もうない。的確な指示と、迷いのない術式。切り札としての力が、確かに戻っていた。
フロレンティアの聖魔導が、それに重なる。
浄化の光が、黒ずんだ地面を薄く照らすたびに、異形の獣たちが苦鳴を上げて後退した。
「このまま大樹まで……!」
フロレンティアの声が、途中で途切れた。
大樹が、目の前に姿を現したからだ。
かつては精霊の加護に包まれ、淡く輝いていたはずの大樹。
今は、幹の半分以上が黒い蔦に覆われ、ところどころから、赤黒い液体が滴り落ちていた。樹皮のひび割れから、何かを睨むような、濁った光が覗いている。
「……聖なる大樹が…このような…」
殿下の声が、低くなる。
「……腐ってやがる…」
ガルドが呟くのに呼応するように、大樹が、軋む音を立てた。
(……お前もな)
私は、恐ろしさに身を縮めながらも、小さく唇を曲げた。
こんな緊迫した場面で、不謹慎なツッコミが浮かんでしまう自分を、少しだけ、呪った。
次の瞬間、無数の蔦が、鞭のように四方へ打ち出される。
「散開!」
ガルドがフロレンティアを庇って横へ転がる。
ユリウスは氷の壁を展開し、殿下の側面を守った。
蔦の一本が、ユリウスの防護を一部砕いて、腕に迫る。
「——ッ」
ガルドが、とっさに踏み込んだ。
自分の剣で蔦を叩き斬り、そのままユリウスの前に立つ。背中で、彼を完全に隠すように。
「お前は、後ろにいろ」
「……無茶を」
「うるせえ。今は、いい」
短い言葉。
戦場の中で、二人の間だけが、一瞬、静かになった気がした。
殿下とフロレンティアが、その間に大樹の正面へ躍り出る。
「今だ! フロレンティア!」
「はい!」
二人の魔導が、同時に解放される。
光と聖なる力が、大樹の幹に直撃した。
黒い蔦が、焼ける音を立てて弾け飛ぶ。
大樹が大きく揺れる。濁った光が、激しく明滅した。
「まだだ——!」
殿下の追加の一撃。
フロレンティアの浄化が、それに重なる。
ガラリ、と何かが砕ける音がした。
大樹の中心部から、黒い核のようなものが露出し、ひび割れていく。
獣たちが、一斉に苦鳴を上げた。体を覆っていた蔦が、急速に枯れて剥がれ落ちる。
そして……
光が、戻った。
大樹の幹から、かつての淡い輝きが、ゆっくりと溢れ出す。
黒ずんでいた樹々の葉が、夜の中で、わずかに緑を取り戻していく。地面を覆っていた不穏な霧が、風に溶けて消えていった。
遠吠えが、止む。
森が、静かに、呼吸を再開した。
私は、結界の内側で、長く息を吐いた。
……終わった。
完全に、元通りになったわけじゃない。
でも、少なくとも、世界は「壊れる」方向から、引き戻された。
遠くで、四人の姿が、大樹の前に並んでいるのが見えた。
フロレンティアが、剣を下ろす。殿下が、空を見上げる。
ガルドとユリウスは、少し離れた位置で、互いの傷を確認し合っている。
視線が、絡む。
すぐに、意図的に外される。
残ったものは、残ったまま。
消えたものは、消えたまま。
私は、その光景を、しばらく見つめていた。
……これで、いい。
本当に、これで、いいんだ。
私は、踵を返した。
ヒメラのところへ戻らなきゃ。
あの子に、伝えなきゃいけないことが、ある。
そして、これから先を、どう生きていくかを、一緒に決めなきゃいけない。
森の奥で、淡い光が、夜を優しく照らしていた。




