18. 元に戻して
夕暮れの中庭に、風が止んでいた。
ヒメラはノートを抱きしめたまま、うつむいている。
私は、彼女の前に立ち、静かに言った。
「どうやって、世界を改変していたの?そのノート?」
ヒメラの肩が、びくりと動いた。
「……はい。コレを開くと…、重なるように巻物が…。その一部分、ワンシーンにつき数文字だけ、改変ができます…」
「……」
「そうすると、その通りにみんなが動き始めて…始めは怖かったけど、段々、やめられなくなって…」
「殿下が思い通り話せないのは?」
「あんな完璧な人は、周りを霞ませてしまうと思って…オタク言葉を書き込んで…」
「ガルド様やユリウスは?」
「友情を超える絆ができればと、出会いを増やしたり、感情を互いに向けたり…」
長い沈黙。
「そのせいで、殿下は力を失い、ガルド様とユリウスは本来の成長を止めて、フロレンティア様は一人で死にかけている。森も、もう限界だよ…」
私は、一歩近づいた。
「お願い。元に戻して…」
ヒメラは、しばらく私を見つめていた。
それから、小さな声で言った。
「……怖いんです」
「分かってる」
「ガルドさんとユリウスさんの、想いまで消えてしまったら。二人が、最初から何もなかったみたいに、離れていってしまったら——私は、何のために、ここまで書いたんですか」
「きっかけを作ったのは貴女かもしれない。でも、その先で二人が本気になったのは、二人の意思だよ」
私は、彼女の目を見て言った。
「全部を無理に消す必要はない。貴女が最初に差し込んだ『きっかけ』の部分だけを、戻してくれれば。二人がその後に自分たちで育んだ感情までは、貴女の手で消さなくていい」
ヒメラの唇が、震えた。
「……それでも、私は」
「貴女は、何もない人間にはならない」
その言葉に、彼女の目が大きく見開かれる。
「前世でも、今でも、貴女は『誰も見ていない場所で、ちゃんと咲いている花』を見つめてきた人間でしょ。それは、巻物がなくても、改変がなくても、変わらない」
私は、自分の胸に手を当てた。
「それを、これから証明する。だから……一旦、戻してほしい」
ヒメラは、長い間、動かなかった。
夕日が、彼女の横顔を赤く染めていく。
そして——
彼女は、ゆっくりと、右手を前に差し出した。
ノートを開く。そこに何かが広がったように感じた。
何もない空間に、指先が触れる。
次の瞬間、淡い光が凝縮し、一巻の古い巻物が、そこにあるように現れた。他人の目には見えないはずのものが、今、確かに、彼女の手の中にある。
「……これが、全部です」
声が、掠れていた。
ヒメラは巻物を開く。文字が、びっしりと並んでいる。原作のストーリー。その随所に、彼女が加筆した「数文字」が、わずかに異なる色で浮かんでいるのが分かった。
「最初に、ここから……」
彼女の指が、ある一文の上に止まる。
ガルドとユリウスが、初めて明確に意識を交わした、あの訓練場のシーン。
指先が、文字を撫でる。
加筆された部分が、光を帯びて、ゆっくりと消えていく。
その瞬間——
遠くで、森が、低く唸るような音を立てた。
私は振り返る。
恵みの森の方向。弱々しかった光が、ほんのわずかに、揺れた。
「……続いて」
ヒメラは、次の改変箇所へ指を移す。
殿下の設定を格下げした、あの一文。
消える。
また、森が反応する。光が、少しだけ濃くなった。
「あっ……」
ヒメラの声が、詰まった。
巻物の文字が、彼女の意思に反するように、揺れ始めている。
「世界の方が、急いでる……」
森の異変が、改変の解消を待たずに加速しているのだ。
黒く変色した樹々が、遠目にも分かるほど、急速に広がっていく。
「ヒメラ!」
「分かってます……!」
彼女は歯を食いしばり、次々と加筆箇所を消していく。
ワンシーン数文字の制限が、今は足枷になっていた。一度に全部は戻せない。重要なものから、優先して。
殿下のノイズ。
ガルドとユリウスの最初のきっかけ。
フロレンティアの親密度を阻害していた小さな改変。
森の精霊に干渉していた、ほんの一言。
消えるたびに、世界が応答する。
光が戻る。風が動き出す。遠くで、魔獣の遠吠えが、急に途切れた気がした。
そして……最後の一文。
ヒメラの指が、震える。
「……これで」
加筆された文字が、光に溶ける。
巻物が、ゆっくりと閉じた。
中庭に、本物の風が吹き抜けた。
遠くの森が、夜の帳の中で、かつての淡い光を、わずかに取り戻し始めていた。
ヒメラは、巻物を抱えたまま、膝をついた。
力が、抜けたように。
「……終わり、です」
私は、彼女の隣にしゃがみ込んだ。
「まだ、終わりじゃない」
ヒメラが、顔を上げる。
「これからが、本番よ。貴女が『何もない人間』にならないってことを、これから証明する番だから」
彼女の目から、また涙が溢れた。
今度は、さっきまでとは違う温度の涙だった。
私は、何も言わずに、その場に付き合った。
巻物は、もう、光を失って、ただの古い紙の束のように見えた。
世界は、少しだけ、元に戻り始めていた。
そして、私たちは、まだ、ここにいた。




