16.モブ、立ち上がる
放課後、私は一人で学園の裏手へ向かっていた。
表向きの理由は「気分転換」。
本当の理由は、森の様子を、自分の目で確かめたかったからだ。
渡り廊下から見るだけでは、距離がありすぎる。
どこがどうおかしいのか、肌で感じなければ、何も変えられない気がした。
学園の敷地を出て、獣道に足を踏み入れる。
かつては整備された散歩道として、生徒たちにも開放されていたはずの道。
でも今は、足元の草が不自然に伸び、ところどころ黒く変色していた。
「……これ、枯れてるんじゃなくて」
指先で触れてみる。
草は、湿っていた。なのに、命の感触がない。まるで、何か別のものが、中身を食い尽くした後みたいに。
風が、止んだ。
気がつくと、周囲の音が消えている。
鳥の声も、虫の音も、木々が擦れる音さえもない。
ただ、自分の足音と、心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……嫌な感じ」
引き返す判断をした、その直後だった。
ガサッ。
灌木が、大きく揺れた。
振り返る。
そこにいたのは、狼、ではなかった。
四肢は狼の形をしている。でも、体表は黒く光る何かで覆われ、ところどころから、灰色の蔦のようなものが這い出していた。目は、焦点が合っていない。ただ、飢えたように、こちらを見ている。
「……魔獣、じゃない」
ゲームで見たどの魔獣とも、違った。
設定資料集に載っていたどのページにも、こんな生物はいなかった。
獣が、低く唸る。
次の瞬間、跳んできた。
「——っ!」
とっさに横へ転がる。
足元の草を、獣の爪が抉った。土ではなく、何か黒い液体が滲み出る。
走れ。
頭の中で、誰かが叫ぶ。
私は立ち上がり、来た道を全速力で戻った。後ろから、重い足音が追ってくる。一匹じゃない。複数だ。
枝が顔を打つ。息が焼ける。
それでも、止まらなかった。
「——誰か!!」
声を上げた瞬間、前方の木々が揺れた。
「そこを開けなさい!」
聞き覚えのある声。
フロレンティア・ミラビリスが、剣を構えて飛び出してきた。
彼女の聖なる力を帯びた一閃が、先頭の獣の肩を切り裂く。
黒い液体が飛び散る。獣は苦鳴を上げてひるんだが、すぐに体勢を立て直した。蔦が、傷口を縫うように絡みついていく。
「再生、してる……?聖魔導が、効かない……?」
フロレンティアの表情が、強張る。
後ろから、さらに二匹が現れた。
「あなたは、下がって!」
彼女は私を背後に庇うように立ち、剣を構え直す。
でも、その肩が、上下に揺れていた。息が上がっている。すでに、かなり消耗しているのが分かった。
「フロレンティア様、援護を——」
「誰も、来ません」
短く、言い切られた。
「殿下は、言葉がうまくまとまらず、指示が出せない。ガルド様とユリウス様は……二人で、別の方角へ向かったまま、戻ってこない」
剣を振るうたびに、彼女の動きがわずかに鈍くなる。
獣たちは、痛みを学習しないように、執拗に距離を詰めてきた。
「——このままじゃ」
私がそう呟いたとき、フロレンティアの剣が、一本の蔦に絡め取られた。
バランスを崩す。獣が、その隙間に飛びかかる。
「危ない!」
私は、考えより先に動いていた。
足元の石を蹴上げ、獣の顔に叩きつけようとするが軽くかわされる。だが、ほんの一瞬の隙。フロレンティアが剣を引き戻し、横へ転がった。
「……あなた」
「今はいいです! 逃げましょう!」
二人で、獣道を駆け戻る。
後ろから、追いすがる足音。でも、学園の結界が見えた瞬間、獣たちはぴたりと止まった。結界の光を、嫌うように喉を鳴らして、森の奥へ溶けていく。
私たちは、結界の内側で、へなへなと座り込んだ。
フロレンティアの剣が、カタリと音を立てて落ちる。
彼女は、自分の腕を見つめていた。袖が破れ、浅い爪痕から血が滲んでいる。
「……毎日、増えているんです」
掠れた声。
「倒しても、倒しても、次が来る。森が、何かにおかされている。なのに、誰も——」
言葉が、そこで途切れた。
私は、自分の震える手を見つめた。
さっきまで「モブとして見守る」などと言っていた自分が、遠い。
このままじゃ、間に合わない。
ヒメラの改変は、もう、物語の枠を超えている。
世界そのものが、壊れ始めている。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「フロレンティア様」
「……?」
「少しだけ、休んでください。私、行ってきます」
「どこへ?」
私は、学園の方を見据えた。
「話を、つけなきゃいけない人がいるんです」
もう、猶予はない。
次にヒメラと対峙するときは、ただの追及じゃない。
この世界を、取り戻すための、交渉だ。




