14.ヴェールの下の想い
放課後の中庭は、夕暮れに染まり始めていた。
ヒメラはいつものベンチに座っていた。ノートを膝の上に開き、ペンを走らせている。周囲に人の気配はない。レイスの姿も、もうなかった。
私は、深呼吸をしてから、歩み寄った。
影が彼女のノートに落ちた瞬間、ヒメラの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。いつもの、感情を表に出さない目。でも、今日は少しだけ、警戒の色が混じっている気がした。
「……何か、ご用ですか」
静かな声。拒絶ではない。ただ、できるだけ関わりたくない、という距離感が滲んでいる。
私は、彼女の正面に立った。逃げ道を塞ぐつもりはなかった。ただ、もう、遠回りはしないと決めていただけだ。
「ひめか」
その名前を、はっきりと呼んだ。
ヒメラの瞳が、わずかに見開かれた。
次の瞬間、表情がすうっと消える。いつもの、何も感じさせない顔に戻る。
「……誰のことでしょう」
「貴女のことよ。前世の…ひめか」
私は、ノートから視線を外さずに続けた。
「ヒメラ・ヴェラータ。ヴェールに隠された、ひめか。上手い名前だよね。自分の本当の姿を、ちゃんと隠せてる」
ヒメラは、何も言わなかった。
ただ、ノートをゆっくりと閉じる。表紙を下にして、胸の近くに引き寄せた。
「……何の話か、分かりません」
「嘘だ」
私は、一歩だけ前に出た。
「『同担虚無』。あの言葉を見て、貴女は表情を消した。『解釈違い』のメモを拾ったときも、指先が強張った。そして、あの紙片。『ガルドがユリウスの腕を掴む。距離が近い。吐息が——』」
ヒメラの肩が、びくりと震えた。
「あれ、貴女が書いたんでしょ」
沈黙が落ちる。
風が、木々の葉を揺らす音だけが聞こえた。
やがて、ヒメラが、小さく息を吐いた。
「……いつから、気づいていたんですか」
声が、少し掠れていた。
「図書室で、貴女がメモを見た瞬間から、怪しいとは思ってた。でも、確信したのは昨日だ。レイスと話してるところを見て」
ヒメラの目が、わずかに揺れる。
「モブ同士が、静かに想い合う話が好きだって、前世でよく言ってたもんね。攻略対象同士より、名前もない脇役同士の方が尊いって」
「……覚えて、いたんですね」
「曖昧だった。名前も顔も、霧の中だった。でも、貴女がレイスに向けたあの顔を見て、全部繋がった」
私は、拳を握りしめた。
「ひめか。貴女、この世界を書き換えてるでしょう…」
ヒメラは、しばらく私を見つめていた。
それから、ゆっくりと、首を横に振った。
「……書き換え、てるわけじゃ、ないです」
「何言って……」
「ほんの、少しだけ。隙間を、埋めているだけです」
彼女は、ノートを抱きしめたまま、視線を落とした。
「原作は、完璧すぎる。完璧な主人公に、完璧な攻略対象。みんな、光の中にいる。私みたいな、影の中の人間には、居場所がなかった」
声が、少しずつ熱を帯びていく。
「だから、書きたかった。誰も見ていない場所で、誰にも気づかれずに育つ想いを。名前もない花が、ちゃんと咲いているってことを」
「それで、ガルドとユリウスを?」
「……あの二人は、原作でも少しだけ、隙間があった。戦友以上でも以下でもない、あの関係。そこに、ほんの少しだけ、色を足しただけです」
「色を足した?」
私は、思わず声を荒げた。
「貴女が足した『色』で、イベントの順番が狂って、殿下の言葉がノイズだらけになって、森までおかしくなりかけてるんだぞ!」
ヒメラが、顔を上げた。
初めて、はっきりと、感情が目に浮かんでいた。
「……知ってます」
「知ってるのに?」
「でも、止められなかった。書き始めたら、止まらなかった。この世界が、私の物語を、受け入れてくれた気がしたから」
彼女は、ノートを強く抱きしめた。
「前世では、誰にも見せられなかった。笑われるのが、怖かったから。でも、ここでは……ここでは、私の書いたものが、本当に、現実になっていく」
「ひめか」
「私は、ただ、居場所が欲しかっただけなんです」
その言葉が、胸に、深く刺さった。
怒りと、理解と、どうしようもないもどかしさが、一気に込み上げてくる。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……居場所が欲しかったのは、分かるわ。でも、この世界は、貴女の二次創作じゃない…」
ヒメラは、何も答えなかった。
ただ、ノートを抱えたまま、静かに私を見上げていた。
夕暮れの光が、彼女の横顔を、柔らかく照らしている。
……この子を、どうすればいいんだろう。
答えは、まだ、出なかった。




