【幕間】妖精人ジグル1
本編より1日1話投稿になります。
あの日は中学3年の夏休み前、期末試験の日だった。
前夜から一睡もせず、教科書とノートに囲まれて過ごした机の上は、消しゴムのかすと使い切ったボールペンの墓場と化していた。頭蓋骨の内側で鉛の塊が重く沈み、視界が絶えずぼやけている。開いた参考書のページは霞がかったように滲み、必死に詰め込んだ数学の公式が頭の中で踊るように散らばっては、手の届かない場所へ逃げていく。
鏡に映る自分の顔は、まるで別人のように窶れていた。血走った目の下には深いクマが刻まれ、頬はげっそりと削げ落ちている。それでも僕は勉強を続けた。続けなければならなかった。
僕は長い間、自分を優秀な人間だと信じて疑わなかった。小学校では常にテストで学年トップを独走し、教師たちは僕の将来に期待の眼差しを向けた。「君なら必ず素晴らしい大人になる」そんな言葉に包まれて育った僕にとって、優秀であることは存在意義そのものだった。
しかし、エリート校と名高いこの中学校に入学してから、現実は容赦なく僕を打ちのめした。周囲には僕以上に優秀な生徒があふれており、僕はただの平凡な一人、いや、それ以下の存在に成り下がってしまった。
「選ばれた者」だという幼稚な自信は、ガラスが砕け散るように音を立てて崩れ去った。それでも、肥大したプライドが現実を受け入れることを許さない。だからこそ僕は自分をここまで追い込んだのだ。次こそ、今度こそ、自らの優秀さを世界に証明してみせる‥‥‥そんな狂気じみた執念が、僕の血走った瞳に宿っていた。
いつものように、通学路の駅のホームに立っていた。
朝の通勤ラッシュの人波が遠くで蠢き、その喧騒が耳の奥で鈍く響いている。夏の朝日が容赦なく照りつける中、線路の鉄がきらめき、立ち上る熱気が陽炎となって空間を歪ませていた。額から滴り落ちる汗が、疲労で震える手の甲に冷たく感じられる。
「まもなく上り電車が通過します。危険ですから黄色い線の内側にお下がりください」
機械的なアナウンスが空気を切り裂いた瞬間、激しい頭痛が僕の脳天を直撃した。まるで頭蓋骨の内側で爆弾が炸裂したような激痛に、世界がぐるりと回転する。膝から崩れ落ちる自分の体を制御できず、気がつくと線路内の熱いレールの上に倒れ込んでいた。
迫り来る電車のヘッドライトが網膜を焼き、金属と金属が擦れ合う轟音が鼓膜を破りそうになる。死への恐怖が全身を駆け抜けた‥‥‥その瞬間、現実が音もなく歪み、僕は未知なる世界へと引きずり込まれていった。
「ようこそ、新しい世界へ」
声が頭蓋骨の内側に直接響いた。周囲は純白の光に包まれ、形を持たない存在が僕の前に佇んでいる。その姿は常に揺らめき、実体があるのかさえ定かではない。
「私は愛の神。あなたは私に選ばれました」
愛の神と名乗る存在の声は、蜜のように甘く響きながらも、どこか底知れぬ冷たさを孕んでいた。
「これから、魔法と魔法が息づく世界に旅立つことになります。でも大丈夫、あなたに力を与えましょう。そして、きっと私の願いを叶えてくれることを信じています」
声を出そうと試みるが、喉が痙攣するように震えるだけで音にならない。新しい世界? 愛の神? 新しい力? 疑問が頭の中で渦を巻き、混乱する思考の中でただ一つの恐怖が浮かんだ‥‥‥元の世界の僕はどうなってしまったのだろうか。
「前の世界のあなたは死にました。だからこそあなたが選ばれたのです。最も都合の良い魂だったのです」
愛の神の言葉は氷のように冷たく、まるで実験用の標本を扱うかのような響きを持っていた。愛だの慈悲だの、そんなものはかけらも感じられない。
「それで、新しい力とは‥‥‥新しい世界には神が封印された迷宮があります。それを攻略するために力を与えましょう」
神の声が続く中、僕の心に静かな計算が始まった。与えられる力の詳細を把握し、それを最大限活用する方法を模索する。これは僕が最も得意とする分野だった。
「一つ、迷宮を探す力。一つ、迷宮に封印された神の正体とその強さを知る力。一つ、対象となる存在の能力を知る力。一つ、全ての属性魔法を行使できる力。以上をもって、黄金色の魔力を持つ神の封印を解いてください」
四つの能力‥‥‥これらがあれば、確実にこの世界で頂点に立てるだろう。僕の優秀さを証明する舞台が、ついに用意されたのだ。
「いくら時間がかかってもかまいません。しかし必ず成し遂げてください。また、長い時間がかかると予測されますので、長寿の種族に転生させます」
黄金色の魔力を持つ神の封印を解く。その難易度は未知数だが、与えられた能力があれば必ず攻略できる。僕の知性と計算能力なら、どんな困難も乗り越えてみせる。
「それでは、転生を始めます。頼みましたよ」
その瞬間、僕は愛の神の瞳を見てしまった。
昏く濁った、氷河のように冷徹な瞳を。そこには慈愛などかけらもなく、ただ計算し尽くされた冷酷さだけが宿っていた。まるで僕自身を鏡で見ているかのような、そんな戦慄が背筋を駆け上った。
愛の神の言葉通り、僕は長寿種族である妖精人に転生した。
妖精人は通常700年、王族であれば1,000年を生きるという。そして僕は、現王の嫡子、王子として新たな生を受けた。とはいえ、強大な帝国ではなく、一つの都市を国と称する小規模国家での話だった。
城の窓から見下ろす街並みは、まさに中世ヨーロッパの絵本から抜け出したような光景だった。石造りの城壁が街を囲み、石畳の道には木造の家々が立ち並んでいる。朝霧に煙る街角からは、焼きたてのパンの香りと家畜の匂いが混じった、生活の匂いが立ち上っていた。
しかし、この小国には他国にはない宝がある――世界樹の迷宮だ。その神秘的な恩恵により、隣接する帝国からの侵略を防いでいるのだった。城の奥深くに聳える世界樹は、まるで天を突き刺すような巨大さで、その根元に広がる迷宮は未知の力に満ちている。
生まれてすぐに、この世界の慣例に従って魔石での属性診断が行われた。
七色に輝く魔石が僕の小さな手に触れた瞬間、部屋中に虹色の光が踊り狂った。壁という壁、天井という天井が色とりどりの光に包まれ、まるで万華鏡の中にいるような幻想的な光景が広がる。
全属性魔法に強い適性。この世界で類を見ない才能。
診断を行った宮廷魔術師の顔は驚愕に歪み、長年の経験で培った冷静さを完全に失っていた。居合わせた父王や重臣たちは息を呑み、静寂の中で虹色の光だけが静かに舞い踊った。この瞬間、王太子の座は事実上確定したも同然だった。
5歳になると、体内の魔力量も飛躍的に増大した。
指先から散る火花は意思に従って形を変え、掌の上で踊る水滴は自在に姿を変える。そよ風を起こし、小石を浮上させ、光を操り、闇を纏う。魔法という新たな力が、僕の中で着実に成長していた。
しかし、愛の神から授かった力の中で最も有用なのは、対象となる存在の能力を知る力、いわゆる鑑定能力だった。
人を一目見るだけで、その者の魔力量、属性適性、隠された能力、さらには心の奥底に秘めた意図まで、すべて手に取るように理解できる。自分より強い存在を瞬時に判断できるだけでなく、僕に近づく者の真意を見抜くことも可能だった。
ある蒸し暑い夏の日のことだった。
新たにメイドとして雇われた若い女性に、僕は何気なく鑑定能力を使った。外見は質素な村娘そのもので、控えめな態度と人懐っこい笑顔が印象的だった。しかし、鑑定結果は僕の予想を大きく裏切った。
表向きの身分とは裏腹に、彼女は闇魔法に対する異常なまでの高い適性を持ち、隠蔽している魔力量も相当なものだった。訓練を積んだ暗殺者であることは明白だった。
「父上に報告があります」
僕は冷静に事実を父王に伝えた。容疑のメイドはすぐさま捕らえられ、城の地下牢へと連行された。石造りの牢獄からは、やがて拷問による悲鳴が響き始める。
しかし、その悲痛な叫び声を聞きながら、僕の心は湖面のように静かだった。何の感情も、憐憫の情も覚えない。まるで実験の結果を観察する研究者のような、冷徹な好奇心だけが胸の奥で静かに燃えていた。
後に判明したところによると、彼女は隣国帝国の密偵だったという。
その後も僕の鑑定能力は冴え渡り、数々の密偵や裏切り者を摘発することができた。
城の廊下を歩くだけで、怪しげな従者や訪問者を次々と見抜き、父王の信頼は日に日に厚くなっていく。家臣たちは僕を神童として崇めながらも、その幼い瞳に宿る氷のような冷徹さを密かに恐れていた。
時折、鏡に映る自分の表情を見て、愛の神の瞳を思い出すことがある。あの昏く濁った、計算し尽くされた冷酷な瞳と、今の僕の瞳がどれほど似ているのか――そんなことを考えながら、僕は静かに微笑むのだった。
ようやく僕の真の価値が認められた。長い間待ち続けた時代が、ついに僕に追いついたのだ。
この世界でこそ、僕は真の神童として君臨するだろう。そして、愛の神から託された使命を果たしながら、この世界の頂点へと上り詰めてみせる。
遠い未来への野心を胸に秘めながら、僕は妖精王子としての新たな人生を歩み始めた。城の窓から見える世界樹が、まるで僕の運命を祝福するかのように、朝日の中で金色に輝いている。




