【幕間】マスター
「待ってよマスター。どこにいくの?」
夜風が頬を撫でる中、背後から響いた声に、俺の背筋は氷のように凍りついた。足音ひとつ立てていなかったはずなのに。まさか、こんなことがあるはずがない。
振り向けば、月光に照らされた細い路地に、あの男が立っていた。あの時は気づかなかったが、その瞳には底知れぬ深さが宿っている。俺の心臓が、胸の奥で激しく打ち鳴らした。
つい数刻前まで、俺はコガン妖精王国の片隅で酒場のマスターを演じていた。帝国の密命を受け、この小国に潜り込んでもう三年になる。世界樹の加護を受けたこの国は、一見のどかな妖精たちの楽園に見えるが、その実、帝国にとっては喉に刺さった棘のような存在だった。
今夜、俺が手にした情報は帝国の運命を左右するかもしれない代物だった。王太子がジグの大森林の迷宮から発掘してきたゴーレム‥‥‥それは神クラスの究極の戦闘兵器だという。そして、そのゴーレムと共に世界樹の迷宮に挑んだ王太子の姿を、俺は確かに目撃していた。
だが、その後に起こったことは俺の常識を根底から覆すものだった。
酒場に現れたあの妖精人‥‥‥実際には変装した人族だったが‥‥‥最初は他国の三流諜報員だと思った。魔力の気配は皆無に等しく、警戒心も希薄で、まるで素人同然だった。俺は内心で嘲笑いながら、当たり障りのない偽情報で煙に巻いてやったのだ。
しかし、その「素人」は王太子の操る神機のゴーレムを一撃で粉砕してみせた。世界樹すらも、まるで雑草を刈り取るように容易く倒してしまった。神クラスの存在を、だ。
その瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。恐怖と驚愕が入り混じった感情が、血管を駆け巡る。
この情報は何としても帝国に持ち帰らなければならない。夜陰に紛れて帝国への帰路を急いだ。俺の得意とする闇属性と風属性の魔法を駆使すれば、この国で俺の後を追えるものなどいるはずがない。隠密と高速移動においては、俺は誰にも負けない自信があった。
なのに、この男は俺に追いついてきた。しかも、俺が全く気づかないうちに。
「‥‥‥どこって散歩だよ。」
俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。同時に、右手の指先に魔力を集束させる。闇属性と風属性を融合させた俺の必殺の魔法——闇イタチの準備だった。見えず、聞こえず、触れることもできない暗殺術。初見の相手には絶対に防がれることのない魔法だ。
夜の闇が俺を包んでいる。月は雲に隠れ、街灯もない道は完全な暗黒に支配されていた。これほど闇属性魔法に適した環境はない。たとえ相手がこの魔法を知っていたとしても、この状況では防ぎようがないはずだ。
「こんな夜中に散歩しなくても良いだろ。早く戻ろう。」
男の声は、まるで本当に心配しているかのように響く。だが、その底には何か計り知れないものが潜んでいるような気がした。
死ね‥‥‥!!!
俺は心の中で叫びながら、蓄えた魔力を一気に解放しようとした。その瞬間、世界が闇に包まれた。
「おつり分おごってよ‥‥‥。」
男が発した言葉は誰もいない夜にむなしく響いた。




