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集結の地へ

「どうして普通にできないの?! 今まで通り演奏していればいいだけ、そんな簡単なことどうして?! 成績も落ちて、言い訳が『問題文がわからない』?! ふざけるのも大概にしてよ!」


 ごめんなさい、そういうのもめんどくさいというか、無意味な気がしてきた。ママの言ってることは正しいし、おねえちゃんよりだめなおれが悪いこともわかってる。

 でも、だからといって、どうすればいいのかわかんない。


「まあまあ、まだ楽譜は読めるんだ。たまたま調子が悪いだけだろ。パパは桜の味方だ、またいつもの桜が戻ってくるのを信じているぞ」


 パパはそう言うけど、本音は痛いほど伝わってくる。だって、今までできてたことがいきなりできなくなるとか、おかしいに決まってるじゃん。




「弾き方が全然違う、これでは楽器が可哀想だろ。落ち着け、今まで通り弾けばいいんだ」


 今まで通り、っていってもどうすればいいのさ。おれなりに弾いてるつもりでも、パパにとっては弾かさってないみたい。……たしかにおねえちゃんと比べたら音が汚いかもしれない。


「桜には才能があるんだ、桜の演奏を心待ちにしている人のためにも——」


 やっぱりお……わたし、ギターの方が上手く弾けると思うんだよね。


 いけない、言葉づかいには気をつけないと。またたたかれちゃう。


「ギター? そんな楽器を練習する暇はないだろ。もうすぐ十歳になるんだぞ、少しは自分で考えろ」


 パパの言うとうりだよ。おねえちゃんはこんなわがまま言わないし、言われたことちゃんとできる。おねえちゃんみたいになりたい、ならないといけないんだ。

 おねえちゃんがくれたチャンスをむだにするわけにはいかないから。もっと上手くなれるようにれんしゅうして、頭よくなれるように本をよんで……。


 ——いきぐるしい……。



 

 今晩はおれの好きなカレー、といってもごはんの時間は全部好きだけど。だって、このときだけは辛いこと考えなくていいから。

 おねえちゃんはどんなことを考えながらごはん食べてたんだろう。おれのこと、少しでも考えてくれてたのかな。


 パパとママは今日もすごく楽しそうにせけん話をしてる。内容はよくわからないけど、わたしの話をしてる気がする。

 おれの話はしないのかな。いなくなってから、もう二枚もカレンダーをちぎってるのに。


「フブキ……ああ、あいつのこと?」


 楽しそうなふいんきがちょっとだけ冷たくなった。


「言ってなかったっけ。遠いとこで暮らすことになったって。ささ、ご飯が冷めちゃうでしょ。いっぱい食べて、寝て、明日のレッスンに備えないと」


 そっか、そうなんだ……。


「丸一日練習できるように、学校は休みにしておいたから。当然でしょ? 学校なんかよりも桜には大事なことがあるの。勉強なら家ですればいいんだから。桜はパパとママの言うことを聞いていればいいの。桜は私たちの、自慢の一人娘なんだから」


 わかった、ってきっぱりあきらめられたらきっと楽なんだろうな。


 でも、そんなのいやだよ。



 

「なにしてるの……こんなとこで。帰ったらパパと練習する約束だったでしょ?」


 公園でおねえちゃんのギターを触ってると、買い物袋を引っ提げたママに見つかった。

 悪いことだってわかってるけど、おねえちゃんの音色が忘れられなかった。少しでもおねえちゃんに近づこうとしただけだったんだ。なのに、ママは血相を変えて怒りのまま買い物袋を振るった。

 割れた卵の中身が雪にぶちまけられるのもどうでもいいくらい、すごく痛くてかなしい。


 ひりひりするほっぺを押さえてるとママはうなじに無理やり掴みかかって、嵐みたいに叫び始める。爪が食い込んで、ちょっとだけ血が出た。


「どこからそんなもの取ってきたの……わかった、今まで調子が悪かったのはそれに毒されてたからなんだ。もうどうでもいいって思っちゃったんだ。ママが桜のことを思って高い授業料を払って、ご飯作って……。パパが忙しい合間を縫って桜の練習に付き合って。全部桜のことを想ってやってるのに、どうでもいいって思っちゃったんだ?! 言ってるでしょ?! 楽な方に逃げ続けたら、あの人みたいになっちゃうって! いいよいいよ、って私の言うこと全部、気持ち悪い喋り方で肯定して……頭が悪いから、責任を持ちたくないから! 桜にはそうなってほしくないって何度も言ってるでしょ?!」


 言いたいことはたくさんあったと思う。でも、怖かった。パパとママをがっかりさせるのが、言ったあと自分がどうなっちゃうか。また要らない子って言われちゃう気がしたから。

 だから、ごめんなさいしか思い浮かばなかったんだと思う。


 悪い子でごめんなさい……生意気な子でごめんなさい……失敗作でごめんなさい。そう言ったらママの手がちょっとだけ弱まった。怒ってるときの息遣いが止まないのはなんでだろう。


「ごめんね桜……ママが悪いんだ。桜に余計なことを教えちゃったママが悪いんだ。ちゃんと育てられなかったママが悪いんだ。ギター、ママに頂戴? 桜を誘惑する悪い楽器、壊してあげるから。桜もいっしょにやったでしょ? あいつの部屋を掃除したら、すぐに出て行くって。ママの言う通りだったでしょ! それには人を馬鹿にする悪いものが憑いてるって、そっから全部よくなったでしょ! 新しいパパができたのも、全部そのおかげだったの! だから、はやく頂戴? 桜はこんなものに魅了されちゃいけないの」


 だめ、これだけは……やめて! ママはおれの声なんか聴いてなかった。引きずられながら頑張って抵抗したけど、やっぱり大人には敵わなかった。

 おねえちゃんと一緒に聴いてた思い出の楽器が、おねえちゃんと一緒に座ったベンチに向かって——。


 最後の曲を演奏した。


 ただ突っ立って魅せられてた。傷つけられる、壊されてく思い出が……。これが本当におれのためになるの? いや、多分違う。

 これはきっとわたしのための行動。もっと言うならおねえちゃんの才能のための行動。最初からママとパパはおれたちのことなんか見てなかったんだ。愛してたのはおねえちゃんの才能自体だったんだ。


 おねえちゃんは気づいてたのかな。だとしたら酷いよ、おれにこんな景色を見せておいて、自分だけ先に天国に行っちゃうなんて。


 どうしておれはまだ子供なのかな。大人だったら止められたのに、おねえちゃんと一緒に逃げれたのに。




 お医者さんからもうすぐ死んじゃうって言われた。病名は難しくて覚えられなかったけど、せっけっきゅうが生まれつき少ないみたいで、体が上手く呼吸できないらしい。それが原因で内臓が弱ってきてるらしい。

 手術したらもしかしたら治るかもしれない、って言ってたけどパパとママは絶対にだめって言ってた。どうしてかというと、花は散り際が一番きれいに咲くんだって。

 よくわからないけど、おねえちゃんに会えるならいいかな。


 コンクールが終わったあと、テレビの人にインタビューされた。病気のこと。ぜんぶパパが答えてた、ママはずっと泣いてた。

 長い受け答えが終わって、最後におれのしんいを聞きたいって言われて、治らない病気だけど、最後までみんなに芸術を届けますって答えた。昨日そう答えてってパパに言われてたから。

 お医者さんに言われてたことは嘘だったのかな。もう誰を信じればいいのかわからないや。


 でも見えるようになってわかったことがある。大人ってみんな噓つきだってこと。言ってることぜんぶでたらめで、何の意味もないことだって。

 だから、誰も信じなくて正解だと思う。おれとおねえちゃんの演奏をじゃまする雑音なんだからさ。




 家に帰ってもママは泣いてた。「桜、最後までママと一緒に頑張ろうね」って。嘘つき、ママは何にも頑張ってないくせに。

 パパも抱き締めてきたけど、結局は才能を持ってる娘を無くすことが惜しいだけなんでしょ。


 つまんないよ、せっかく見えるようになったのに、この世界にはきったない景色しかないって思い知らされるなんて。

 ママのごはんは毎日味が薄くて不味いし、パパの言葉は軽薄で水みたいに耳を通り抜けてくし。


 まだ何にも見えなかった時の方が楽しかった。真っ暗な世界で何が広がってるんだろうって想像して、旋律の波を視覚に邪魔されず感じ取れたあの時の方が。


 おねえちゃんはパパとママとは違って沢山面白いことを教えてくれたよ。点字、芸術の面白さ、感情を曲を使って伝えられること。難しいことばっかりだったけど、優しく教えてくれたよ。


 点字は声を使わなくても人と話せるから、秘密の合言葉なんだってこと。遠くにいる人、その場にいなくても自分の言葉を永遠に残せる素敵なものだってこと。

 芸術は自分の好きなことを好きな形で残せる、それを読み取る人によってさらに芸術は美しさを増すってこと。おれでもできる芸術として作曲を勧めてくれたこと。不格好な芸術をおねえちゃんは旋律にして伝えてくれたこと。


 跡が残ったうなじがむずむずしてきた。大人の歯が生えてくるときと似てる。


 パパ、ママ。二人はおれたちに何をくれたの? なんにもくれなかったじゃん。おねえちゃんの才能を利用して、自分たちが得をすることばっかり考えて。利用価値のないって判断したおれを平然と切り捨てた。

 おれたちに間違った常識を刷り込んで洗脳して、まるで寄生虫みたいに甘い汁を啜ってる。きもちわるい……きもちわるい、きもちわるい。


 最後までおれの名前を呼ばなかった、おれのことを化け物だって罵った。おねえちゃんを道具みたいに扱った。

 そんなやつら、死んじゃえばいいんだ。


 おれって、なんのために生まれたんだろう……。




 気づいたらおれの目の前はふたつの死体とその体液で染まってた。意味のない雑音を発してた人が消えて清々した……けど、この先のことを考えると不安でまた息苦しくなる。人を殺しちゃったら、警察の人が来て死刑にされちゃうって本で読んだから。

 それだけじゃない。明日からごはんは誰が作ってくれるの? 生活するためのお金は誰が払ってくれるの? でも、どうでもいっか。だってどうせ、もうすぐ死んじゃうんだから。ね、カノン、フーガ。


 死ぬんだったらおれの部屋で過ごそっかな。そう思っておれはおねえちゃんの部屋にある屋根裏の鍵を開けた。

 頑張って手を伸ばしても梯子に届かないから、カノンに頼んで下ろしてもらう。重い死体はフーガが運んでくれた。


 おれの部屋ってこんなに狭かったんだ。散らばったおもちゃと点字で書いた紙、一枚だけ申し訳程度に敷かれた汚い敷布団。

 ねえ、おれはこんな環境で、希望を持って生きてたんだよ。死んでる二人に声をかけても無駄だけど、教えてあげたかったんだ。


 ようやく静かになった。望んでたはずなのに、なんだか苦しくなってくる。これが本当におれの望んだ未来なの? どうしておれが悪者みたいになるの? そう思うと涙が溢れてくる。

 カノンとフーガは一生懸命舐め取ってくれたけど、そんなんじゃ収まらなかった。だっておれにはもう、何も残されていないから。


 おねえちゃんも、ギターも、憎んでいたはずのパパとママすらおれが生きるには必要な存在だった。死ぬまで、どれくらいの時間かわからないけど、それまでおれはこんな気持ちで生きなきゃいけないの?

 やだ、今すぐに死にたい。でもどうすればいいのか、わかんないよ……。


 もし神様がいるなら……おれを、殺してください。おねえちゃんと、一緒の場所に……連れてって。もしあの時みたいにもう一度チャンスをくれるなら、おねえちゃんと一緒にみんなに生きる楽しさを音楽で伝えたい——。




「なんでこんな狭(せま)いとこにいるんだよおまえ。かくれんぼでもしてんのか? そうだ、おまえのためにストーブをつけてやろう。これはすごいぞ、ボタンを押せばあったかくなるんだからな」


 ……誰だろう。


「にしても、外(そと)にある白くてつめたいやつ。あれってなんだ? さわったら手がひりひりするんだ。毒(どく)なのか?」


 雪のこと言ってるのかな?


「ゆき? 毒(どく)じゃないのか……。なら、あれでなにかしよう! なにかって……そんなもの、後から決めればいいだろ? いくぞ!」


 大人の言うことなんて、どうせなにか企んでるに決まってる。そう思ってそっぽ向こうとしたけど、カノンがすごく行きたそうにしてた。仕方ないなあ。


 でもこの人はおれのこと見て、何も思わないのかな。血だらけで、蛇が首から生えてる子供。傍から見たら化け物にしか見えないと思う。パパとママもそう言ってたし。……どうでもいいや。


「俺は天才(てんさい)だ! ゆきをまるめてぼーるみたいにする。それを投(な)げて、先にぶつけた方が勝(か)ち。おもしろそうだろ?!」


 雪合戦も知らないの? ほんとばかな大人だなあ。


「”ゆきがっせん”? なんだ、もう考案(こうあん)できていたんだな。ならやろう、ゆきがっせんを。夕方になるまで返してやらねえからな」


 それからこの人は本当に日が暮れるまで雪合戦をした。両手で必死に雪をかき集めて、不格好な雪玉を作っては投げ、作っては投げ……。気づいた頃には二人とも真っ白になってた。

 服についた忌々しい赤色もすっかり消えて、綺麗になった。


 どうしてこの人といると安心するんだろう。なにもかも忘れて楽しくなれるんだろう。大人なのに、子供みたいに無邪気で純粋な人。

 おれはいつの間にか笑ってた。声を上げて、思いっきり。こんなこともう二度とないと思ってたのに。


「いやー疲れ果(はて)た! まあ、最後(さいご)に当てた俺の勝(か)ちだな」


 そんなのずるいべや、当てた回数はおれの方が多いのにさ。


「いーや、俺の勝(か)ちだ。俺が今決めた。ずるくねえよ、俺が勝(か)ちって言ったら勝(か)ちなんだ」


 まあ、楽しかったしそれでいいや。


「さて、そろそろ帰(かえ)るか。メシの時間だしな」


 ……そっか。この人には帰る場所があるんだろうね。寂しいけど、お別れの時間だ。ばいばい、また会えるといいねって手を振り、おれは踵(きびす)を返す。最後にこんな経験ができてよかったなあ——。


「なにいってんだおまえ? 今日はカレーらしいからな。いっしょに帰(かえ)るぞ。なあ?」


 ペティ・ライフライン。



 

『私は吹雪の味方だよ』


『いつか、家族みんなで仲良く暮らせるよ』


『ずっと一緒にいようね』


 あ、ああっ……。

 おねえちゃん……。ありがとう。





 

「——ら……誠羅っ!」


 はっと目が覚める。背中から伝わる冷たい感触と対象に、じりじりとした熱風が肌を焼き付ける。

 そうだ、奴がガスボンベを噛み砕き、爆発した瞬間から意識を失っていたんだ。あの時と同じ、長く儚い走馬灯のような記憶を見ていた。


「怪我は無いか?!」


 見るまでもなく焦っている。恐らく、何分間も目を閉じていたのだろう。立ち込める赤黒い煙の情景に目を擦り、現状を確かめる。

 ぐったりと沈む込むように息絶えた奴の姿が、美しい結晶と共に消えていっている。無事目的は達成されたようだ。


「どれくらい経ったの……?」


 自身の安否を報告した後、誠羅は息遣いが伝わるほど近い知優の顔に訊く。彼女はまたしても意識を失ってからの時間を正確に刻んでいたようだ。「二十四秒だ」と即座に答える様子を見て、思わず笑みが零れる。やっぱりこの人は心配性すぎる、と。


 眉をハの字に傾けている情けない知優をどかし、誠羅は束の間の達成感を、冷たい雪に身体を包みながら感じた。

 空を仰ぎ、壮快な白昼の光が差し込む。手のひらから透ける血潮を見て、生きている実感を得る。ああ、やはりこの感覚は美しい。


「白衣、相当汚れちゃったわね。帰ったらまず新しいのを買わないと」


「ああ。また、先生から金をせびることになりそうだ」


 未来科学部の予算は十五万円しかないんだ、と大金を軽々しく知優に少し苛立ちを覚える。社会学部は年に二万円なんだぞ、できることなら海外で現地調査でもしてみたいものだと。


「っ……まあ、初めからそう決めてたし」


 誠羅は怒りを拳に留め、今までのお礼と今回の功績を含めて替えの白衣を買ってあげる、と言った。白衣一着の値段などたかが知れている。

 貯金を切り崩せば容易に払える金額を想定していた誠羅は、こんなもので感謝を伝えられるのなら安いものだと考えていた。


「本当か?!」

 若干曇り掛かっていた表情が無邪気に晴れる。

「助かるよ! 二十万なんて頼んで出してもらえる金額じゃないからね」


「にじゅ、え? はあ?!」


 たかが布切れ一枚に二十万円? あまりの衝撃に誠羅は「馬鹿じゃないの?!」と過った言葉がそのまま口から流れ出た。服なんて高くても一万円程度と思っていた常識が覆される。


「安い女じゃないって言ったはずなんだけどね」

 札束で構成されている白衣を指でつまみ見せつける。

「ほら、汚れているが劣化しているわけじゃない。この過酷な環境でも平然としている白衣なんか、この世にそう無い。値段相応だろう?」


「ほんっとに、もう……」


 頑張って貯めたまえ、と到底払える金額ではないことを分かっていながら耳打ちする知優に怒りを通り越して呆れる。どこまで恐ろしい存在なんだ。

 学生に事実上の借金を負わせる彼女と比べれば、ただ殺しにかかってくる奴らなんか可愛いものだ。無事に帰れたとしても、当分の間はバイト漬けの毎日になりそうだ。それも、事実上のタダ働きで。



 

「蒼夷のこと……何もわからなかった」


 蒼夷君は死んだ! ひとたび白衣の件が頭から抜けると、ペティの台詞が脳内で再生される。

 確かに彼の発言には明らかな矛盾を孕んでいた。治療に使用したと思われる救急箱、血痕からその場で殺害された線は消える。もし、双粛清から負った傷と落下の衝撃で既に絶命していたとしたら、なぜ奴と戦う危険を冒してまで遺体を隠したのだろうか。

 敵である誠羅たちを殺す、それ以上の理由を蒼夷が持っていたのだろうか。


「蒼夷はきっと、生きている」

 傷口が塞がりかけている右手を凝視して言う。

「今でも蒼夷は、どこかで私たちを待っているんだ」


 蒼夷のことだ、心細くて泣きそうになっているに違いない、と屈託のない笑みが瞳に映る。なぜそんな顔ができるのだろう、情報だけ見れば死んでいる方が自然なはずなのに。……人というのは単純な生き物だ。


「そうね……また掃除用具箱に縮こまって、ふるえてるかも」


 蒼夷はまだ生きている、そんな根拠のない理想が真実であるかのように思えてくる。死んだと決めつけるには問題が山積みだ。少なくとも、この目で見るまでは理想の先で待ってもらうことにしよう。


「でも、この広い世界でどうやって見つけるつもりなの?」


「道しるべなら奴がやってくれているさ」


 知優が指す方向、そこにはペティのものであろう血痕が足跡のようにぽつぽつと並んでいる。

 止血もせず急いで向かう先、蒼夷とは限らないが、蒼夷が誠羅たちを待つとしたら同じ方向へ進むだろう。いずれ戻ってくると言った、”札幌”へ。






 赤い印を追って先に聳え立つ駅のホーム、相変わらず寂れていて人の気配は微塵も感じられないが、時刻表に記された札幌行きの文字、そのすぐ下に羽ペンの形をした憶晶が落ちていた。

 恐らくペティはこの白銀に覆われた景色で唯一存在する路線を頼りに札幌へ向かったのだろう。雪にまみれたとしても、その人工的な姿は誠羅から見ても一目瞭然だ。


 憶晶が煌めきを放つと、世界は元の色を取り戻す。時刻は十七時二十五分、札幌行きの特急が発車するまで残り五分だ。


「にしても、憶晶にとって私たちの存在は一体何なんだろうね」


 先に改札を通った知優が、手癖でICカードを取り出そうとポケットに手を突っ込む誠羅を後目に話す。

 周りの人間、無賃乗車をやすやすと快諾する機械、まるで誠羅たちはこの世界に存在していないような扱いだ。ならばあの時、東桜が認識した存在は一体何なのだろうか。


「少し前、君は憶晶の目線を持つ者が居る、と言っていたね」


「ええ、今のところそれがリーノじゃないか、って思ってるけど……」


 誠羅は今となっては使い物にならない携帯電話しか入っていないポケットから手を抜くが、やはり手癖が抜けないのか電子パネルに存在しないカードを読み込ませようとする。

 改札の機械はその馬鹿げた行動に合わせ、ピッと心地よい電子音を響かせた。


「そうだ、君は存在しているんだ。彼女が描いた記憶の世界に」


 知優は見解を語る。たった一人、憶晶を創り出した人物の存在と誠羅が置き換わっているのではないかと。誠羅はその人物の行動を無意識に模倣しているのではないかと。

 であれば、ひとつ矛盾が生じる。


「この世界に居る君は、一体誰と話すために立っているんだ?」


 人の流れは誠羅の横を素通りする。いつも通りの光景、川のせせらぎのように絶え間なく、あるべき秩序に準じて。


「……続きは電車に乗ってから話そう」




 模倣している——。その言葉に、誠羅は少しの違和感を覚えた。

 東姉弟(きょうだい)が登場した憶晶で行った実験、草千切ったり、砂利を蹴り飛ばしたりなど。それをリーノ(もしくはそれに準ずる誰か)が行ったというのだろうか。


 誠羅たちは既に停車していた特急列車に乗り込み、一番近い指定席と書かれた座席に腰を下ろす。

 知優は誠羅と向かい合わせになるよう座席を回転させ、斧の刃が間違っても乗客に当たらないよう空いている隣の席に立て掛けた。


「もし君だけがこの世界で存在を許されているのだとしたら、今の状況も傍から見れば理解し難い。虚空に居る誰かがあたかも目の前に座っているように、君は視線を送り続ける。そんなこと、リーノがすると思うか?」


「しない、とも言いきれない。私もリーノと会ったのはたった数分だから……でも、限りなくゼロに近いわね」


「それだけじゃない」

 道を挟んで座っている一人の男性を指す。

「彼は何も反応を示さない。ここまで奇怪な行動をする誠羅がすぐ横に居るのにだ」


 しかも、ここは指定席だ。仮に誠羅が座っている席がリーノに指定されている場所なら何ら問題は無いのだが、対面に鎮座する知優の席はどうなるか。

 指定者が訪れた時、なぜ向かい合わせになっているのか疑問を持ち、誠羅と干渉することになる。そうなれば置き換わった存在の誠羅の発言によって、大なり小なり未来が変わってしまうだろう。


「確かに、蒼夷と乗ってきた電車は他の人が居なかったから気にも留めてなかったけど、寝ている間に駅員が通る可能性だってある。それなのに、なんで滞りなく記憶が進んでいるの」


「そこで、だ」

 知優は組んでいた腕を解き、右手の人差し指を立てる。

「君は前に、今ここで私たちの認識できない存在が居るかもしれない、と言っていたね」


「ええ。でも、それはあくまで”存在を認識できない”であって、事象全てを都合よくコントロールできるとは思わない。私の行動を全部、日常に溶け込ませることなんか——」


「そうとも言い切れない。憶晶を自在に操り、故郷という世界を創った奴らと同じ力を持っているならね」


 とはいえバタフライエフェクトという言葉がある通り、誠羅の行動に合わせながら事象を捻じ曲げていくのは不可能と言い切れる。


 考えうる可能性はふたつ。ここからは私の創作話だ、と知優は鈍化した斧の手入れを始める。


「ここでは仮にリーノということにしておこう。リーノは憶晶を記したこの時代から、私たちのことを知っていた。そして私たちが故郷に来ること、数奇な出会いを果たすこと、憶晶を見ること……全てを予知していた。全てを見通した上で、他人が干渉しない環境を創り上げたんだ。今座っている座席は誰にも座られぬよう四人分指定し、対面する座席はあたかもこれから来る誰かのためにあらかじめ回転させておいた、という認識を塗る。誠羅が起こした奇天烈な行動は、当時なら違和感のないごく一般的な行動として擬える。突然私と話すために立ち止まるのは、電話が鳴ったためにその場で応対した。突然草を千切ったり、砂利を蹴り飛ばす行動は他の人がその場に居合わせないよう道や視線を誘導する、風を吹かせるのようにね。とはいえ、ペティやシープが彼女を認識できていないことも含め、彼女自身で自由に扱える”認識阻害”の能力があるのかもしれないね。——さて、それを踏まえてもうひとつの可能性を話そう。未来予知というのは創作物では絶対的なものとして扱われるが、私はそうとは思わない。未来というのは個人で完結するものじゃないからだ。事象に関わる全ての要素、その行動が映像のように事細かく再生され、全てを管理するのは膨大な情報を処理してかつ事象を自然に見せかけるようコントロールしなければならない。はっきり言って無謀だ。イチから地球を創り出す方がよっぽど簡単だと思うね。彼女もきっとそう思うはずだ。だから、彼女は全てを創り上げたのかもしれない。私たちがどのように考え、行動するのかを。まるでひとつの物語を執筆するかのように。私たちの行動を予知したのではなく、そう行動するよう環境を描いたんだ。……それがどこまでかは分からない。故郷に来るきっかけからなのか、はたまたこの世に生を受けた時なのか、今の私が彼女の描いた姿なのか——。もし、仮にだ。私たちが全てリーノの描いてきた物語を歩んで行っているのなら、リーノが人間である君に力を託した意味、分かる気がするよ。君が居なかったら、私はこんな発想できなかったと思うからね」


 ……。


 ひとつ、誠羅の中で疑問が産声を上げる。



 

 なら、なんでノイアたちに力を奪われる未来を描いたの——?




『私たちは、とある小さな村の山奥で暮らしていました。ご主人様夫婦とその子供たち、そして私を含めた兄弟三人の計七人の家族。とても、とてもとても幸せな時間を家族は与えてくれました。いつまでもこんな日々が続いていく、そう疑わなかったのです。』


 誠羅の脳内に焼き付いた鮮明な記憶。凄惨な過去を淡々と、無理やり感情を押し殺しているような表情と声で語るリーノ。

 嘘や演技とは思えなかった。


 もし、本当にリーノこそがこの物語の執筆者だとしたら? 家族の身に降りかかった不幸を繰り返さないために、憶晶を創ったとしたら? ぺティやシープのような、どうしようもない不幸に犯される者への救いになったとしたら?

 いや、違う。積み上げられていく仮説は逆止弁に阻まれる液体のように進行を止める。


 結果が見えているのなら、そもそも彼らの凄惨な過去を記す憶晶は生まれなかった。生まれる前に未来を執筆し、どうしようもない不幸を根本から消し去ることができたはずだ。

 シープとユウカの歪んだ愛の感情、それを構成させた環境なんか最初から消し去ればよかった、東桜とフブキの生まれ持った才能など最初から消し去ればよかった。どうしようもない不幸を消し去る、それが彼女の願いのはずなのだから。


 リーノ、お前の眼にはどんな未来が映されているのだというのだ。

 どん底を彷徨う亡者に望まれぬ希望を与え、それに生じた悲しみの連鎖。誠、蒼夷……や、ここに居る全員がその被害者だ。当たり前の、幸せな日常を引き裂かれ、故郷という名の地獄に突き落とされた全員が。

 不幸を振り撒いてなお叶えたい願いはなんだ? なぜ誠羅を選んだ? 何年、何十年、果てしなくうねり過ぎ去る時間と命の中で、誠羅という少女を待っていたんだ?


 『その光に神の御加護があらんことを。』


 もしかしたら、私たちは前提から間違えているのかもしれない。


 重要なのはノ(・)イ(・)ア(・)が(・)い(・)つ(・)神(・)の(・)力(・)を(・)奪(・)っ(・)た(・)か(・)だ。






『間もなく札幌、札幌に止まります』


 機械的なアナウンスが思考の眠りについている誠羅たちを起こす。ついにきた。物語の終着点、最後の土地”札幌”へ。


 誠羅たちは邁進(まいしん)の一歩を踏み込む。仲間と共に生きるため、幸せな日常を取り戻すため。この世界に渦巻く不幸を消し去るため。外へつながる路線に立ちはだかる憶晶の壁を、破壊した。


 結晶の粉塵を浴びながら外の景色を一望する。そこに広がるはとても都市とは呼べない、なにか巨大な生き物が暴れまわった後のような崩壊寸前の都市だった。


「ここに蒼夷が……?」

 誠羅は息を呑む。


「未来を、信じるしかない」


 路線から身を乗り出し、倒れこんだビルをつたって配管の露出した地面へと向かう。

 ガラスの破片が踏み込むたびに鳴き声を発するが、こんなことで恐怖している暇はない、と誠羅も負けじと知優の後に続いた。




 視点を変えるとその悲惨さは一層強くなる。倒壊したビル同士が紡ぎ合い、なんとか都市としての尊厳を保っているような印象、それもふとした拍子に崩れ去ってしまいそうだ。

 破壊された消火栓は力無く貯めこんだ水を漏らし、潰された乗用車のタイヤを濡らしている。知優の手を借りなければ、まともに歩行することすら困難だっただろう。


 異様な点はまだある。例えば街に並ぶ地名を表した看板、ここでは”中央区”と示されているが、少し進めば”手—区””西区””琴—”と次々に変わっていく。

 まるで札幌と呼ばれる広い地域をひとつに凝縮したかのようだった。


「こんなに情報量が多かったら、憶晶を見つけるのも一苦労ね」


 半分削り取られた民家を物色しながらため息をつく。


「今は蒼夷の捜索を優先しよう。憶晶はあとで回収すればいい」


 その通りだ。記憶の世界に行って、蒼夷とすれ違いを起こそうものなら本末転倒だ。しかし、蒼夷の痕跡が残っているのかが心配だ。

 この街並みでは、ひと暴れしたところで景色に何の変化ももたらさない。血痕でも残っていれば話は別だが、それはそれで都合が悪い。


 当てもなくひと際大きいショッピングモールへ身を委ねる。内装は散々なもので、至る所に固いものを叩きつけられたようなひび割れ、何者かの斬撃を受けたような断面を見せつけるカート。

 ここでも化け物が住み着いているのだろうか。誠羅たちは気配を消しながら構内を進んで行く。


 時折壁に付着している楕円形の憶晶を目にする。それは今までの憶晶とは異なり、なにかを基に作られた形ではないようだ。強いて似たようなものを挙げるとするなら、生物の卵だろうか。

 とはいえ、今は憶晶を観ている場合じゃない。


 こんな時に携帯が使えたら、と電源を入れる。やはり圏外だ。時間すらも開くたびに出鱈目な表示をする。存在意義すら失っている、武器に使った方がよっぽど活躍できそうだ。


 そんなことを思っていると、遠くの方で赤ん坊のような泣き声が聞こえた。蒼夷……ではなさそうだが、他の生存者が居るかもしれない。

 そう足早に現地へ向かおうとすると、知優に肩を掴まれた。


「待て、罠かもしれないぞ」


 存在を悟られぬようゆっくり行こう、その提案に従い、声のする方へ向かうと案の定だった。

 ちょうどへこんで死角となる一本道の天井、そこに張り付き通りかかる獲物を今か今かと唾液を垂らしている化け物。蛙(かえる)のような見た目と長い舌が特徴的だ。


「ひっ……」

 おぞましい見た目に誠羅は小さく悲鳴を上げる。

「まさか蒼夷が食べられてる、なんてことないわよね?」


「そうだといいんだがね」


 知優は大きく開けられたがま口に一発の銃弾を喰らわす。助けを求める赤ん坊のような鳴き声を上げながら落ちてきた蛙に容赦なく斧を振り下ろし、あっけなくその命の灯火を吹き消した。


 消えゆく結晶、知優は誠羅の発言に不安を抱いていたのか手際よく腹を裂き、中身を確認する。からっぽだ。たとえ蒼夷が捕食されていたとしても骨まで消化される時間はない。

 ひとまずの安堵感を得て、知優はほっと胸をなでおろす。理由を知らない人から見れば、その様子は明らかに異質だろう。これではどっちが化け物か分からない。


「じゃあここの痕跡はこいつが……?」


「違うだろうね、明らかに弱すぎる」


 蛙にしては大層立派な体格をしていたが、全長にしておよそ一六五センチ、知優に若干及ばない程度だ。それがいくら暴れたところで、あの痕跡は残せない。

 ならばもっと強大な、親玉的存在が居るのだろうか。


「ともかく、探せる場所は粗方探した。蒼夷なら銃声を聞いてひょこひょこ現れるだろうから、恐らくここには居ないね。別を当たるとしようか」


 そう踵を返した時、不可解な出来事が起こる。


 至る所に付着した楕円形の憶晶、それらは誠羅たちの出した音で目覚めたかのように蠢き始める。硬度の高い結晶体がなぜ、しかも独りでに動き始めたのだ?

 そんな疑問が巡る最中、本能がその危険性を察知する。


 生物の卵、直感的に表した言葉が魂を宿らせる。間違いない、この憶晶は——。


 煌めく殻が鋭い爪により切り壊され、誕生した生命が溢れ出てくる。一匹、二匹……計四匹の爬虫類、映画で見た小型の恐竜”ラプトル”に酷似していた。

 記憶の結晶から生命が産まれてくるなど、そんな馬鹿げたことあるわけない。


 ラプトル共は産まれてきた瞬間から、既に自身の役目を理解しているようだった。ギィギィと宣戦布告をするかのように鳴き、辺りに散り陣営を始める。

 だが、こちらには知優が居る。この程度、文字通り赤子の手を捻るようなものだ。問題は奴らだけでないことだ。


 輪唱する生命の鼓動、瞬く間に静けさで包まれた構内が烈火の如く産声を上げる生物によって修羅場と化す。

 右には自身の胴ほどある巨大な蜘蛛、背後には硬い甲羅で覆われた三葉虫のような生物。数にして十は軽く超えている。一斉にかかられたらひとたまりもない。


「ここでは流石に無理だ! 移動するぞ」


 知優は正面に立ち塞がるラプトルの首を刈り、誠羅の手を引く。進むは渡り廊下の一本道、そこであわよくば一網打尽にできればと考えているのだろう。

 予想通り、追手は素早いラプトルを先頭に長い隊列を組み、対象を捕食すべく肉食特有の牙をちらつかせた。


 ガラス張りの渡り廊下、二人は銃を構え迫りくる生命たちを迎え撃とうと踵を返す。

 流れゆく視界に映る景色、その一瞬で二人は正常な思考能力を失わせた。


「えっ……」


 疑問の吐息が漏れる。なぜ奴がここに? あんな巨体が都合良く現れるはずない。

 音はしなかった、地響きはなかった。移動してきた可能性はゼロ、ならば既に潜んでいたというのか? 電柱よりも太く、しなやかに操る触手。土色の全身に黄色い花柄の斑点模様、そこには無数の浅い切り傷が刻まれている、奴が。


「あの時の蛸(たこ)……なぜここに?!」


 触手の一本が渡り廊下に絡みつく。異常を察知した生命たちはすぐさま引き返そうと仲間に呼びかけるが、あまりにも遅すぎた。

 軽々しく人が進むべき道をねじ切ると、一部の生命たちと共に二人は内臓が持ち上げられる感覚を覚える。転落しないよう、知優は右手で誠羅を抱き、残った左手で木製の手すりを掴む。

 数匹、生命が落ちていく様を後目に、そのおぞましい光景を一望した。


 やはり敵意はあった。しかも、虫笑いや双粛清と違って憶晶の壁が壊せないものとして認識し、絶好の機会が訪れるまで身を忍ばせる知能まであるように思える。

 ならば、誠羅たちがこの渡り廊下を通ることも見越した上で、この巨体を潜ませていたのではないだろうか。複雑な情景に溶け込める能力を持ち合わせていたのかは不明だが、蛸には”擬態”の能力を持っている。


 ……擬態?


 程なくして二人の身体は、ねじ切られた渡り廊下ごと奥の建物まで投げ飛ばされる。ある程度の衝撃は知優が請け負ってくれたおかげでほぼ無傷だ。


 ようやく解放された身体を無理やり起こす。追ってきた生命たちの殆どは瓦礫に埋もれ即死している。

 唯一生き残ったラプトルも必死に威嚇という名の命乞いをしていたが、無残にも太い触手によって払い飛ばされ、その小さな命は蝋燭の火のようにこと消えてしまった。


「誠羅、下がってろ」

 知優は斧を握りしめる。

「蒼夷のためにも、ここで排除しなくてはならない」


 双粛清を圧倒する力を持った知優なら奴と渡り合える、合理的な判断だ。しかし。


「あ……あれ」

 誠羅は右手にある建物を指す。「あれも生きてる……よね?」


 頭を下に、垂直に張り付く巨大な生命。四枚ある羽のうち一枚が欠損し、細長い身体に深い斬撃痕が残されている。

 しかし、蜻蛉(とんぼ)のような姿を徐に動かし、誠羅たちの存在を認めた。しかも、それだけではない。


 背後にまたもや楕円形の憶晶が蠢いている。——駅の文字を覆い隠すほどの大きさ、数値にして七、八メートルほどだろうか。誕生する……今、この瞬間をもって。


 ぎぃィャアア! 目元まで憶晶を纏わせた頭蓋がけたたましい産声を上げる。耳を塞いでも鼓膜が突き破られそうな咆哮だ。

 短い前脚をだらんと垂らし、屈強な後ろ脚で力強く大地へ踏み込む。その姿は白銀の大地で出会ったアンキロサウルスに引けを取らない古代の生物兵器、パキケファロサウルスに酷似していた。


「なぜどいつもこいつも、規格外の大きさをしているんだ?!」


 巨体を動かす動力源はいったいどこから生み出されているのだ、と半ば呆れ気味に怒号を飛ばす知優。しかし、どう嘆いたところで現状は変わらない。

 一匹ならまだしも、三匹を相手するのは無謀だ。逃げるべきだ、だがどうやって? 道は完全に塞がれている。見渡す限り使えそうな憶晶は見当たらない。

 可能性があるとすれば卵の憶晶だが、その隙を奴らが与えてくれるかどうかだ。


 蜻蛉と恐竜は二人を凝視する。明確な殺意を宿した視線と存在感により圧倒され、二人は身を寄せ合うことしかできなかった。

 蒼夷が居れば一匹ずつ相手できたかもしれない。なぜここまで来て絶望に打ちひしがれなければならないのだ。


 蒼夷……。もし一人でこの地獄のような環境に身を投じていたとしたら、もう既に……。


 ——どうか、死なないでください。


 慈愛に満ちた礼をするリーノの言葉が過る。この物語の執筆者なら、全てを見通しているのなら。……奇跡くらい、起こしてみろ。

 お前の目的は分からない、何が見えているのかも。だが、叶えたい願いのために、”及百合誠羅”を待っていたんだろう?


 蛸が触手を伸ばし、ゆっくりと二人へ近寄る。

 その様子はふたつの生命の視線を釘付けにし、——目の色を変えさせた。


 恐竜は暴走列車の如く地面を蹴り上げ、触手の主へ強烈な頭突きする。蜻蛉は壊れかかった身体を羽搏かせ鉄をも噛み砕きそうな顎で喰らい付く。

 生命たちの標的は、一瞬にして凶悪な軟体動物へと移り変わったのだ。


 突如として向けられたふたつの殺意に圧倒される触手の主。その光景は、あまりにも異常だった。


「なんで……仲間じゃ、なかったの?」


 虫笑い、双粛清含め出会ってきた生命は一点、誠羅たちを標的としていた。

 姿かたちは違えど、協力する素振りは見せずとも、生命同士が争うような行動は見せなかった。縄張り争いなら、起こる場面などいくらでもあった。なぜ今になって、闘志を揺らがすに至ったというのだ。


「と、ともかく都合が良いのは明らかだ」

 知優は困惑して震える誠羅の手を取る。

「離れよう、巻き込まれたらたまったものじゃない。同士討ちで消耗した奴らを漁夫の利で仕留める」


 狂い無く冷静な判断だった。誠羅は思うように動かない首をなんとか縦に振り、知優の若干速い足並みに揃える。軟体動物の柔らかい肉が食い千切られる音を聞きながら。


 向かって左側、駐輪場を超えた先に伸びる大通りへ移動する。背の高い建物ばかりが並んでいて視界が悪いが、その分身を隠すのには適している。

 嵐が過ぎ去るまで路地裏で待機していよう、そう足を運んだ矢先、頭上から赫い雨が降り始めた。


 まだ一分も経っていない。赫い雨の正体は切断された恐竜の首から滴り落ちる血飛沫だった。生気を失った生首は宙を舞い、すぐそこの建物へと衝突する。

 この僅かな時間で一匹葬られたというなら、手負いの蜻蛉も同じ末路を迎えているだろう。


 予想をそのまま絵に描いたような姿で蛸は姿を現す。二本の触手で蜻蛉を逆方向に折り畳み、恐竜の亡骸を引きずり回す。

 既に絶命していた恐竜の身体をまるでゴミでも扱うかのように後方へ投げ捨て、かろうじて息をしていた蜻蛉は残酷にも三本目の触手を使い、胴と腹を引き千切ってしまった。


 成す術なく敗北した二匹の亡骸が風に乗って煌めき、消えていく。まるで、血に濡れた功績をたたえる紙吹雪のように、今までの化け物とは一線を画していることを暗喩した。

 知優も予想を遥かに上回る実力を前に面食らっている様子だった。この化け物を、誠羅を守りながら倒さなければならないのか。

 骨が折れるとかそういう騒ぎではない。下手をすれば自身の命すら危ういのだ。


「誠羅、何か策はないか……?」


 こういう時、なぜだか無性に判断をするのが怖くなる。自身の選択によって犠牲になる命を想像すると、脚が竦んでしまうのだ。だから、情けなく選択を他者に委ねてしまう。

 こんな姿、蒼夷が見たらどう思うのだろうか。僕が憧れてた英雄(ヒーロー)は、ちっぽけな張りぼてだったんですね、と失望させてしまうだろうか。


「戦わない選択肢は無いの?」


 誠羅は現状最も安全な提案をする。問題から目を背ける選択であったとしても、命には代えられないことを理解しているからだ。

 それに怒りを覚えてしまうのは、自分がまだ感情のまま生きる子供だからなのだろうか。


 蒼夷は死んでいない、根拠のない夢物語に意地を張るのも、諦めきれずに亡き友人の影を追い続けるのも、全て英雄(ヒーロー)に憧れた子供のようなものだ。

 現実は非情であると、自身は弱きを護る存在ではないと、認めたくないから夢を思い描いているのではないだろうか。英雄(ヒーロー)になりきり、悪を打ち砕く正義を妄想する子供のように。


 触手が徐に伸びていく。誠羅の「なにしてるのっ?!」という声もどこか遠い。どうでもいい、なんでもいい。君たちは、黙って私に護られていればいいのだから。


 ——夢を見て何が悪い、希望を望んで何が悪い。それが私の正義の形なら、それを信じるまでだ。

 光のように、電気のように。前へ前へと進んで行けばいい。果てしなく広がる世界の先に、私の正義があるのなら。誠羅、それが私の誠(ただ)しさだ。


 電撃が駆ける。彼女の身体は本能によって取り込まれる。落雷のように踏み込んだ脚は轟音を響かせ、大地を隆起させる。

 刹那の出来事だった。二本の触手は音よりも早く飛ばされた斬撃により解体され、眠りにつくように地面へ叩き付けられる。

 誠羅にとってはまるで紙芝居を見せられてるかのような、目視では認識できないほどの速さだった。


 蛸は自身に何をされたのか理解できないと言わんばかりに、触手の切断面を凝視する。止血すべく憶晶を纏わせるが、彼女の前では束の間の安堵でしかない。

 蛸は過ちを犯してしまったのだ。たった一人の友人の帰りを待つ巫女に姿を現してしまった、それだけのことだ。


 山吹色の眼は蛸の急所を貫く。それはさながら、獲物を刈り取ろうとする猛獣のように冷酷な、鋭い眼光であった。


 だから、迫りくるもう一人の脅威に気が付かなかった。


 ——目標ヲ確認。構エロ、同胞タチヨ。


 ——急襲作戦カイシッ!


 水中を切り裂く三又の槍が蛸の頭部へと突き刺さる。その張本人は小柄な体系を最大限生かし、建物を縦横無尽に駆けまわる。

 ようやく状況を理解した蛸は残された六本の触手を操り、空を泳ぐ少女を捕らえようと奮闘する。


 速度は互角だ。いや、若干蛸の方が優勢とも言える。

 しかし、動きを封じ込めようと伸ばされた触手は吸盤ごと少女の背中に寄生する”何か”によって食い千切られる。そうでなくとも、少女の屈強な尻尾によって弾き飛ばされる。

 鱗によって吸盤が傷付けられてしまえば、本来の役割を果たすことができない。


 少女が手を掲げると、三又の槍は忠誠心により主(あるじ)へと帰還する。そして二投目、ダーツの矢のように放たれた槍は見事急所である眉間部分に命中する。

 その一撃はすさまじく、知優の斬撃に肩を並べるほどの力を宿していた。


 たまらず蛸はその場で目を閉じ脱力する。今ある命を大人しく少女に明け渡す覚悟ができたようにも見えた。


 少女は三投目を構えるため、槍を呼び寄せる。とどめの一撃、狙うは当然主心臓(ブル)だ。寄生体を操り、高い建物の頂上へ噛み付かせると、小柄な身体を天まで泳がせた。

 さながら大海を統治する竜のように、勇者の名を佩(は)くように。


 画竜点睛、今の彼女を表すのにこれ以上無く適当な言葉であった。


 鈍重な猛攻を受け息絶えた蛸の遺体にひょいと着地する巫女。造作もなく行われた殺戮にしてはどこか誇らしげに、太陽のような眩しい笑顔を寄生体へ向ける。

 変わっていない、なにもかも。そのはずなのに。


「あお……っ」


 二人の瞳は激しく揺らいでいた。再会の喜びか、はたまた望んでいない姿への恐怖か。

 しかし確かなのは、二人が知っている名前は今の彼女には不適切であると判断してしまったことだ。


 ——巫女ガ一匹。人間ト一緒ニ居ル。


 ——処ス? 処ス?!


 ——イヤ、待テ。主(アルジ)ノ判断ヲ。


「うん、そうしてもらえると助かるかな」


 くるりと身体を回す。ふわりと海流に委ねる海藻のように靡く緑掛かった髪。顔を見合わせた瞬間、希望と絶望が交差した感覚を覚える。


「ひさしぶり……ですね。誠羅さん、知優さん」


 委碧(いへき)蒼夷(あおい)……。こんな形で再会するのなら、いっそのこと死んでしまえばよかったのに。そう、誠羅は思ってしまった。

 

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