失われゆく物語
こんな未来など望んでいなかった……。
あの臆病で言葉遣いですらおどおどと、異端な自分を隠そうとしていた。
しかし、それでも仲間のため恐怖へ誰よりも勇敢に立ち向かう委碧蒼夷という存在は、気味の悪いちぐはぐの言語を操る四匹の寄生体によって否定される。
死んでしまった方が、殺されてしまった方がよっぽど明るい未来だった。
——見テル見テルゥ! 僕ヲ見テルゥ!
——哀シイネェ? 哀シイネェ?
——読メ空気ヲ。同胞ヨ。
蛇のような、龍のような寄生体が意志を持って話している。うねうねと細長い身体を蠢かせる姿は、ペティの首元に寄生する白銀を思わせた。
抉られたはらわたに根を張るように、奴らは蒼夷の生き血を奪っている。
「なに……? そいつら——」
誠羅がおぞましい寄生体を指すと同時に、知優は怯えた様子で刃を向ける。
「蒼夷、今すぐこっちに来い! ペティにやられたんだろう?! 大丈夫だ、私が、切り刻んでやるから!」
「知優さん、優しいんですね」
蒼夷は穏やかな眼を向ける。
「嬉しいのと悲しいの、半分ずつです」
もう死んでたら諦めもつくのに、と小声で呟きながら蛸の遺体に腰を下ろした。その動作はさながら、真実を知った賢者であるかのように堂々たる様子だった。
「あのときしていた約束を果たしに来ました。僕がなんで自分のことを”僕”と呼ぶのか……そして、なんで僕が生きているのか。誠羅さんたちがどこまで勘づいているか、僕にはわからないんですけど、知ってること全部考察済みなこと前提でお話ししますね。二人とも僕よりずうっと、頭が良いんですから」
さて、答え合わせです。そう言って蒼夷は擦り寄ってくる寄生体の頭部を一個体ずつ愛でながら、今までの経緯を語り始めた。
僕はあの化け物に殺されました。鋭い牙で背骨ごと噛み砕かれて、四階から叩き落されて……言葉じゃ表せないくらいの激痛を感じました。そのまま死んじゃえば、どれほど良かったんでしょうね。
想像できますか? 文字通り身体に穴を空けられて、内臓までぐちゃぐちゃになる感覚。それがずっと、慣れることなく伝わってくるんです。
僕は死にたいと思いました、懇願しました。こんな思いをするなら、家族とか友達とか、そんなのもうどうでもいいから死なせてほしいって願いました。
でも、殺すと死ぬは僕たち巫女にとってイコールで結ばれないものでした。どんなに待っても、苦しくても、意識ははっきりとしていたんです。
肺まで壊れて、呼吸もできない状態だったのに、ですよ。
多分、僕の大事な友達はうまく逃げれたんでしょうね。あの化け物が僕のところまでやって来て、やっと楽になれるんだなって安心したのを覚えています。
痛みを伝える神経が死ねないんだったら、感じる脳みそを壊したら楽になれる。目で訴えました、なんとか手を動かして音を出そうとしました。
でも、あの化け物が気づいてくれても、僕のことを無視したんです。死んでないのに、死人に口なしって思われちゃったんでしょうね。
僕は思いました。なんで生まれてきたんだろうって。地獄の苦しみの先に、なにが待っているんだろうって。きっと、なにもないんだろうなって。
生も死も、希望も絶望も、なにもない真っ暗な空間だけが残っているんだろうなって思いました。だから、もう全部諦めちゃいました。諦めて、今までの人生を振り返ろうと目を瞑りました。
僕は生まれた時から、自分の性別に違和感を覚えていました。いや、というよりかは、性別が二種類しかないこと疑問を持っていたの方が適しているかもしれません。
男の人と女の人……みんな生まれた時から、その型にぴったりとはまっていて何不自由なく、疑問に思うことなく生きてきたと思います。でも、僕にとってはそれが不思議で仕方なかったんです。
理解できないと思いますけど、僕はふたつの性別を兼ね備えているんです。
身体は女の人、心は男の人……昔から僕は男の人と話している方が気が楽でしたし、女の人と関わっていると少しだけ緊張しました。
たぶん、そんな概念ないとはいえみんなわかってたと思います。僕がおんなじ性別の、仲間じゃないってこと。
更衣室での着替えが苦痛でした。修学旅行での入浴が苦痛でした。どちらの型にも属さない僕を、常識はむりやり”女の子”として押し込んで、集団での協調性を育ませようとする……。
僕はそれが嫌で、でもどうしたらいいのかわかんなくて……。だって、僕以外にこんな人いないんですもん。女の子を性的対象として見ている女の子なんか、本当は男の子なんだって言い張る女の子なんか……。
それでも、ある程度の幸せは保証されていました。巫女という概念を創ってくれた世間には、神様には頭が上がりません。でも僕は無意識に、調子に乗っていたんでしょうね。
巫女なら何をしても許される、と思い込んでいたんでしょうね。たとえ世間がそうだとしても、個人はそうもいきませんでした。
中学を卒業するとき、僕はある女の子に愛を伝えたんです。女の子同士でも、愛し合ってはいけない法律はないって。心のどこかでは巫女に好かれるなんて、これ以上に光栄なことはないと思っていたと思います。
だから、振られる未来を想像していなかったんだと思います。でも、現実はそう甘くありませんでした。
笑ってください。僕はその子に『ごめんなさい』とも『気持ちだけ受け取る』とも言われなかったんです。たった一言『気持ち悪い』と言われて、その子は僕の視界から立ち去りました。
悲しいとか、そういう言葉じゃ僕の気持ちは表せませんでした。どちらかというと憎悪に近いです。
なんで僕が、神様に愛された巫女がこんな思いをしなくちゃならないんだ、どうしてこんな不完全な状態で生まれて来ちゃったのか。
僕は神様を呪いました。この手で神様を握りつぶしたいと空を掴もうとしました。でも、掴めたのは虚しさだけだったんです。
悪いのは他の誰でもない、僕なんだ。社会に適応できない思想を持っている僕なんだって。
だから、僕は僕を捨てました。僕を殺して、自分として生きていくことを決めたんです。それじゃないと僕は、生きていくのがあまりにも難しかったから……。
昔はそんな僕を『性同一性障害』、と呼んでいたらしいです。
でも、それでも。僕を僕として認めてくれる人はいました。
僕にはたった一人の弟がいるんです。それはもう可愛くて、なにをしても僕の後ろをついてくるひよこみたいな子でした。
血は繋がっていないんですけど、一緒にキャッチボールしたり、かくれんぼしたり……それはもう楽しい記憶でした。でも、その記憶すらも僕を冷たく突き放したんです。
故郷に来る少し前、弟は足を骨折して入院してしまったんです。お医者さんは疲労骨折ですって言っていたんですけど、まだ小学生の弟が疲労骨折なんておかしいじゃないですか。
だから、当日に遊んでいたお友達の後をつけてみたんです。自慢じゃないんですけど、気配を消すことだけは得意だったので。
日曜日の昼ぐらいですかね、お友達の一人がサッカーボールを脛に当てて、面白おかしく痛がる素振りを見せたんです。
そういうのが流行ってるのかなって見てると『颯の真似やめろってー』って弟の名前を出してみんな笑い転げたんです。
鈍い僕でもわかりましたよ。可愛い弟になにがあったのかなんて。
でも、僕には立ち向かう勇気がありませんでした。そこでガツンと言ってやれば良かったのかもしれないのに、僕は臆病者のクズだったんです。
だけど、この問題を野放しにするわけにはいかなかったから、お父さんとお母さんに弟を転校させる提案をしました。
『でも子供のやることだしな……』
と、お父さんはそう言って僕の提案を流そうとしました。
『転校するとなればどっちかの通学が大変になる』と。
そんなの、僕が時間をかけて通学すればいいし、なんなら家を出て入寮すればいい話じゃないですか。常和学園ならそういう制度も充実してるから。
……結局、方針が定まらないまま、弟の退院の日を迎えてしまいました。
僕は弟のことが心配で、心配で。その日は学園を休んで一緒に登校しましたよ。
正直なところ、弟には転校の話が決まるまで学校を休んでいてほしかったです。でも、それを決めるのは僕じゃなかったから。
その帰り道に僕はとある女の人と出会ったんです。気品に溢れていて、礼儀正しい。おどおどしている僕とは正反対の、少し色の抜けた黒髪ロングの女の人でした。
とても綺麗な人だなって見とれていたのを覚えています。
『貴方が委碧蒼夷でして?』
馬鹿正直な僕はなんの疑いもなく頷きました。すると女の人は分厚いコートからさっとメモ帳を取り出して、なにかを書き始めたんです。
『普段の登校ルートとは大分と異なっているようですが、なにか御用事でも?』
はい、ちょっと弟の付き添いで——。そう言い切る前に女の人は使っていたペンから僕の首元に針を飛ばしてきました。だいぶせっかちな人でしたね。
その針が強力な麻酔薬だと知ったのは知優さんの話を聞いてからの出来事でした。
僕は何をされたのかわからないまま意識を失って、僕の記憶は終わりを告げました。
結局僕はなにもかもダメなまま終わったんだって自己嫌悪に陥いりました。
可愛い弟を守ってあげられなかった、知優さんたちの力になれなかった。だから、これはそんな僕への罰なんだなと思ったんです。
そう思うと、この苦しみも受け入れられるような気がしたんです。
救いなんか求めてなかったのに。ほんとうに、神様ってあべこべですよね。
目を覚ますと、そこにはペティさんが忙しそうに何かをしていたんです。救急箱から出した包帯を比較的小さい傷に巻いて、必死に助けようとしていたんです。
幼い身体で、できることをひたむきに頑張っている姿、僕はそんな愛らしい様子を弟と重ねてしまいました。
『わやだな、この傷……さすがにおれでも厳しいかも』
ペティさんは言いました。『もし助かる可能性があったら、信じてくれる?』って。そんなの、答えは決まってるじゃないですか。
その方法が”内臓機器を他の生物に置き換える”だったとしても、”副作用でおれみたいな醜い姿になるかもしれない”と忠告されても。弟のためなら、僕はどうなっても良かったんですから。
それでこの子たちが生まれたんです。名前はペティさんの追復と遁走に倣って、四匹とも四重奏と呼ぶことにしました。
傷が完全に癒えるまで、ひとまず近くの民家で身を隠そうとペティさんは言いました。
そこで初めてペティさんの名前を聞いた時、耳を疑いましたよ。こんな優しい人が誠羅さんたちを殺そうとしていた人なんて、想像もつきませんでしたから。
僕の話を聞いて、二人とも疑問に思ったはずです。なんでペティさんが敵である僕を助けたのかって。
もちろん僕だって思いましたよ、だから直接訊いてみたんです。すると、ペティさんはとても困った様子で話しました。まるで複雑に絡み合う物語を紐解くように難解で、苦しそうな顔でした。
『……本当は、おれたちだってこんな酷いことしたくないんだよ。でもおれたちの家族……蒼夷君の世界では巫女って呼ばれてる人たちのことね。その人たちは不幸の存在しない世界へ進撃を始めているのさ。表面的にはなんまらいいことかもしれない。でも、その物語を描いてるおれたちの家族の一人はその世界をどういった形で実現させるのかわからない以上、止めなくちゃいけないのさ。だってさ、蒼夷君も知ってるでしょ? ”巫女”がすごい力を持ってるって。その力を持った巫女を使って起こす改革なんて、おれには悪い予感しかしないのさ。……もし、蒼夷君がその進撃に加担するようなら、おれたちは全力で止めなくちゃいけない、殺さなくちゃいけないのさ。そうならないようにカルテットたちには少しだけ巫女を敵対視する洗脳効果を持たせてあるけど、それもどれくらい意味があるのかわかんない。ただ、少なくともおれは、蒼夷君を殺したくないよ』
知優さんに猶予を与えなかったのに、なんで僕だけ助けたのかを訊くと『なんでかほっとけなかったんだよね。可哀想って思ったからかな、それとも顔がめんこいからかな』って顔を綻ばせました。
そんな適当な理由でって思いましたけど、ペティさんの話し方を聞いてるうちに運命っていうのを感じましたよ。全然論理的じゃないんですけど。
これでペティさんたちの巫女に対する想いがわかりました。でも、誠羅さんたちは思ったはずです。なら、なんで巫女じゃない誠羅さんも敵対視するのかって。
もちろんそのことも訊きましたよ。そしたらペティさんは『もっと難しいこと話すけど』って話してくれました。
『誠羅は、”革命”なんだ。おれたちにとっても、この物語を描いているおれたちの家族にとっても。いや、もっとおっきな範囲で。大自然が残した最後の自浄作用、この地球に芽吹く、生命全員に”希望”も”絶望”も与えられる。誠羅は自覚してなくても、わかっていると思うよ。故郷に来て、憶晶を観て。自分がなんのために生まれてきたのかを、自分に与えられた使命を。……最初故郷に来た時、やられたって思ったね。誠羅にとって”敵”と思わせるには充分の、おれたちにとっていっちばん都合の悪い場面が見ささるように描かれたんだから。そうなったら、もう捕らえるしかないじゃん。口でどうのこうの言っても、敵の御託なんて雑音でしかないんだからさ。真実が嫌でも見ささるような状況まで、他の手に渡らないよう管理しないといけないのさ。誠羅には悪いけど、捕まえたらおれたちの手の上で転がせるようになるまで、ノイアさんに頼んで氷漬けにしておくつもり。クズだと思うだろうけど、それがおれたちの誠しさだから』
ひとしきり話し終わったら、ペティさんはシープさんと一緒に出て行ってしまいました。僕に壮大な選択肢を置いて……とても迷いましたよ。
どっちの話を信じればいいのか、わからないんですから。どっちが真実を語っているのか、わからないんですから。
誠羅さんたちは虫笑いに怯えていた僕に勇気を与えてくれました。ペティさんは死の瀬戸際にいる僕を救ってくれました。どっちも、僕にとって大切な人たちです。
ひとつ、たったひとつだけ選ぶ理由を挙げるとするなら——。
ペティさんは昔の僕にも、今の颯にもよく似ていた気がしたことです。
「そんな出鱈目な話……本気で信じているのか?」
知優は当惑した表情で蒼夷の朗らかな笑顔を見つめる。
「君も分かっているはずだ。その寄生虫には洗脳効果が宿されている、奴らの都合の良いように思考を操られているんだぞ!」
「そうですね、そうかもしれません。でも、もしそうだとして、ペティさんはなんで自分の手口を明かすようなことしたんですか? それに、この子たちを迎える選択を取ったのは、他でもない僕自身なんですよ」
頭の弱い奴め。死に際にそんな選択を迫られたなら、誰だってそうするに決まってる。
なにが運命だ、巫女を利用する口実にまんまと乗せられる彼女の甘い思考に反吐が出る。
巫女が起こす進撃だと? 悪い予感しかしないだと? 違う、奴らは悪なのだ。世界を自分たちの手に収める野望、その障壁となる巫女が邪魔でしかないからそう語っているだけなんだ。
神の力を奪った死にぞこないどもの言うことなんか……それを鵜吞みにする蒼夷なんか。
誠羅は即座に弾丸を放つ、狙いは裏切り者の頭部だ。しかし、怒りに任せて発射された弾は僅かに的を外し、明後日の方向へと飛んでいく。
だがまだ六発も残っている、逃げられる前に仕留めさえすれば——。
「やめろ誠羅ッ!」
愚か者はもう一人居たようだ。構えていた銃を抑え込まれる。
「なにするの知優! この裏切り者にまだ情けをかけるつもりなの?!」
「それはこっちの台詞だ! 大切な仲間を切り捨てようだなんて、蒼夷はあの寄生虫どもに洗脳されてるだけなんだぞ! 奴らを切り落とせばきっと、元の蒼夷に戻るはずだ!」
甘い、甘い甘い! どいつもこいつも頭がいかれてる。馬鹿は死なないと治らないのだ。
寄生虫を切り落としたところで、また上手い口車に乗せられる。自分の信じた都合の良い未来しか見えていない馬鹿は、生かしておいても害にしかならないのだ。
「やっぱり、わかり合える未来はないんですね……」
——ダカラアレホド言ッタンダ! 巫女ハ生カシテオクダケ害ニナルト!
——悔シイネエ? 悔シイネエ?
——処ス? 処ス?!
カルテットは主の危険を察知し一斉に喚き始める。名前にそぐわない、耳障りな声だ。
蒼夷は奴らを宥め、最後の選択を迫ろうと蛸の遺体から降り、二人の前に立ちはだかる。なにか希望に満ちた表情、期待を胸ににんまりと口角を上げる仕草。その全てが誠羅の感情を逆撫でした。
裏切り者、裏切り者! その腐った脳みそを、今すぐにでもぶちまけてやる。間違った未来を見通す眼も、愚かな物語を綺麗なもののように語る口も、声も。原型が無くなるまで、存在を認知されなくなるまでぐちゃぐちゃにしてやる。
「誠羅さん」
汚れきった手を差し伸べる。
「僕と一緒に来てください。僕はペティさんたちの喜ぶ顔が見たいんです、弟が安心して暮らせる未来を創りたいんです。……だから——」
「弟さんは、こんなお姉ちゃん見てどう思うのかしらね。気持ち悪い寄生虫に操られた、クズどもの手に堕ちた情けない姿を見て、どう思うのかしらね」
台詞を言い終える前に最大限彼女の精神を抉る皮肉を言ってやった。死ぬ前に懺悔でもしていろ、お前はもう”友達”じゃない。
しかし、彼女は目の色を一切変えなかった。そうなることを予測していた、一筋縄ではいかないと最初から分かっていたかのように。再び歪んだ思想を口から吐き出す。
「お願いします、誠しい選択をしてください。せっかく、待ってくれてるんですから……もう一度だけ繰り返します。ついてきてください、一緒に世界を救ってください」
「あおいっ!」
知優が誠羅たちの間に割って入る。また現実味の無い夢物語を語るのなら一発殴ってやろうと拳を握ったが、「誠羅は渡せない」と文頭に付けたのを聞き、ひとまず安堵する。
しかし、振るえる声で語る知優はまだ話の本筋が見えていないようだった。
「君はまるで選択肢を与えているような口ぶりだが、自惚れるなよ? 君は与えられる側なんだ。”今すぐその寄生虫どもを切り落とす”か”この場を立ち去る”かの二択しかない。いいか? ”誠羅を奪う選択”は与えられていないんだぞ?」
「ばかっ! ”今すぐ殺す”しかないでしょ?!」
「君は少しだまっていろ!」
あまりにも恐ろしい顔に誠羅は柄にもなく怖気づいてしまった。
警告とも思える怒号と共に見せつけられた肉食猛獣特有の、刃物のような歯々を認めた時、本能的に殺されると思ってしまったからだ。
「なあ蒼夷? 君は一度でも私に勝った瞬間があったか? 誰のおかげで生きてこれたと思っているんだ? 君の命の恩人は他でもない、私だ。ペティに何を吹き込まれたのか、そんなことどうでもいいだろう? 君は私に護られていればいい、なぜこんな簡単なことさえ理解できないんだ?」
「知優さん、どうしてそんなこと言うんですか……? 僕はもう知優さんと喧嘩したくないのに——」
「君こそ恩を仇で返す気か? 結局君も人間どもと同じクズだったのか? 違うだろう? 君は巫女だ。人間よりも優れて生まれてきた、神に愛された存在なんだ。そこらへんのゴミどもと比べて君は考える知能があるはずだ。人間の語る戯言などに惑わされ、はいはいと脳死で頷くゴミどもと違って、君は選択する知能があるはずだ。少し物事を立体的に見られるよう努力した方がいい。大丈夫さ、私は全力で君を支えてあげるのだから」
もういい、もう黙れよ。戯言を抜かしているのはどっちだ。
裏切り者は殺す、物事を立体的に見るとか言っておきながらそんな簡単なことさえ見落としているゴミはどっちだ。二人まとめて土に還したっていいんだぞ。
「なあ、誠羅もそう思うだろ?」
「——っ!」
……誠羅は知優の手を振り払い、その薄汚れた笑みに照準を向ける。とっさに行われた耳を塞ぐ動作も、もはや語る必要はない。
「誰がゴミだって? いったい誰向かって言ってるの?! 最初から、会った時から私のこと見下して、勝手に見直しておいてまだそんなこと思ってるの?! 誰のおかげで生きてる? ええそうね! 全部あなたの力のおかげよ! 私が憶晶を観ようって提案できたのも、虫笑いや双粛清を倒せたのも、ここまで生きてこられたのも全部! 私なんか最初から必要なかった! 弱点を暴く必要なんてなかった、憶晶を破壊する手段なんて必要なかった! あなたは私と違って神に愛されてるから、有能だから! 全部、ぜんぶ! これで満足?! 自惚れ英雄さん!」
「お、おい……冗談も程々にしろ」
本気で撃つとは思っていないのか、悲劇の主人公のように両手を上げ呆れたため息を吐く。
「なにも誠羅のことを言ったわけじゃない。誠羅は特別だ、例外なんだ。私の見てきたゴミどもとは違う。ほら、君は考える知能があるだろう? 誤解を招いたなら——」
「じゃあなんであたかも自分の功績ですって感じで語ってたの?! 『蒼夷を護っていたのは他でもない私だ』って? よくそんなスラスラと言い訳を並べられたわね?! 蒼夷に話してるとき私のことなんか一ミリも考えてなかったくせに! 自分が気持ち良くなれる場面だけ切り取って、ほんっとばっかじゃないの?!」
「必要とされるのがそんなに嬉しかったのか? ならお望み通り必要としてあげよう、悪かったな誠羅。さあ、この話は終わりだ。本題に戻ろう」
知優は軽薄に事を流し、蒼夷へ向き直る。これが大人の対応とでも言いたいのか。虫唾が走る。
「蒼夷、仕切り直そう。君に与えられた選択肢は——」
「もう……喋らないでください」
蒼夷は我慢の限界だった。仲間たちの醜い言い争いを見るのも、聞くのも。塞ぎ込み涙を浮かべる、問題から目を背けるように。
その姿は初めて出会った、掃除用具箱で縮こまっている蒼夷と全く一緒だった。
「僕の憧れてた人たちはどこに行っちゃったんですか……僕を救ってくれた人はどこに行っちゃったんですか?! それとも、最初からそうだったんですか?! 友達とか、仲間とか。そんな醜い関係を表す言葉なんですか?! 違う! ペティさんたちは違いました! シープさんも最初僕を見た時、『ノイアを裏切る気か?!』って怒鳴りつけてましたよ! でも、ペティさんは必死に説得してくれました! 勢いあまってシープさんが手を挙げた時、すっごく怖そうな顔をしてましたよ! でも、それでも! 逆上しないで説得してくれましたよ! 僕が内乱を起こさないように対策したこと、もしそうなったら自分が責任を取るって! そこまで僕を想ってくれる人を、なんで悪い人って決めつけるんですか?!」
ペティは言った『おれはみんなのために、ノイアさんのために。責務を』と。
「シープさんもそこまでいうならって僕を認めてくれましたよ! 信頼してくれましたよ! どこの馬の骨かもわからない僕のことを! そんな人がなんで悪い人にされなきゃいけないんですか?! 争って、ぶつかって。でも最終的には謝りあえる、認めあえる、尊重し合える。それが仲間じゃないんですか?! 友達なんじゃないんですか?! 家族じゃないんですか?!」
シープは言った『お前らはもう”家族”じゃない』と。
「誠羅さんなら覚えてますよね……? 一人、ノイアさんに捕まった巫女のこと……。そのことも、ペティさんは話してましたよ『本当に、ごめんね』って涙を流して謝ってたんですよ……」
誠は言った『本当に哀れだったのはあたしたちの方だったんだって気づいた。ごめんね、誠羅』と。
「二人とも、シープさんのこと『社会の癌』って罵ってましたよね……? ペティさんのこと、カルテットのこと『寄生虫』って罵ってましたよね……?」
『なんだ? 己の正義でも振りかざしに来たのか?』
『仲間に裏切られて、死ぬほど痛え目に遭って、生きている方が可哀想だと思ったから!』
今までの台詞が意味を持ちだす……。
『ずっと一緒にいようね、さかちゃん』
『私は吹雪の味方だよ』
今まで観てきた憶晶が意味を持ちだす……。
「僕から見たら……二人の方がよっぽど『社会の癌』ですよ……。『寄生虫』ですよ……」
『信じていたものから裏切られるその気持ち、痛いほど分かります』
『私は言いました、生きていればきっと神が救いの手を差し伸べてくれると。しかし主人は理解してくれませんでした』
『どうか死なないでください』
『その光に神の御加護があらんことを』
リーノの言葉が重く伸し掛かる……。
「誠羅さん、知優さん」
蒼夷はぼろぼろと流していた大粒の涙を拭い、諭すように話す。
「僕も、この選択が正しいと決めつけてるわけじゃないです。もしかしたら、とんでもなく大きな間違いをしてるかもしれない。とっても、愚かな選択なのかもしれない。でも、それでも。僕は信じて前に進んで行きたいんです。自分が信じた未来を……道を、勇気をもって、自信を持って歩いていきたいんです。……それが誠しさ、じゃないんですか?」
誠羅、誠しさを美しく着こなす、という意味だ。
「僕は二人みたいな英雄になりたかった……でも、僕にはなれないって気づいちゃったんです。僕にはその素質がないって。だから、こんな結末を迎えてしまったんです。友達すら満足に護れない、ダメな僕になっちゃったんです……」
『知優さんと、仲直りしたい、です……』
蒼夷……。
「最後にお話しできて、ほんとうによかったです」
カルテットの鋭い牙が向けられる。
「さようなら、僕の大事な、大事な友達……!」
『私にとっては、誠羅と誠が友達。二人も私が友達。それ以上何を望むの?』
……。
「もう二度と出会わないことを、心から……願います」
——。
委碧蒼夷。お前がどう足掻こうと、運命は変えられないのだ。お前の役割は、とっくに終わっているのだ。
もう、眠るべきなのだ。
誠羅たちは微かな足音を認めた。一人の少女が駆けているような、そんな軽い足音だった。
それが止んだ時、一斉に曇天の空へ視線が集まる。脳へ情報が伝達される、それよりも前に奴は姿を現す。いや、無から出現したの方が表現としては正しい。
その巨体からは想像できないほどに、薄い存在感を纏わせていたからだ。
「なん、で——」
体長はおおよそ五メートル、人を飲み込むには充分すぎるほど大きく開かれた口。それが、眩い虹色の光の中から降ってきたのだ。
蒼夷が疑問を発する前に、巨体は着地する。轟々たる衝撃、異次元に発達した強靭な顎は、か弱い少女を固いアスファルトごと捕食した。
——ギィィィヤァァァ!
——喚クナ同胞ヨ! 主人ハマダ——。
辛うじて襲撃から逃れた二匹のカルテットも、素麺のように怪物の胃袋へ飲み込まれる。やっと粉塵が晴れてきたと思えば、誠羅たちはその存在感に改めて驚愕する。
鋭く射止める土色の眼光、瞳に刻まれた十二本の紋章。双粛清とは比にならないほど隙無く纏わせた鎧のような外殻。長く伸びた触覚……まるでグソクムシのような見た目だ。
「蒼夷……? あおいッ!」
知優は少女の名を呼ぶ。信じられなかった、認めたくなかった。目の前で助けられるはずの友人を失った現実が、彼女をそうさせたのだろう。
圧倒的な悲壮感、屈辱……。液体が浸み込んでいくように、ドクン、ドクンと血液が逆流していく感覚。みるみると筋張っていく彼女の顔は、もはや少女とは呼べなかった。
「……殺す、ぶち殺してやるッ!」
「待って! あいつは……!」
危険を察知した誠羅の声は、怒りで我を忘れてしまった彼女に届かない。まだ、胃袋を裂けば蒼夷を助けられるかもしれない。そんな希望に一直線だった。
故に、隣のビルに潜む生命の存在に気付けなかった。避けられる未来から逃れられなかった。
陰に潜んでいた生命が、コンクリートの壁を突き破り現れる。甲羅に守られているその生命は瓦礫の雨など関係ない。しかし、知優はどうだろうか。
度重なる情報に知優の頭は静止する。蒼夷の待っているとはこいつのことだったのか、と呑気に納得する。そして、これから起こる自身の最期を理解した。
夕立に打たれながら、傘を持ってきていなかったことを後悔するような。何気ない日常の不幸、そんなあっけない最期であった。
大粒の雨音にぐしゃり、と肉の潰れる音を聴いた。
「ち、ひろ……?」
返事は、帰ってこない。
「うそ、うそよね。嘘って言ってよ! ねえっ! ねえってばっ! ねえ……」
もう、助からない。
「ああ……ああっ……!」
『いいか、命というのは一度限りなんだ!』
——そうだ……。
『虚勢のくせに、驕り高ぶるな!』
——その通りだ……。
だからと言って、こんな教え方は。
「無責任すぎでしょ……」
誠羅はその場で崩れ落ちる。滝のような涙を流す。なぜこんな目に合わなければならないのだ。ただ、必死に生きたくて抗っていただけなのに……。彼女たちは……ただ神に愛されただけの、ごく一般的な命だ。
「ボゥァアアアアッ!」
——キイイイイッ!
生命たちが失われた命など眼中にない、と言わんばかりに両者を威嚇し合う。しかし、どうでもいい。なぜそんなこと気にしなければならないのだ。
「ちひろ……」
誠羅は絶望に掴まれた覚束ない足取りで、ぴくりとも動かない彼女の元へ向かう。
嘘だと言ってほしかった、またあの時のようにからかってほしかった。……いや、欲深いことは望まない。
見下されたって良い、ゴミだと罵られたってかまわない。彼女が元気よく息を吸ってくれるなら、どうだってよかった。
知優が流した血溜まりに足を踏み入れる。生ぬるい液が靴の隙間から入り込み、靴下へ染みていく……。その感覚が誠羅の精神状態を大きく狂わせた。
悲惨だ、無残だ、残酷だ。瓦礫の下敷きとなり、鮮血を湧き水のように溢れさせている彼女の姿は、もはや生物とは呼べない。言わば無機質な肉塊だった。
——複雑骨折により、至る所から突き出た骨、鉄筋に貫かれた右腕、肌色が見えないほどの赤に染まる顔。この状況でどう希望を見出せと言うのだ。
ひっ、ひっと小型ポンプのように微々たる呼吸をしている様子も、かえって悲壮な現実を突きつけ、嘲笑っているように思えた。
「に、げ……」
隣で甲羅の生命が鎧の怪物に突進する音が木霊する。憶晶同士が擦れ合う美しい音だ。
「逃げて、それでどうするの……? こんな化け物が闊歩する故郷で、私なんかが生きて帰れるわけないでしょ。全部ぜんぶ、あなたのおかげだったのに……なんで今更、突き放すようなことするの。私を、一人にしないでよ……」
甲羅の生命は鎧の怪物によってあっけなく組み伏せられる。
「せいら……頼み、がある」
吹きかければ、こと消えてしまいそうなほど衰弱した眼を向ける。
「私を……ころ、してくれ——。も、つかれ……た、んだ」
超記憶症候群。……その才能による代償は彼女にとってあまりにも重すぎる代物。蒼夷を失った、生命の尊厳を失った知優にとっては、これから生きていくことこそが何よりも苦しい、拷問なのだ。
安らかな眠りが欲しい、それが最後の望みなのだ。
……。
『一個人がそんな努力しても、世界は動かないから』
翡翠……。
もし彼女が誠羅の代わりに故郷へ来ていたのなら、もし彼女がリーノに選ばれていたのなら。蒼夷も、知優も無事に生きて帰れたのだろうか。誠が犠牲になることもなかったのだろうか。
聡明であり、なにをやっても上手くいく。皆に愛され、認められる。誰が見ても、どう考えても彼女の方が”主人公”に適している。その役目を果たせる唯一の人材だ。それに比べ誠羅は……。
——どうして、なんで? リーノは私を選んだの! 私なんか、私なんか……。なんにもできないじゃない! いくら憶晶を破壊できる力を与えられたとしても、所詮はただの人間。それだけしかできない!
翡翠なら絶対こんな結末にならなかった。誠も、蒼夷も、知優も、翡翠なら助けられた! シープとペティも、虫笑いと双粛清も、ノイアだって、翡翠なら回りくどい方法なんか必要なかった、すぐに決着がついた!
世界を救えた、英雄になれた、世界に蔓延る不幸を消し去れた……。ハッピーエンドを迎えられた……。なのに、なんで……。
私は何のために生まれたの。何の使命があって故郷に来たの。私のせいで、なんでみんなが苦しまなくちゃいけないの……。だれか、教えてよ……。
「ひりゅう、せんせぇ……」
ぜんぶ、あなたのせいですよ……。
『私のことをいくら憎もうが、怨もうが構わない。しかし今居る自分を見失うな、真実を見つめ続けろ。革命には血が必要なんだ……!』
今まで、知ることを恐れることはなかった。知識は美学であり、積み上げるほどその人を美しめるものであると信じていた。
『それでも、人類は学ぶことをやめない。その理由はなんだと思う?』
あなたは……。
『身が不幸を吸い取って、周りに幸福を与えるためだよ』
いったい……。
『まるで、神様みたいに』
だれなの……?
『じきに分かるよ。君に”革命の意思”が宿っている限り、君が問題から目を背けない限り、ね?』
『死んじゃったらそこでおしまい。もしそうなったら、一体誰がこの子を成仏させるの。そんなの誠しくないよ』
死は、誠しくない……?
『私が代わりに名前を付けてあげよう!』
『授げよう! 君の名は——!』
誠羅……誠しさを美しく着こなす、という意味だ。
「せい、ら……?」
誠羅の目付きが変わる。それは、明らかに人間の少女が纏っていい雰囲気ではなかった。覚悟の決まった、全身で決意を表明する。
まさに戦争の最前線に立つ革命家。知優は言葉で表現するには難しくとも、本能で悟った。彼女が選ばれた理由を、この物語の主人公であることを。
「本当に、あなたは自分勝手よね。『殺してくれ』って? ろくに罪の償いをしないで、自分だけ楽になろうだなんて。虫が良すぎる。私はそんな人が大っ嫌いなの。私は知優がいないと生きていけないし、仮に元の世界へ帰れたとしてもどんな顔して日常に戻ればいいの? 私は巫女みたいに強くないし、地位や名声が保障されてるわけでもない。でも、だからといって、ここで終わりとか。そんなの誠しさじゃない」
誠羅は腰に着けていた鏑矢を引き抜く。
「だから、私はあなたを助ける。蒼夷への償いをあなたにもしてほしいから。生きてほしいから」
鎧の怪物が強靭な顎で甲羅の生命の首を引き千切り、捕食している。
「なぜ……そこまで、生に、執着するんだ……?」
答えなど、当の昔に分かっていた。
「誠しいからに決まってるでしょ」
誠羅は鎧の怪物へと駆け出す。知優に比べれば、蒼夷に比べればあまりにも遅く、彼女が人間でしかないことを嫌でも認識させた。
しかし、一歩、一歩、確実に前進していた。どんなに劣った生物でも、か弱い少女であっても。誠羅は世界一、雄大な魂を宿していた。
目指すは唯一鎧に覆われていない、あの土色の瞳。六〇、五〇、四〇メートル。知優の斧が落ちている付近で、誠羅は鏑矢を腕力のみで投げ飛ばす。
迫真の叫び声にしては、よろよろと千鳥足じみた軌道で空を切っていく鏑矢。鳶のような鳴き声もどこか情けなく、頼りない。案の定、鎧の怪物は鎌のような前脚で弾き飛ばした。
——触れた。
壮大な力により、鏑矢はミサイルのように明後日の方向へ高らかな音色を奏でていく。しかし、本命はこっちだ。
誠羅に触れていたものは、問わず憶晶を破壊する力を纏わせる。それがどれだけの効力を持つのか未だ不明だが、少なくともあの前脚は軟化した。
誠羅は狙いを済ませ、会心の一撃を憶晶の鎧を纏う前脚に向け発射する。
「人類の恐ろしさを、その身で学べッ!」
革命の弾丸が、命中する。あの甲羅の生命でさえ傷ひとつ付けられなかった、硬い憶晶の鎧がたった一撃で弾けた。
虹色に煌めく美しい欠片が、夏の花火のように咲き乱れる。擦れ合う欠片たちが、芸術的な演奏を奏でる。
予想だにしない強烈な一撃により、鎧の怪物は怖気づくような反応を見せた。目の前に存在する人間は只者ではない、殺される前に手を打たなければ。
そう思ったのか、即座にもう片方の前脚で周りのビルを倒壊させ、誠羅の射線を切る壁を作った。
しかし、誠羅にとって奴の生死などさほど重要ではない。少しの猶予、知優を瓦礫の山から救い出す隙こそが目的だ。
足元に転がっていた斧を担ぐ。人間の誠羅にとってはかなり重い代物だ。だが、それでいい。
「なにを、する気だ」
瓦礫の下敷きになっている知優の前に立つ。状況は悪いことに変わりないが、最悪ではない。なぜなら、右腕以外は奇跡的な積まれ方によって抜け出すのに充分な空間が生まれている。
邪魔をしているのは、右腕に突き刺さった鉄筋だけなのだ。
もちろん、誠羅には瓦礫を動かすことも、叩き壊すこともできない。ならば、方法はひとつだけだ。
「歯、食いしばって」
知優は理解する。この少女がなにをしようとしているのかを。
否定したかった、そんなことしてまで生きたくはないと言いたかった。しかし、今の知優に拒否権はなかった。
そして、なによりも……罰を受け入れるべき存在であることを、自分がなによりも理解していた。
……躊躇なく、斧が振り下ろされる。幸い刃の障害となる骨は砕けていたため、三度の激痛で事は済んだ。しかしその一撃、一撃が脳髄の奥底まで電撃のように駆け抜ける。
永遠と思える苦しみ、散布する自身の体液。逃げてはいけない、目を背けてはいけない。これは、今まで犯してきた罪の償いなのだから。
三度目の切断作業を終えた時、知優の顔と白衣は涙と唾液によりぐしゃぐしゃになっていた。
「さあ立って! 逃げるわよ」
「君というやつは……」
両足が折れているのに加え、たった今右腕を失った。この満身創痍の状態でどう逃げるというのだ。生かしたいのか、殺したいのか分からない、と文句を言う体力すら残されていなかった。
誠羅は立ち上がることすら困難な知優に肩を貸し、精一杯の速度で距離を取ろうとする。しかし、奴がいつまでも悶絶しているわけもない。
後方で再び、虹色の眩い光が放たれる。何事だ、と振り向くと、そこには破壊したはずの前脚が完全に再生した鎧の怪物がこちらを凝視していた。
いや、再生したのではない。……ビルの壁に隠れていた奴とは別の個体だ。なぜ、立て続けに……?
「……あれ、もしかして」
——さっきのやつ、動いてない? まさか、死んだ?
有り得ない、前脚を破壊しただけだぞ。しかし、そんなこと不思議がっている場合ではない。既に殺害の準備を整えている奴から、少しでも距離を取らなければ。
「もう無理だ……! 最初から無謀だったんだ、私を助けようだなんて。君が奴らを殺しきるなんてことできないと、君が一番分かってるじゃないか」
「……そうね。人間の私がいくら足掻いたところで、正面から真っ向勝負を仕掛けるのはあまりにも愚策。わかってる」
「なら、なんで……!」
誠羅の眼は、未だに光を宿している。
「私がなんの考えもなしに行動してるって言いたいの? 馬鹿ね。あなたこそ、自分が一番理解しているんじゃない? 私という存在がいかに特異点であることを」
「どういうことだ……?」
ふふっ、と誠羅は不敵な笑みを、痛みを堪えるのに必死な知優へ向ける。
「なんで最初から銃を撃たずに鏑矢を投げたと思う? あの鏑矢はどこから手に入れたと思う? その持ち主はどこへ向かったと思う?」
——そうか。誠羅は最初から分かっていたんだ、計算していたんだ。最初から、身の程を弁えていたんだ。私と違って……。
誠羅、君というやつは、本当に……!
「巫女は、二人だけじゃないでしょう?」
枝分かれしていた物語は、集結の地にて再び交差する。
ここに住み着く生命たちは大きく分けて二種類、小型か大型。小型の生命は壁を破壊するほどの、斬撃痕を残すほどの力を持ち合わせていなかった。大型の生命は、そもそも建物内に侵入できない。
あのショッピングモールに残っていた痕跡は人間ほどの体長でありながら、それに見合わない力を持つ者にしか付けられないのだ。
そんな生命など、誠羅の知る限りノイアたち、もしくは”巫女”しか居なかった。
鏑矢は矢本体から音が鳴る性質上、銃の発砲音よりも遠くまで届く。
そして、その鏑矢の鳴き声を知る人物は、そこに綏操知優が居ると確信する。そうと分かれば、合流するため真っ先にその場所へ向かうはずだ。
その条件に当てはまる人物は——。
歩嗚雫楪律と出日邇公椛しか居ない。
クラクションの音と共に、軽トラックが脇道から颯爽と登場する。乱暴なドリフトを決め、荷台を誠羅たちの前に向け停車すると、そこに搭乗していた少女から鳶の矢が放たれた。
狙いは最も脆弱な奴の眼。さすが、戦いに慣れているだけあって弱点を即座に見極める能力は一流だ。
「乗ってっ!」
楪律が奴の進行を食い止めてる隙に、誠羅は満身創痍の知優を助手席へと乗せる。
ハンドルを握っていた公椛はあまりにも無残な姿にぎょっとしていたが、そんなこと気にしている暇はないとすぐさまエンジンをふかし始めた。
「誠羅さん、とんでもないことをしてくれましたね」
斧を荷台に乗せ、なんとかよじ登り切った誠羅に、アメジストのような品格のある眼が向けられる。小さく握られた拳がわなわなと震えているのを見るに、そうとう立腹しているようだ。
「事を済ませ次第、ボコボコにして差し上げます。覚悟をしておいてください」
「ええ、楽しみにしておくわ」
車体が激しく鼓動する。
「公椛、いつの間に免許を取って……」
助手席でなんとか落ち着きを取り戻した知優は、バックミラーを調整する公椛に訊く。依然として出血は止まっていない。
「そ、一週間前に仮免取ったよ。オートマだけど」
「オートマ……? だと?!」
知優は一瞬痛みを忘れ、数字が振り分けられているレバーを見て声を上げる。停車しているのにも関わらず、公椛は最大のギアにセットしたまま、アクセルを力一杯踏み込んでいたからだ。
車にはあまり詳しくないが、これではエンジンに負荷がかかるのではないか?
「アクセル全開! 危険運転でいくよ!」
「た、頼む……あまり揺らされると——」
そんな願いも空しく、車体は勢いよく発進した。
劣悪な状態のアスファルトを、車体は跳ねるようにどんどんと加速していく。荷台に乗せられた誠羅は振り落とされないよう、必死にしがみついていた。
追手を迎撃する余裕などない。……なぜこの少女は平然と立っているのだ? 体感に優れているとか、そんな次元の話じゃない。
「あの虫、見た目の割に速いですね」
スピードメーターは既に一〇〇キロを優に超えている。にも関わらず、同等かそれ以上の速度で追ってくる鎧の怪物。どういう原理で、あの巨体を動かしているんだ。
楪律はリュックサックに差し込まれた鏑矢を十本ほど引き抜き、残りの九本を口に咥える。いくら巫女であっても、この少女は戦いにおいて器用すぎないか。
一射撃、一射撃。さすがの楪律であったとしても、この環境下であの小さな眼に当てるのは至難の業なのだろう。しかし、大きく外しているわけではない。あの鎧を破壊できれば……。
誠羅はうつ伏せの状態で射撃の構えを取る。視点が揺れて、照準がままならないが、どの部位であっても当てればいい話だ。
カーブを曲がり、奴との位置が一直線となった瞬間を狙い放つ。できれば触覚付近、即死が見込める脳へ当たれば御の字だ。しかし、奴は誠羅の想定をはるかに凌駕する。
軌道は完璧であった。だが、その一撃が脅威であることを学んだ鎧の怪物は、即座に触覚を魔法の杖のように激しく動かした。
その動作に何の意味があるのだ、と思った矢先、作り出した空気の渦を発射し、弾丸を相殺した。
渦に飲み込まれていく弾丸は徐々に形を歪ませ、やがて塵となり消えていく。それはさながら”風化”のように。
「えっ、そんなの……ありなの?!」
瞳に刻まれた十二本の紋章から、只者ではないと思っていたが、まさかここまでとは。
「ふむ、術を使うとは……今まで殺してきた化け物と一線を画していますね。面白い相手です」
呑気に感心している場合か。実質飛び道具は無意味なのだぞ。つまり、追いつかれるのも時間の問題なのだぞ。
「しかし、見たところ触覚でしか風を起こせないようですね。頭部を狙えなくなったのは痛いですが」
楪律は巨体と地面に空いている僅かな隙間を指す。おおよそ三〇センチ、といったところだろうか。
「腹部まで鎧を着こんでいるとは思えません。難しいですが、跳弾させればダメージを与えられますよ」
「何言ってるのよ、無理に決まってるでしょ! こんな状況で、当てることすら難しいっていうのに」
「なら、御見せしましょうか?」
そう言って楪律はよく見る構え方とは一変、弓を横に傾け、膝立ちをして的を狙う。
車と奴の速度、風向き、地面の状態。全ての条件が揃うその瞬間を、彼女は熟練の狩人の如く待ち続け——放った。
射線角度は三六度、今までとは違う低い角度で放たれた鏑矢は奴の顎先で地面を蹴り上げ、見事的中した。
想定外の痛みに奴は大きく怯み、充分すぎるほどの距離を稼ぐことができた。これが、才能の差なのだろうか。
「きもちわるい……」
「それが誉め言葉ですか?」
咄嗟に出た言葉を聞き、見下すように鼻で笑う楪律。苛立ちを覚えることはなくただ一心、彼女が敵でなくて本当に良かった、と安堵した。
しかしだ。距離を稼いだとはいえ、未だ視界に奴が映っている。あの気持ち悪いほど見事な射撃など、そう何度も撃てるわけではない。巻き切る、もしくは倒すための算段を立てなければ。
「何かする気ですよ」
楪律は何かを察知する。殺気、といったところだろうか。誠羅には届くはずのない距離で前脚を高らかに上げているようにしか見えなかった。
「鶴嘴を。手が届きませんので」
誠羅は言われるがままリュックサックに紐づけされていた鶴嘴を引き抜く。この豚の鼻のような形のワッペンはこういう用途だったのか、と感心しつつ、斧よりも遥かに重い鶴嘴を手渡した。
楪律は弓を口に咥え、渡された鶴嘴を構える。
「エエエアアアァァ!」
奴が技名を叫ぶように咆哮する。片脚ずつ一、二振り、両脚で三振り。どれも誠羅たちに届くはずのない攻撃……だが、空色の斬撃が飛んでくるのを見て、誠羅はようやく理解する。
無意味な行動など、奴がするわけないと。
「遠距離攻撃もできるの……? もうなんでもありじゃない!」
いや、良く考えればノイアたちもこれくらいやってきた。まるでアニメやゲームの世界だ……。なら、やはりこいつは——。
「伏せて。死にますよ」
二発の斬撃がすぐ横を通り抜ける。少し掠めただけで、誠羅の髪の毛がバッサリと切り落とされた。
「あああ?! サイドミラーがあ!」
普通なら鉄の斬れる音がするはずだが、風の斬撃は異次元の切れ味を宿しているようだ。
公椛の嘆きを聞き振り返ると、サイドミラーが綺麗に半分となっていた。割れていないガラスの断面を見るのは初めてだ。
そうか、風を操れるのなら、分子レベルで斬撃を創り出せるのか。包丁などでは到底辿り着けない領域でも、風なら容易く実現できるのか。
遅れてやってきた三発目の斬撃、しゃがめば辛うじて避けられるが、さすれば知優と公椛が危ない。——なぜハンドルを切らないのだ、このままでは首が吹き飛ぶというのに。
「風が、この質量に敵うとでも?」
楪律は鶴嘴を構える。そして、あろうことか横に広がる風の斬撃を小柄な体格で躱し、側面から易々と叩き壊した。
「さっすがゆずちゃん! 信じて——てちょ?!」
安堵も束の間、先程外していたはずの斬撃が進行方向に聳え立つビル群へ直撃し、倒れ始めていく。
「ふむ、成程。戦い方に抜かりないですね。虫の知能とは思えません。——誠羅さん? 死にたいのですか?」
「は?」
楪律がアオリ部分にしがみ付き、不思議そうな顔で誠羅に訊ねる。考えれば当然のことだ。
道を塞ぐようにビルが倒れていくのだから、衝突を避けるため急カーブが連続する。それでいてこの速度だ。凄まじい遠心力で振り回されることなど明白だ。
アトラクションでは到底出せない負荷を全身で浴びる。叩き付けられ、引き伸ばされ、また叩き付けられる。人間の身体では想定されていない衝撃を、誠羅は根性で耐える。
特に斧を持っている方の指は、骨折するのではないかと何度も思った。しかし、これは知優のものだ。手放すわけにはいかない。
五本のビルを躱し、最後のビルを抜ければまた直線へ戻る。しかも自身が蒔いた障害物を避けながら追って来るとなれば、相当失速するに違いない。隙を見て脇道に逃げ込めば、追跡から逃れられるかもしれない。
希望が見えてきたその時、誠羅は車速がだんだんと落ちていくことに気付いた。
「うそうそうそっ! アクセル効かなくなくなっちゃったんですけど?!」
公椛は必死にエンジンを吹かそうとペダルを何度も踏み込む。しかし、車は壊れたかのように、やがてぴくりとも動かなくなってしまった。
「エンストしたのですよ。あれほどクラッチ操作を怠らないよう言ったではないですか」
「もお! カタカナばっかり、そんなこと言うならもう運転してあげないんだからね! ゆずちゃんが運転すればいいじゃん!」
「脚が届きません」
エンジンをかけ直すように言い、楪律は荷台から飛び降りる。いや、まさかその身ひとつで奴を食い止めようとでもいうのか。
恐怖で足が竦んでいる誠羅を置き去りにし、奴の目の前に立ちはだかると、彼女は鶴嘴を口に咥え弓を構えた。
「誠羅さんは来なくて結構。私一人で充分なので」
——正気なの……?
高次元の争いはすぐに始まった。ものの数秒で射程圏内にたどり着いた奴は、出会い頭に前脚を楪律へ振るう。しかし、とても小学生程の小さな口とは思えない強靭な顎をもつ彼女にとっては、受け止めることなど容易い。
衝撃破が誠羅まで届くほどの鍔迫り合い、奴は魂の一撃だったのだろうが、楪律はまだ両手が空いている。
前脚を抑え込みながら、手慣れた手つきで鏑矢を抜き、がら空きとなっている奴の眼を正確に射る。
当然、奴は身体を仰け反らせた。その隙を彼女は見逃さない。一瞬力の抜けた前脚を弾き飛ばすと、鶴嘴を咥えたまま奴の懐へ潜り込み、金属製の頭部を奴の顔面へと振り抜いた。口に咥えたままだ。
その力は圧巻の一言に尽きる。自身の何倍もの質量を持っているであろう巨体を、真っ向から叩き飛ばしたのだ。
転げまわる鎧の怪物、よろよろと体制を立て直し、目の前に佇む一人の少女を凝視する。誠羅は奴の気持ちを手に取るように理解した。一言一句、同じことを思っていた。
——意味が、分からない。
「ゆずちゃん! いつでも行けるよ!」
「はい、御苦労様です」
公椛がエンジンを吹き返している間に、楪律は横たわったビルを叩き壊し、瓦礫を払いのける。迂回するのではなく正面から突破しようと考えるのは、やはり強者でしか成せない発想だ。
それに、公椛との相性も最高峰に優れている。
合図も無しに急発進する車体を楪律は寸前のところで躱す。そして、その動きのままアオリの部分にしがみ付き、そのまま乗り込んできたのだ。一切無駄のない動き、天晴としか言いようがない。
「ゼエェェエ、イイィィィィアアアア!!」
せっかく追い詰めた車体が再び距離を離していくのを認めると、奴はまた追いかけ——。……なぜ、自身の身体に風を溜めているのだ?
「まずいですね……」
楪律がそう呟くと公椛に指示を出し始める。
「奴はまだ追いつく力を持っています! 西方向のトンネルへ! ……万が一に備えて、飛び降りる準備も御願いします!」
「承知! まあ、そうなることも考えて、シートベルトは最初からしてないけどね! アハッ!」
この荒い運転でシートベルトをしていなかったのか。この女も、なんとも命知らずな巫女だ。
誠羅ちゃんのこと頼んだよ! そう言いながら、公椛は進行方向を変える。急なハンドル捌きに、誠羅は思わず頭をぶつけてしまった。
目的の場所は思いのほかすぐ近くにあったようだ。都市が切り取られたような断崖絶壁の奥に広がる雄大な海、そこを曲がって間もなく長いトンネルの道が続いていた。
もうすぐだ、と思ったその時、奴が居座っていたであろう地点で風の大爆発が起こる。移動手段として、最後まで隠し通してきた大技。楪律はあの動作だけで、何を企んでいたのか見極めていた。
爆風で飛び上がった鎧の怪物、それはさながら隕石のように、空から誠羅たちの元へ大口を開けたまま降ってきた。このままでは、車体ごとまとめて胃袋行きだ。
等脚目特有の気持ちの悪い裏側が見える。質量的に、銃や矢で弾き返せるものではない。
楪律たちはいつでも飛び降りられるよう準備する。誠羅は小さな身体に抱きかかえられ、瀕死寸前の知優は公椛の指示に従い、振るえる手付きでドアを開けた。
バックミラーの角度を調整する。刻々と迫る襲撃に備え、脚を踏み切ろうとした、その瞬間——。またしても、新たな怪物が姿を現した。
海から飛び出す、細長い影。爬虫類のような、若干緑がかった鱗。太古に存在した海龍のような見た目に加え、全身の鰭が海藻のように発達している。捕食される、そう思ったが、奴は誠羅たちなど眼中に収めていなかった。
狙いは、鎧の怪物。
海龍は空中で鎧の怪物を捕らえ、その地へ叩き付ける。地響きで車体が揺れ、飛び降りようとする動作は中断された。
「え……うそ、でしょ——?」
誠羅は困惑する。またしても同士討ちだろうか。しかし、海龍は確実に喧嘩を売る相手を間違えている。奴はそこら辺の生命とは違う、すぐさま風によって八つ裂きにされてしま——。
バガァン!
「……ふ、む?」
一同、困惑を隠しきれなかった。海龍の口内から蒼い光が漏れ出たかと思えば、高濃度に圧縮された水撃を放ち、いとも容易く鎧の節々を飛び散らせたのだ。
憶晶の鎧には亀裂ひとつ入っていない。水圧のみの力技で、殺したのだ。
——なんで……どうして……?!
海龍が仕留めた獲物を余所に、誠羅を見る。
いや、そんなわけないだろう。そうだ、そんなわけが……。
「私は絶対、忘れないから。——!」
……誠羅は小さく手を振った。
……。
「ねえ、ちひろ——」
トンネルを抜けた先、そこは断崖絶壁の奈落だった。誠羅は不意に内臓が持ち上がる感覚に思わず困惑し、本能で手を空へ仰ぐ。
——死ぬ……? そう悟った頃には、既にしがみ付けそうな障害物を失っていた。
感性により、反対岸へ流れていく身体。伸ばす、必死に上へあがろうと、何かを掴もうと足掻く。しかし、何も得られなかった。……楪律が居なければ、そこで終わっていた。
「誠羅さ——」
子供の柔らかい皮膚で、脱臼しそうなほど強く引っ張られる。車体だけが奈落に落ちていくのを見て、まずは自分の安全に胸を撫で下ろす。
飛び降りる用意をしていたんだ。きっと知優たちはなんとか脱出したのだろう。きっと……。
「ありがとう、おかげで……っ!」
頭上を覗いた瞬間、額に生ぬるい液体が垂れ落ちてきた。その正体を、誰のなのかを理解するのに時間は必要なかった。肉が裂ける音と、今見ている光景が全てを物語っているからだ。
楪律の身体から枝が突き出ている。それも胸部、もっと言うなら心臓を確実に貫いていた。つう、と流れてくる血液により、誠羅の袖口が赤く染まっていく。
「なにぼさっとしているんですか……死にたいならそう言ってください。殺して差し上げますから」
「あっああ、いやっ……」
苦悶の表情、閉じかけている瞳。猶予は長くない。彼女が意識を失えば、確実に……転落死する。
下を見れば、既に着地している車体が小さく見えるほどの高さ。運が良ければ、など甘えた話は通用しない。
「今は自分の心配だけしてください。私たちなら大丈夫です。これくらいの高さなら……恐らく」
「恐らく……って。無責任なこと言わないでよ!」
「いいから黙って聞いてください、っ」
吐血が誠羅の顔に飛散する。
「私は、弱い人間のことなど興味ありません。故に、貴方がどうやったら助かるのか見当もつきません。遺憾ながら『岸へ投げてほしい』という要望には応えられませんので。……自己責任で悔いのない選択を取ってください」
「そ、そんな……」
無茶だ。この高さから落ちて助かる方法などあるわけがない。しかし、徐々に弱まっていく握力により、重力が引きずり降ろそうとしていくのを感じると、選ばなければならないことを察した。
誠羅は必死に首を回す。少しでも生き残れそうな着地点を見出そうと視点を動かす。
あの川……は駄目だ。水深が浅すぎるし、そもそも水面着地は危険だと聞いたことがある。なら崖を伝って降りる……いや、ほぼ直角の崖にしがみ続けられるほど立派な握力は持ち合わせていない。
かくなる上は——。
誠羅は着地に備え、ポケットに入っている携帯電話、銃と弾丸、傷薬を捨てる。腰に着けているベルトも、金具が干渉する可能性を考え外した。現状が最も軽い、着地の衝撃を押さえられる限界の重量だ。
「選んでください……」
誠羅は不安ながらも、最も高く、かつ葉の密度が大きそうな広葉樹を指す。
「あそこ……ちょっと遠いけど、落下する分も含めたら充分届く距離……だと思う」
「力加減は苦手ですよ」
「ふ、不安になることい、言わないでよ! ただでさえこっちは余裕ないっていうのに!」
「分かっています」
ならこうしましょう、と楪律は人差し指を立てる。
「もし貴方が生き残れたのなら、執行猶予を与えます」
「いや、死んだらそもそもボコボコにできないんじゃ」
「そうなったら、地獄の果てまで追いかけてボコボコにします。つまり、死刑です」
なぜ二回も死ななければならないのだ、と誠羅は呆れと恐怖でおかしな表情をする。片眉と片口先をぴくぴくと痙攣させていた。
本気なのか冗談なのか、彼女の表情と声色に変化がないから察し難い。
「それでは、投げますね」
「えっ待って心の準備が——」
普通こういうときは三つ数えてからだろう。文句を言いたかったが、それどころではなかった。
「貴方がどれだけ神に愛されているか、見ものですね」
無責任だ、無責任だ! 他人事のように振る舞いやがって! 自由落下により加速する誠羅。空がどんどんと遠く離れていく。木の葉が申し訳程度に身体を撫でていく——。
こんな最後は、あんまりじゃないか。
「ぐぅっ……!」
背中から着地した。自分がどれだけ損傷しているのか、どこが痛むのかさえ感じる余裕はない。ひとつだけ言えるのは、衝撃で横隔膜が強張り、上手く呼吸できなくなったことだけだ。
水の中で呼吸しているのかと思うほど、空気が肺に入ってこない。口の中で滞留しているような感覚。これでは死因が落下死なのか、溺死なのか分からない。
誠羅は重く、閉ざそうとする瞼を止めようと、なぜか手を伸ばした。身体は既に誠羅の意思に反していたのだ。
死にたくない、死にたくない……。しかし暗闇へ堕ちていった時、酷い安心感に包まれた。多幸感に飲まれていった。
人は死を悟った瞬間、ドーパミンなどの快楽物質を大量に放出するという。誠羅はその気持ち良さを身体で理解した。




