誠しい選択
曇天の空、漏れ出したガソリン匂い、雑草の柔らかな感触で知優は意識を取り戻す。五〇メートルはあろう高所から、満身創痍の状態で落下したのだ。
これ以上に無い死を感じていた彼女にとっては、なんとも拍子抜けの結果だ。
「ちーちゃん?! だいじょぶ?!」
小うるさい少女の声が鼓膜を震わせる。元気そうだな、と声の主に顔を上げると、涙ぐんだ瞳を向け身体を揺する公椛が居た。
……左肩と額に傷を負っている。どうやら彼女も無傷の身ではないようだった。
「……痛いのだが」
悪気はないのだろうが、そよ風ですら灼熱の刃でなぶられているような感覚に襲われるのだ。揺すられるたびに激痛が走るのは言うまでもない。
「ごご、ごめん! 生きてるなら……安心した。すぐここから離れよ! この車もいつ爆発するかもわかんないし」
そう言って公椛は知優を軽々と背負う。かちゃり、と刀が擦れる音とは似合わない、暖かい少女の背中。不思議と雄大な暖海に身を浮かべているような安心感に包まれた。
「せいら、と。ゆずりは……?」
「わかんない。あたしもさっきまで気失ってたから。……でも、ゆずちゃんのことだから、きっと上手くやってるよ」
公椛は背中で知優を抱えながら、適当な大木を切り倒す。公園の何もない広場に一時的な背もたれを作ると、瀕死の知優をそこに寝かせ、自身の耳を知優の胸に当てた。
「生命兆候良好、脈拍、体温ともに許容範囲内。……だいじょぶ、ちーちゃんは死なないよ。巫女の再生能力がどこまで有能かわかんないけど、経験上数時間もあれば回復する……と、思う」
実際、知優の傷は既に回復の兆候を見せていた。折れた拍子に突き出ていた脚の骨は元の定位置に戻り、溢れ出ていた血液は徐々に勢いを衰えさせている。
しかし、誠羅によって切り落とされた右腕だけは、依然として再生している素振りを見せず、ただ誠実に失った現実を受け止めていた。
上手く身体が動かせないのも、大量出血によるショック症状なのだろう。
巫女は異常なほど頑丈に創られた生命体だ。身体中に絶望の杭を何百本と打たれようとも、血を流すだけで、激痛を伴うだけで済む。
知優が行っていた指を切断する実験では、ものの三時間で神経ごと完全に再生していた。それはさながら、同じ時を繰り返しているように。
元ある誠しい状態へ返り咲くように。
どれだけ、死んでしまいたいと願ったとしても……。
「——さん……公椛さん……」
上空から聞きなじみのある幼い声が聞こえる。楪律だ。公椛は主人の呼び出しに顔を上げると、瞳孔を大きく開きその光景に思わず口を塞ぐ。
——枝に突き刺さっている。神に捧げられた生贄のように串刺しになった姿、その近くに誠羅の姿はない。
人間である彼女が巫女に護られていないとなれば、その後どうなったかなど想像に難くない。
ピュイ、と楪律は近くに寄るよう指笛で公椛を呼ぶ。恐らく気絶している間、長い時間あの状態だったのだろう。大声で指示を出す体力など当に尽きていた。
最悪の状況だ。公椛は主人の安否を案ずるとともに、転落死した誠羅の姿を想像する。
額に脂汗を伝わせ、ひとまずは主人の安全を確保しようと、聳え立つ崖のそばで両手を大きく広げた。
「ゆずちゃん! 安心して、あたしはここにいるよ!」
優秀な家人の声に楪律は表情を綻ばせる。そして何度か身体を揺すり、自身を貫く太い枝を感性でへし折ると、重力に任せ公椛の懐に身体を委ねていった。
なんとか衝撃を抑え込み、安全な着地を遂げるが、彼女の生力はあまりにも衰弱していた。
「うう……ごめんね。あたしが前向いて運転してなかったせいで……」
「謝らないでください。……それよりも、皆さんは」
「ちーちゃんは瀕死だけど生きてるよ。でも……誠羅ちゃんが」
楪律は痙攣する指で一本の広葉樹を指す。
「誠羅さんならあそこに投げました。御確認を御願いします」
「わかった……でも、その前に応急処置だけでもしなきゃでしょ」
しかし、公椛たちには包帯などの医療道具を持ち合わせていない。こんな惨劇、想像すらしていなかったからだ。
上着を加工すれば何とか一人分確保できそうだが、それでは圧倒的に足りない。楪律と知優は瀕死の状態、まだ見ぬ誠羅も死んでいなくとも重症であることは確かだ。
……公椛は壮大な選択を迫られている。
「……ゆずりを、助けてやってくれ」
狼狽する公椛に、知優は提案をする。しかしだ。
「そしたらちーちゃんが……! こんな怪我見たことないから、一般論になるけど……。死なないにせよ、痛いし、傷口から感染症に発展するかも。そうなったら、命の保証はできないよ……。それに誠羅ちゃんは、人間なんだよ……?」
「せいらなら大丈夫さ。今までしぶとく生き残ってきたんだ、これくらい……。っ……! 私も、だいぶ、楽になってきたからな」
そう言って知優は生まれたての小鹿のような足取りでよろよろ立ち上がる。
「なにしてんの……? 安静にしててよ……」
「包帯の代わりになりそうなものをさがしてくる。なあに、安心しろ。薬草の知識も、一通りそろえているからな」
強がっているのか、知優はぎこちないウインクをする。その行動は、公椛の神経を逆撫でするのに充分なものであった。
「ちーちゃんってば、むかしっからそうだよね……。実験とか言って自分の身体を痛めつけてたとき、どれだけあたしたちが心配したと思ってるの。自分が良ければそれでいいの……? ばかなこと言わないでよ。あたしたち、”友達”なんだよ?」
「……ともだち、だからこそ護りたいんだ。それが、私の正義なんだ」
「ほんっと、ばか……!」
公椛は上着を脱ぎ、布を引き千切りながら知優を優しく睨む。
「医療知識ならあたしの方が詳しい。それに、一番軽症なあたしが探索するべきだと思う。ちーちゃん……これは、ちーちゃんのこと思って言ってるの。出しゃばらないでよ」
「よく分かってるじゃないか。ならなおさら、ここを離れるわけにはいかないだろう? 私は薬品の知識こそ優れているが、人体の構造は疎い。これほどまでの損傷だ、正しい処置を施さなければ後遺症が残るかもしれない。それに、今ここであの化け物たちが攻め込んできたらどうする? この状態では、自分の身を守るので精一杯だ。……頼む、公椛。信じてくれ」
手慣れた手つきで布を巻き終えた公椛。恐らく彼女なら、誠羅も助けられるはずだ。
「……わかったよ。そこまで言うなら」
公椛は少しの沈黙を経て、寝かしつけた楪律の頭を撫でながら答える。
「でも、もし危なくなったらこれで知らせて。すぐ駆けつけるから」
知優へ差し出されたのは手のひらほどのトランシーバー。電池式なのか、この崩壊した世界でも青白い光を液晶から発している。
「ゆずちゃんと離れちゃったときはこれを使ってたから。……誠羅ちゃんの状態が確認できたら連絡するね。良い報告ができるように、こっちは頑張るから。絶対無理しないで」
「ああ、期待しているよ」
踵を返した背中はあまりにも頼りないものだった。あれが綏操知優なのだろうか。幾多の逆境を乗り越えた、かの巫女の姿なのだろうか。
息も絶え絶えに歩みゆく彼女の背中を目掛け一言、公椛がぽつりと呟いた。
「ちーちゃん……英雄ごっこは、もうやめようよ……」
……。
『知優さんは僕の英雄なんですよ』
——私は、英雄などではない。私は……今まで貶してきた人間どもと同じ、——クズだ。結局、結局……同じだったのだ。
青々とした木々が招かれざる亡者の登場にざわめき始める。
——視界の縁が赤黒い……。太い幹を伝いながら何とか移動しているが、いつその場で力尽きたとしてもおかしくない。むしろ、立っていることの方が異常なのだ。
右腕の断面が風にさらされ焼けるように痛む。いっそ焼けてしまえばどれほど楽になれるだろうか、と何度も思考を巡った。そのたび鞭を振るわれるような痛みに襲われ、吐血をした。
内臓機器は肉体や骨と比べ複雑な構造をしている。故に、再生には相応の時間を要するのだろう。体の中で、動くたびぐしゃぐしゃになった内臓がこねられているような感覚だ。
——ツーツー。左手に握り締められたトランシーバーが鳴く。
『もしもし? だいじょぶ? 今さっき誠羅ちゃんを見つけたよ。……でも、昏睡状態。目立った外傷はあんまり無いけど、たぶん頭を打ってる。呼吸も深すぎるし、酸欠状態なのかも。……やれることはやってみるけど、ほとんど自然回復頼り。死んじゃう可能性の方が、ずっと高いよ』
「駄目だ……! なんとしても、誠羅だけは……!」
感情を取り乱し、体に負荷がかかる。ボロボロの肺に血が流れ込み、反射的に吐き出そうと咳き込んでしまった。
『気持ちは痛いほどわかるよ……。でも、あたしにとって、ちーちゃんとゆずちゃんは大切な友達であって、誠羅ちゃんは会ったばかりの他人。命の選択を迫られたら……わかるでしょ? それに——』
ひっ、と怯えた声がした。
『あの虫を倒した、海藻の龍みたいな怪物が近くにいるの……! なにか探してるみたい……きっとあたしたちを追ってきたんだよ……! もし見つかったら、ゆずちゃんと一緒にあたしは逃げるよ。さっきは戦うみたいなふいんき出してごめん。だって、仕方ないじゃん……! ゆずちゃんだけは、変わりがいないんだから』
「それは誠羅だって同じだ……! 誠羅は、誠羅は……!」
『大人になろうよっ! ちーちゃん!』
そう声を荒げる。少しの沈黙の後『ごめん』と小さく謝罪し、公椛は諭し始めた。
『わかってよ。ゆずちゃんは巫女で、誠羅ちゃんは人間。最初っから命の価値が違い過ぎるの。それに、あたしはゆずちゃんを護るために生きてる。あたしが化け物と戦って被害なく追い払うよりも、百パーセントゆずちゃんが生き残れる選択を取らなきゃいけないの。だから、理解して。——先に言っておくけど、戻って来ないでね。さっきも言った通り、あたしは巫女が少しでも生き残れる選択を取るべきだと思ってるから。致命傷のまま戦いに参加されても、被害が増えるだけだから』
じゃーね、と通信が途切れた。言いたいことは山ほどあった。しかし、喚き散らしたところで何が変わる?
公椛は最も安定した選択をしている。間違いなく一般論を基準とした、最も冷静な選択だ。片や大企業の社長及び巫女、片や普通の女子高生。どちらの命が重いか、明らかだ。
「クソッ……くそぉ……」
こんな結末になったのは何故だ。どこから間違っていたんだ。
感情に身を委ね、瓦礫に押し潰された時か? 正義に囚われ、蒼夷を見捨てる選択を取れなかった時か? いや、違う。初めから、初めから間違っていたんだ。
双粛清に頭を切り裂かれた時から。あの時に殺せていれば、蒼夷は犠牲にならず済んだ。
蒼夷が苦しんだ結末も、誠羅を失望させた未来も——私が、弱かったせいだ。私が、子供だったせいだ。
——蒼夷は会った時から自分の弱さを理解していた。身を潜め、無暗な戦闘を避けていた。世間での身の振り方を分かっていた。
私はどうだ? 自分が常に上だと思い込み、人間たちは愚かな思考を持つ劣等種だと見下していた。誠羅でさえ、わけの分からない持論をあたかも真実かのように語る、残念な知能を持った可哀想な人だと嘲笑していた。実際、必要のない危機に見舞われ、彼女を恨んだときもあった。でも、誠羅は誠しくあろうとしていたんだ。
当たり前を正しいと決めつけていた私に、誠しさを教えてくれた。この世界とは何かを知ろうとしていた。知らなければ前に進めない、問題から目を背けてはいけないと教えてくれた。なのに……なんで……。
こんな簡単なことさえ、理解できなかったんだ。
知優、他の誰よりも優れた知者、という意味だ。こんな素晴らしい名前を、一体誰が何を想って私に付けたんだ。
私は、愚かなクズだ。私には到底似合わない、間違っている。……明らかだ。
『自分が信じた未来を……道を、勇気をもって、自信を持って歩いていきたいんです。……それが誠しさ、じゃないんですか?』
蒼夷……。
君なら、誠羅を護れただろうか。
公椛は息を荒くして刀を構えている。あの虫を容易く殺害した葉緑龍がこちらに迫ってきているのだ。このままでは見つかるのも時間の問題だ。
——お願い、どっか行って……!
知優にはああ言ったとはいえ、誠羅を見殺しにしたいわけではない。少なくとも、命には価値があり、尊いものだと理解していたからだ。
——不意打ちで首を断ち切れれば一発。でも、もし失敗したら……。ゆずちゃんもろとも食べられちゃう。見つかってからじゃ遅い、やっぱり誠羅ちゃんは置いてくべきかな……。
公椛は楪律の真似事をする。口に刀を咥える、この体制なら両手を空けながらすぐさま攻撃に転じられる。攻守ともに隙の無い構え方だ。
しかし、いくら両手が空こうとも、少女二人を担いで逃げ切るのは難しい。筋力的な問題ではなく、バランスを保てないという意味でだ。
「ごめんね……誠羅ちゃん」
呪ってくれても構わないから、ともうすぐ尽きる儚い命に別れを告げ、その場を後にしようと密かに歩み始める。葉緑龍による地響きはすぐ傍まで近づいていた。しかし。
「わあああ?!」
公椛の進行方向に突如として水壁が生成される。あの葉緑龍は公椛たちの存在に気付いていたのだ。
辺り一面に放たれた息吹の衝撃、直撃した木々は成す術なく吹き飛ばされ、押し寄せる波に流されていく。
逃げ道を失った公椛たちは、置き去りにした誠羅と共に流され……葉緑龍の視界に姿を現してしまった。
「あっ……」
逃げられない。獲物を捕らえた捕食者の眼光に、思わず溜め込んでいた息を漏らす。
知優のような瞬発力があればこの状況を脱せられただろう。しかし、公椛は運動神経こそ優れている方であれど、脚の速さだけはからっきしであった。
「ガャァァァ! グァァャアア!」
葉緑龍が体の芯を震わせるほどの咆哮を公椛たちに浴びせる。威嚇なのか、死刑宣告なのかは定かではない。しかし、ここまで追い詰められたのなら立ち向かわなければならない。
「あたしは主人の家人、貴様には指一本たりとも触れさせないッ! それ以上近付くのであれば、貴様の首が飛ぶことになるぞッ!」
葉緑龍に突き出された二本の刀。右手には蒼黒く比較的刃が薄い長刀、もう一方には光り輝く銀灰色の短刀。受けや崩しを想定して比較的頑丈に作られている。並んだ刀身の差は一〇センチほど。
金属加工に精通した巫女の友人に作ってもらった、大切な武器。しかし、そんな小細工など無意味だと圧倒的威圧感を放つ葉緑龍。あの虫の眼にも刻まれていた十二本の紋章。新芽色の、強者の証……。
——あたしじゃ……むりだ。
公椛は、本能的に死を感じていた。
「ゼ……ィラ。ザンゥ……」
「……は?」
——いま、たしかに『誠羅さん』って……。
そんなことあるわけがない。今まで何百と殺してきた化け物たち、目の前に居る葉緑龍も同じ仲間なはずだ。知能の欠片すら感じさせない、捕食と殺戮だけを糧に生きているような化け物が……?
他と違う点を挙げるとするなら、瞳の紋章……。
理解し難い状況に狼狽える公椛を後目に、葉緑龍は未だ意識を失っている誠羅をゆっくりと頬張る。それは単なる捕食行動ではない。
触れるだけで切り裂かれそうな鋭い牙を当てないよう、舌で包み込むように丁重な扱い方であった。
葉緑龍は一連の行動を公椛を睨みつけながら行っていた。さながら『下手に動くようであれば、抹殺する』と警告されているようだった。
「これで……これでいいんだ」
誠羅を口に含み切り、雄大に広がる海へといざなっていく。想定通りだ。想定通り、楪律は助かった。なのに……なぜこんなにも切ないのだ?
『私は弱者が嫌いです』
楪律はいつもそう言っていた。『弱ければ、何も変えられない。何も得られない。自身の命さえも——』と。
そうだ、その通りだ。誠羅は人間だから、運命に抗えなかった。弱いから、何者にも成れずに死んでいくのだ。
——あたしは、正しい行いをした。目的を果たした。なんにも悪いことはしてない、してない……。なのに……。
このざわめきは、なんだろう。
故郷に来る少し前、公椛と楪律は商談前の暇潰しのため、駅前で購入した珈琲を嗜みながら街行く人々を眺めていた。
公椛には少々厳しい寒さであったが、楪律が望むのならそれでいい。むしろ心地良くも思っていた。
『我々人類は巫女によって生かされているのです! さあ、今日も祈りましょう! 縁様へ、一〇八の魂へ!』
時刻は正午を少しすぎた頃、最近では決まってこの時間に、ある神父を先頭に巫女を崇める布教団体がただでさえ狭い車路を練り歩いている。この時だけは見慣れたスクランブル交差点が秋葉原の歩行者天国のように、車両の通行が妨げられるのだ。
しかし、その異様な光景は世間に認められていた。脇道から顔を出したひとつの車両は怒りのクラクションを鳴らすわけでもなく、まるでこの時間にこの道を横切ろうとした自分が間違っていると言わんばかりに、ハザードランプを焚きその場で数十分ほど停止していたのだ。
『ああは成りたくないものですね』
『どうして? 別に普通じゃない?』
あの車について話しているのかと思いそう答えたが、楪律の視線は先頭で講釈を垂れる神父へと向けられていた。
『あの人間たちは、私たち巫女に寄生することを選んだのですよ。あたかも巫女が永久にこの日本を護ってくれる、と思っているのでしょうか。私はそのつもりで生きているわけではありませんが、もしそうだとすれば、巫女が人間に牙を向いた時、どんな顔をするのでしょうか』
『うーん……えっと? つまりどゆこと?』
銀髪を靡かせ、不思議そうな表情で楪律の顔を覗く。
『簡単な話です。もしここで、巫女の誰かがあの神父を殺したら、主を失った教団はどうなるのでしょうか。信仰していた宿主を失った人類はどうなるのでしょうか。例えばあそこに居るスーツ姿の中年男性、彼にも守るべき家族が居るはずです』
『む、たしかに。こんな真昼間から仕事もしないで、なにしてんだろね』
家族のため賃金を稼ぐよりも、巫女の信仰の方が大事なのだろうか。
『並びにあの若い女性、巫女に支配されることを願っている。その願いが叶った暁には、彼女の社会的地位はどうなるでしょうか』
公椛は楪律が示す女性をじっと見つめる。
『すっっごいブスだね。化粧とか知らないのかな』
『公椛さんはその化粧とやらをしたことがありますか』
『ううん。だって元から美人だし。巫女ってそういうものでしょ?』
『そう、まさしくその通りなのです。見た目も、身体能力も、知能も。全て遺伝子的に優れている巫女を差し置いて、男性は人間の女性に好意を寄せるのでしょうか』
むう、と少しの間顎をつまむ。
『これは一般論だけど、美人とブスなら美人とセックスしたいよね。そっちの方が楽しいに決まってる。……あれ? じゃああの子の存在意義ってなんなの?』
『命に価値を付けるのは愚問ですが、そうなりますね』
十二歳なのに難しいこと考えるなあ、と珈琲を口いっぱいに含む。大量に溶けた砂糖の甘い口当たりの奥に、小さなほろ苦さを感じた。
『彼らは自分の意思で生きることを放棄しているように見えます。それは、”自分で命を絶った”と道理なのです。自分の存在意義を他者に押し付け、風化していくような人生を歩んでいく。私はそんな人が大嫌いなのです』
『それが、ゆずちゃんがいっつも言ってる”弱者”なの?』
『ええ』
楪律は無糖の珈琲をこくりと飲む込む。力が無いことを受け入れる者、並びに力を放棄する者こそが”弱者”なのだ。
『幸せな日常に感謝を! 巫女を産んだ縁様へ祈りを捧げましょう!』
じゃらじゃらと数珠やら十字架やら、それぞれ有難そうな道具を手の内で擦っている。もはやなんの神を崇めているのか分からない。
人間は馬鹿な連中しか居ないのか、公椛は思わず欠伸をしてしまった。
『じゃあ、ゆずちゃんが思う強者ってなに?』
『強者、ですか。……そうですね。例えるなら丁度向こう側の道路を歩いている、きど——』
ぽす、と小さな肩に男性の手が乗せられる。勘が鋭い楪律でさえ、耳が良い公椛でさえ気付けない、無に等しい存在感だった。
『こんばんわ、楪律殿。やはり貴方は……フフッ、実に聡明な御方だ』
ぞくぞくと鳥肌が立つ。気色の悪い声、手付き。悪者に背後から銃を突き付けられていると言われてもおかしくない。恐らく、映画の登場人物はこんな気持ちなのだろう。
公椛は咄嗟に刀を抜こうとした。しかし、その動きは後ろを通ろうとしていた集団によって止められる。
『きき、きさまぁ?! 何をしているというのだ?! みみ、巫女……しかも、楪律様に?! 触れているというのか?! なんと罰当たり、神への冒涜、許されざる行為! いい、一刻も早くその子から離れるのです! さもなくばあ——』
『おやあ、これはこれは……失礼致しました。なにせ我々はそのような文化ではありませんので、なにとぞ——』
申し訳なさそうな声と共に、乗せられた両手を退かす男性。悪気はないようだ。しかし、神父はなお声を荒げていた。
『かか、関係あるものかあ! きき、きさま、さては外国人だな?! 穢れた血を持った人種が何故ゆえここにい?! さささささては! 巫女を奪いに来たというのだな?!』
『神父様! この者を即刻私刑に処すべきかと!』
神父の右腕かと思われる女性がひょっこりと顔を出し、男性を指す。皮切りに三〇は居るであろう大群が野良犬のように、一斉に喚き始めた。
そうだ。巫女が生まれてからというもの、”日本は縁様によって清められた島国”と言われるようになり、それ以外の国々は縁様の加護を受けていない、つまり”穢れた大地”とされていたことを思い出す。
二〇年前では義務教育とされていた英語が廃れたのも、この頃からだった。
『おやあ、なにやら物騒なことを申しておりますが、今やこの国ではそれが普通なのでしょうか? 否、普通ではありませんね。警察は確か……』
男性は携帯電話を取り出し、探り探り液晶を叩き始める。すると今まで黙っていた楪律が大柄な男性の腕を掴み制止した。
小さな身体では座っていた塀に立ってようやく届くほどの身長差であった。
『一一九。しかし、無駄ですよ。すぐ近くにある警察署が見えないのですか?』
『おやあ、そうだったのですか。なにせこの頭では、視界が限られておりますので』
頭……? その言葉に公椛は男性の顔を目視するため空を仰ぐ。
身長一六三センチの公椛よりも更に高い、目測にして二〇〇センチを凌駕する身長。その頭部は、何十年も前に使われていた古臭いブラウン管テレビを被っていた。
電力はどこから供給しているのか、話す度に絵文字のような表情がころころと映り変わっていた。
『えっ、きんも……』
貶し言葉が思わず零れる。こんな姿の人間が、憂いなく街を歩いていたというのか。周りの人間はなんとも思わなかったのだろうか。
理解し難い、気色悪い。公椛の勘が警告を鳴らしていた。しかし、異形の男性と暴走する信者たちに板挟みとなった公椛を後目に、楪律は堂々たる振る舞いで声を上げた。
『静粛に。彼は我々グラウンド・エースの商談相手、ベータ様です。巫女に危害を加える人物ではございません。それとも、貴方たちが定めた禁句とやらが、我々の利益よりも重大な事案と言いたいのですか? 度し難い。誰の御陰で不自由無く生活を営めていると御思いで? 頭が高いですよ。それこそ、神への冒涜では?』
信者たちは楪律の問いにおろおろと顔を見合わせ困惑する。しかし、誰一人として結論を述べる者は現れなかった。
やがて神父は悔しそうに舌を鳴らし『いつか神の裁きが下される! 震えて眠れ!』と捨て台詞を吐きながら、信者たちを連れどこかへ立ち去って行った。
『なに、あいつら……謝りもしないで。あっ、ごめんね! まさかベータがこんなこわい人だとは思わなくて!』
公椛は寸前まで抜かれていた刀を収め、取り繕うように頭を下げる。『失礼ですよ』と楪律に脇腹をつつかれるが、口調の癖はどうしようもない。
正直な感想を言ってしまうのも、正しい敬語を使えないのも、昔から染みついたもの。三つ子の魂百まで、ということわざがある通り、訓練だけでは矯正しきれないものなのだ。
『フフッ、活気のある良き御家人ではありませんか。口調は御自由にして構いませんよ。重要なのは、言葉に込められた魂でありますから』
不思議な言い回しをする人だなあ、と公椛はぼんやりと彼の液晶を見つめる。外国人にしては、日本語の扱い方に趣を感じる。
『申し遅れました。わたくし、ベータ・マッカーサーと申します。三十分ほど早い御時間ではございますが、この御縁を有効に扱いたく存じます』
二人は差し出された名刺を受け取り、”B2 CORPORATION”と"β MacArthur"の英文が記されているのを確認する。
公椛にはなんて書かれているのかさっぱりだったが、楪律が言うには"B2コーポレーション""ベータ・マッカーサー"と書かれているようだ。
——あ、本名なんだ……。
素朴な疑問を見透かしたように、ベータの液晶がにんまり笑顔を映し出す。
『これは本名ではありません。わたくしの尊敬してやまない人物の名を借りているまでです。こう見えても、日本人なので』
『へえー、すごーい』
呑気に大口を開けて中身のない感嘆する公椛とは対照的に、楪律は不可解な疑問を噛み潰すような顔をしていた。苦手なミニトマトやナスを食卓に出した時は、決まってこの表情をする。
『なぜ今、そのような話をしたのですか?』
『……フフッ』
液晶がぷつり、と暗闇を映し出す。
『商談へと、参りましょう』
人気が集まる繁華街から少し離れた古いビル。公椛たちはそこの最上階にある会議室へ連れ込まれ、『弱きを滅したくはありませんか?』を冒頭に、商談は始まった。
公椛は屋敷を出る前から言いつけられた命令に従い、いつでも刀を抜けるよう楪律の横に立っていた。
『……御座りにならないのですか?』
ベータは用意された椅子へ手を差し出す。
『ゆずちゃんがだめって言うから。しょうがないの』
『厳しい御主人様ですね』
憐れむような表情が液晶に映し出される。
『彼女は私の御家人です。私の命を護ることが、仕事ですので』
『おやあ、随分と用心深い御様子で。この平和な日本で、わたくしが殺人鬼であられると?』
『……御理解を、御願いします』
幸い公椛は立ち仕事には慣れていたため、さほど苦ではなかった。しかし、座れるものなら座りたいものだ、と頭の固い主人に心の中で溜息をつく。
ベータの言う通りだ。この日本で殺人鬼など生まれるはずがない、二〇年も平和が続いてきたのだ。今更、そんな馬鹿げた話など……。
『では、本題へ参りましょう』
ベータはまたもやにんまり笑顔を映し出し、懐から何かを取り出す。美しい、虹色の煌めきを放つ結晶体だ。
『……これが、次世代のエネルギー源……ですか』
楪律はその結晶体に魅せられ、恍惚とした表情を浮かべる
。次世代のエネルギー源、核融合などとは比にならない、莫大なエネルギーを宿した結晶体。彼はそれを”オクショウ”と呼んでいた。
『まさに。しかし、オクショウは現在、生成条件が不明でありまして。運用方法等、検証するにも数が限られている……。我々の業界では、この結晶体を”神々の涙”とも呼んでおります』
『ふむ、神々ですか』
退屈そうに欠伸をする公椛、対照的に不可解な疑問を感じた楪律が顎を摩り、口を開いた。
『なぜ、神が複数居ると? 日本人であれば、神は縁様しか連想しないと思うのですが』
『……やはり、楪律殿は聡明な方だ。|十二年の命とは思えません』
わたくしの望みは、とベータは指を組んだ両手を口元に添え、じっと楪律を見据える。
『神に最も近い、巫女である殿方に協力してほしいのです。いいえ、実験体……と表現するべきでしょうか?』
僅かコンマ一秒、殺意の音を聴いた公椛から斬撃が振り抜かれる。しかし、見透かしていたのか身体を大きく仰け反り、躱わされてしまった。
——やっぱり、ゆずちゃんの勘は間違ってなかった! こいつは、あたしたちの命を狙う殺人鬼だ!
いや、まだだ。ベータは足を組んだまま椅子ごと後ろに倒れこんでいる。つまり、無防備の状態だ。確実に斬れる!
公椛は卓上に脚を踏み込み、二本の刀を奴の首目掛けて構えた。
『"なみのり"——』
しかし、公椛が追撃を振り抜く僅かな隙を、ベータは見逃さなかった。いや、この状態になることをあらかじめ予知していたというべきだろうか。
液晶が公椛を嘲笑するような表情へ変わる。そして、空中で無防備となった彼女の腹部に、強烈な蹴りを喰らわせた。
仮にも五〇キロ弱ある少女の身体を易々と蹴り飛ばす脚力。……とても、人間業とは言えない。
公椛が敗北した。そう認識し、楪律は拳を握り身を乗り出そうとする。しかし、その時には既に、ベータは幼い顔目掛け膝蹴りを喰らわせていた。
『フフッ。この短い物語を執筆することさえ、幾多もの四季を繰り返してきました。……全て予定調和、彼女はこのような気持ちなのですね! 嗚呼、なんと清々しい!』
『ぐぅ……ゆず、ちゃん……!』
護らなければ。そう思い立ち上がろうとするも、体が麻痺したかのように言うことを聞かない。たった一発の蹴りが……どうして?!
『テトロドトキシン』
ベータが気絶した楪律の頭を踏みつけ、公椛の苦悶の表情を覗き見る。
『殿方が先程御召し上がりになった珈琲、そこに強力な毒を仕込んでいたのですよ。創作物では一般的に青酸カリを用いられているようですが、致死量があまりにも多く、かつ敏感な人では味や臭いで気付いてしまいますので。無味無臭、かつ巫女には良く効く神経毒を用いらせてもらいました』
『きさま……こんなこと、ゆるされると——』
眩暈がする、吐き気を催す。呼吸が……できない。這いずりながら刀を握ろうとも、今の公椛には遠すぎる。
『しかし、巫女は解毒能力ですらも優れている、と言われています。策には策を重ね、より緻密に、彼女の描く物語のように』
そう言ってベータは懐からガス手榴弾を取り出し、躊躇なくピンを抜いた。これも神経毒の一種だろうか。微量な酸素でさえ猛毒に変えられてしまったら、もう成す術はない。
『これでようやく、殿方の顔をはっきりと拝める……。誠に、光栄であります』
重く伸し掛かる瞼の奥に、ブラウン管テレビを外したベータの姿を見る。ガスマスク越しではあるが、目元だけは公椛の記憶に焼き付けられた。
瞼が、無い。ぎょろぎょろと気味悪く蠢き暴れる目玉。なぜ奴が顔を隠しているのか、その理由を恐怖で理解した。
『嗚呼美しい、美しい! 殿方の表情、恐怖、涙! 全て! あの時と同じだ! 恐らく、殿方は故郷へ帰る時、わたくしのことを忘れてしまうでしょう。嗚呼、なんと愚かな……。しかし、案ずることはありません。迷える亡者は殿方だけではありません。安心して、深淵に飲み込まれると良いでしょう』
殿方が世界を救う糧となる、その希望ある未来を心から願います……。それが、最後の記憶だ。
「どんなに強くても、護れなきゃ、それは弱者と同じ……」
ベータの襲撃から楪律を護れなかった。力があるにも関わらず、その役割を放棄した。それは、楪律が嫌う弱者と同じだ。
誠羅は他人だから? 楪律を護るのが使命だから? 楪律は”自分だけ護れ”とは命令していない。ただ、楪律は『自分の意思で生きることを放棄している人』を弱者と呼んでいた。
楪律の命に従うだけの自分は、果たして自分の意思で生きていると言えるのだろうか。
公椛、美しい調和を公にもたらす、という意味だ。
辺り一面に広がる椛の風景、誰もが笑顔で、欠伸が出るほど退屈な日常。昼寝には最適な、幸せな日常。完璧な、完成された日常が欠けることなど、あってはならないのだ。
それは、調和とは言えないのだ。
「その子を、返せ……」
葉緑龍が公椛へ振り向く。
「聞こえなかった……? 及百合誠羅を返せ、と言ってるんだぞ」
蒼銀の刀が煌めき、潮風を纏わせる。この美しい調和を乱す者は……誠しくない。
「公椛流 奥義」
調和を護る少女が駆けだした。狙うは……調和を乱す、破滅の未来に身を委ねた弱者の顎。か弱き少女を連れ去ろうとする、その口を狙って。
「”水天一碧”」
公椛が刀を収める瞬間まで、相手は斬られたことに気付かない。白銀の大地にて誠羅たちを救った大技だ。
若干緑がかった固い鱗から太い顎の骨まで、いとも容易くバッサリと切断され重力に委ね落ちていく。
拘束から解放され、舌に巻かれたままの少女を救い出し、公椛はひとまず安全な距離まで彼女を運び下ろした。粘度の高い唾液まみれで、なんとも気色悪い。
一連の行動を見届けた葉緑龍は、ようやく事の重大さに気付く。下顎を斬り捨てたのは、ようやく手にした誠羅の命を奪ったのは、目の前で刀を抜いた少女であると。
「貴様に与えられた選択肢はふたつ。”今すぐここを立ち去る”か”あたしに斬り殺される”か。好きな方を選べ」
どこかで、聞いたことのある台詞だ。葉緑龍は失った部位に憶晶を纏わせ、再び元の形へと再生させる。
巫女をも超えた超次元の再生能力だ。負けるはずがない、たった一匹の劣等種などには。
「そっか、へえー。逃げないんだ? そんなに誠羅が大事なら、首輪でもつけといたらよかったじゃん。それとも、そんなにあたしに殺されたいのかなあ? 貴様は」
なぜ、こんなにも恐ろしい雰囲気を纏っているのだ? 身体、力。知恵は劣れど優れている点の方が多い。しかし、なぜこの少女は尊大な歩みで憂いなく進むことができるのだ? ぴしゃり、ぴしゃりと水害に蝕まれた大地を踏みしめることができるのだ?
……巫女とは一体、何なのだ?
「決めよっか。どっちが、この雄大に広がる海の王者かを。負けた方は、魚の餌ね! あはっ!」
少女の両手に蒼銀の刀が供えられる。お世辞にも侍の構え方ではない、伝統的な流派を完全に度外視した、日本人としての尊厳を踏みにじる愚の骨頂と言える構え方だ。
正しくない。骨の髄まで、その魂に刻み込んでやろう。
葉緑龍の口内に蒼い光が溜まり始める。そして、公椛が水面を蹴り上げた瞬間を狙い、水撃の息吹を放った。
当たれば四肢が吹き飛ぶほどの威力。しかし、公椛は波を飛び超える海豚のようにひらりと躱し、川の流れの如く走り続けた。
まだだ。溜めた水を吐き切っていない葉緑龍はすぐ横の断崖へ水撃を放ち、岩雪崩を起こす。
あの白衣の巫女のように、瓦礫で押し潰されれば、動かなくなったところを確実に仕留められると考えたのだ。二度も同じ手が通用すると思ってしまったのだ。
「”断海の剣”」
しかし、一度流れてしまった川の流れは止められない。公椛による斬撃は岩をも斬り、五体満足の状態で懐に入られてしまった。
「”魚群嵐”」
公椛の流れはさらに加速する。葉緑龍の足元を渦のように駆け回り、肉を斬る、斬る、斬る。小魚の群れに肉をついばまれているような、いやそれよりも断然深い。
一見規則的に動いているように見えるが、何度その流れに牙を向こうとも実に柔軟に、変則的に流れ避けていく。まるで、ひとつひとつの斬撃に意思が宿っているようだった。
やがて体重を支えることすらままならなくなり、葉緑龍はその場に沈み込む。その大きな隙を見計らってか、公椛は上空へと飛び上がった。……蒼銀の刀は既に構えられている。
「”鹿威し”」
着地狩りを狙おうと首を突き出したのが間違いだった。蒼銀の刀は脳を守る頭蓋を叩き斬り、衝撃で地面へ打ち付けられた顎は、岩盤と共にまたもや破壊されてしまった。
まだ、憶晶は残っている。傷だらけの身体を修復し、憎き少女へ視点を集中させる。
……いや、冷静になれ。なにもこの巫女を殺害するために来たわけではない。目的は”革命”の保護なのだ。
「まーだやるつもり? もう死んじゃえよ」
公椛が退屈そうに欠伸をする。目的は、目的は。奴の死ではない!
「どこ狙って——っ!」
蒼い水撃の息吹、狙うは公椛のさらに奥、及百合誠羅が横たわる地面だ。
未だ昏睡状態の彼女の身体が水柱により空高く打ち上がる。それこそ、断崖絶壁をも遥かに超える高度一〇〇メートルほどまでに。
いくら巫女であったとしても、人間の身体である以上足枷となる。つまり、人間の身体を捨てた……。彼にしか、できない芸当だ。
本当は無傷のまま連れて行きたかった、痛いのは誠しさではないから。しかし、ここまで追い詰められた以上、多少の損傷は許されるべきだ。
「貴様っ!」
予想通り、公椛は素の身体能力では届かないようだ。飛び道具を持たない彼女では、この策略を阻止する手段はない。
捕獲した後、すぐそばの崖に乗るなり、しがみ付けさえすれば目標は達成される。巫女を殺すのは、その後で構わない。
——いいや、行ける。
誠羅が鼻先まで迫り、勝利を確信し大口を開こうとしたその時、公椛はなぜか足元の地面に刀を突き刺した。そんなことをして、一体何になるというのだ。
「”海底火山”」
視線を目の前の少女に戻した瞬間、奈落の底から爆裂音が響く。何事だ、と再び遥か下へ目玉を動かすと、その光景に葉緑龍は驚愕した。
なぜ、一体どうやって、ここまで昇ってきたんだ?!
「”天の川”」
胸の前で組まれた腕が、天を斬り裂くように振り抜かれ、首元に斬烈を与える。あと少し、ほんの僅かで勝利した未来が……!
「双対の駄津」
反り返り剝き出しとなった腹目掛け、蒼銀の刀が突き刺さる。
背中や脚元を斬り裂かれる分には安いものだ。しかし、ここは内臓機器が集まる急所、しかも突かれたのは心臓だ。肉体を再生するとは比にならない、労力と時間を要する。つまり、ということは……死だ。
「”蛸壺”」
内臓を搔き乱す感触、三日月を描くような軌跡を経て、葉緑龍は地獄へ叩き落される。重力の追い打ちも相まって、着地の衝撃は比にならないものであった。
もはや地形変動が如く岩盤は抉れ、身体がめり込み、ついに身動きが取れなくなってしまったのだ。
遅れて着地する公椛。有終の美だろうか、一方の刀を器用に口に咥え、空いた右手に誠羅を肩に寝かせるような状態で抱えている。
……これが、出日邇公椛。美しい調和を公にもたらす、巫女の姿なのか。
もう、傷を修復するほどの力は残されていない。できることがあるとするなら、たった一発水撃を放つ程度。それも、容易く避けられてしまうだろう。……これで、終わりなのか。
——否! 鎮魂曲ニハマダ早スギル!
——唄エ、主ヨ。
——悲シミヲ、苦シミヲ!
——家族ガ、帰リ待ッテイル……!
「むう、なんか騒がしいなあ。もお疲れたんだけど——」
——天波裂く断劾の飛沫。僕は……僕はっ! 天をも裂く蒼き水撃をもってして、罪人を誠しく裁く……! その使命を、全うするッ! ……だから、見てて。
「ベディィィィザアアアアアアアンンンッッッ!!!!」
轟々、咆哮、魂からの叫び……そんなものでは言い表せない爆音が鼓膜を、大地を揺らがせる。木々が、瓦礫が吹き飛ばされ、断崖が崩壊し、辺りの水面が公椛たちを囲むように立ち昇った。
それはさながら、ペティ・ライフラインの演奏した”第一部清唱:黎明”を思わせる……彼の、最後の足搔きだった。
「ああああっ! いたいいたいいたいっっ!」
耳に指を突っ込み鼓膜を守ろうとするが、この嘆きから背くことなどできない。逃れることはできない……。どうしようもない不幸なのだ。
雨が降り注ぐ……。海が荒れる……。曇天の空が、包み込む……。
「せい、らぁ、だけはあああっ!」
譲ってはならない。公椛は右耳を塞いでいた指を抜く。鼓膜がはちきれ、藍色の舞台に鮮血が混じる。しかし、だが、それでも。及百合誠羅だけは、護らなければならないのだ……!
高鳴る水壁、鼓動、脈拍。全て、間に合わなくなる前に。公椛は誠羅を投げ飛ばした。
その後どうなろうと責任は取れない。しかし、調和を護る者として、やるべき仕事をこなしたのだ。
「ゆずちゃん、ちーちゃん……」
——ここで終わるつもりはないよ。だから。
「……待っててね」
逃げ道は、閉ざされた。既に蒼い光が溢れ出している。……公椛は蒼銀の刀を構えた。
「”断海の剣”……ッ!」
蒼い息吹を刀で斬り進む。前へ、前へ。確実な一歩を踏みしめる。ほんの少しでも刀身がブレれば、その瞬間海の藻屑だ。
しかし、弱きを護る家人として、雄大に広がる海の調和を護るものとして。退屈で、幸せな日常を取り戻す巫女として。出日邇公椛は押し寄せる津波を斬り続けた。……だが。
——僕は……悪を滅する、この物語の誠義だッ!
蒼い息吹を吐き切る寸前、彼は最後の力を振り絞った。耐えるので精一杯だった公椛の身体は、画竜点睛の如く上昇した水圧により……宙を泳いだ。
そして、立ち昇った水壁がフィナーレを飾るように、一斉に崩れ津波を起こす。
美しい光沢を放つ銀髪の少女。ラッセンを思わせるハート型の海豚のネックレスが揺れ、荒海へ堕ちていく……。
『じゃあ、あななたちは何のために戦ってるの?』
——初めて出会ったとき、誠羅ちゃんはそうあたしたちに訊いてきたっけ。最初はなんでそんなこと訊いてくるかわかんなかったけど、今ならちゃんとした答えを出せる気がする。戦う理由、そんなの単純。
何の変哲もない退屈な人生が、みんなと居るだけで、生きてるってだけで。
「公椛流 奥義」
何よりも、美しいから。
「”凪”」
彼女には斬撃を扱う力など残っていなかった。彼と比べなんとも弱々しい刃筋。斬烈を与えるわけでも、ましてや刀身を何かに当てるわけでもなく、ただ左右に刃筋振るった。それだけだった。
たったそれだけで……押し寄せる津波は静かに、風に乗って消え去っていったのだ。
ぺしゃり、と落ち着きを取り戻した水面に落ち、倒れこむ。ぐうぐうと公椛は、幸せな昼寝を始めたのだ。
——ふざけるな……ふざけるなッ! ここまで来て、ここまでして! 力を使い果たしても、僕は何も得られないの?! どうして、なんで?! なんで僕たちだけが……こんな目に合わなきゃならないの……?!
しかし、もう憶晶は残されていない。これ以上力を酷使しようものなら……。
彼は近くでぺしゃんこになっている鉄屑を咥え上げる。恐らく、憎き巫女たちが誠羅を連れ去る時に利用していた、軽トラックだろう。
——ゆるさない、許してたまるものかッ! 僕は誠羅さんと同じように、誠しさを追い求めた! 知ろうとした、見つめ続けてきた! だからペティさんたちに出会えたんだ。真実を知ることができたんだ! でも、なんで……何も知らないこんな奴らが、幸せそうな顔をするの……。
全部、ぜんぶぜんぶおまえたちのせいだ……。おまえたちが僕たちの物語を壊したんだ。おまえたちなんか……巫女なんか。最初から生まれてこなければ……!
「ガェゼヨぉ……」
——僕たちの幸せな日常を……! 何の変哲もない、家族に囲まれた日常を……! 僕たちの故郷を……!
軽トラックが噛み潰され、ガソリンが噴き出してくる。唾液と混じり、乾いた口内へ浸み込んでいく。
「返セヨおおおッッッ!」
彼の眼から、涙が溢れ出していた……。
……。
「御苦労様です」
鳶のような鳴き声と共に、紅く揺らめく炎の矢が飛んでくる。そして、それは彼の噛み潰していた鉄屑に向かって……。
——ナラヌッ!
危険を察知したカルテットたちが、主の身体を葉緑龍から引き剥す。脳髄付近から飛び出した彼らの姿は、さながら宿主を失った寄生虫のようだった。
抜け殻となった葉緑龍は口内に染む込むガソリンへ炎が引火した瞬間、爆発と共に頭が吹き飛ばされる。
やがて脱力し切った抜け殻は地面へと眠りにつき、美しい虹色の憶晶と共に曇天の晴れた空へと消えていった。
「一人足りないと思ってはいましたが、まさかこんなことになっているとは……。愚の骨頂ですね。委碧蒼夷」
「ゆずり……さん?」
どうして、なんで? 彼がそう思うのも無理はない。なぜなら今、目の前で立っている楪律は最初に認めた満身創痍の状態から一転、包帯越しからも分かるほど傷口がすっかり完治していたのだ。
なにも、何時間も戦っていたわけではない。せいぜい十分程度だ。巫女にしては、再生能力が高すぎる。そう思ったのだ。
「よくも私の大切な家族を甚振ってくれましたね……! 万死に値します!」
「ぼ、僕こそ! よくも誠羅さんを連れ去ってくれましたね! 誠羅さんは……僕の、大切な友達なんですよ!」
そう言い放つが、十二歳の少女とは思えないほどの威圧感を放つ楪律に、彼は思わず怯んでしまう。
しかし、家族と認めてくれた人たちの喜ぶ顔が見たかった。また、幸せな日常を送ってほしいと本気で願っている。
ここで立ち向かわなければ……憧れていた人たちのような、英雄になど成れないのだ。
——ヨセ! 勝テルワケガナイダロウ!
——死ンジャウ……死ンジャウ……!
「だまれっ! 僕は成し遂げなければならないんだ! みんなが悪者になっちゃうなら、せめて僕だけは——」
バシン、とカルテットの一匹が彼の頬に鞭を打つ。寄生体の分際で主に逆らったのだ。
——大人ニナレ蒼夷ィッ! 我々ハ敗北シタノダッ! 奴ラ巫女ニヨッテ! 完膚ナキマデニ!
——モウ、一人ダケノ身体ジャナイ……。
——死ニタクナイ、死ニタクナイ……。
「カル……テット」
——戻ルベキ、家族ノ元ヘ。
「ふむ……」
楪律は彼に戦意が無いことを悟り、引き絞っていた弓矢を下ろす。
「貴方を殺したとなれば、知優さんに叱られそうなので。今回だけは見逃してあげます。しかし、次は無いですよ」
「……楪律さん」
僕はあなたが嫌いです。そう言ってその場を後にしようとすると、カルテットたちが捨て台詞の如く一斉に喚き始めた。
——生ト死ノ狭間デ、我々同胞ハ貴様ラヲ冥界へイザナイニ来ヨウゾ。
——”革命”ハ、貴様ラ巫女ニ渡ッテハナラヌノダ。
——好キニハサセナイ。ニューロンノ。
——英雄、エイユウ! 我々ノ、ボウケンタン!
ゲシャシャシャシャ! とカルテットは笑うような鳴き声を発する。そして、主の身体を引き上げ、断崖絶壁をすいすいと昇って行ってしまった。
「……ああは成りたくないものですね」
「ほんと、そだねー」
楪律の足元から呑気な声が聞こえ、思わず耳がピンと立つ。
「起きていたのですか……」
「さっきまで寝てたよお。もお体の節々が痛くて痛くて、耳も半分聞こえなくなったし。まあ鼓膜だから、すぐ再生するだろうけどね! あはっ!」
この家人は……ついさっきまで死闘を繰り広げていたにも関わらず、あまりにも軽々しい口ぶりだ。これこそ、強者の余裕なのかもしれない、と楪律は表情を綻ばせた。
「ああ! いけない! 誠羅ちゃんどうなったの?! 適当に投げちゃったから首とか折れてたらどおしよー!」
「いえ、それなら……」
楪律は水害が及んでいない丘の方で、木を背に眠っている誠羅を指す。
「火矢の準備をしていたところ、飛んできたので」
「なあーいす! ゆずちゃんさすが! じゃあ看病しに行かないと——」
「と、その前に」
すれ違いざま公椛の裾が小さな手のひらによって引かれる。ものすごい握力だ。
「公椛さんの仕事は、主人を護ることでは? いつ、私が”誠羅さんを護れ”と命じましたか?」
「ああ……ええっと……」
これは、怒っているのだろうか。相変わらず彼女の感情は読み取りにくい。
「ご、ごめんね?」
公椛はひとまず謝ることにした。主人の命が最優先、自分勝手な判断をしてしまったのは自分の責任だ。しかし、恐る恐る主人の顔を覗くと、きょとんとした顔で公椛を見つめていた。
「なぜ謝るのです? 私は心配しているのですよ。失態を犯した私の尻拭いをしてなお、命令にない誠羅さんの命まで護り通した……。少し、体を休めてほしいのです」
ああ、そうだ。楪律はこういう子だった、と公椛は思い出す。感情を表に出さずとも、心の中では常にみんなのことを想っている。……優しい子だった、と。
「大変……お疲れ様です」
業務的な労いではない、楪律の、心からの感謝の言葉。それに伴い、小さな身体で必死に手を伸ばしている。公椛はそんな可愛らしい姿に、にへっと変な笑みを浮かべた。
ご主人様に恥をかかせるわけにはいかないよね、と公椛は膝を折る。わしゃわしゃと雑に頭を撫で始めるが、これも彼女なりの愛情表現なのだろう。
「にへえ。くるしゅーないぞお」
「頭が高いですよ」
……少しだけ、頭蓋骨を握られた。——やっぱり、どんなに強くてもこの子にだけは敵わないなあ。
どうして、なんで。僕たちだけこんな目に合わなきゃいけないの? こんな物語を、僕たちの生きざまを見て、誰かが喜ぶの? 笑うの?
世間はいっつもそうだ……。異端な人を悪と決めつけて、正義という名の殺戮をする人を称える、崇める。英雄と呼び語り継がれていく……。僕たちは誠しい……誠しいはずなんだ。でも、それは世間の言う正しさとは違う。
正しさとは、世間が認めた正解のこと。でも、僕の思う誠しさは、自分がそうであるべきと考える事象のこと。
……あれ、それってつまり利己主義じゃ。……あれ、ただしい……って、なに。
——主ィ……。
だまっててよ。僕は今考えるのに忙しいんだ……。僕が信じてる人たちは、ただしいのかな……。僕の行いって、ただしいのかな……。ただしかったら、どうして僕はこんなに泣いてるの……。
どうして、どうして。なんで、なんで。誠羅さん、どうして僕は泣いてるの。誠羅さんは、なんで前を向いていられるの。僕と誠羅さんのなにが違うのか、教えてよ。
せいらさん、おいていかないでよ……。せいらさ——。
「委碧蒼夷」
……誰かが僕を呼んだ。顔を上げると、そこには僕と同じくらいの背丈の、巫女。大きな丸縁の眼鏡をかけていて、大事そうに抱えている小説、題名は"罪と罰"。クラスにいたら”本の虫”とか呼ばれてそうな。地味な女の子。
……ころさなきゃ。ぼくは、ペティさんのために、家族と認めてくれた人たちのために、弟のために。ただしくなきゃ、いけない……。
——貴様ッ! 何者ダ!
——主ニ近付クナ!
——処ス? 処ス?!
だまっててよ……もう。
「還命の使徒。今度こそ死んでもらいます」
目の前が虹色の煌めきに、眩しい。どすん、と現れた大きな具足虫。眼には十二本の、土色の紋章。還命……。
そっか、そっかあ。もうおわりかあ。なんか、あっけなかったな。あんなに死にたかったのに、思い残すことなんか何も無いのに。僕は何者にも成れなかったクズなのに……。
たったひとつ、神様におねがいするとしたら……。
「だれかと、おはなしたいなあ」
彼の首が鎌のように発達した前脚により斬り捨てられる。カルテットたちの主を呼ぶ声は、もう届かない。ふらふらと、司令塔を失った彼の身体は……。
夕凪の景色へ、消えていった。




