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埋められた答案用紙


 一方、一キロほど離れた場所で洞穴を見つけた知優は、そこで友人を憂いながら静かに身体を休めていた。

 薬品と医療道具が大量に供えられた、恐らく研究室であろう場所で強力な止血剤と鎮痛薬を見つけ、それを欠損した右腕部分に打ち込む。

 些細な時間、副作用によって視界が渦巻き状に歪んでいったが、耐えがたい痛みに苦しめられるよりかは遥かにマシだ。


 ぼうっと頭上から滴る地下水を眺める。なぜ、あれだけ死にたいと願ってしまったのだろう。

 死は誠(ただ)しさではない。誠羅の言葉が、思想のトンネルで叫ぶように反響する。


 知優にはたった一人の愛人が居た。

 彼の失われた魂を浄化させられるのは自分しか居ない、彼の無念を晴らせるのは自分しか居ない。にも関わらず、自らの罪を放棄するようなことを、誠羅に懇願してしまった。

 ——なんて、愚かなのだろう。


 知優は普段手を入れることのない、ワイシャツの内ポケットからペンダントを取り出し、ロケット部分を開ける。

 収めているのは彼と知優が狭そうに頬を合わせている、何の変哲もない普通の写真だ。

 確か自分の部屋で、特に記念日や偉業を成し遂げたわけでもない、彼の思い付きで撮った価値のない写真。しかし、知優にとっては当たり前の、幸せな日常を象った掛け替えのない一枚だ。


『こんな時代だから世間の目とか、教団とか……色々あるんですけど、俺、ぜったい知優さんを幸せにしてみせますから。なんで、それまで浮気とか、死んだりとかぜったいしないでください』


 知優は軽く唇に指を当てる。彼の接吻は強欲でありながらも、どこか慈愛に満ちていた。独占欲の奥に壮大な愛情を孕んでいた。

 それを感じることは、もう二度とないのだろう……。いや、もしかすると、そうでないかもしれない。


 巫女はかつてからから不可能を可能にしてきた。毒すら耐える強靭な肉体、驚異的な再生能力。言わば死からこの世一番遠い存在。

 その仕組みを解明できれば、死者を蘇らせることだってできるのではないだろうか。物語をやり直すことだってできるのではないだろうか。


 知優は気狂(きちが)いめいた希望に魅せられた。巫女には生物としての掟(おきて)、秩序を覆す力があるのかもしれない。


 根拠ならある。双粛清に頭蓋骨を切り裂かれた時、確かに脳を大きく抉られたような感覚を覚えた。それだけではない。

 蒼夷の話が本当だとするならば、長い時間酸素を取り入れられずとも、内臓機器がぐしゃぐしゃに破壊されようとも、魂は肉体に結びついていた。つまり、死を超える力があるということだ。

 それなら、いつかこの右腕だって……。


 知優は不安定な足取りで立ち上がる。そして、殺風景な研究室を手当たり次第散策し始めた。壁に立てかけられた、見たこともない形の銃、戸棚に並ぶ手榴弾の数々。

 構造さえ把握すれば、公椛の刀を制作した友人に模倣してもらうことも可能だが、今はさほど重要ではない。


 最後に目を付けたのは、使い古された大きな作業台。卓上には実験用のフラスコや手工具がそのままの形で残されている。

 この場所を利用していた人物が科学者であるとするなら、大量の資料や設計図が残されていない点に疑問が生じる。既に移動されているか、はたまた隠されているのか。

 こういう時、誠羅ならどこを怪しむのだろうか。


 知優は誠羅に倣うように、卓上での不可解な点を洗い流す。紙を隠せそうな場所、ガラス製のフラスコは明らかに違う。工具箱も隠す手段としてはあまりにも杜撰だ。

 ……なら、この無造作に散らばっている銃弾とかはどうだろうか。


 大きさは様々、拳銃用の小さな弾から、熊でも一発で仕留められそうな大きな弾まで。特に異質なのは、手のひらよりも若干大きい、一キロほどありそうな特大の銃弾。

 これを籠められそうな銃はこの洞穴には存在していなかった。となれば、簡単な話だ。


 弾底付近にある小さな溝、そこを捻ると弾丸は成すがままゆっくりと回転を受け入れる。

 小賢しいことに、ネジ山は逆ネジ加工をされていたが、工業知識に疎い知優にとってはあまり効果のない足掻きであった。


 長く閉ざされていた薬莢部、そこに入っていたのは弾頭を吹き飛ばす火薬ではなく、筒状に丸められた一枚の紙切れだった。偶然と言われても仕方ないが、見事仕掛けを暴いて見せたのだ。

 知優は早速その紙切れを開き、内容を確認する。しかし、全くと言っていいほど読めない。英語ではない、知優の二十年の人生で、初めて見た形の文字だ。

 一瞬単なる落書きかと思うほど曖昧な、書き殴ったような印象の文章だ。


 それでも諦めず、最後まで視線を走らせる。すると紙の右端、恐らく署名が書かれているであろう場所に、聞き覚えのある人物の名が記されている。


 ……”β(ベータ)”。公椛と楪律を故郷に連れ込んだ男の名だ。ならば必然的に、共犯と思われる奇特(きどく)千陽春(ちよはる)や飛龍(ひりゅう)鴒霸(れいは)も、元々は故郷に居たということだろうか。

 ということは、彼らはノイアたちと共に生活していたということだろうか。……疑問は深まるばかりだ。


 まだ読める文字は無いかと、再度視線を走らせようとすると、白衣のポケットに入れておいたトランシーバーからツーツーと音が鳴る。公椛からだ。


『もしもーし。そっちの調子はどうかな?』


 いつにも増して活気のある声だ。恐らく危機は去ったのだろう、と知優は胸を撫で下ろした。


「鎮痛薬を打ったからな、大分楽になったよ。……ただ、少々困りごとがあってね。猫の手も借りたい気分だよ」


『もお、冗談ならやめてよね。笑えないよ』


 それよりも、と公椛は明るい声色で話を続ける。


『良い知らせがふたっつ、悪い知らせがひとつあるんだけど。どっちから聞きたい?』


「なら、交互に聞かせてもらおうか」


『なあにそれー、きも。いいけど』


 こほん、とあからさまな咳払いをして報告を始めた。


『さっき言ってた海藻の龍みたいな化け物、追い払ったよ。かーなり苦戦したけど、致命傷は避けた。誠羅ちゃんもゆずちゃんも無事だよ。……でも、その正体はちーちゃんたちの仲間だった蒼夷ちゃんだった。理性とかはまだ残ってそうだけど、もう友達として接するのは難しいだろうね。……辛いと思うけど、わかってね』


「……ああ」


 曖昧な相槌とは対照的に、知優はトランシーバーを強く握りしめた。


『さいご良い知らせ、二人とも意識を取り戻したよ! ゆずちゃんに至っては身体に穴開いてたはずなんだけどなあ……なんか、今魚取りに行ってるよ素手で。うん、やっぱり化け物かも、あの子。誠羅ちゃんは今目の前に座ってる。でもね……誠羅ちゃん、ちーちゃんになんか言ってあげて』


 ……数秒の沈黙が、焚火の音と共に鳴く。


『こんな状態。放心してるっていうか、考え事してるって言った方がいいのかな。『しばらく一人でいさせて』って言ってからずっとこんな感じ』


「誠羅なら、珍しくないさ」


『そうなの? 変な子だね。まるで巫女——いや、まさかね』


「誠羅が巫女だって? そんなわけないだろう。巫女と違って非力だし、突出して頭が良いわけではない。それに、耳や尻尾などの特徴も見られないだろう。明らかに、人間だ。……まあ、人間にしては思考の才に溢れていると思うが、それ以外にも何か思い当たる節があるのか?」


『いやあ、ね? きゆーって言われればそうかもしれないんだけど』


 あー、っと悩むような吐息声。公椛は何か自分にとって難しいことを前にすると、斜め上を向きながらいつもこの素振りを見せる。


『名前……派手だなあって思って』


 人間の苗字といえば鈴木や斎藤、珍しいもので言っても、鵜久森(うぐもり)や飛龍(ひりゅう)などだ。

 及百合(きふゆり)など、人間の名前には似合わないほど、何かしらの意味を孕んでいるような苗字は、聞いたことがない。公椛は、その名前を聞いた時から微かな疑問を感じていたのだ。






 遠い昔、それがいつなのか、どこなのかは覚えていない。でも、白い結晶たちが降り積もる、厳しい寒さの中で起こった事件だったこと。

 そして、巫女という概念が存在していない世界だったことを覚えている。


 住宅街の奥にある小さな公園、川のせせらぎが絶え間なく聞こえる憩いの場。お父さんが選んでくれた濃い緑色のランドセル。

 本当は赤色が良かったと思いながら四年間愛用し続けていた、大切なランドセル。分厚い教科書やリコーダー、図書館で借りた小説が何冊も入っていて重たかった。


 私はよく大人びている、と言われていた。周りの子供たちのように外ではしゃぐわけでもなく、流行を嬉々として話すこともしなかった。

 ただひたすら、貪欲に知識を貪り、思考を巡らせていた。”生きるとは何か””死ぬとは何か”を探し求めていた。”正解”となる何かを考えていた。


 そんな私を同級生の人たちはみんな『大人っぽい』と言った。誉め言葉ではなく、協調性のない私を最大限良く表した、いわゆる”皮肉”というもの。

 だから、私には友達が居なかった。


 一人で通るのにも飽き慣れていた帰り道、その公園で無邪気に遊んでいるクラスメイトを背景に、頭上を飛び去る一匹の鳩(はと)を見て思う。

 この子は一体どこから来たのだろう、と。この疑問は私の思考を、私の人生を大きく狂わせた。


 きっと普通の人なら、どこか遠くの、自分の知らないところから遥々、巡り巡って自分の頭上を飛んでいったと想像するのだろう。私もそんな想像をした。でも、それを証明する手段がないことに気づいた。

 ないということは、そうである可能性と、そうでない可能性が同居することになる。裏返せば、証明できなければどんなに有り得ない事象でも有り得る可能性を孕んでいるということにもなる。


 例えば——この鳩が、私の視界に入る瞬間まで存在していなかった。とか。


 右手に見える四〇階建てのタワーマンション、鳩がその影へ飛び去って行くのを見る。私はその瞬間鳩が消えた、と思った。

 認識の外へ行った、という意味ではなくて役(・)目(・)を(・)終(・)え(・)た(・)という意味で、消えたと思った。


 もし、仮に私が認識している空間の外が無(・)であるとするなら、鳩は無から出現し、無へと還っていった。それはどんな生き物でも、無機物でも同じことが言える。

 私がクラスメイトと思っている人間は、私が認識している範囲でしか存在できない偶像に過ぎないじゃないのだろうか。

 あの高いマンションも、そこに建っているべきと私が認識しているから、そこに存在しているだけじゃないのだろうか。


 いくら偶像が『あれを見た』『これを知っている』と言っても、私からすればそれはなんの証明にもならない。実際に行ってみない限り、見てみない限り”そこに存在する”確証を得ることができないから。

 『自分は生きている』と言っても、その人が意志を持って動いている、私と同じように視点を持っている確証はどこにもないから。


 でも、もしそうなら一体誰が、何のために偶像を創り出しているのだろう……。


 子供の弱い腕力で投げられるゴムボール、風が吹き寝返りを打つように揺れる芝生、さわさわと欠伸をする木々。傾いてきた太陽と、夕焼け色に染まりつつある青空。

 掠れた刷毛で描いたような筋状の雲。乾燥した冷たい空気、白い吐息……。


 何の変哲もない、ごく普通の、当たり前の日常。

 私はポケットに入っていた自作の栞を取り出し、張り付けられた白いスカシユリのドライフラワーを視界の中央へ持っていく。


「まるで……物語みたい」


 もしも神様がいるのなら——私という主人公を中心に、クラスメイトや先生、お父さんお母さん。ましてや名も知れない他人までを登場人物として描いているのかな。

 その中で、私という存在がどう生きていくのかを見ているんじゃないのかな。

 ……なら、神様が絶対考えつかないことをやったら、どうなるのかな。


 例えば——突然、この子たちを殺してみたり、とか。




 きっと、人を殺す時はもっと躊躇する必要があるのだと思う。人を傷付けるような行為はいけないことだって本能がブレーキをかけるのだと思う。でも、私にはそれが無かった。

 みんなは『どんな命も平等の価値を持っている』と言っているけれど、平気で花をむしり取ったり、虫を叩き潰したりするでしょう? 平等に扱うべき尊いものだと教えを説いているのにも関わらずに。

 本能では、価値があるのは人間である点、そこしか見ていないのだから。私は人間の本能ではなく、その教えを励行しただけ。


 私が選んだ実験体はクラスの中でも一番顔が整っている男の子、今ゴムボールを投げた子。運動神経が良くて頭が良い、おまけに誰に対しても優しい。こんな私にでさえ、平等に扱ってくれる。


 私が風邪を引いて学校を休んだ時、彼はわざわざプリントを届けに来てくれた。グループ活動で余った私を彼は笑わなかった。個人発表を終えた時、静まり返った空気の中、彼だけが拍手をしてくれた。


 いつも目で追っていた、私の初恋の相手。その子を殺そうなんて、一体誰が予想できるのだろう。きっと、神様でさえ想像できない選択だと思う。

 だからこそ、一番ちょうどいいと思った。


 何ヶ月ぶりに、私は彼に声をかける。一緒に遊びたい、と少しずつ踏み寄りながら重たいランドセルを肩から降ろす。

 周りのクラスメイトは困惑というか、嫌いな人間が邪魔をしに来た怒りのような声を上げる。『帰れよ』『変な奴』とか、そんなところ。


 でも、彼だけは私を快く受け入れてくれた。『——ちゃんとも遊んでみたかったんだ』と白い息を吐きながらにっこりと手を指し伸ばした。

 まるで私のために現れた白馬の王子様のように。


「ずっと前から、あなたのことが好きでした」


 私はその慈愛に満ちた手のひらを握り、何の脈絡もなく告白をした。彼の名前すら憶えていないのに、好きという概念すらよく知らないというのに。

 でも、彼がどういう反応を示すのか興味があった。


 案の定周りの子たちはうるさく喚き始めた。『きもちわりい』『やっぱショウガイシャじゃん』『離れろよ、菌がうつる』そんなこと、予想通りだった。知的生命体としての羞恥心よりもおかしさが勝った。

 みんな”当たり前”を背骨にプログラムされているロボットに過ぎないのだなと思ったから。


 でも、彼だけは違った。


『えぇっと……うれしいよ! うれしい、けど……』


 頭のおかしい私を突き放さず、真剣に受け答えをしてくれる。閉め切られたカーテンのように長い前髪の外から、私の眼を見てくれている。それだけで嬉しかった。それだけで充分だった。

 だから、もう喋らなくていい。私が求めているのは告白の結果じゃない、あなたとの楽しい思い出じゃない。あなた自身じゃない。

 神様がどう物語を紡ぐのか興味があるだけだから。


 彼が口を閉ざす前に、私はぶら下げていた重いランドセルを彼の整った顔に直撃させる。衝撃で彼の皮膚が醜く変形していく様子がスローモーションではっきりと認められた。

 指で潰された果実のように、鼻血と涙が弾け出ていく。私の好きな人があるべき秩序に従って壊れていく。

 当たり前の、幸せな日常がたった一人の歪んだ思想によって崩れ去っていく感覚……私はそれに強烈な高揚感を覚えてしまった。


 バフッ、と薄く積もった白い大地に倒れこむ肉人形。微かに意識は残っていた。でも脳震盪(のうしんとう)のせいか、ぴくぴくと痙攣しているだけで逃げる様子は見せなかった。


 あまりにも異常な光景に恐怖するクラスメイトたち。友達を守るために立ち向かう子が出てくるだろうか、と思っていたけれど、誰一人として拳を握ろうとはしなかった。

 自分が標的にならないように、恐怖の対象から目を背けるように、警察や親などに助けを乞いながら逃げ出した。


 笑った。人生で一番、口角を歪ませて激しく笑い転げた。

 結局自分のことしか考えられない、自分の存在を守るように動かされているクズばっかり! 私は女の子で、一人しかいない。男の子みんなでかかってきたら負けるに決まってるのに! どうしてそんなに救えないの? クズなの? なんのために生きてきたの?!


 私はあなたたちのような人間とは違う。知らないことを恥じて、問題から目を背けずに生きてきた。立ちはだかる疑問を恐れず、自分の美学を信じ続けてきた!

 それに比べて……みんなはあまりにも自己中すぎる。物語を円滑に進めるためだけに常識を創った挙句、矛盾が生じれば道徳心を説き、一般論という名の鈍器で思考を叩き直そうとする。

 多様性、多様性って口うるさく言っておきながら、一番多様性を否定する社会にした人間が、滑稽で仕方なかった。


 所詮、奴らはこの物語の登場人物。運命に逆らえず、街灯の照らされる舗装された道へ導かれる虫に過ぎない。神様の操り人形に過ぎない。

 本当に惨めで滑稽で、哀れな偶像たち。


「……ふたりっきり、だね」


 私は、愛する肉人形へ馬乗りになる。彼の耳から出血しているの見るに、きっと鼓膜が破れてしまったのだろう。

 私の声が半分しか聞こえていないと思うと、少しだけ残念。


「すき……だよ」


 あえて赤く染まった耳へ愛を囁く。彼の疑問が欲しかった、考察を聞きたかった。どうしてこんなことをするのか、訊いてほしかった。

 問題から目を背けない姿勢が、神様の操り人形ではない証明になるのではないかと思っていたから。


「ねえ、今ここで、自分に意思があるって証明して……?」


 彼の愛おしい、恐怖に歪んだ顔。物悲しい生への執着、蛆虫のように身を捩る彼を見つめて、私は赤いランドセルからリコーダーを引き抜く。


「い……いやだ……」


 ——そっか。あなたも所詮、当たり前の奴隷なんだ。殺すならせめて、同じ人間としてあなたを殺したかったな。


 私は彼の口へリコーダーを突き刺した。ゆっくり、ゆっくり。彼の生の息吹が音色に変わって私の脳へ木霊する。

 可愛い子が生にしがみつく様子が、それでもどうしようもない絶望に飲み込まれていく苦悶の表情が——好き……。


 やがて、リコーダーが彼の喉仏まで届いたくらいで、小さな命がひとつ吹き消された。私が、殺した。みんなが創った常識を、神様が執筆した物語を壊した優越感が私を飲み込む。

 成し遂げたんだ。知的好奇心を満たしたんだ。


 私は彼の口に入っている異物を引き抜いて、キスをする。舌を入れて、彼の血液を丁寧に舐め取る。まだ温かいうちに、感謝の気持ちを伝えたかった。


 烏(からす)が鳴いて、私に夕暮れであることを告げる。さながら、夢心地の私をそっと目覚めさせるアラームのように。

 同時に、遠くからサイレンを響かせながら煌めく赤と青色の光が見えた。現実が迎えに来たんだ。


 最後に、とそこら辺に置いておいたままのリコーダーに口を付ける。そして彼に座ったまま、私は”月の光”を奏でた。

 これは誰のものでもない、私だけの物語。包装紙で包み込むように、柔らかく丁寧に、指の先まで愛を込めて。


 時間は演奏に浸るようにゆっくりと流れていった。パトカーのサイレンも、烏の鳴き声も。どこか遠く、次第に……消えていった。


 死ぬことを恐れなかった。死の先にはどんな景色が待っているのか興味があったから。天国、地獄……どっちでもいい。無であったとしても、それを知れるなら本望だった。

 だから、リコーダーを優しく咥えながら、私はゆっくりと足の力を抜いていった。底なしの奈落へ落ちていくように、暗い深海へ沈んでいくように。


 おやすみ。私の、大嫌いな世界……。




「だめだよ」


 沈んでいく身体を、誰かが支える。優しい、太陽のような匂い……安心する。でも、新雪のように冷たい。


「死んじゃったらそこでおしまい。もしそうなったら、一体誰がこの子を成仏させるの。そんなの誠(ただ)しくないよ」


「……」


「こーら、逃げようとしない!」


 抱かれたまま、おでこをつつかれた。なんだか、屈辱的。


「ほら、ちょっとだけお話ししよ?」


 そう言って私の身体を地面へ突き刺すように正す。不器用で乱暴だけれど、不思議と優しさを感じた。


「君、名前はなんていうの?」


「そんなのあなたには関係ない。そもそも名前なんて、その個体を表す都合の良い固有名詞に過ぎない。意味なんてない」


「むうー、そうかなあ?」


 視線を下げていてもわかる、その人は顎に手を当てて考えるような素振りを見せた。役者みたいに、大袈裟なリアクションをする人だった。


「私には”名前”っていう概念が無いから、君たちのこと羨ましいなあって思ってるよ? だって名前って”生きている”ものにしか与えられないものだし」


「はあ……」


「という、冗談だったり? 私は君のこと知ってるよ」


 顔、上げてみて? 言われるがまま視線を向けると、私は驚愕した。所詮私も神様の手の内で転がされていたと痛感した。


「せん……せい?」


 そこにいたのは、間違いなく私の担任、小説好きの頭のおかしい先生だった。

 名前はもちろん覚えてない、私が誰かを認識していれば済む話だったから。


「もう君の先生じゃ居られなくなっちゃったけどね」


 ふわりと揺れる色の抜けた髪色、それは私の知っている先生の姿ではなかった。髪の毛一本一本が、瞳に刻まれた十二本の紋章と共に夕暮れの光を反射して、虹色に煌めいている。

 とても人間が出せるとは思えないほど、綺麗だった。


「私はね、遠い昔から君へ会いに来たの。それはもう……今生きてる人たちみんなの年を合わせたって敵いっこない遠い昔から。おかしな話だよね。地球は四十六億歳だっていうのに。でもそうなんだ、実質、ね?」


「えっ……と?」


 おかしな状況だった。私は返り血でどろどろになっていて、先生は先生でとんでもないことを口走っている。

 遠くで鳴っていたサイレンや烏の鳴き声も、まるで時が止まったかのように沈黙していた。あるべき秩序が、流れるべき現実が先生に跪いているみたいに。


「もうあの子たちが来るから、手短にいくね」


 こほん、と先生はあからさまな咳をして、私の眼を見つめた。


「君にお願いがあるの。生まれ変わって、彼(・)へ会いに行ってほしい。君はたった今罪を犯した。自分の私利私欲のため他者の生を奪い、自らの命すらも断とうとした、生物にとって最も重い死欲(しよく)の罪。その罰として、君は大事なものを失う、辛いことを知らなくちゃならない。そう、命の尊さをその魂に刻み込まれるの。彼によって、ね? 彼の被害者は全員、永遠の苦しみを味わって、最終的には不幸の存在しない世界への生贄として切り捨てられる……。君は、そんな未来を阻止するために、新たな世界で生まれるの。たった一人、”革命の意思”を持った人間として。彼を含めたあの子たちに本(・)当(・)の(・)幸(・)せ(・)を教えてあげて欲しい」


「なにを言ってるか……わからない」


「じきに分かるよ。君に”革命の意思”が宿っている限り、君が問題から目を背けない限り、ね?」


「先生……いや、あなたは一体、誰なの?」


 そう訊くと彼女は斜め上を向きながら、指で髪をくるくる巻きつける動作をした。


「さっきも言ったけど、私に名前っていう概念は無いからなあ……。でも、彼は私をこう呼んでいる。『永遠の【秩序】を司る使徒 noia(ノイア)』とね」


「ノイア……」


 使徒、キリスト教の教えでは神であるイエスの遣いをそう呼ぶ……私が最も知りたかった存在、それが今目の前に立っている。普通に会話している……。

 でも、そんな意味のわからない状況が真実であると信じることができた。偶像の言うことは中身のない反応でしかないと思っていた、この私が。


「っとと、この世界も(・)終わるときが来たようだね」


 神の遣いであるにも関わらず、焦った表情で私のポケットに指を突っ込む。何事かと思って咄嗟に身を引こうとしても、ノイアは既に目的を果たしていた。

 手に持っているのは、私の栞。


「名前なんかに意味はない、と君は言ったね? なら私が代わりに名前を付けてあげよう!」


 透百合(スカシユリ)の花言葉は”飾らぬ美”、それに及ぶ誠しさを美しく着飾る少女。そして、たった一本の白百合を迷える死者へ捧げる主人公として物語を紡いでいってほしい、という願いを込めて。


 ノイアは、栞を宙に舞わせる。


「授げよう! 君の名は——!」


 及百合(きふゆり) 誠羅(せいら)。




 終わりかと思っていた私の物語に、栞が挟まれた。




 きっと、私が見ていたのは今生きている世界の話ではないと思う。この肉体が生まれるよりもさらに前、つまり魂に刻まれた前(・)世(・)の記憶。

 それが死に際、生きる理由を思い出させるために、走馬灯として輝きを取り戻した。まるで私が観てきた、彼らの憶晶のように。




 

 

 暖かい……。ぱちぱちと水分が弾ける心地良い焚火の音。誠羅は身体が赴くまま、引き込まれるように瞼を開ける。

 ぼやけていてはっきりと分からないが、視界一面にサファイアのような蒼色が広がっている。……なぜ?


「おはよっ! 誠羅ちゃん! 考え事は済んだのかな?」


 出日邇公椛……信じられないほど顔が近い。活気のある声と共に吐き出される、生暖かい吐息が鼻先をくすぐる。少しだけ、磯の香がした。


「ずっと、こんなことしてたの?」


「いやあ? なんか音(・)が聴こえたから。整理できたのかなあ、って思って。ほら、ちーちゃんも帰って来てるよ」


 そう言って公椛が身体を逸らすと、奥から心配そうに顔を覗かせる知優が居た。

 欠損した右腕部分には硬く包帯が巻かれているが、痛いのには変わりないだろう。にも関わらず、そんなこととっくに忘れてしまったと言わんばかりの立ち振る舞いには、思わず感動してしまう。

 そんなに誠羅のことが大事なのだろうか。


「誠羅……」


 知優は静かに歩み寄る。高ぶる感情を踏みしめるように。そして、優しく誠羅をぎこちない左手で抱き寄せた。


「本当に、ほんとうに……心配したんだぞ。こっちの身にもなってくれ……」


「類友っていうかなんというか」

 視界の左端で、公椛が脚を組みながら溜息をついた。

「ていうか、こう見えて誠羅ちゃん結構重症だから。肋骨何本か、いかれてるよ」


 えっ、と間抜けな声を二人して漏らす。知優が咄嗟に誠羅から距離を置くと公椛は、「試してみよっか?」と小悪魔的な笑みを浮かべ、手元にあった鞘で誠羅の脇腹を突いた。


「うっ……いたい……」


 あまりにも容易く行われていたため高を括っていたが、ずきんと跳ねるような痛みに己の愚かさを呪う。

 本来であれば叫ぶほどの激痛なのだろうが、そんな体力すら残っていないらしい。「あはっ!」と人の苦悶の表情を見て笑う公椛にすら、憤りの感情が湧いてこない。


「だいじょぶだって! いかれてるっていってもヒビが入ってるとか、折れてても上手く内臓をかわしてるから! ……ほんと、奇跡だよ」


「そう、だな……」


 公椛たちは一瞬顔を見合わせた後、それぞれの足元へ視線が落ちる。なにやら、空気が重い。人間である誠羅が、たった肋骨数本を犠牲に生き残った。それはあまりにもめでたいことだ。

 しかし、それは彼女たちの仮説を助長する事象でもあった。


「……あのさ、誠羅ちゃん」

 重苦しい一言目を、公椛が発する。

「苗字って、その……パパとママも同じなの?」


「苗字? 私の? ……いや、わからない。産みの両親は、私が物心付く前に亡くなったみたいだから。詳しいことは、当時孤児院の先生からあんまり聞かされてこなかったから、里親が見つかってからというもの、気にしたことなんて無かった」


「そ、そうか……」と目線を逸らす知優。「あちゃー……」と頭を抱える公椛。何か変なことを言ってしまったのかと首をかしげる誠羅。

 しばらくの沈黙の後、ゆっくりと噛みしめるように公椛は語り始めた。


「巫女ってさ……生まれの親とされている人たちと苗字が違うんだよね。あーほら、人間って一般的に親の苗字を受け継ぐでしょ? あたしたちって軒並み親元離れて常和学園に通ってるから、そんな話出てこないけど」


「えっ、そうだったの?」


「そそ。実際にあたしのパパママの苗字は”斎藤”、んでちーちゃんは”森谷”、ゆずちゃんは”新井”。何の面白みもない、ふっつーの苗字でしょ? でも、なんでかわかんないけど、私たち巫女は苗字から特別なものになってるの。

 世間一般では『縁様から力を受け継いだー』とかなんとか言ってるから、この苗字も縁様が付けてくれたのかなーと思いつつ、だとすれば縁様は何者だーと思いつつ。まあ、あやふやのまま生きてきたんだよね。

 問題はあたしが本当にパパとママの間に生まれてきた子なのかってことなんだけど……。これも不思議なことにねー。だあれも、一ミリも覚えてないの。そうだったかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。もしかしたら、あたしも誠羅ちゃんみたいに養子として迎え入れられたのかもしれない。

 巫女の定義を”動物の特徴を持った力を有す人間”からこの話に移し替えたら、誠羅ちゃんに当てはまっちゃうの。

 あたしは最初に会った時から、普通の人間とは違う音が聴こえたような気がするし、実際あの高さからこの程度の怪我で済んだってなれば……ねえ?」


 誠羅の両親の苗字は”鈴木”。確かに、境遇は似ている。蒼夷の話では両親との血縁関係を断言できないが、少なくとも弟とは血がつながっていない。


「なら、巫女はどうやって、どこから生まれてくるの?」


「あー、ええっとねえ……」


 公椛は斜め上を向きながら後頭部を掻いた。少しの間言葉を紡ぐのを待っていたが、どうやら問題を踏まえた仮説を立て、話を広げることはできないようだ。

 それを見かねてか、今まで猫背気味に座っていた知優が、左手の手相を眺めながら徐に口を開いた。


「問題は巫女が生まれるか、後天的に巫女が発現するか、だな」


「ちょ、ちーちゃん。あたしもうついてけないんだけど」


「簡単な話だ。人間から何かしらの因果によって巫女が生まれるか、生まれた人間が後天的に巫女になるか。生(・)物(・)学(・)上(・)ではこの二択だろうね」


「んー? はてなはてなはてな」


 聞いて分かる。馬鹿にしかできない疑問の表し方だ。


「しかし、どちらにも矛盾点が生まれる。巫女が人間の突然変異種として、偶然人間の体から生まれたとしたなら、なぜ女(・)しか居ないんだ?

 巫女の遺伝子は他の人間よりも明らかに優れている。生存競争から勝ち残るために、より環境に適した遺伝子を残すのは、生物学上最も合理的な秩序といえるだろう。しかし、巫女という括りだけを見れば繁殖行為を営めない、最も愚かな生物と言えるだろう?

 もし人間の雄との交尾によって子孫を残すことができたとしても、劣性遺伝子が混じることにより、巫女の力は世代を追うごとに弱まっていくだろう。……やがては、巫女の遺伝子すら消滅してしまうかもしれないね」


「あ、あー。そういうことね!」

 今までうんうん唸っていた公椛がようやく理解したのか、嬉しそうに尾鰭(おびれ)を振る。

「つまりは新人類として降臨するなら、純正な新人類を維持し続けるシステムがないといずれ終わりが来るってことね! ウイスキーも水だけ足してったらいずれ水になるしっ!」


 そういうこと、なのだろうか? いずれにせよ、彼女なりに理解ができたのなら続けて問題ないだろう。


「そして後天的に巫女が発現するかだが……はっきり言って有り得ない。内臓機器の造りが似ていると言っても、耳や尻尾が突然生えてくるなど、それこそ化け物だ。ある日自分の娘が変わり果てた姿で起きてきたら、両親はぎょっとするだろうね。そのような話が無いということは、そういうことだろう?」


「でもさあ?」

 公椛は徐に知優の横髪を掻き上げる。

「猫みたいな耳付いてるのに、ちゃあんと人間の耳も付いてるんだよ。あたしも耳裏らへんに穴空いてるし。まるで、取って付けたみたいな、でたらめな作りだよねえ。眼も大きくて肌も綺麗、スタイルも抜群……あはっ! まるでアニメキャラクターみたい!」


 そして、この世の中もぶっちゃけでたらめ、と公椛は両手を大きく広げて語る。


「巫女がどんな不思議なことをしても、不可能を可能にしても。ある程度までは『巫女だから、縁様がいるから』で納得する。だから、ある日突然娘が巫女になっちゃった! ってなっても、そうなんだって納得しちゃうんじゃないかな?」


「論理的じゃないけど、確かに説明が付かないわけでもないかも……」


「そそ。だから誠羅ちゃんも気づかないうちに、いつの間にか巫女になってたりするかも。それこそ、耳や尻尾のない巫女っていうのもおかしくはない。”人間”と断定するには、あまりにもそーけーじゃないのかなって思ったわけ」


 誠羅は人間ではない、巫女の可能性……。しかし、振出しに戻るが、誠羅は巫女最大の特徴とも言える絶対的な強さ、知恵や力、再生能力など持ち合わせていない。

 もし誠羅が巫女だとするならば、成り損ないのレッテルを張られてしまうだろう。それに、この名前は縁様から授けられたものではない。


「私の名前……及百合誠羅は、他でもないノイアに付けてもらった、大切な名前よ」


「……は?」

 衝撃的な一言があっさりと流れていくのを、知優は聞き逃さなかった。

「い、今……ノイアって言ったのか? 言ったよなあ?! どういうことだ説明しろ誠羅っ!」


「ごめん知優ちょっとまて! 今のは……えーと、ちゃんと順序立てて説明するから!」


「ああなら早く説明しろ! 私が納得する説明を! 答え次第では蒼夷の無念も含めて、君を叩き切らなければならないからな!」


「ちょちょちょ! 落ち着いてよちーちゃん!」

 慌てた様子で仲裁に入る公椛。

「殺しちゃったらなんのために誠羅ちゃんを助けたっていうのさあ?!」


 そうではない。


 唐突に始まった修羅場の最中、一人の少女がぴしゃり、ぴしゃりと焚火の元へ近づいてくる。食料を調達していた楪律が帰ってきたのだ。


「騒がしいですよ。何があったのですか」


 両手に握られた計四匹の紅鮭、それを焚火の前に放り投げながら、修羅場など気にも留めず水で濡れた身体を温め始めた。

 投げ捨てられた紅鮭の頭蓋部分が千切り取られている。なんて怪力だと思う前に、この締め方はあまりにも雑過ぎるし、可哀想だと誠羅は思った。心成しか、死んだ魚の目には絶望が宿っているような気がした。



 

「ふむ、誠羅さんが巫女であると……?」


 丸々と太った紅鮭を豪快に串に刺し、丸ごと焚火で炙りながら話を聞いた楪律がそう口ずさむと、ふっと鼻で笑いながら三人へ目線を向けた。


「そんなわけないでしょう。触れたら分かりますよ。こんなにも貧弱な生物、簡単に握りつぶせると」


 楪律は誠羅の華奢な肩を鷲掴みにして言う。加減しているつもりなのだろうが、めきめきと筋肉が悲鳴を上げる音を聴いた。

 しかし、そんな問題はもうどうだっていい、と失望と不信感で瞳を震わせる知優から、矢継ぎ早に疑問をぶつけられた。


「それで、君はノイアの何だ? 名前を与えられたというのはどういうことだ? 君も奴らのように、ノイアの手下だったというのか?」


「ち、ちがう!」

 殺されると本気で感じたのか、柄にもなく両手を顔の前で大きく振るい否定する。

「私に名前をくれたのは、あのノイアじゃない……。話し方とか性格も全然違うし、そもそも女の人だった」


 誠羅は深く深呼吸を繰り返し、先程観た記憶をありのまま、事細かく説明した。巫女が誕生するよりも前、札幌市西区琴似、発寒河畔公園。

 ちょうどこの場所で殺人を犯したこと。その時、当時通っていた小学校の教師だった人がノイアとして誠羅の前に現れたこと。死欲の罪を償うため、名前と使命を与えられたこと。

 それ以外の記憶は、霞(かすみ)のようにぼやけていて、憶えていないに等しいということ……。

 話し切るのに小一時間ほど要したが、三人は邪魔な音を発さず、気狂いじみた話を静かに受け入れていた。


「この記憶はきっと……誰かの記憶じゃない。他でもない自分の……忘れてはいけない、大切な記憶」


「ふむ」

 楪律は小さな指で静かに顎を撫でる。

「理解できませんが、納得はできます」


「うっそだあ。いわゆる輪廻転生ってやつでしょ? 巫女が存在しない時代ってことは二十年以上前、一九九九年よりも前の話ってことでしょ? ということは、誠羅ちゃんは実質この中の誰よりも年上ってことになるじゃん。さすがにでたらめが過ぎるよ」


「いや、そうとも言い切れないぞ」


 はへ? と頭上に疑問符を浮かべた公椛を後目に、知優は膝で握りしめていた拳を緩ませた。


「私たちは今まで、ペティとシープの憶晶を観てきた。時代までは正確に読み解けなかったが、巫女が登場していなかったところを見るに二十年以上前、もしくは別の並行世界ということになる。だが私たちが見た姿は、両者とも成人しているようには見えなかった。

 神の力を受け継いでいるとするなら、不老や世界線を越えた干渉とありえない事象も説明が付くだろう。もっとも、その誠羅と出会ったノイアが何者なのか、分からないがね」


「その神の力というものが、死の概念から遠ざけるものだとするなら。巫女との関連性も説明が付きますね」


 楪律は香ばしく薫る紅鮭を噛み千切り頬張った。


「でもおかしなことはまだあるよ? もし神の力を受け継いだ巫女が、そのペティとかその人たちみたいに不老だとするなら、体が成長するのおかしいよね。あたし、生まれた時の記憶はさらっさらないけど、小中学校の記憶ならあるよ。川で水切りしたり、アニメ観たり! そのときから、ちゃあんと巫女だったよ!」


「……説明できなくもないかも」


 誠羅も焼きあがった紅鮭に手を伸ばす。食そうと口部へ持っていくが、熱せられた薫りが鼻孔をくすぐる。今は食事の時ではないと食材の声を聞いたような気がした。


「不老というのは、つまり老いないということ。年を重ねることが老いと定義するなら、生まれた時からそのままの状態っていうのも納得できるけど……そうじゃないと思うの」


「つまり、どういうことだ?」


 猫舌の知優は手に取った紅鮭をふうふう冷ましながら問う。


「老いというのは、一般的に衰えていくものっていう解釈だと思う。でも幼少期からの老いは、成長と言った方が自然よね。いつまでも赤ん坊のままじゃ、自分の身は自分で守れないし、なにより死から遠い存在とは言えない。

 学部の課題で過去の各年齢の死亡率を計算したことがあるんだけど、五歳から著しく死亡率が激減して、そこから二十歳まで緩やかに上昇していく形だった。もちろん死の要因は沢山あるけれど、私の考えでは免疫系が発達してきた年代、かつ酒たばこを摂取できない小中高生辺りが一番死から遠い年だと思う」


 巫女が不老という証拠はないが、少なくとも現存する巫女は二十歳以下に抑えられる。


「しかし、それだけでは証拠は不十分ですよ。神ならばそういった外的要因など消し去れる、もしくは遠ざけることだって可能ではないのですか? 統計的には五歳辺りが最も死亡率が低い。数学的根拠ではありますが、そこで老いを抑制することが最も合理的かと」


 楪律の見解に公椛は困ったように顔を歪める。


「でもあたしたちはちゃあんと二十歳まで生きてきた。身体も他の大人たちとほぼ変わらなくなったよね。ほんとこれでよかったあ! だって五歳で成長止められちゃったら、遊びの幅が狭いままだったじゃん。

 あたしむかしっからバ(・)カ(・)だったから、最近まで麻雀のルールとか、アニメの考察とか理解できなかったもん。そうなってからは人生が楽しくて仕方ない!」


 馬鹿、その言葉が誠羅の中で反響する。そうだ、死の要因はなにも病気だけではない。


「……それだ。そうだよ! みんな生まれた時は馬鹿だった。貶してるわけじゃない、脳の構造的に、必然なこと……! 世間知らずな子供たちは、なにが危険で自分の身に害を及ぼすかわからない。知識や経験を正しく認識するためには、そのための機能を発達させる必要があるのよ!」


 人間の脳機能、それが完全に発達する年代は。


「十代前半から二十歳にかけて……つまり中高生くらいの年頃。そして巫女の多くはこのくらいの年代で……常和学園に通っている」


 一九九九年七月、初めての巫女として知優が生まれた年。それを皮切りに様々な巫女が矢継ぎ早に生まれていった。二○○七年六月、最年少とされる楪律が生まれた年、計一〇八の魂が出そろうその時まで。

 そして各巫女はいずれも、誠羅が定義した死から最も遠い年代と一致しているのだ。


「巫女全員が完全に成熟したタイミングで、私たちは故郷(ここ)に連れてこられた……。これが、偶然と言えるの?」


 この場に居る全員が、誠羅の考察の前に沈黙する。雄大な賢者を前に脳が痺れる感覚を覚えたのだ。

 目を見開き、瞳を輝かせる知優。あわあわと驚愕し、驚きで閉じられない口元を隠そうとする公椛。冷静な表情を保ちつつ、とととんと何度も親指以外の指先で丸太を忙しなく叩く楪律。


「奇しくも”ノストラダムスの大予言”とも年代が一致していますね。教団でもその話が出ていました。『巫女によって世界滅亡の危機から護られた』と。偶然にしては、あまりにも出来過ぎた話です」


「じゃ、じゃあ……巫女ってほんとに、神様の遣い……ってこと?!」


「本当に私たちが描かれた物語の上で生きているとするなら……。私たちはノイアたちの野望を防ぐために、導かれたということか……」


「あわわわわっ! わっけわかんない……! あたし普通に楽しく生きてただけなのにい!」


 公椛はぶんぶんと頭を抱えながら顔を振る。本来なら知るはずもなかった使命を突然告げられたのだ、困惑するのも無理はない。


「話を整理する必要がありますね」

 いつの間にか紅鮭を綺麗に平らげていた楪律が、誠羅の方に向き直った。

「貴方の見解、御聞かせ願います。誠羅さん」


「いや待ってくれ。その前に、これも見てほしいんだ」


 知優はそう言って白衣のポケットから四つ折りにした紙切れを広げる。洞穴で見つけた、解読不能の文章だ。


「私にはさっぱりだが……β(ベータ)の名前が記されているんだ。ノイアたちの正体を暴くには、故郷に連れ込んだ奴ら……。飛龍、奇特そしてベータの存在も考慮すべきだと思うよ」


 そう言って知優は左手に居る公椛へ紙切れを渡す。しかし、英語すらまともに読めない公椛は数秒眺めた後「このキャラで読めたらカッコよすぎて困っちゃうよ」と誠羅の方へ回した。


 誠羅は渡された暗号に目を通す。しかし、博識な誠羅でさえ正確に読み解くのは不可能だった。


「私も……読めない。ギ(・)リ(・)シ(・)ア(・)語(・)なんて殆ど習ってないもの」


 適当なことは語れない、と左手に居る楪律へと紙を回す。受け取りざま、楪律の美しいアメジスト色の瞳が誠羅のやるせない表情を貫いた。


「よく、これがギ(・)リ(・)シ(・)ア(・)語(・)と分かりましたね。常和学園では今の時代、珍しく英語を五科目として教育されているようですが、ギリシア語など聞いたことすらありませんよ」


「ええっ? β(ベータ)ってギリシア文字でしょ? 他にもα(アルファ)とかΔ(デルタ)とか、Ω(オメガ)だって、聞いたことくらいあるでしょう?」


「たしかにベータ版とか、ゲームとかで聞いたことあるけど……」

 公椛はぽつぽつと呟き話す。

「ギリシア語とか、そういう概念なかったなあ。意味は伝わるし、日本語的なカッコいい言い換えだと思ってた。リンゴを漢字で林(・)に檎(・)(よくわからんやつ)って書くみたいにね」


 世間では忌み嫌われている外国語、それが日本語として扱われているとはなんと度し難いことか。語源など深く考えず、都合の良いように解釈を繰り返す世間に深く呆れの溜息を付く。

 噂の教団とやらもこのように、でたらめな生き方をしているのだろうか。


「それで、そのギリシア語、という概念を学んだのは、何時(なんどき)頃なのですか?」


 楪律は文章を短い指でなぞりながら誠羅に問う。概念すら存在しないのだ、少しの手掛かりも得られないのだろう。指と視線が進む速さで、誠羅はそう察する。


「それが、ええっと……。奇特理事長に教えてもらったの。私は英語だけは得意だったから、時々放課後に誠と会うついでに、これから習う内容まで教えてもらってたの。授業みたいにかっちりとしたものじゃないけど。最近の話、それすらも大体習い終わって、『他の言語も学んでみようか』って言われて教えてもらったのが、このギリシア語。といっても、大した時間習ってないから、単語の意味がちょっと分かる程度で、文法とかそういうのはわからない」


「なあんか、それすらも意味があるような気がしてくるね。外国語って聞く限り沢山あるらしいけど、ドイツとか、アメリカとかじゃなくてわざわざギリシア語を教えるって……」


「奇特とベータが共犯だとすると、このメモ書きも”誠羅にしか読めない暗号”として残したようにも捉えられるね。なら、大事な部分だけでも読み解けるのではないか?」


「こういった場合、心(・)優(・)さんが居たなら解決したと思うのですが。元考古学部でしたよね?」


 そう楪律は知優たちに目配せをしながら、誠羅に紙を渡す。心優という人物は確か、知優と出会ったばかりの時に”鵲(カササギ)の眼”という名の黄金の眼を持った人物だと聞いていた。

 現在の日本にとっては失われた古代の言語とされているギリシア語も、彼女なら読み解くことができたのだろう。

 そう若干の劣等感を覚えつつも、誠羅は受け取った紙を再度洗い流すように読み直した。


「さっきも言ったけど、私は少し単語がわかるだけで、正確な文法とかはわからない。でも、ギリシア語は英語の基になった言語だって奇特理事長に教えてもらったから、英文の決まりに当てはめながら読んでみる。……あくまでも、参考程度に聞いて」


 じっと文章を読み進めている奥から強い視線を感じる。ここまで期待を寄せられると調子が狂う。しかし、そのプレッシャーに負けじと、誠羅は冒頭から二行目ほどで知っている単語を掬い出すことに成功した。


「Aιωνιότητα(エイオンニオニティタ)、これは確か【永遠】という意味だったはず。その後のρηʹ、この単語末についてる記号は数値であることを表していたはずだから、ρが百、ηが八として【一〇八】の何かっていうのがわかる。一〇八といえば、現存している巫女の人数と同じね。つまり【永遠】は巫女を指している単語っていう可能性が高い」


「巫女が死から最も遠い存在と定義するなら、その表現の仕方も繋がるな」


 知優は食べ終わった紅鮭の骨を茂みへと投げ捨てた。


「最後の方に書かれてる͵βʹという字も数値、単語の頭にこの記号がついているってことは、後の数字を千倍した数値。つまりβが二を表しているとすればその千倍、二○○〇を表している。そしてεν(エン) συνέχεια(スィネヒア)は【その後】という意味だったはず。つまりこの文は二千——の後、という意味になる」


「巫女が生まれたのは一九九九年。誤差はあるものの、二千年から世界が変わったという表現であるなら、繋がりますね」


 楪律は食べ足りなかったのか、誠羅が食べ残した紅鮭の皮を許可なく拝借し、口へ放り込んだ。


「……私が読める単語はこれで終わり。ここからは英文の癖を使った考察なんだけど」


 誠羅は持っていた紙を三人へ共有するように広げ、ある一点を指した。


「さっき言ったAιωνιότητα(エイオンニオニティタ)。これ、文頭じゃないのに単語の頭が大文字になってるの。こういう書き方は英語だと”固有名詞”とか”人の名前”とか、そういう特別なものを表すときに使う書き方。それに、次の文章にも同じような書き方のものがあるの」


 誠羅が滑らした指の先を捉え、公椛が知識を振り絞るように読み上げる。


「Aν(エーブイ)? エッチなこと書いてるの?」


「いや、これはブイに見えるけど、アルファベットに直すとnになるの。つまりこれはAn(エーエヌ)と書かれてる」


「略称なのかなあ? 単語長いし」


「そう、略称かもしれないの。【永遠】の名を持つ”なにか”の固有名詞を呼びやすくした単語。あだ名、って言った方がわかりやすいかも」


「うーん、なんて読むのかなあ」

 公椛は斜め上を向きながら考え込み、ぽつりと口にする。

「An(アン)、とか?」


「確かに、英語の読み方、一般的にはそう読むのが正解だと思う。でも、これは固有名詞。だから私は、あえてこう読む」


 誠羅は人生最大の仮説を立てる。三人の眼を覗き、肺を大きく膨らませ、決意したように。今ある知識を全て振り絞った一滴を思考の海へ滴らせるように。

 これが、誠(ただ)しさであることを信じて、言い放った。


「An(エイン)……どこかで、聞き覚えはない?」


 三人は少しの間考え込み、同時にひとつの単語を思い浮かべる。全くの同じタイミング、同じ単語であった。


「縁様……?」

「縁様か……?」

「縁様では……?」



「そう、巫女を創ったとされる神様の名前。外国語嫌いな人々は、それを日本語的に訳したの。【永遠の命】もしくは【永遠の安泰】を紡ぐ縁(ゆかり)、結果現代では縁様と呼ばれるようになった。——つまりAn(エイン)は神の本当の名前、巫女を創り出した、神……。この文章も【エインは一〇八の魂に永遠の命と安泰を与えた】って書いていると思うの」


 圧巻、その一言に尽きる。偶然とは呼べない持論の数々、隠されていた神の名……誠羅は真実に辿り着いたと、皆が確信した。


 揺らぐ焚火の炎、ざわめく木々たち、駆け抜け唄う風……この物語に色が付いたのだ。


 十二本の紋章。人々が歌う平和の言葉、教団が持ち崇めていた一見一貫性のない宗教用具。何気ない日常の風景が繋がっていく。

 古代ギリシア神話ではゼウスやポセイドンなど十二神が存在しているらしい。これはノイアたちに刻まれた紋章の線の数と一致する。一〇八の魂とは仏教の煩悩の数と一致する。

 また、教団の一人が握っていた十字架はキリスト教を意識したものだとしよう。そこでも十二とは使徒の数と一致する。そして神とされるイエス・キリストは罪人に救いを与え、十字架の上で処刑されたとしても再び命を吹き返したとされる。これは巫女の”死から最も遠い存在”という定義と一致する。


 全ての神話を現代に蘇らせた【絶対的な神】それが、エイン……。


「ベータがこのことを知っているということは、巫女がエインによって創り出されたことを本当の意味で知っている。必然的に神を名乗るノイアやペティ、シープも神の存在を知っているとするなら、なにかしらの繋がりがあってもおかしくない。——散りばめられた神の力を掌握するために、巫女を故郷に連れてきた。飛龍先生はそんな未来を変えるために、人間である私を故郷に送り込んだ……。そういう、物語じゃないかと思うの」


「あわわわわ……! 全部、ぜんぶ繋がっちゃったよっ! ほんとに、ほんとに神様が実在してたの?!」


「非現実的ですが……納得してしまいますね」


 どくん、どくんと誠羅の中で木霊する。うねり荒れる大海の波のように、滾る大地の鼓動のように、轟き爆ぜる雷鳴のように。誠羅は廻りゆく星の上で、一人の賢者として、仮説を組み上げた。


 時は満ちた。さあ、飛龍鴒霸に課せられた問いを、人生の使命をかけた答案を提出しようではないか。


 及百合(きふゆり)誠羅(せいら)。


「長くなるけど、聞いてほしい」


 ——An(エイン)が描いた物語を。

 

 

 




 


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