もしも神様がいるのなら
物語の始まりまで頁を巻き戻そうと思う。私たちが故郷に来る前、幸せだったあの日常よりさらに前。私が及百合誠羅として生を受けるその時まで。
ややこしくなるから、私たちが最初に出会った男性のノイアよりも前に存在していたと定義して、私に名前を与えてくれた人を”先代ノイア”と呼ぶことにする。
先代ノイアは私たちが故郷に来ることを知っていた。そして、神の力を奪い悪用する人たちのことも、その先の未来まで。
だから私の死に際に、いやそれよりももっと前から、私の前に現れていた。私が世界を救えるほどの人材なのか、見定めるために。
先代ノイアが私に【革命】の意思を与えた後、多分その世界は終わりを迎えた。地球よりも遥か長く存在していたと言っていたから、ノイアは多分世界の終わりを何度も経験してきたんだと思う。
何度も、滅びゆく世界をループして……その先に生まれたのが巫女。世界の平和を、幸せな日常を護るために、彼女が残したんだと思う。
その先の運命を変えられなかった彼女が残した最後の希望、意思。それが巫女の正体。
先代ノイアは私と巫女に世界を護る使命を与え、最終的に力を失った。そこで、今のノイアに名前と神の力を奪われた。
ノイアは奪った力で、先代ノイアと同じように死にゆく人たちへ救いという名の支配を重ねていった。
ペティ、シープ、いやもっといるのかもしれない。支配された人の印があの瞳に刻まれた十二本の紋章なら、リーノもその被害者なのかもしれない。
全てを失った人はノイアを最後の希望として崇め、その居場所を護ろうとする。その心理を悪用した、最も邪悪で卑怯な方法を使ったの。
きっと奇特理事長やベータ、蒼夷を捕らえた女の人も目的は同じ。
ノイアによって支配されていたとは限らないけど、仲間っていう可能性が高い以上、奴らもノイアの力を持っていると考えた方がいいかもしれない。
話を聞く限り、ベータが公椛たちを武力で制したみたいだから、この説も多分あってる。
そうなると憶晶の発生条件を知らない、という矛盾が発生する。でも、ノイアが力を奪ったのなら、憶晶を正しく使いこなせていないって解釈できる。
それこそ『念じる』とか、そういう論理的じゃない使い方。それを解明するために、憶晶の力を正しく悪用するために、巫女が連れ去られたと思う。
「しかし、少なくとも私は憶晶を使えない。巫女が憶晶を操れる説は、否定されるのではないか?」
知優、巫女の特徴を思い出してほしい。巫女は知恵、力、全て人間を上回っている。でも、体の構造は人間そのもの。
物理的に、電撃みたいな瞬発力を出すことも、小さい身体で巨体を殴り飛ばすような怪力も出せない。不可能なの。
それを可能にさせているのが、みんなの中に宿る憶晶の力なんじゃないの? 巫女を解剖した事例なんて一度もないわけだし、体の中に結晶体がある可能性だってある。
そもそも憶晶という定義が、なにも結晶体である必要なんてどこにもないのだから。
「じゃああの時、あたしが百メートルくらい飛び上がれたのも、無意識に憶晶を使った……ってこと?」
その可能性は充分ある。いや、そうじゃないと説明がつかないもの。刀を地面に突き刺したら、地面が爆発したなんて。
そして、私たちが殺してきた怪物たち、虫笑いや双粛清を例に挙げると。奴らも憶晶を使って、色んな戦術を編み出してきた。
蜘蛛の糸を模倣して相手の動きを封じ込めたり、結晶を爆発させたり。なにより、奴らは簡単に死ななかった。
虫笑いは知優に脳を撃ち抜かれても生きていた、双粛清はペティに殺害されても生きていた。……これは、巫女の定義でもある”死から最も遠い存在”に当てはまる。
共通するのは、憶晶でしょう?
そして、憶晶を持つ者はみんな神の加護を受けているとしたら。私がしぶとく生き残っているのも、神様に護られていると説明がつく。
同時に私にも何かしらの力を持っているとしたら——憶晶を破壊する力【革命】。憶晶によって死を失った者に終わりを与えられる、唯一の方法……。
みんなみたいな驚異的な身体能力や再生能力を持っていないのは、その能力によって持つべき力が相殺された結果……なのかもしれない。
「蒼夷さんは憶晶を操り、怪物へと変貌していました。また、私たちが各都市で殺害してきた生物たちも、憶晶を纏っていると思われます。つまり、奴らは巫女の”なれはて”の姿、と言うべきなのでしょうか」
そう、とも言い切れない。だって都市に群生していた生物は、楪律たちの殺戮に耐えられなかった。
憶晶を使えない量産型、と解釈もできるけど、無意識に使いこなせているみんなや知能が低い虫笑いたちを見るに、力を得ること自体はそんな難しい代物とは思えないの。
蒼夷はペティに植え付けられたカルテットによって洗脳されていた。奴らみたいな寄生虫が暴走したなれはての姿があの葉緑龍や怪物たちだとするなら、生物を生み出した犯人は必然的にペティになる。
ペティ・ライフライン。ライフラインは直訳で生命線、つまり【生命】を司る使徒なんだと思う。
「だが、そうだとするなら怪物たちの同士討ちに矛盾が発生する。具足虫は瞳に十二本の紋章が刻まれていたから、ペティの遣いではなかったとしても、あの蛸はどう説明するんだ?」
それについては……確証が持てないけど、虫笑いや双粛清と同じ立ち位置、と考えれば説明できる。奴らは他の怪物とは違って、ペティとシープの憶晶によって創り出された遣いだったと仮定する。
あれほど彼らの憶晶に依存しているような行動をしていたから、全然違うわけではないはず。
双粛清が主のペティに敵対的だったのは……よくわからないけど、目が見えないから敵味方の判別がつかなかったんじゃないかなって思う。
音ばかりに執着した結果、ペティまで巻き添えを食らっていた……そういうことならありえる。
「なあにそれ、めっちゃばかじゃん。所詮造りものだね」
問題は蛸が誰の遣いかって話だけど、リーノの遣いだとすれば説明がつく。
初めて出くわした時やデパートの渡り廊下で出くわした時も、殺戮の二次被害に巻き込まれるこそあったものの、直接敵意を向けられたことはなかった。
それが、ペティに送られた刺客から私たちを護るためだったとするなら、今のところその動機を持っていて、実際に可能な人物はリーノしかいない。
彼女がなんの使徒かは、フルネームや特徴が不透明だからまだなにもわからないけど。
ただ、シープ・カヅィフェルトは説明できる。シープは直訳で”眠り”の象徴とされる羊、フェルトは羊毛製のものを指す言葉だけど、カヅィの部分をκατσίκα。
つまり生贄の象徴とされる山羊だとしたら、フェルトは羊毛製の人形、依り代を指していると思うの。
「生贄、つまり死を司る使徒か?」
ギリシア神話に擬えると【冥府】の使徒という表現の方が近いかもしれない。
「ならばあの寄生虫どもが吐いた『生と死の狭間で、冥界へいざないに来ようぞ』という言葉も、ペティとシープを指した捨て台詞となりますね。繋がります」
さて、あらかた登場人物の役割がわかってきた。後はリーノ、そしてエイン。
リーノは私たちの中で、この物語を描いた、憶晶を創り出した人物だと定義していたけれど、そうなるとノイアと先代ノイアの関係に矛盾が発生する。
リーノが元々先代ノイアの救いを受けていたとしたら、ノイアたちが見逃すはずないもの。私が同じ立場なら、何が何でも殺すでしょうね。
だから、リーノはノイアの手先として定義しようと思う。でも、とある出来事をきっかけにノイアへ不信感を抱き、その後エインの存在を知った。
そして、ノイアの野望を防ぐため現れる英雄たちの一人にこのランタンを、神の眼を授けたの。
そう、彼女が言っていた主人。その正体がノイア。そして七人の家族がペティたちなら、人数も夫人を除けば合ってくる。
死から救えるほどの力を持っているのにも関わらず、子供たちを見殺しにした。それで、奴が神の力を奪った邪神、いやそれすらにも満たない偶像だと察した。
だから、被害者である家族たちの魂を救うため、世界の平和を護るため、その真相に気づける私に力を託したんだと思う。
彼女が言った神の加護、つまりエインの描いた物語。エインは、世界を脅かそうとする悪人を巫女を使って消し去ろうとしているの。
まるで雄大な自然における自浄作用みたいに。
「奴らが神の力を持っているとするなら、エインの絶対的な支配下から抜け出したと納得できる。そこで、巫女の出番というわけか」
「どう、かしら。私の答え」
誠羅の長きに渡る証明、疲れ果てたのかぐったりと肩を沈めさせる彼女へ、三人は盛大な拍手を送った。
「きっと合ってるよ、花丸だよ! あたしはすごく納得した!」
「ふむ、上出来ですね」
「君が言うなら間違いないさ。……誠羅、君は本当に凄い人だ」
ありがとう、と誠羅は称賛の言葉を浴び、瞳に涙を浮かばせながら感謝を述べた。
綏操知優。猫のような三毛柄の耳と尻尾、白衣を羽織う誰よりも優しい知者の名だ。
時に厳しく肉食動物特有の牙を見せつけてきたこともあったが、誠羅を憂うがあまり正確な時を刻む時計と化する、愛らしい一面を持つ英雄だ。
出日邇公椛。蒼銀の刀を使い、海豚のような尾鰭と銀髪、ラッセンを思わせるハート形のネックレスが特徴的。美しい調和を公にもたらす家人の名だ。
お調子者であり、特徴的な笑い声と振る舞いには苛立ちを覚えることもあった。しかし、仲間の護る使命には真っ直ぐであり、どんな苦難においても決して笑顔を崩さない、強者である。
歩嗚雫楪律。弱き者を排除する強い思想を持ちつつも、強き者としてか弱い命を護る王者の名だ。
表情が読めなく、常に冷たい口調だが、時折見せる優しさを見せる彼女も、巫女として世界を護る人物に相応しい。最年少でありながらも、社会を支える逞しさには思わず感服してしまう。
……そして、委碧蒼夷、水聖誠——忘れてはならない、仲間の名だ。
「みんな、私の……大切な友達。仲間……」
ぼろぼろと涙を流す誠羅へ、仲間たちが肩を組み寄せ合う。
「そうだよ。あたしたちは誠羅の仲間だし友達」
「絶対に裏切らないからな。だから誠羅も、裏切らないでくれ……」
「皆さん、届きません。私のことも考えてください」
楪律が不服そうに手を伸ばしている姿を見て、共々笑ってしまった。怪力の癖に、こんな小さな悩みを持っているのかと。
「じゃあ手を重ねよっか! これならゆずちゃんも問題ないでしょ?」
「なら意気込みも言っていこう。世界を護ったあと、何をしたいかを」
知優は左手を突き出し、「私は巫女の力を解明し、死すらも超える安泰な日常を創る!」と言った。
公椛は右手を重ね、「あたしは平和で退屈な日常で、めいっぱいお昼寝をする!」と言った。
楪律は右手を下に重ね、「私はこの世から弱者を滅し、人類が切磋琢磨し合える強き社会を構成します」と言った。
——私は、最初から決まってる。
誠羅は重ねられた手のひらの一番上に手を置き、ノイアに託された願いを言った。
「私はこの世に蔓延る不幸を消し去って、幸せな日常を取り戻す!」
皆の願いが出そろったところで、公椛を始めとした英雄たちが結成の儀式を始めた。
「集え! 我ら故郷組!」
「奴らの好きにはさせるものか!」
「弱き者をこの手で握りつぶしてみせましょう」
「……ノイアさん、飛龍先生」
——必ず果たして、会いに行くから。
「出撃だあーっ!」
「「「おーっ!」」」
楪律だけ声を発さなかったが、心は繋がっているはずだ。
奴らに魅せてやろう。——英雄の冒険譚を。
早朝、空が明るくなる五分ほど前に目が覚める。整えるベット、カレンダーや着替え、朝食のトーストはないが、誠羅は変わり果てた日常に希望を宿していた。
昨夜は四人で代わる代わる見張り役を務めていた。恐らく皆睡眠不足でしばらくは起きてこないだろう、と思っていたが、やはり巫女は化け物じみた体力を有しているようだった。
「おはよう、誠羅」
どこからか持ってきた銃を工具でばらばらに分解している知優がそこに居た。
「みんなは?」
誠羅がそう訊くと同時に、二人の巫女が奥の森の方から大量の荷物を抱え姿を現す。アサルトライフル、ショットガン、サブマシンガン。それに対応しているであろ弾丸に医療用具と薬品の数々。
これから戦争に向かうつもりなのだろうか、と一瞬思ったが、その通りだと心の中で訂正した。
「銃の種類はこれでぜんぶかなあ。あと、一通り使えそうなものと……手榴弾! あ、せいちゃんおはよっ!」
「おはようございます。誠羅さん」
いつの間にか公椛の呼び方が変わっているが、これは昨夜決められたあだ名だ。どうやら公椛は親しい人にあだ名を付ける癖があるらしい。友好の証だとか。
「でも設計図とかはなかったよ? 分解しただけで覚えきれるもんなの?」
「何を今更。私はとっくに忘れることを忘れた巫女だぞ?」
そう言って知優は銃を受け取り、失った右手の代わりに脚を駆使し、器用に分解を始めた。異常なまでの適応力も巫女としての才能なのか、はたまた彼女自身が優れているのか。どちらにせよ心強い味方だ。
「そうだった。超記憶症候群だっけ? ここではデメリットばかり目立ってたけど、こういうこともできるのは素直に羨ましいかも」
「そうさ。と言っても、パーツを暗記しているだけだが」
「それだけで充分ですよ。技術の再現なら都雅さんが、ギリシア語の解読なら心優さんが完璧に熟してくれます」
「そそ。あたしの刀も、みやびんが作ってくれたし。すんぽー? とかわからなくても、上手くやってくれるよ!」
都雅という人物は、同じく昨夜に聞いていた。昔は工場の現場作業員として働いていたが、一年前独立し楪律の傘下、社長として機械部品の開発、発電機のメンテナンスなど幅広い分野で産業を支えているのだとか。
相変わらず巫女というのは、偉人並みの才能に恵まれている。
「でもそれって、銃刀法違反じゃ……」
「まあだそんなこと言ってるの?」
公椛の刀がかちゃり、と存在を見せつけるように擦れる。
「法律よりも世界を護る方が重要なんですー」
そうだ。巫女なら何をやっても、世間は許してくれるのだ。人間社会が創り出した安っぽい秩序など、その先を生きる巫女には関係ない。
むしろ、巫女に従うこそが平穏の一途を辿る最適解なのだから。
しかし、いくら部品の形などを暗記したところで、材質などは分からない。特に手榴弾や弾丸などは火薬が用いられている。
火薬と一括りにまとめられているが、具体的にどんな物質が、どのくらいの割合で調合されているのか。一目見たところで理解できる代物ではないだろう。
そう誠羅が疑問を投げかけるも、知優はふっと笑い飛ばしながら、取り外された安定化装置を見つめていた。
「君はあの時、ペティに脇腹を刺されていた時に、どう助けられたのかを忘れたのか?」
閃光手榴弾、その外観は何の変哲もない空き缶だ。
「これでも科学者を名乗っている者だ。あの光はマグネシウムを発火させたものであると、すぐに分かったよ。機構を真似るのは少々手こずったが、一発限りの騙し討ちだ。杜撰な形状でも問題ないだろう?」
……やはり、巫女は偉大だ。
「びぃやあああん! お腹すいたああ!」
一仕事終えた公椛が、分解の手伝いをしている楪律へ泣き付き始める。いつもの事なのか、うざったく眉を顰めるだけで振り払うようなことはしなかった。
「朝食の用意をしている暇はありませんよ。そこら辺の草でも食べていれば良いではないですか」
「やだああ! 毒でもあってお腹壊したら困るもおん!」
「ナメクジでも這っていたら、広東住血線虫に寄生されるかも。巫女とはいえ、脳を食い荒らされちゃ困るものね」
聞き慣れない単語に思わず噓泣きをやめてしまう公椛。
特に生物学に博識な誠羅も、才に溢れる巫女と並ぶほどの才能だ。隣の芝は青く見える、とはまさにこのことを表しているのではないのだろうか。
しかし、腹が減っては戦はできぬという言葉もある。楪律ははあ、と呆れた溜息を付き、哀れな雛に餌を恵む親鳥ようにポケットから風船ガムを取り出し差し出した。
それを嬉しそうに頬張る公椛は、まるでおしゃぶりで黙らされる赤ん坊のようだった。
「満腹中枢神経が刺激されるから、よく噛んで食べると良いかも」
「せいちゃんは物知りだねえ。ありがとっ!」
礼を言いながら早速ガムを膨らませる。この少女が主人を護る家人だというのだから、驚きだ。
小一時間ほど経ち、誠羅たちは戦場へ向かう準備を整える。ばらばらに分解された銃を元の形に組み立てたのは良いものの、複数個持ち運ぶにはあまりにも大きすぎる物ばかりだ。
公椛は遠距離での攻撃手段としてアサルトライフル一丁を装備したが、知優たちは手榴弾を数個と弾薬だけをそれぞれのポケットに詰め込んだ。
「知優の分の弾は必要ないんじゃないの? だってこんな状態じゃ、リロードなんかできないじゃない」
右手が無ければスライドを引くことはできない。誠羅はそう思ったが、「杞憂だな」と知優は実際にリロードが可能であることを証明する。
銃身を顎で固定しながらマガジンを片手で交換し、その態勢のまま顎でスライドを引く。
金属を捕縛できるほどの咬合力に思わず感嘆の声を漏らしたが、思えば楪律も鶴嘴を顎の力だけで振り回していた。
「それよりも、誠羅さんはそれだけで良いのですか? 同じ種類の弾丸が無かった以上、武器を新調するべきかと」
拳銃でもあればそうするつもりであったが、誠羅は華奢な少女だ。何キロもある銃を持ち運べるほどの筋力は持ち合わせていない。それに——。
「残弾は四発、標的は三人。一発余るわよ」
誠羅はそういう人間だ。
「ま、トドメはせいちゃんに任せて、あたしたちが頑張ればいいだけの話だし。余裕だね! あはっ!」
誠羅はベルトを装着し、そこへランタンを取り付ける。戦いに必要ないが、リーノへこのランタンを返すためにだ。
『その光に神の御加護があらんことを』
……準備は整った。
さて、平穏な世界を護りに向かおうではないか。
それからしばらく、空が暗くなるまでの長い時間を歩き続けた。途中公椛が空腹で泣き喚いていたが、そのおかげか英雄たちの雰囲気は終始明るく保たれていた。
旅路を妨げる障害が現れなかったのも、楪律たちが生命たちを殺戮し尽くした結果なのだろう。
誰一人欠けてはならない、精巧に創られた物語だ。だからこそ、無事に帰らなければならない。
「この戦いが終わったら、私は札幌に帰ってみようと思う。前世の私がどんな街で生まれ育ったのか、見てみたいの」
「いいね! あたしも行ってみたい!」
「一年前に行ったばかりではないですか。知優さんと、都雅さんの四人で」
「ありゃ、そだっけ?」
頭を掻きながらにへっ、と変な笑みを浮かべる。そういえば知優がそんな話をしていた。ここでも話が繋がっていたとは、是非ともその都雅という人物とも顔を合わせてみたいものだ。
「だが、”琴似”には行っていないぞ。誠羅が生まれた街なんだ、きっと良いところに違いない」
「居酒屋しかありませんよ。他には……屯田兵跡地、でしょうか」
「いーじゃんいーじゃん。とんでーへーがなにかわからないけど、お酒飲みながら見に行こうよ! ビール! ハイボール! テキーラ!」
「泥酔した貴方たちを介護するのは誰だと思っているのですか」
きょとん顔で公椛は誠羅に肩を置く。
「一人増えたじゃん。もうゆずちゃんだけじゃないよ」
勘弁してほしい、そう言いたげに誠羅は頭を抱えた。
「楽しい話は終わりだ。見えてきたぞ」
知優が指した先、白銀に包まれた大地には見合わない豪邸が誠羅の視界に映る。あれが目的の場所、憎きノイアたちが居る。今になって自分が選ばれた英雄であることを自覚し、闘争心で身震いした。
恐れるな、成し遂げられるはずだ。自身に課せられた使命を、全うできるはずだ。
誠羅は今までの旅路を振り返る。幸せな日常から一転、何度も死神に腕を引かれそうになった。しかし、それを上回るほど大切な、仲間との絆の物語を紡いできた。
……望むなら、あと二人分の足跡が伸びていればと気持ちが濁るが決意を揺らがせることはない。悲惨な過去を受け入れることも、また人生なのだ。
自身の身長の何倍もある大きな扉に、誠羅は手をかける。ぎい、と重苦しい音と共に扉は英雄たちの訪れを歓迎した。
一望した光景、高級感のあるレッドカーペットが敷かれた湾曲上の階段や一面を覆う雪のような白い壁。正面に施された、淡い光を放つステンドガラス。
その幻想的な景色を彩るように、木製の装飾を施されている蓄音機から奏でられる”月の光”。ここだけは安全だ、と誠羅は奇妙な安心感に魅せられ、堅苦しい表情を緩ませていた。
「ひろお……。こりゃあせいちゃんたちの言ってたエレベーターを見つけるだけでも骨が折れるねえ」
「二手に分かれよう。私は誠羅と、二人は反対方向を探してくれ」
待ってください、と楪律は食い気味に発言する。
「手負いの知優さんと誠羅さんではチームの戦力に差がありすぎます。采配を改めるべきでは」
心配ない、と知優は斧を肩に担ぐ。
「ノイアとペティの二人がかりでも私に敵わなかったんだ。二人が駆け付けてくれるまでの時間くらいは問題なく稼げるさ。もし想定外の状況になったとなれば、この中で一番速い私が誠羅を連れて逃げればいい」
知優なら問題ない。誠羅は今までの活躍でそう確信していた。それよりも一早く故郷から脱出する手段を探さなければならないのだ。
楪律はその説得に少々納得のいかない様子で眉を顰めていたが、公椛の説得もあり、何とかその提案を飲み込んだようだった。
「なんかあったらすぐ連絡してね。もしあいつらを見かけたら、できるだけ見つからないようにね」
誠羅は胸ポケットに入っているトランシーバーを握りしめる。大丈夫だ、巫女が三人も居るなら敗北する動議はない。じゃあね、と足早に散策を始める二人を見送り、誠羅たちも広い豪邸を歩み始めた。
始めて来た時は内装を眺めてる余裕など無かったが、改めて見ると老朽が激しいことに気付く。瓦礫だらけの廊下、高い天井からぶら下がっている照明はどれも消えかかっている。
ガラスの窓も割れ、冷え切った外気が流れ込んでくる……。そういえば、なぜ地下室に窓があったのだろうか。
ノイアからの追跡の最中、窓からの脱出を試みたことがあった。実際にそこが地下室であることを思わせないほど明るい、光が差し込んでいたはずだ。しかし、それは明らかにおかしい事象だ。
……地表の下には、何が広がっているのだろうか。
故郷は地球の裏側のような創りだ。頭上を見上げれば、反対側にある地表をはっきりと確認できる。となれば——。
「地下室から見えた景色は、元の世界なのかも」
「なら最終的な目標は地下室、ということになるな」
「ええ。……誠の亡骸も、そこに眠っているはず」
守ることのできなった友人、せめて安らかに土へ還ってもらいたい、と憂う気持ちに飲み込まれる。しかし、知優は「きっと生きているさ」と希望に満ちた笑みを誠羅に向けた。
「その友人も巫女なのだろう? なら死んでいないはずだ。それに、ノイアの創り出した氷が憶晶なら、君は難なく破壊できる。まだ、助けられるんだ」
一刻も早く地下室への道を探し出そう、と知優に勇気付けられる。そうだ、手遅れと決まったわけではない。「その子はどんな子なんだ?」と訊かれ答えていると、その希望が徐々に真実であると誠羅は確信していった。
「とっても元気な子。雰囲気は公椛に似てるかも。なにをするにも全力で、特に折り紙はとても綺麗に折ってくれるの。……ちょっとだけ、ほら吹きだけれど、人を騙すような悪い嘘は絶対に付かない、優しい子」
また彼女に会えるのなら、知優たちにも紹介してあげたい。彼女たちならきっと、誠を受け入れてくれるはずだ。
「誠と翡翠はいつも私の隣にいてくれた。カラオケに行ったり、宿泊学習で班やクラスが違っても先生に内緒で集まったっけ。あの日常を取り戻せるなら——」
「そうか、翡翠と友達だったのか」
え、と意外な友人関係に思わず間抜けな声が漏れた。いくら友達の多い翡翠であっても、まさか知優と知り合いだったとは思いも寄らなかったからだ。
「時々学部室に顔を出してくるよ。学部授業の時は暇で仕方がないようでね。『執筆のネタ探し!』とか言って、私の研究を見学していたな。同じ理由であの二人とも顔を合わせているよ」
「なんというか、好きなことに関しては行動力すごいわよね……翡翠って」
彼女の書いた小説は妙にリアリティがある、と感じていたが、まさか専門家の知恵を借りて製作していたとは。
近いうちに小説家として名を馳せる日が来るのかもしれない、と想像するが、彼女はそんな未来を望まないだろう。
なぜなら彼女にとって執筆活動は腐っても趣味であり、仕事にするほどの熱量ではないと語っていたからだ。天才というものは、何を考えているのか理解し難い。
「帰ったら故郷の話をしてあげないと。この冒険譚はきっと、世界が驚く名作になるに違いない」
「そうだな。題名は”An”なんてどうだ?」
「神様の名前なんて、直接的すぎ」
そう会話が弾んでいるうちに、廊下の突き当りにある大きな扉を認める。楽しい未来の話は後に持ち越そう、と半開きになっていた扉の奥へと誠羅たちは入っていった。
寂れた館内とは一風変わり、薪の燃える薫りと大きな暖炉が特徴の娯楽部屋が誠羅たちを出迎えた。ビリヤード台やダーツ、カウンターの奥に並ぶ高級そうなワインボトル。
誠羅が手に取りラベルを見ると、およそ三○○年も前に製造されたものであることが分かった。この一部屋だけで何百万円もかかっていそうなほど、豪勢なものばかりだ。
「ノイアは自分の力を使って私腹を肥やしていたのね。……許せない」
しかし、誠羅にひとつの疑問が浮かぶ。恵まれぬ人々を支配し、自身の生を絶対的なものにしたのであれば、なぜ『殺す』の意味を理解していなかったのだろう、と。
「理解していないのではなく、しようとしていなかったのではないか?」
知優が高級なワインを開け、豪快にボトルのまま口を付ける。
「エインは巫女に永遠の安泰を与えた。ノイアが奪った力を奴らにも与えた目的は、奴が死の概念を嫌っていたからだとすれば。死を持つ生命たちを世界から排除しようとしているのかもしれない。永遠に、『殺す』や『死ぬ』という言葉を聞かないようにするためにな」
世界を支配する野望がノイアにある。それを前提に話せば、その可能性が最も高いだろう。しかし。
「ノイアはペティたちに『教えてくれない』って言ってたような——」
疑問を提示しようと話している最中、突如として頭上からなにかが落ちてきた。老朽化により、小さな瓦礫でも欠け落ちてきたのかとも考えたが、それは誠羅の髪の中をもぞもぞと這い回る。
気味の悪い感触に背中が凍り付き、反射的にそれを払い除けると、あっけなくそれは裏返った状態で床に落ち、気持ち悪く蠢いていた。
「や、やだ……。ゲジゲジ……」
本や映像で見る分には平気だが、実際に動いているものを見ると本能的に嫌悪感を覚えてしまう。ゴキブリを捕食してくれる益虫であることは理解しているが、なによりも見た目がグロテスクなのだ。
誠羅が虫ごときにたじろいでいるのを見て、知優はからかうような笑い声を上げた。よっぽど気色悪い虫笑いを殺した誠羅らしくない、と。
「こんなもの、踏み潰せば良い話だろう? 今更可愛い子ぶっても遅いぞ」
ぐしゃり、と生々しい音を立ててゲジゲジは動きを止める。飛び散った体液が知優の靴に付着し、嫌悪感はさらに増した。
「き、きたない……。よくそんなこと平気でできるわよね……」
「助けてやったのになんだその言いぐさは? ありがとうの一言でも——」
その時、誠羅たちが入ってきた扉がぎい、と音を立てて開かれる。まさか、と思い咄嗟にカウンターの影に隠れる誠羅たち。
その予想は残念ながら的中してしまった。
「やはりだ……奴らは既に俺たちの屋敷へ侵入している!」
怒りの籠った叫びは誠羅たちが潜むカウンターの卓上、飲みかけのワインボトルへ向けて飛ばされた。
ほんのりと赤紫色が掛かった髪、年齢の割に大人びた雰囲気。そして瞳に刻まれた桔梗色の、十二本の紋章。間違いない、シープ・カヅィフェルトだ。
づかづかと、暴れる感情を足音で表現しながら、乱暴にワインボトルを掴み取り、それを壁へと投げつけた。
赤い液体とガラスがそこら中にぶちまけられ、かろうじて秩序が保たれていた娯楽室は凄惨なものへと変貌する。その様子を見て声を上げた少女は、ペティ・ライフラインだった。
「そんなことすんでない! ガラスが飛んで来たらあぶねえべや!」
「お前だって分かるだろペティ! このワインはリーノがノイアたちに作ってくれた大切なワインなんだぞ! そんなことも知らずに……奴らは!」
「だからといって……怪我したらどうすんのさ。いくら憶晶で傷を治せても、いてえことくらいわかるべや」
カツンカツン、と宝石のような美しい足音が鳴り、シープの前で止まる。
「おれたちは、もう大人にならないといけない。いつまでも子供のままじゃ、ノイアさんを護れないんだよ。……蒼夷君が帰って来たとき、恥ずかしい姿みせれないでしょ」
「ペティ……。蒼夷のことは、もう忘れろ」
洗脳した挙句、使い捨てのように扱った仲間の名を軽々しく呼ぶ奴らに怒りが湧く……はずだが、心を抉られるような悲しい気持ちにさせられる。そんな、痛々しい話し方だった。
「単独で行動して、ここまで戻って来ないってことは……分かるだろ。あいつも、奴らに殺されたんだ。あの悪魔どもに……」
「ううん……きっとまだ生きてるよ。蒼夷君のことさ、道に迷って泣いてるかもしれない。それに、誠羅に殺されてない限り巫女は死なない……はず。だから——」
「脳を破壊されても、生きていればそれで良いのか……?」
全身を刺されるような痛い沈黙が、空間を支配する。
「死欲の罪を犯した俺たちに、エインが課した呪い……。散々、みんなが苦しんできたのを見てきたじゃないか。俺たちは最前線で、故郷が崩壊していくのを見たじゃないか……。脳を完全に失った結果が……ノイアの……」
「もう喋らんでいい……。あの子はきっと、ノイアさんの近くにいるだけで——。……おれが言うことじゃないね」
誠羅は七人の家族で唯一、正体不明だった夫人を思い浮かべる。微かな心当たりを頼りに想像した彼女の姿は……人間の形をしていない。
「ペティ。この戦いが終わったら、家族みんなでラッピを食いに行こう……」
……。
ここから離れよう、と知優は小声で耳打ちをする。彼女がどんな意図でそう提案したのか定かではないが、誠羅もこの場所に居ることが限界だった。
……決意が、殺意が揺らいでしまうような気がしたからだ。
ぼとっ、と天井から黒い何かがペティたちの近くに落ちる。奴らの視線がそこに集まったことを見計らい、知優は誠羅の手を引き、もうひとつある扉の方へ向かう。
幸い、扉は一人分通れるほど開いている。音を立てなければ、余裕をもって脱出できるはずだ。しかし誠羅は移動中、奴らの会話を聞いてしまった。
「あ、ゲジゲジ……。ここ、あったかいもんね。めんこいなあ」
「あずましいのは分かるが、あんまちょろちょろすんなよ。うっかり踏みつぶされちゃ、困るのはお前なんだからな」
……奴らはノイアに支配されているとはいえ加害者だ。誠を痛めつけ氷漬けにした、蒼夷を洗脳し怪物へと変貌させた。その罪は消えない……。
和解ができるなら、初めからこんなことになっていないのだ。
虫ごときに優しい言葉をかけるなんて気持ち悪い、気持ち悪い……。そう思うしかないのだ。
——私たちは悪くない……悪くない……。
誠しさって……なんなの。
一方、楪律たちは地下へ続く階段や脱出への手掛かりとなる情報など見つからないまま、辺りを荒らすように散策していた。
このままでは誠羅たちに良い報告ができない、と焦る気持ちに苛まれつつ、二階にある小さな扉を開いた。
「ここは、子供部屋でしょうか」
老朽化が進んだ館内の中で、この部屋は特に埃臭い。間違いなく、どの部屋よりも放置されていたのだろう。
しかし、誠羅から聞いていた話では七人の家族は最後の時まで共に暮らしていたはずだ。そんなこと、ありえるのだろうか。
「おかしいよねえ。おもちゃとかそこら辺に散らかしたままだし。あたしのママだったら『片づけなさい!』って怒られるよ! ノイアたちは子供に甘い人だったのかな?」
「長い時間使っていない、というよりかはそのままの状態で残しておいたように捉えられます。そのようなことをする意図は理解し難いのですが」
むう、と公椛は腕を組みながら唇を尖らせる。
「リーノが話してたのは、子供たちだけ死んじゃって……って感じの内容だったよね。でも、この屋敷からは炭の匂いがしない……。なら、リーノの話してた放火事件は別荘の話じゃないのかな。子供たちが死んじゃったあとに、この屋敷に戻って来て、受け入れられない気持ちがこの部屋を作った——。どうかな?」
「一見矛盾が無いように思えますが、どうにも不可解な点が見られますね」
子供たちが描いたであろう絵を眺めながら楪律は顎に手を当てる。
「放火が単なる愉快犯の仕業、という可能性もありますが、話を聞く限り恐らく村人たちの集団犯行でしょう。ならば、それほどまでの動機、それを生む時間が必要です。長い時間別荘に住む必要があったのであれば、わざわざこの場所に戻る理由があったのでしょうか」
楪律はまだ溶け切っていない蝋燭に、誠羅から分けてもらったマッチで火を灯す。その灯りを頼りに、壁へ貼り付けられた絵を取り剥し、公椛と共にその絵に描かれた人物を数えた。
「いち、に、さん……あれ? 八人いる。一人多いね」
描かれている人物の上には、親切なことに名前が記されていた。ペティ、シープ、リーノ、パパ(ノイアのことだろう)、ママ。中央で仲良く手をつないでいる少年少女にはわたし、にいさん! これで七人だ。
しかし、端の方で不愛想な顔をしながら腕を組み、猟用であろう大きな銃背負っている女性が一人、瞳に刻まれた十二本の紋章までしっかりと描かれていた。
名前は”ニューロン”。
「ファミリー、って”家族”って意味だよね。でも、リーノは七人って言ってた。一人だけ除け者って、めっちゃかわいそう!」
「そう捉えることもできますが、ひとまず彼女には何者かから”存在を隠す理由”があるとしましょう。今のところそれが何か分かりませんが、彼女ならこの屋敷に残り、家族の帰りを待つことができます。普段から武装していたと考えると、公椛さんのようにこの家族の家人としての役割があったと考えられますね」
「でも、この子が家人なら『この家族を護ってるよ!』って存在感を出すことも大事だと思うよ。目的は家族の安泰であって、襲撃者の暗殺じゃないと思うし。てゆうか、家人ならなおさら付いて行けよ! てゆうかてゆうか、そもそも別荘に追いやられる理由作るなよ! 矛盾だらけだよ!」
ふむ、と楪律は謎の存在に悩まされる。やはり、単に家族から忌み嫌われていただけなのだろうか。しかし、楪律の第六感がその可能性を否定する。
まだ明かされていない真実がある、と誰かに囁かれているような気がしたのだ。それに——。
「子供たちの頭に、なにか突起物があります。それに、腰のあたりにも。意図して描かれたものでしょう」
「え……いや、いやいや! そんなわけないじゃん! なんかの影に決まってるじゃん!」
「他の人物には描かれていませんよ」
「ゆ、ゆずちゃん! 自分が何言ってるのか、わかってるの?! 女の子の方はわかるけど、もう一人は……」
——兄さん。つまり、男の子なんだよ……。もしほんとうにそうなら、ぜんぶの話が根底から間違ってることになるんだよ……?
ツーツー、と重い空気を切り裂くようにトランシーバーが鳴り始める。誠羅からだ。
『奴らと遭遇した。すぐに玄関の、メインホールで合流しよう』
了解、と柄にもなく淡々とした返事で通信を斬る。とても陽気な受け答えをする精神状況ではなかった。気付いてはいけないことを知ってしまったような動揺が、震える瞳に表れていた。
しかし、楪律は毅然とした態度——いや、好奇心に満ちた、気狂い的な笑みを浮かべていた。彼女が口角を上げている姿は、公椛の長い人生で見たことがなかった。
「なるほど……まるで、誰かに監視されているようなタイミングですね。ええ、理解しましたよ。我々の物語を、見ているのでしょう? いや、描いているのでしょう? いずれ誠羅さんも気付きますよ。こんな姑息な手を使っておいて、彼女を騙し切れると思わないでほしいものですね」
——。合っていますか?
彼女が呼んだ人物の名は、耳の良い公椛にも聞き取れないほど小さい、誰かにしか聞こえないように囁かれたものだ。しかし、これだけは確かなことだ。
『エイン』ではない、少女の名である。
程なくして、誠羅たちはメインホールにて再会を果たす。向かう途中、地下へ繋がる階段を探していた一行だったが、それらしきものは見つからなかった。
しかし、それどころじゃない、と酷く狼狽していた公椛が、豹変したように薄ら笑いをする楪律を指す。
「ちょっと! ゆずちゃんの様子がおかしいの! 『物語の執筆者はエインじゃない』とかなんとかって、ずっと! たすけてよお!」
「ええ、その通りですよ……。そもそも神など、エインなど、人の創り出した偶像に過ぎません。初めから、私たちは彼女の物語に踊らされていた”登場人物”、誠羅さんが辿り着いた偽りの真実へ向かうために操られていたのですよ。始めから、初めから……」
「どういうことだ? エインは偶像だった……? なら巫女はどうやって……? その執筆者はいったい——」
困惑している知優がそう問いかけると、楪律はばっと勢いよく顔を上げ、叫ぶように言った。
「言えるわけないじゃないですか! もしそれが真実なら、間違いなく私は消されてしまいます! しかし、しかしですよ。リーノさんがそのことを知っていた、もしくは彼女に支配されているのであれば、全て説明が付いてしまいます。出来るのであればあの絵を見せたかったのですが……くくっ、興奮のあまり置いたまま、ということにされたようです。取りに戻ることすら叶わないでしょう……。最初からおかしいと思ってました。なによりも危険を嫌うあの知優さんが、二手に分かれようなどと提案したことも、あの人に絵を再現されないようにしたかったのですね……! 私の眼なら気付けないとでも御思いですか?! 度し難い、度し難い……!」
鋭い視線が誰でもない、天井に突き刺される。狂っている……そう思うには充分すぎる豹変ぶり。薬でもやっているのか、と疑ってしまうほどであった。
「せいちゃあん……なんとかしてよお」
半泣きになりながら、公椛はなぜか誠羅に助けを求める。暴れる思考に飲み込まれている主人を止めることも家人の務めではないのか、と心の中で小さな苛立ちを覚えた。
しかし、あの聡明な楪律が適当なことに魅せられているとは思えなかった。まだ、隠されている真実があるとでも——。
「そうですね……。あえて遠回しにヒントを差し上げます。誠羅さん、貴方はこの名前を耳にしているはず。憶えていなければならない、物語に登場した彼女の名を。いいえ、誠羅さんに限った話では——」
楪律が乱暴な声色でそう言い切ろうとしたその時、視界の前で赤黒い霧状の斬撃が通り過ぎる。肌で感じ取った、明確な殺意。度重なる情報量に、少しの間誠羅は呼吸すら忘れてしまうほど固まってしまった。
「誰の屋敷で騒いでると思ってるんだ……この野郎」
誠羅はようやく、その声の主に目を向ける。静かなる怒りを表情に宿すシープ、その隣には可憐で儚い表情をしたペティが立っていた。両者共に、二階への階段先から誠羅たちを見下ろしているような形だ。
ステンドガラスから差し込む光に照らされる彼らの姿は、まるで残酷な運命を変えるため現れた英雄のようだった。
「やはり都合が良い……。操り人形とも知らずに、愚かな人たちですね」
楪律の言葉を聞き、彼らはびくっと小さく身体を跳ねさせる。さながら禁域に脚を踏み入れた、招かれざる来訪者を認めたような、訝し気な表情。
なぜそのようなことを口走っているのか、真実を知る彼らは理解したのだろう。歩嗚雫楪律という人物が、物語の核心に刃を突き付けていることを。
ペティは浅葱色の瞳を楪律に向ける。大地をも砕きそうな大きな鶴嘴を咥え、殺意の波動を纏っている少女。自分より若干大きい程度の体格の彼女が、ここまで恐ろしい怪物に見えてしまう。
しかし、彼女たちの進撃を止めなければならない。この先へ進ませてはならない、と左手首に付けられた黄緑色のミサンガを握りしめた。
「なぜこのガキが……! あいつの物語を超えたとでも言うのか?!」
「ううん」
無から出現した藍色の蝶がペティの前に集結し、黒と白色で構成されたシックなデザインのエレキギターを形作る。
「そうなったんじゃなくて、したんだよ。ニューロンなら、できるのさ」
何の話だ? ニューロンとは一体……。誠羅は静かに階段を下りる少女の姿を見ながら、築いてきた物語の頁を遡る。
『人ごろし、ってなんだ? ペティもシープも、ニューロンだってその言葉の意味だけは教えてくれない。ただ、すごく悲しいことだとはわかるんだ』
ノイアと初めて顔を合わせた時、奴はその名前を口にしていた。何度も、何度もさらりと聴き流していた人物の名。考慮すべき存在。
なぜ関係ないものだと判断していたのだろうか、なぜ人物Aと定義していたのだろうか。いや、違う……。
——ずっと……認識の外にいた。
「それ以上近付くなっ!」
「ペティ! 危険だ!」
知優とシープの忠告が同時に、館内へ響き渡る。待て、待ってくれ。誠羅の思考に、突如として巨大な疑問が出現する。
それは今まで微塵も、微粒子ほども認識していなかった。そこに存在していると、空想上でも認めていなかった疑問。誠しさへ伸ばしていた手を断ち切るような……。
「及百合誠羅……」
美を体現した白髪の少女は、誠羅の視界の中心に立つ。
「戦う前に、話し合おう。誠羅にとって……ううん、おれたち”人間”にとって、誠しい選択をするために」
ペティ・ライフラインは莞爾とした笑みを浮かべ、手を差し伸べた。
『お願いします、誠しい選択をしてください。』
蒼夷と同じだ……。信用できない、したくない! 奴は悪だ、世界を支配しようと企む極悪人の遣いだ! なのになぜ、手を差し伸べるのだ?! これではまるで……まるで——。
誠羅は淀む思考を振り払うように銃口を彼の頭部へ向けた。
「そうやって油断させておいて、寄生虫どもで奇襲を仕掛けるつもりなんでしょ?! あなたが”人間”? ふざけないで! ノイアに支配されている分際で、一緒にしないでよ! 醜い……醜い寄生体のくせに!」
『僕から見たら……二人の方がよっぽど『社会の癌』ですよ……。『寄生虫』ですよ……』
——黙れ……。
「あはは……。そう、だね……」
コートの襟からちらり、と白銀が鋭い眼光を覗かせる。
「でも、天命は人の上に人を造らず。おれたちは同じ星で、同じ大地を踏む命。生まれた時代、場所や才能。地位、環境、生の理由が違えど、そこに差は無いはずだよ。だから、まずは同じ目線で話し合わなきゃならんのさ」
疑問から目を背けちゃ駄目なのさ。
「……命乞いのつもり? なら、聞いてあげるわ。遺言として、だけど」
誠羅たちから銃口を向けられる少女。少しはたじろぐ様子を見せると思っていたが、ペティは断頭台に立たされているすらも受け入れるように両手を静かに上げる。
莞爾とした笑みが、さらに憎たらしく映った。
「今から話すことを聞いて、誠羅がどう解釈したって良い。でも、これだけは言わせて。おれは嘘を付いたり、誠羅を騙すような言い回しは絶対にしない。ありのままおれが知ってること、思ってることを話すよ」
したっけ、答え合わせといこっか。




