幾億もの傷を背負う者たちへ
誠羅たちが連れ込まれたこの世界、その名の通りここはノイアさんに救われた人たちの生まれ育った故郷を模して作られてるの。
幌向、めえ君が住んでた函館そして、誠羅とリーノちゃんが住んでたすすきの、琴似……。街並みから家の内装まで、その人たちの記憶を基に再現されてる。いわばあの街自体が、憶晶の塊なの。
本当はもっと綺麗で、賑やかな世界だった。街と街にぽっかりと空いた空白、そこにも色んな世界が広がってた。
日本だけじゃない、ロンドンのソーホーとか。おれは地理に詳しくないからあれだけど、アメリカ北部の小さな村とか。
色んな人の世界が紡ぐ、平和で幸せな日常……それが何百年、何千年と続いていた。ずっと、ずっと……末永く続いていくって、信じてた。
いつかの日、ノイアさんとお嫁さん、おチビちゃんたちに向けたお祭りを開こうって話になったの。
ノイアさんたちの誕生日とか、なにかの記念日とかじゃないんだけど、みんなで感謝の気持ちを伝える催事がしたかった。
時間の感覚が曖昧なこの場所で、ひとつの区切りが欲しかったのかもしれない。その瞬間をノイアさんたちにとって、みんなにとって特別な時間にしたかった。
たったそれだけの、小さな願い。でも、そんな小さな欲望さえも、おれたち”死欲の罪”に問われた者が願っていいものじゃなかった……。おれはそう思った。
ここの住民、ノイアさんの家族は飢えや死の概念が無い。木や動物たちだってそう。だから、繁殖行為という概念も無い。
今まで魚を捕って食べたり、果実を齧ったりしようって発想にならなかったのも、取ったら取った分だけ減っちゃうからなんだろうね。
でもそれだけじゃ味気ない。催事といえば豪勢な料理と盃、これがないと始まらないってみんな口を揃えて言ってた。おれも久々においしいものが食べられると思ったら、わくわくしちゃったんだ。
それからおれたちは、自分たちの私利私欲のために他の命を奪い始めたんだ。みんながお腹いっぱい、幸せな一時を過ごして欲しいってだけの欲望で。
魚介類、食肉、果物を採取してリーノちゃんにワインを作ってもらった。現世で生きてる人たちよりも”殺す”意味を知っておきながら……。楽しいことしか考えてなかった。
めえ君が魚を釣って、締める瞬間も。昔みたいに幸せそうに頬張るノイアさんと、現世に行ったっきり、長いこと帰って来てないニューロンにもおいしい料理を食べてもらうことしか頭になかった。
そして、その日はついにやってきた。……大成功だったんだよ? リーノちゃんの料理はなんまらうんまかったし、お酒もみんなうまそうに飲んでた。憶晶じゃない、本物の料理なんだって。
ノイアさんも、一生懸命食べてる。幸せの味を体の芯から味わおうとしてる様子が、なによりもめんこかった。
漫才をやったり、演奏会をやったり、ビンゴ大会もやったっけ。一日中お祭り騒ぎ。楽しい時間はあっという間に過ぎて、ノイアさんたちに向けた締めの挨拶をしてくれる人がステージに立ったんだ。
その人の名前は……残念だけど覚えてない。ずっと一緒に居て、当時は当たり前のように呼んでたはずなんだけど、おれの記憶から塵ひとつ残さず消えちゃった。
でも、誰よりも長くノイアさんと一緒に居て、誰よりもノイアさんのことを知ってる人だった。聞いた話だと、ニューロンよりもずっと長く居たらしい。前のノイアさんとも、顔見知りだったとか。
驚いたよ。なにを話してくれるのかなあ、って期待してたら、とんでもないことを言いだすんだから。
『僕は君たちのこと、ノイア君のことが何よりも大切なんだ。幸せになってほしい、って思ってるんだ。だから——』
安らかに、死んでほしい……って。
聞き間違えたのかな、そんなこと言うわけない。おれを含めた周りのみんなが、そうざわめき出した。でも確かに、確実に聞こえたんだ。じゃないと、ここまで身の毛のよだつ説明が付かないんだもん。
『大昔、君たちと出会うずっと前から、ノイア君と約束していたことがあるんだ。『この力はいつか人々を狂わしてしまうだろう。その前兆が来る時、貴様に信託が舞い降りる。【革命】の意思を持つ者と共に、この長い物語に終止符を打て』、ってね』
わけが分からなかった。内容が、というよりかはノイアさんと約束したって部分が。だって、絶対にって言い切れるくらいノイアさんはそんな言葉遣いできないもん。
実際に、隣に居たノイアさんに訊いても覚えてないって言ってた。どうしてそんな質の悪い作り話をするんだ、って頭がパンクしそうになった。
信じられなくて、理解したくなくて……耳を塞いだ。でも、皮肉にもあの人の言葉が真実だって、家族が証明したんだ。
『君たちは近い未来、この幸せな日常を、永遠の安泰を現世へ伝えようとする。エインを信仰する人間のみが残るように、終末を自らの手で引き起こすんだ。僕は家族として、それを止めなきゃならない。だから——』
みんなを見下ろせるくらい高いステージから血潮が飛び散った。一人の少女の斬撃によって、あの人の腕が切り落とされたんだ。
昨日まで普通に、楽しく屋台の準備をしてた子が、殺意を土色の十二本の紋章が刻まれてる瞳に宿しながら。
今でも鮮明に憶えてる。死ぬほど痛くて叫びたい気持ちをぐっと堪えて『ほらね?』って笑顔で言ったことを。『革命には血が必要なんだ』って言ったことを。
この後どうなったか、分かるでしょ。みんな殺されちゃった。何度も、何度も、死の概念が存在しないおれたちは、永遠の苦しみを味わった。
血の雨が降り注いで、銃と刃で惨殺の曲を聴いて……。戦い方が分からないおれたちは命乞いをするしかなかった。
助けて、殺さないで……文字通り、死ぬほど聴いた。どうしておれたちがこんな思いをしなくちゃいけないのか、本当に理解できなかった。
こんなとき、ニューロンならどうしたのかな。誰よりも人を殺してきたあの子なら、この極悪人を裁けたのかな。みんなを護れたのかな。そう思ったとき、おれはやっと気付いたんだ。
なんであの人が、五人の仲間が家族を殺したのか。だっておれは、幸せな日常を取り戻すために”人を殺す”手段を取ろうとしたんだよ。おれは無意識のうちに、悪者になっちゃってたんだ。
それはなんもおれだけじゃない、家族みんなに言えること。死にたくない、裁かなくちゃ駄目だ——その意思が憶晶になって、輝き始めたんだ。
ボロボロの身体が再生して、溢れ出る憶晶によって人間の原型を留められなくなって……誠羅たちが殺してきた生命みたいな形、”獣神化”していったんだ。
それからはもう、地獄だったよ。変貌した人たちが暴走して他の人を殺して、また変貌して……。いつしか人間の形を保ってる人はおれたち七人家族だけになって。
苦しいけど、ノイアさんたちを護るためには戦うしかなかった。カノンが噛み付くたび、フーガが食い千切るたび痛い、やめてって悲鳴が聞こえるんだよ。
誠羅に想像できる? そいつらが化け物になって殺さなきゃいけなくなったとき、誠羅は成し遂げられる?
おれたちには無理だったよ。あの人みたいに、誠しさのために全力で悪になりきることなんか。
でもあの子だけは最後まで戦い続けてたんだ。ノイアさんを、おチビちゃんたちを、おれたちを護るために血を浴び続けてた。あの人は、お嫁さんのことを【革命】って呼んでた。
エインの呪いによって死を失った人たちに終わりを与えられる、唯一の存在だって。
本当にあの子は強かった。百は居る生命たちを本当の意味で殺して、自然現象を操る紋章が瞳に刻まれた人、”使徒”って呼ばれてた人たちまで殺した……。
あの子はなにも使えないのに、たった一丁のリボルバーだけで。
クズだけど、助かったって安心した。でもあの人が言ってたことが本当なら、おれたちもいつか暴走して罪のない命を根絶やしにしかねない。特に使徒は一夜で王国を滅ぼせるほどの力を持ってるらしい。
そのことをよく理解してたあの子は、おれに銃口を向けて辛そうに言ったんだ。『これが誠しさなの』って。
そんなこと言われちゃ、受け入れるしかないじゃん。今までの幸せな日常は、他でもない自分たちが壊したんだって割り切るしかないじゃん。
エインの呪いを受けた人の弱点は脳。思考する能力を失えば、”死にたくない”って意思さえ無くせば変異しないで楽に死ねる。エインを知る者が居なくなれば、エインは本当の意味で死亡する。この物語を終わらせられる。
おれはその言葉を信じたよ。後悔が無かったわけではないし、欲を言うならもっとみんなと一緒に暮らしたかった。家族って呼べる人たちに囲まれる人生に、憧れてたから。
そこで、おれの人生は終わりを迎えるはずだった。でも、物語に栞を挟み込む人が居た。その子の名前が”ニューロン”。今更帰ってきたんだ、って思った矢先、あの子に散弾を浴びせたんだ。
『お前の【革命】をよこせ』
その瞬間察したよ。全部ニューロンが仕組んだことなんだって。あの人が家族を惨殺する決意をしたこと、いやもっと初めから。
おれたちがノイアさんたちのためにお祭りを開こうと提案して、禁忌を犯すところから。家族全体を巻き込んだ戦争を起こせば、必ず【革命】が現れるって分かってたんだ。
『瞳に刻まれた十三本の黒い紋章……。ずっと、ずっとこの時を待っていたんだ。エインの裏切り者を永遠に消し去る、この瞬間を』
『ふうん? いくら【伝達】の使徒であっても、ノイアちゃんの声までは聞こえないはずだけれど。その様子じゃ全部知ってるようね。”革命には血が必要”って言葉の意味も』
『私はエインに選ばれた使徒。この中の誰よりも、神に愛された使徒だ。彼の願いを叶えられるのは他の誰でもない、私』
終始なにを話してるのか分からなかった。でもあの人が表情を歪ませてるのを見て、まずい状況なのだけは分かったよ。
おれの長い人生の中で、ニューロンは誰よりもずば抜けて頭が良かったし、人を殺す才能もあった。誠羅たちに分かりやすく言うなら、巫女全員が襲いかかっても絶対に敵わないくらい。
聡明で博識で、不可能を可能にする。おれたちとは生きる次元が違う……そんな子だった。
みんな分かってたよ、ニューロンと戦ったところで負け戦にしかならないって。だからあの子はおれにこっそり教えてくれたんだ。
ニューロンにバレないように、背中で手を組んで指を叩いた。いつしかあの子から教えてもらった”モールス信号”で。
”き・ふ・ゆ・り・せ・い・ら”。
その単語が【革命】の意思を持つ人物の名だって分かるまで、時間がかかったよ。でも、これだけは分かったんだ。
絶対に忘れちゃいけない言葉なんだって、おれたちが定められた物語を壊さないといけないんだって。エインの願いを知らなきゃいけない、叶えなきゃいけないんだって。
『ずっとお前のことが気に食わなかった。ノイアと結ばれた時、子供が生まれた時。お前はエインの定めた禁忌を犯し続けてきたんだ。永遠に続くはずの物語に循環を産んだ、使徒の役目を否定した。停止した世界に足跡を造ったお前が……!』
足るを知れよ。
そう言ってニューロンはあの子の使命を奪うために裁きを下し始めたんだ。あの醜くて神々しい姿は、今でも鮮明に憶えてる。
純白に塗られた六枚の翼、おれたち使徒の力を使うたびに、グラデーションみたいに変わっていく瞳の紋章。大地を砕く噴火【破壊】の赤、天を切り裂く轟雷【叡智】の青、息吹く生命の波動【生命】の黄緑……。
十種類の力に加えてニューロン自身の【伝達】。有機物に脳を与えて、思うがまま操る力で死んじゃった家族たちを無理やり動かしたんだ。
みんなに新たな人生……物語を与えたんだ。誠羅が知ってる巫女は、多分ここで生まれたんだと思う。
……おれたちじゃ、どう足掻いても太刀打ちできない。それはあの子にとっても同じだったと思う。だからおれたちに『運命を変えて』ってだけ伝えて、銃口を自分の頭に突き付けて……自殺した。
ニューロンに【革命】を奪われないように、誠羅に託すために。
それからのことは、誠羅も知ってると思う。残った家族七人を連れて故郷から逃げて、ギリシアの山奥に簡易的な別荘を作って身を隠してたんだ。
きっとおチビちゃんたちが誠羅を見つけて、ニューロンを倒してくれるって信じてたんだ。でもニューロンはそのことすら見通してた。
一九九九年、この世界に巫女って概念が生まれたと同時に、存在の定義付けがされた。
『巫女は縁様が生物の契約を交わし、その力を人間に受け継がせた姿』『巫女は名の通り女性しか居ない』『全ての要素において人間を上回っている』。
その定義から外れた巫女は、神の裏切り者として処刑するべき、って。
おチビちゃんたちの見た目は、狼みたいな耳と尻尾が付けられてた。そして、おにいちゃんの方は紛れも無い男の子だった……。
おれたちが村へ買い出しに行ってたとき、事件が起こった。
少しでもニューロンの耳に情報が入らないようにサングラスをして、日が完全に沈み切ったときにリーノちゃんとノイアさん、おチビちゃんを置いて行ったんだ。
いつ襲撃に遭ってもおかしくないってあれほど口酸っぱく言ってたのに……帰ってきた頃にはもう、小屋は火だるまになってて、ノイアさんはおチビちゃんをかばって村の人たちに酷い暴行を受けてた。
リーノちゃんが居ないとか、そんなこと考えてる暇なかったよ。正義に狂っちゃった人たちを追い返すために、殆どの人は殺しちゃった。
守るためには仕方ないことだったんだよ。こんなの、襲ってきた方が悪いに決まってるじゃん……。でもおチビちゃんはもう手遅れに近かった。
丸焦げになっても死ななくて、おれの力で無理やり治したところで、心の傷までは癒せない。それにこのまま一緒に暮らしてたら、おれたちの命まで危ないでしょ。
だからおれは、おチビちゃんの人生よりもあの子に託された思いを優先することにした。この子たちに運命を変える重荷を背負わせるには、あんまりにも可哀想だと思ったから。
でもいざ殺すってなると、気持ちが揺らいじゃうもんなんだろうね。脳を破壊しようと思ったら手が震えて、しまいには泣いてなんもできなくなっちゃった。
おれは英雄どころか、悪役にすらなれないクズだったんだ。
そのとき、やっとリーノちゃんが戻ってきた。誠羅が持ってるランタンと同じ物を持って、決断できないクズのおれに向かって提案した。
『生きていればきっと神が救いの手を差し伸べてくれる。だから選択肢を与えてあげるべきです』
そう言いながらリーノちゃんは左手の指で……。”故郷で【革命】を待つ”って伝えた。おチビちゃんを現世に置いて、逞しく生きてもらうことを願いながら。
おれは自分の使命を果たすことに専念しようと決めた。
おチビちゃんに自決用のナイフだけを置いて——。
「おれたちが巫女を敵対視する理由、誠羅を連れ去ろうとする理由分かったよね。それを知ったうえで、誠羅に訊くよ」
誠羅は、どっちの話を信じる?
……瞳が揺らいでいる。手の震えによって照準が定まらない。本当に巫女は世界を滅ぼす遣いなのか? いや、信じられるはずがない。
綏操知優、出日邇公椛、歩嗚雫楪律。彼女らがニューロンに操られていると、自分が殺さなければならない人物の名だと。
ならば今までの旅路は何だったというのだ? 共に苦しみ、乗り越え、友情を育んできた思い出は、全てニューロンが仕組んだまやかしに過ぎないとでもいうのか?
「……みんなは、違う」
——みんなは私を何度も助けてくれた。もしニューロンが巫女の意思を操れるなら、脅威となる【革命】の私なんてとっくに殺していたはず。
裏切らないって固く誓い合った友達、それだけは揺らがない真実だ。
誠羅は友人たちの輝かしい未来を想像しながら、静かに少女の前へ歩みだし手を差し出す。まさか裏切る気か、と表情が険しくなる知優たち。
ペティの後ろから桔梗色の霧を手に宿し、巫女たちへ睨みを利かすシープ。決断の前奏を奏でるように、威圧的に鳴り響く静寂。蓄音機から流れていた"月の光"は、既に止まっていた。
「あなたの目的は理解した。でも、条件がある」
一瞬晴れたペティの表情が、その一言で暗雲に支配される。
「ここにいる三人と誠、翡翠だけは殺させない。その条件を飲めるなら、協力してもいいわ」
……ペティは握手しようと伸ばした手を引き、静かに首を横に振った。
「誠羅、君はなんも分かっちゃいない。ニューロンを止めるなら、いつかその友達も殺さなきゃいけない。もしかしたら、その中にニューロンが居るかもしれない。そんな甘い覚悟じゃ、おれみたいになっちゃうよ?」
「……あっそ」
誠羅は透き通るほど白い手を握るはずだった手を下ろし、代わりに硬い金属の拳銃を突き付けようとした。
しかし、照準が少女を捕らえるよりも先に、ペティの首に寄生する白銀が手首に噛みつき、強制的に天井へと手を掲げさせる。少し痛むが、肉が抉れるような感覚はない。
その様子を認めた巫女たちが少女へ銃弾と矢を浴びせるも、一瞬にして創られた憶晶の壁により防がれた。一刻も早くこの憶晶を破壊せねば、と左手を振りかざそうと試みる。
しかし、ペティはまだ和解を諦めていないようだった。
「手段が違えど、役割が違えど最終的な目的は同じはずだよ。”当たり前の日常の中で、生を全うする”それが、おれたち生者の使命であり、生きる理由なのさ。誠羅、誠しさを美しく着飾るって意味なんでしょ? なら誠しい選択をしてよ。誠羅ならできるはずだよ」
「友達を殺すことが誠しさ? ふざけないでよ! もし本気で言ってるなら、あなたはもう立派な極悪人よ!」
「絶対に裏切らない仲間だって、誠羅は証明できるの? おれはニューロンのことずっと、家族だって信じてたんだよ」
「黙れ、だまれだまれっ!」
誠羅は迷わず憶晶の壁を破壊する。張り直される前に誠羅を救わねば、と知優は持ち前の瞬発力で拘束されている白銀の生命を叩き切り、誠羅を抱えたまま英雄たちの元へ帰還する。
音速を超えた出来事に圧巻の表情を浮かべるペティ、それも束の間銃撃の雨が降り注ぐが、間一髪のところで防がれてしまった。
「誠羅っ! 大丈夫か?!」
「ペティ! 無理をするな!」
両者の憂いが交差する。誠羅は手首に跡が残るほどの軽症だが、ペティはごほごほと咳き込み、血を吐いていた。憶晶を酷使した副作用なのだろうか。
「な、なんも……。知ってるべ? おれは生まれつき赤血球が少ないってこと。あはは、思ってみればおれって憶晶を使うのに、一番向いてない体だよね……」
「やめろ……お前が死んだら、俺は生きていけないんだぞ。それを言うなら俺の方が憶晶を使うのに向いてない、欠陥品だ。ペティ、俺にとってお前は主人公なんだ。お前ならニューロンを見つけられる、この醜い物語を終わらせられる……。だから、もう憶晶は使うな」
「ううん、そうもいかないさ。一緒に大人になる約束だべ?」
ペティは優しくシープの手を払い退ける。そして英雄たちの前に肩を並べ、立ちはだかった。
家族愛を見せつけて、同情を誘っているつもりか? 貴様らは間違っている、物語の進行を妨げる障碍者だ。社会の癌だ、寄生虫だ。
正義は巫女であり、主人公は及百合誠羅だ。間違っている、誠しさではない!
「誠羅、下がっていろ」
「せいちゃん、あたしたちに任せて!」
「運命がどうあれ、弱き者を滅する意思は揺らぎません」
巫女は三人、奴らは二人だけ。戦力の差は歴然だ。憂う必要はない、どちらが正義かはこの戦いで証明される。
しかし、奴らが使徒ならまだ見ぬ力を隠している可能性も捨てきれない。より有利に、確実に殺すには策を考えなければ。
「……リーノ」
未だ灯るランタンへ語りかける。会話から察するに、奴らは互いに依存し合っている。初めてペティと対峙した時、シープと出会った時は巫女の力に敵わなかった、もしくは戦おうとしなかった。
勝利する算段があるとするなら【生命】と【冥府】の相乗効果、揃うことで能力が高められる……。ならば引き剥せば、条件を揃えればいい。
「壁を作って……!」
ランタンが誠羅の願いを聞き、淡く光る。そしてこの広いホールを、奴らの絆を引き裂く憶晶の壁が創り出された。憶晶は誠羅が破壊しない限り、そこに存在し続ける。
音や振動も、遮断する処刑場、奴らは互いの死にざまを拝むことさえ叶わない。それが、運命なのだ。
「残念だけど、リーノは私たちの味方。家族に裏切られた気持ちはどう? シープ・カヅィフェルト」
虎の威を借りる狐、と言えば聞こえが悪いが、誠羅は斧を構える知優の後ろで残された少年を挑発する。
今すぐ憶晶を破壊しろ、と騒ぎ立てると思っていたが、シープははあ、とため息を付きながら二人の英雄の顔を見つめる。酷く呆れているような、悟っているような表情だった。
「どうせこうなるだろうと思っていた。リーノは従うしかないだろうと、お前らが来る前から理解していた。勘違いするなよ? 俺たちが巫女と戦わなかったのは、意味がないからだ。俺がペティに依存しているとでも思ったのだろうが、それはあくまでも生命維持に必要不可欠だからだ。逆に有り難い、これなら心置きなく俺の戦い方ができるからな」
「なにを言ってるのかさっぱりだが、君は私に勝てない。音すら置き去りにする速さで、その減らず口を叩き切ってやろう」
刃を向けた拍子に、白い白衣が靡く。双粛清を圧倒した知優が本気を出せば、シープの命など数秒経たずに奪えるはずだ。
……しかし、なぜ胸騒ぎが止まないのだろうか。なぜ彼は余裕の笑みを浮かべているのだろうか。
『虫笑いと双粛清、奴らがペティたちによって創られたのなら、少なからず同じような能力を持っていると思った方が良いかも』
昨晩、誠羅が作戦会議の際言った言葉が過る。虫笑いの能力は蜘蛛の糸と幻覚作用を持つ霧……その幻覚作用は恐らく、酸素欠乏による意識障害ではないだろうか。
シープは未成年にも関わらず、ポケットから取り出した煙草に火を付け吹かす。巫女の弱点は脳、及び働きを抑制する要因。
幌向へ向かう電車で知優たちは煙草の煙に異常なまでの拒否反応を起こしていた。その原因は臭いではなく。
『酸素濃度が低下したから……じゃないかな』
「俺は【冥府】の使徒、シープ・カヅィフェルト。またの名を」
黴氣を纏いし幻朧の眠歌。
「十分以内に眠らせてやる」
——斬撃は忌々しい煙を吐くシープの脳髄へ振り払われる。電撃の如く素早い、人間どころか巫女の反射神経でも避けるのは不可能だ。
しかし、捕らえられるはずの標的の姿は知優をも超える速さで……いや、速度の話ではない。桔梗色の朧だけを残して、既にそこから消えていたと表現するべきだろうか。
「疑問に思わなかったのか? 初めて会った時、忽然と姿を消した俺を見て」
蒼夷と出会った学校の図書館、窓はひとつも開いていないし出入口は誠羅たちが塞いでいる形で立っていた。にも関わらず、シープは蝋燭の灯火と共に姿を消していた。
空間転移、もしくは最初からそこに居なかった……。
『シープが幻影を見せる力があるとすれば、あの時敵意を見せず距離を取ったのは……ぎりぎりまで幻影だと思わせないように注意を向けさせて、虫笑いが来る時間を稼いでいたのかもしれない』
誠羅の仮説が証明されてしまった。
「卑怯だぞ……! 男なら正面から、堂々と立ち向かえ!」
「よく言うぜ、フライングで切りかかってきたくせによお?」
じりじりと煙草の先端が赤く灯る。
「悪いがお前が異次元の速さで勝負する気なら、俺は同じ土俵に立つつもりはない。それじゃあ勝てねえからな」
酸欠でぶっ倒れる前に見つけてみろよ。その挑発により、知優の顔は酷く険しくなる。
血管が浮き上がり、肉食動物特有の鋭い牙を露わにした、虎のような恐ろしい表情だ。
「舐めるなよ……! どこまでも追いかけて、その腐った脳みそをぐしゃぐしゃにしてやる!」
二度、三度……知優の斬撃はことごとく幻影を切り裂き、そのたびに桔梗色の朧だけが残留する。捕らえられない……どう足掻いてもシープは、知優の背後で煙草を吸いながら出現するのだ。
奴のトリックを解明しなければ、いつまでも平行線。時間だけが過ぎ去り、やがて窒息死という名の眠りに至しめてしまう彼の戦い方は、まさに潮風に捧げる桉樹の葉のようだった。
「そう焦るなよ。死は皆等しく迎えに来るものだ。この余興を楽しもうぜ」
煙草を咥える。既に半分ほど灰となって落ちていた。
「そうは言うが、貴様も憶晶を使っているのだろう? ……なら酸素を薄くする行為は、貴様にとっても悪影響を及ぼすはずだ」
早くも息を切らし始めている知優はシープが抱える矛盾を指摘する。酸欠を起こせば、憶晶により創り出されている幻影も、いつかは生成できなくなるだろう。
そうなれば奴は知優の猛攻を避ける手段を無くす。殺されるのだ。しかし、シープは表情の色ひとつ変えず、淡々と語る。
「俺の肺は生前の頃から真っ黒だ。肺胞の殆どは使い物にならない。ペティが居ないと生きていけないってのは、そういうことなんだよ。説明せずとも、分かるだろ?」
死を司る【冥府】の使徒、酸素濃度を低下させる能力……。なら正反対の【生命】の使徒の能力は、酸素濃度を上げる能力となる。
『もしペティが酸素濃度を上げる力があるとするなら、憶晶の力は底上げされる。そうなったら、より憶晶を使いこなせるペティの方が、より大きな恩恵を得られると思うの』
「せいちゃんはそう言ってたっけ」
エレキギターのチューニングをしているペティを後目に、公椛は楪律に訊く。
憶晶を扱える最大値を公椛たちが五十パーセント、ペティたちが百パーセントとするなら、二倍三倍と上昇していくのに比例して、差が広がっていく。
「よく分かってるじゃん。流石だね誠羅は、なんまら頭良いなあ」
準備を整えたペティが弦をかき鳴らす。開戦の合図とも捉えられる美しい前奏が鼓膜を貫くと、脈拍が迸る血液によって加速し始める感覚を覚えた。
双粛清と対峙した知優が覚醒した時と似ている……妙に空気が美味く、身体が軽い。
「関係ありません。あの弱き者を破壊すればいいだけの話ですので」
鶴嘴を咥え、鏑矢を標的に向けながら勝利を宣言する。病弱など、儚さなど弱きに値する破壊の対象だ。
「言ってくれるじゃん」
ペティはにやりと口角を上げ、美しい前奏を指でかき鳴らす。その音色に呼び出されるように、知優によって切断された白銀の一匹が醜い音を立てて再生した。
「おれは【生命】の使徒、ペティ・ライフライン。またの名を」
乱れ咲く輪爆の旋律。
刹那、耳から雑音が失われる。粛清の一時だ。
「……行くよ。追復曲、遁走曲」
——”臨唱:冬虫夏草”。タイトルコールが終わると共に、狂わしい美学が区切られたステージを支配する。新芽色の憶晶が彼の演奏へ集結し、巨大な二匹の蛟へと変貌したのだ。
全長にして約五メートル、彼の双方に出現した芸術はさながら大地に芽生えた双葉のように、美しく咲き誇る花を脅かす少女たちを排除する思想を咆哮で表現した。
雑音すらも吹き飛ばす轟音、聴覚に優れている公椛にはそれだけでも苦痛に感じただろう。
耳を押さえ「いたいいたいいたい!」と叫ぶ姿は、今は亡き委碧蒼夷の亡霊までもが彼に加勢しているのではないかと錯覚してしまうほど、あの状況に酷似していた。
『双粛清は高音に導かれていた、そしてペティがカノン、フーガって呼んでいたあの寄生虫も、ペティの演奏に呼応して動いているとしたら。だから勝負の鍵になるのは、音』
即座に放たれた鏑矢は、雑音を発しながらペティの元へ一直線に飛んでいく。しかし、新雪が風で靡かれるように容易く、ひらりと躱されてしまった。……この二人では、相性が悪すぎる!
これまで散々殺戮を尽くしてきた生命は、捕食行為など本能のまま身体を動かしていた。寄生虫に意識を支配された蒼夷は憶晶を扱おうとも、公椛と楪律の猛攻にあっけなく屈した。
敗北を知らない彼女らにとって、決められた運命が崩壊していくような異常事態だったのだ。
誠羅が共闘を恐れ、憶晶の壁により分断されることまで予想していたのなら。憶晶を観てきた彼女たちが自身の弱点を知っていると予想していたのなら。
……この戦いに勝利の策を用意していたのかもしれない。物語の登場人物でしかないことを、劇の操り人形でないことを証明するように。
「幌向で出会った時から、既に準備を整えていたわけですか」
彼は見た目に反して聡明な少女だった。誠羅たちを捕らえるため双粛清を呼び出す時、天井が崩落する可能性を加味して建物が最も安定している角付近、支柱の近くを狙って大穴を空けた。
誠羅たちが憶晶を辿りコンサートホールまで導かれることも、起爆装置を用意する時間の余裕があるほど前から理解していたのだ。
二人が誠羅たちと出会う少し前、生命がごった返していた幌向にて殺戮を繰り返している彼女たちの前に、彼はただ一瞬姿を現した。
その僅かな時間で標的の戦い方、弱点に至るまで見通せるほど聡明な人物だったのだ。
「唸れ、叫べ! おれたちの芸術で……おめえらを倒すッ!」
芸術の雄たけびを上げ、碧色の憶晶で構成された蛟が襲いかかる。開かれた構内は身体の小さい楪律どころか、女性にしては高い身長の公椛まで丸のみにできてしまうほど大きい。
地面を抉りながら猛進する蛟を刀と鶴嘴で受け止めるが、衝撃で脚が地面と擦れる。
力の差は互角、いやそれ以上かもしれない。憶晶で強化されていないただの武器では、折損してしまうのも時間の問題だ。
少女は徐に目を瞑りギターをかき鳴らす。クラシック曲をアレンジして作られたであろう演奏と共に、蛟の血脈が淡い新芽色に滾っていく。
やはり強化の源は彼の演奏だ。ならば本体を叩けば、二度と醜い演奏を奏でられぬよう腕を損傷させれば。容易く殺害できるはずだ。
公椛は歓声の如く咆哮を放つ蛟の合間を縫い、銃弾の雨を降らせる。射撃技術などあってないようなものだが、それを見越した上で手数の多いアサルトライフルを選んだのだ。
しかし、その銃弾は瞬く間に生成された憶晶の壁に防がれてしまう。ペティの周りに咲いた、桜の憶晶によって。
「酸素が供給されるだけで、ここまで派手な戦い方ができるんだ……」
醜くも、儚くも美しく魅せられる。美を体現した彼の姿は、まさに芸術の定義であるようだった。
「しかし、美しさだけを追求しては勝負に勝てません。その証拠に、あの壁をご覧ください」
暴走気味に宿敵の姿を睨む蛟を後目に、楪律はペティの姿を指す。
「花弁、ということは、上部ががら空きということです。そこに侵入、もとい攻撃を仕掛ければ、奴に逃げ場など無いに等しい」
「そっか。生成に力を使うなら、解除にも少なからず力と時間が必要だよね! 落とし穴を設置したら回収するのめんどくさいし!」
「その例えはあまり……いいえ、何でもありません」
的を射ているのか分かりにくいが、公椛なら正しく理解しているであろうと口を紡ぐ。再度説明し直す余裕は与えられないのだ。
兎にも角にも、あの蛟を黙らせなければ作戦は実行に移せない。無防備に空中から攻め込めば、その隙に食い千切られる未来が想像できる。
もし、あの蛟が生命たちと同じ要領で創られているとすれば、誠羅の力を借りずとも破壊に至らしめることができるはずだ。
「公椛さん。一匹だけでも私が排除します。奴の援護から、私を護ってください」
主人の命令に「承知!」と活気にあふれた返事で承諾する。——演奏が佳境に入り始めた。
楪律は脈々とうねり、大地に走る斬烈の輪舞を踊る蛟へ迎え撃つ。唾液のような液体を牙に纏わせ、鋭く長い牙を向き出しにした刹那飛び上がり、口部で咥え込んだ鶴嘴を上顎へと直撃させた。
巨大な歯車に巻き込ませるような一撃、空中から叩き付けた感性により小さな身体は蛟の頭部へ転がり込む。強靭な握力で鱗にしがみ付き、脳があるであろう部分を大地を砕くが如く殴り尽くし始めた。
何度も、何度も脳震盪どころか頭蓋骨が変形するまで。その猛攻で蛟の鱗は散り行く花弁のように砕け散っていった。
蛟の必死な抵抗も空しく、楪律の拳によってその巨体は殴り飛ばされる。これで終わりかと思われたが、脳を損傷した影響でよろめきながらも宿敵を討ち取ろうと襲いかかって来た。
しかし、絶対的な王者の前にはひれ伏すしかない。
短絡的な攻撃を、楪律は鶴嘴をもって制する。
捕食本能によってがら空きになった口部へ、強烈な一撃を浴びせ生成された憶晶の壁に叩き付けると、爆裂音に似た衝撃と共に蛟の身体は蝶のような憶晶の欠片へと散布した。
殺した、ひらりと空中を舞う憶晶がそう確信させた。
「”魚群嵐”」
同時に蒼銀の刀を操る巫女へ襲いかかった蛟は、目にも留まらぬ斬撃の嵐に見舞われる。砕け散りはしなかったものの、下顎や目玉を損傷させている。
もはや脅威にはなりえない。今なら、この瞬間なら——殺せる!
「公椛さんッ!」
「承知ッ!」
隙を作った公椛が即座に主人の前へと駆け寄る。蒼銀の大地で見せたバレーのような受け止める体制を取り、助走をつけて来る軽そうな身体を投石器の要領で放り投げた。
広い会場の天井まで迫る跳躍の最中、リュックサックから五本の鏑矢を装填し、力一杯に弦を引く。できる限り彼の動きを抑制し、この一撃で仕留めるためだ。
空を裂く鳶の咆哮は、視覚に頼らずともひらりひらりと躱される。しかし、散弾のように放たれる矢は大地の支配者から逃れる猶予を与えない。
この一線、結ばれた勝利の道筋を、天井を蹴り上げ進む——。刹那、雑音が失われた。
蛟の死骸から散布した蝶が、散った花弁のように空中を舞っている……。黄みを帯びた碧、新芽色の血脈の光を纏い——。
『シープが虫笑いと同じように幻影を見せる能力があるとするなら……。ペティも、双粛清と同じ力を使うと思う』
連爆の、旋律……。
『そのトリガーは、高音……ペティの創り出した生命の咆哮』
——"鎮魂曲:生命の叫び"。瀕死になっていたもう一方の蛟は、主人の危機に咆哮をする。演奏を妨害する雑音を吹き飛ばす、連爆が起動した。
爆破、爆破……楪律の身体は生命の連爆によりピンボールの如く弾かれ、やがて地面へと叩き落されてしまった。
いくら頑丈な、死から最も遠い巫女であれど魂をかけた爆裂の嵐をまともに喰らえばただでは済まない。公椛がその姿を認めた時、心の底から絶望という言葉の意味を理解した。
「ゆず……ちゃん?」
「……は——がふっ……」
よろめきながらも立ち上がり、返事する彼女の姿……。
頭部から身体の至るところまで有り得ないほどの鮮血を流し、右腕に至っては使い物にならないことをだらんとぶら下がっている様子が痛々しく物語っている。
幾度となく生命を蹂躙した、この世に蔓延る生命の頂点に立っていた歩嗚雫楪律が、殺される……?
許されるものか……許されるものか! 公椛の眼に殺意の色が浮かび上がる。
「ぶっ殺す……ぶっ殺して——」
魚の餌にしてやる! 降りしきる雪のように舞い落ちる憶晶の粉塵を浴びながら、フィナーレを奏でるペティへ駆け出した。
何も感情の流れに委ね切っているわけではない。これが鎮魂曲ならば、忌まわしき演奏の終わりならば。もう護衛の蛟など召喚できないはずだ。
「公椛流 奥義ッ!」
”水天一碧”、相手に気付かれぬほど速い斬撃を喰らわす、公椛の編み出した必殺技。寄生虫の砦など、全て切り裂いてしまえばいいのだ。
蛟の遺体を超え、蝶の鱗粉を踏みにじり、花弁の中心で芸術に酔いしれるペティへ刃が届く——。
「”ダ・カーポ”」
粛清の一時は、アンコールに答えた……。
破壊されたはずの生命たちが、再び産声を上げる。血脈が滾り、淡い新芽色に輝き始める。失われた命が、循環のバトンを繋いでいく。有限と定義されていた憶晶の力が否定されていく……。
『そういえば、ペティを倒したとき、ノイアが憶晶の残骸を集めて簡易的な剣を作ってた。……まだ確実と決まったわけじゃないけど、憶晶を操る力が生成する瞬間だけ消費されるとするなら、もし生成された憶晶をペティ自身の力で使い回せるとしたら——』
輪廻転生に近い、無限の戦い方ができる。
蛟は新たな演奏を糧に、雑音を弾き飛ばした。
「さて、折り返し地点だ」
煙草を吹かし尽くし、二本目に火を付ける。攻撃が空ぶるたびシープの幻影は朧となり、どんどん酸素濃度が低下していく。
知優は疎かほとんど動いていない誠羅まで、確実に意識が霧がかっているのを感じていた。
視界が歪む、呼吸が荒い。痛覚までもが曖昧となり、まるで泥酔したかのような感覚。知優はとっくに彼の影を自身の脚で追うのをやめ、藁にも縋る思いで銃口を向け続けていた。
しかし外れる、外れる……。人間では反応できない攻撃を何度も躱され、もはや生きている次元さえ違うのではないかと錯覚してしまうほどであった。いや、本当にそうなのかもしれない。
音速を超える斬撃、銃撃。それを駆使しても彼はその上を憂いなく歩んでいる。否定できない、逃れられない宿命。死神の存在を体現していた。
「無駄だ。これ以上続けたところで、お前らの運命は揺らがない。なぜ分からない? 理解できないんだ?」
見下されるような、呆れられるような目付き。あの人間どもと同じだ。巫女のくせに、自分より優れている生物のくせに劣った思想を正義だと語る知優を見る目、ゴミどもの目が何よりも許せなかった。
——巫女が敗北する運命は揺らがないだと? ふざけるな。最後に立つのはいつの時代でも正義だ。その正義は貴様ら使徒ではない、世界を護る使命を課せられた巫女だ、明らかなんだ。なのになぜ……こんな非行少年如きに傷ひとつ付けられないんだ、届きすらしないんだ。
「私が正義だ、英雄だ。明らかだ、明らかなんだ……」
「ほう、なら証明してやろう」
朧を纏うシープが静かに歩み寄る。その余裕面を捻り潰してやる、と三弾発砲音を鳴り響かせるが、やはり弾軌跡が虚しく残るだけだった。
近ければ、避ける隙さえ与えないほどの近距離なら——四発目を放とうと指に力を加えた刹那、桔梗色の霞の刃により拳銃が空を舞う。
幸い指に切創痕は生まれなかったが、望みの攻撃手段が彼の手元へと渡ってしまった。
シープはわざわざ薬室に弾が入っていることを確認し、銃口を自身の頭部へと突き付ける。この圧倒的な戦況で自殺でもする気か?
正気の沙汰ではない笑みを当惑と苦しみに藻掻く知優へ向ける。そして——。
「死神が死ぬなど、有り得ないだろう」
頭肉が若干へこむほど強く銃口を押し付けた状態で、彼は引き金を引いた。しかしそんな不可避な死であっても、彼は朧の影を残し消える。
持ち主を失ったはずの拳銃はただの一ミリも落下せず、次の幻影が握りしめたまま出現した。まるで、処刑の一人二役を演じるかのように。
「これで分かったか? 俺に実体は存在しない、掴み取るさえ叶わない霞だ。死の概念を持たない俺を、どうやって殺すんだ?」
「ありえない……ありえない、ありえない! 貴様が実体を持たないのなら、その銃はどうやって掴んでいるんだ! どうやって私から銃を奪い取ったんだ! どうやって、どうやってっ!」
「馬鹿猫が」
静かにしろよ、とぱちぱち音を立てて煙草を吹かす。
「創作物にはよくあるだろ、お約束展開ってものが。時を止める魔法、空間を切り取る能力、召喚獣……挙げればきりがない。現実では分子がどうの、質量保存の法則がこうのと、化学では説明しきれない不思議な力ばかり、いいやお前らの次元では実現できないものばかり、と言うべきか。端的に結論を述べるなら」
お前らと、生きている次元が違う。そう言ってシープは奪い取った拳銃を投げ捨てた。
「秩序に縛られたこの次元は、大層苦痛だろうな。現実的に不可能が存在するお前らは、想像力を膨らませ二次元の世界に投影する。ははっ、つまんねえ生き方だな」
知優たちでは不可能、次元を越えた先で生きているだと? 有り得ない、いくら憶晶を操れるとしても、あるべき秩序を度外視する力まで有するなど……。
『ノイアはこの世界の秩序を司る神だ』
……ノイアはそう言って重力を反転させた。あるべき秩序は、ノイアの意思に従ったのだ。
ならば本当に、ノイアの僕である彼らは、使徒は……秩序すらも覆す神の領域に生きているのだろうか。
「……証明してやる」
無理だ、勝てないと諦めるのは簡単だ。不可思議な事象を神のせいにするのは簡単だ。しかし、それでは何も変えられないのだ。疑問から目を背けてはいけないのだ。
知優は後方で待機している誠羅へハンドシグナルを送る。指を二回叩き、ぱっと手を広げる。”閃光手榴弾を使え”の合図だ。
『誠羅は奴らの目標である以上、戦いに参加させるわけにはいかない。必ず仕留められる状況になるまで、援護射撃をしようとも考えるなよ。銃弾は四発しか残されていないからな』
私が合図を送ったときにだけ行動しろ、それ以上は考えるな。この場所に向かう道筋の最中、そんな約束をしていた。
知優は「全て私に任せてくれ」と言っていたが、目眩ましひとつでこの状況を打開できるとは思えない。撃つべきか? と何度も悪魔の囁き声を聞いた。
しかし彼の正体が暴かれていない以上、弾数に限りがある以上、知優の言葉を信じるしかできないのだ。
『もし息が苦しくなったら、外気を取り入れて。窓を開けるとか、壁を破壊してもいい』
しかしなぜ、そうしないのだ……。なぜ、苦しみを受け入れるのだ……。知優は、何を考えているのだ……。
誠羅は迷いの霧を振り払い、閃光手榴弾のピンを抜く。この一撃が勝利の道筋を照らす光となることを願い、投げ込んだ。
その動作は四、五秒ほど。空中を彷徨った末地面に着地した瞬間、強烈な爆裂音と眩い光によって戦場は一変する、はずだった。
知優が何を思って閃光手榴弾を投げさせたのかは定かではない。光に紛れた攻撃ならば避けられない、という単純な作戦だったのかもしれない。
しかし、どんな聡明な作戦であったとしても、誠羅が認めた彼女の姿は失敗したと思わせるのに充分すぎるものであった。
きいん、と強張る鼓膜に微かな打撲音が貫く。……閃光が晴れた後、最初に見たのは力無く横たわっている知優の姿。
その隣には左足に鮮血を浴びているシープの姿があった。
「尊大な羞恥心……。しかしこれでよく分かっただろ? なあ、綏操知優」
「い、や……まだ」
立ち上がろうとする知優の頭部を、無情にも踏みつける。
「”明らか”なんだよ」
どうやって閃光を回避したのか、そんなことを考えている余裕は無かった。絶望、敗北……その言葉に打ちひしがれるように、瞳に宿した希望の光が失われていくのを感じる。
どくん、どくんと逃れられない危機を伝える心臓の鼓動、全身の血が重力に沿って染み落ちていくのを感じる……。
ここで、終わりなのか。誠羅はそう確信してしまい、膝から崩れ落ちる。この手に握るリボルバーを撃とう、そんな悪足掻きすら消え失せてしまった……。
使徒は一夜で王国を滅ぼせるほどの力を持つ、ペティはそう語っていた。それは紛れも無い事実であった……。
不可能を可能にする、知恵や力も人間を遥かに上回っている神の遣い、巫女ですら歯が立たないのだ。秩序の元生きている巫女たちでは、本当の神を前にひれ伏すしかないのだ。
『お前は何? 神様にでもなろうとしてるの? 言っておくけど、一個人がそんな努力しても、世界は動かないから』
「翡翠……」
——もしあなたが主人公なら、私じゃなくてあなたが【革命】に選ばれていたら……。この人たちを殺せたの? 誠しい未来を、運命を護れたの?
どうして私は巫女じゃないの……人間なの……。いくら【革命】だったとしても、世界を救える英雄に選ばれたとしても。友達を護れなきゃ、意味ないじゃない……。
ノイアさん……教えてよ。どうして私なんか選んじゃったの……?
『じきに分かるよ。君に”革命の意思”が宿っている限り、君が問題から目を背けない限り、ね?』
分かんないよ……。革命の意味も、なにもかも……。
誠羅はその場で激しく泣きじゃくる。思うようにいかない現実を受け入れられない、駄々をこねる子供のように。なんで、どうして……そんな意味のない疑問符を呟きながら。
シープは一瞬だけ、表情が曇った。
「もう終わりだ、眠りの時間なんだ。良い子は寝る時間なんだよ。だから大人しく——」
「誰が、貴様なんかに……」
「まだ言うかこの馬鹿猫があっ!」
怒りの感情に身を委ね、シープは踏みつけていた巫女の腹部を思い切り蹴り飛ばす。弱々しく彼女の身体が転がった拍子に、内ポケットから銀色のロケットペンダントが零れ落ちた。
取り戻さなければ、そう手を伸ばすも静かに歩み寄ってきたシープに拾われてしまう。
「さわ、るなあ……」
か細く発せられた悲鳴は空しく朧に満ちた空気に掻き消されてしまう。寸分たりとも聞こえていないのか、シープは第二関節ほどまで短くなった煙草を吸い、躊躇なくロケット部分を開けた。
「こいつは、お前の想い人か……。可哀そうに、お前が巫女でなければこいつと幸せに暮らせたんだろうな。オクショウに呪われることもなかったんだろうな……」
桔梗色の朧に包まれた空間でただ一人、彼が知優の元へ歩み寄る。そして、開かれた知優の手のひらにそっとペンダントを置いた。
もう二度と握られることもない、風前の灯火の巫女に見せた最後の慈悲であった。
——凌芽。
何の変哲もない普通の写真。強いて言えば、突然の出来事に困惑の表情を隠し切れない知優と、満面の笑みを浮かべる彼とのコントラストが美しい。それだけの、幸せな日常を切り取った紙切れだ。
「永遠に眠れ。お前はもう、家族じゃないんだ」
シープは知優に背を向け煙草を吸う。ただ、その場で勝利の余韻を感じていた。しかし、ペンダントの縁に映る黒い影が——。
徐に、左方へずれていった。
『瞬間移動? 実体が無い? いや、ありえないだろうね。そんなことが可能なら、時を止める使徒が存在してもおかしくない。そうなったら誰も勝ち目が無いじゃないか!』
——そうか、そういうことか……。やはり、虚勢だった。
実体が無いのも、死が存在しないことも。
知優は最後の力を振り絞り、近くに放棄されていた斧を持ち上げる。そして、目の前で堂々と煙を吹かす幻影に向け振り被った。……やはり、朧となって消える。分かっている。
本体が左方に出現することも!
「いい加減にしろ……俺も好きでこんなことやっているわけじゃ——」
諦めの悪い巫女へ苛立ちの声を上げるシープに向け、電撃のような一撃を振り被る。ペンダントに映る黒い影は、右方にずれた。
——シープ・カヅィフェルト。貴様は実体を持たないと言っていたな。ならば最初から生命維持に拘る必要などなかったのではないか?
死が存在しないのであれば、最初からペティに酸素を分けてもらう必要などなかったのではないか?
知優は稲妻の如く、進行方向を九十度傾ける。
——シープ・カヅィフェルト。もし実体を持たずして私に干渉できるとしたら、最初からこんな回りくどいことをせず、首を絞めればよかったのではないか?
知優は視覚を遮断し、第六感に任せ斧を振り被る。
——シープ・カヅィフェルト。貴様は私に速度では勝てないと言ったな。
もし私が同じ土俵に立ったとき、貴様はどうするつもりだったのだ?
振り払われた斧から、衝撃が伝わってくる。それは肉を削ぎ落す心地いい感触……ではない。
絶望の淵に差し込んだ一筋の光を嘲笑うかのように断ち切る、無残にも柄の部分を受け止められる硬い感触だった。
「見事だな、綏操知優。しかし、お前は重大な要素を見落としている」
俺は知恵や力も全てを凌駕する、巫女をも超越した存在。使徒だ……。
捕らえた彼の姿が、桔梗色の朧となり消える……。全力を尽くした、この一撃に全てを乗せた無防備な脇腹に、痛恨の膝蹴りが放たれた。
開かれかけていた勝利の扉は、憶晶により固く閉ざされてしまう。
当たり前に吸えていた酸素が、憶晶の壁に叩き付けられた衝撃で吐き切ってしまう。奇しくも、あの時殺害した虫笑いと今の知優は同じ運命を辿ってしまった。
ひらり、と痛々しい血が滲む白衣の右袖が力無く靡く。
——なんて、醜い姿なのだろう。
ランタンの光に導かれ、颯爽と現れた英雄の最後が……これか。
……。
シープの心地良い鼻歌が、朧に満ち切った世界で響く。ユウカが歌っていた”月の光”だろうか。……今となっては、知優を安らかな永眠へいざなう子守歌だ。
「タイムアップだ、綏操知優」
霞みがかる、落ちかける瞼の奥で、シープは煙草の火を親指で擦り消した。鼻に付く忌々しい煙の香りも、自身に捧げられた線香と思えば、悪くないのかもしれない。
「綏操知優、何か言い残すことはあるか?」
想い人に伝えてやろう、吸殻をアルミ製の携帯灰皿に入れながらシープは言った……。
——言い残すこと、か。……真面目に考えたところで、もう彼はこの世に居ない。
「……ない」
少しだけ、物悲しそうな表情を浮かべるシープ。そんなに欲しかったのか? どこの馬の骨かも分からない、少女の遺言が。
——そうだなあ……強いて言うなら。
「時は満ちた」
知優は白衣から二種類の手榴弾を取り出し、ほぼ同時に躊躇なく歯でピンを抜く。
「ちひろっ!」と遠くの方で友人の声が聞こえたが、それでいい。知優の死を憂い、嘆き、可能な限り泣き喚け。
一秒、二秒、三秒経とうとも知優は二種類の手榴弾を力強く握りしめている。それどころか、只ならぬ危機を察知したシープへと駆け寄っているではないか。
何よりも危険を、死を嫌っていた知優が……シープもろとも自爆しようとしているのだ。
「やめてっ! お願い、お願いだから……」
——誠羅、君は私に色んなことを教えてくれたな。正義に呪われた私の足枷を外してくれたな。
色々すまなかった……初めて会った時、君を見下すような態度を取ってしまった。自分より優れた人間が存在していると認めたくなかった、それだけの傲慢な考え方だった。
それから、君が誠しさを追求していたにも関わらず、私はそれを否定するような言葉をぶつけてしまった。自分が間違っていることを認めたくなかった、それだけの我儘な理由だった。
蒼夷や誠も、私がもっと早く助けられていれば、自分の力を正しく理解していれば、犠牲にならずに済んだ。本当にすまないと思っている。
こんな瞬間まで、君に辛い思いをさせてしまうことも。でも、これだけは言わせてほしい。誠羅——。
「私を、信じてくれ」
爆発する寸前、左手から零れ落ちたペンダントが罅割れた。
——”ダ・カーポ”。
絶望の輪廻は繰り返す。何度蛟を斬り刻もうと、殺戮を繰り返そうと不朽の名作は再び生の波動を吹き込ませていく。誠羅の語った通り、本当に彼の力が無限なのであれば、もはや勝利など不可能だ。
これまでなのだろうか、鉄の味が滲む空気を吸い込みながら、公椛の思考に過る。
「言っても聞かないね、おめえらは! なして分からねえ?! おれは使徒で、おめえらは巫女。生きる次元が違うって!」
脳を完全に破壊すれば、いくら巫女であれど植物状態または廃人と化す。少なくとも、この物語が終わるまで痛みや、苦しみから解放される。ペティはそう言っていた。
「あの子と約束したんだ……おめえらを誠しい死に導いてあげるって。この世界を救って、死欲の罪を償うって!」
「あたしはこの平和で退屈な日常を護る、主人を護る家人だ。貴様ら悪人を裁く、正義だ!」
蒼い刃をペティの心臓に向ける。希望を宿した、偽りの正義を佩く彼女の姿はあまりにも醜い。芸術的ではない、と純白の乳歯をぎりぎり軋ませた。
「なにが正義だ……なにが英雄だ……」
そっと弦を指の腹で撫でる。たった一人の姉から受け継いだエレキギター、そんな大切なギターを一度はばらばらに破壊された。
しかし途方もない長い時間を経て、憶晶の力を使いここまで再現してみせたのだ。姉の美しい演奏劇を、こんな雑音に邪魔されるわけにはいかない。
——正義を決めるのはおめえらでも、おれでもない。決めつけちゃ駄目なんだ。その先の未来、結果が定義するんだ。
信じるのは勝手だ、進み続けるのは勝手だ。でも、それなら。おれたちにだって、誠しさを追い求める権利があるはずだ。
「オクショウの意味なんてなにも知らないくせに……、考えたことないくせに!」
”協奏:大地の雫”。新たな演奏を聴き、蛟の血脈はさらに眩く輝き始める。それだけではない。新芽色の血脈はペティを中心に伸び走り、決戦の舞台を淡く照らし始めた。
まるで大木が壮大な自然へ根を張るように、美の象徴を不滅模様へ彩るように。
——これは俺と、私だけの芸術だ。誰にも邪魔させない、傷付けさせない。この腐り切った世界に残す生きる希望として、生きる美としてあり続けるんだ!
「【生命】の名の元に、大自然の糧となれッ!」
ペティは徐に目を閉じる。両目から血涙を流しながら。
公椛は瀕死の主人を護るため、襲いかかる生命の波動を斬り払う。
しかしこれまでは斬撃を与え続けていれば、辛うじて仮死状態に至らしめることができていた生命の波動はより硬く、不滅の象徴としてあり続けた。岩をも斬る蒼銀の刃が弾かれてしまうのだ。
『双粛清は硬い鎧の憶晶を纏っていた。でも——』
目や口内までは、守れないはずだ。
「”双対の駄津”」
喰らい尽くそうと飛びかかって来た生命の波動を避ける。自身の頭ほどあろう、新芽色の十二本の紋章が刻まれた大きな目玉に、蒼銀の刀を突き刺した。
効いている、痛みに悶えている。視力さえ失わせれば、まだ本体を叩くチャンスが生まれるはずだ。”ダカーポ”が来る前に——。
公椛は一歩目を踏み仕切る。しかし、その確実な一歩により、舞台に水紋が広がった。そしてその水紋が根張った血脈に触れた瞬間——。
淡く光り、生命の波動が負った傷を瞬時に癒したのだ。
「うそ、でしょ……」
『ま、トドメはせいちゃんに任せて、あたしたちが頑張ればいいだけの話だし。余裕だね! あはっ!』
——どうして、せいちゃんがいなくても勝てるって思っちゃたんだろ……。【生命】は輪廻を断ち切らない限り不滅、って聞いておきながら、どうして……。
残弾は四発、一発余ってたじゃん。一匹だけでも、一匹だけでも減らせたら勝てたかもしれないのに。ゆずちゃんが死にかけることも、なかったはずなのに……。
公椛は絶望を前に膝から崩れ落ちる。目の前で美しい演奏を奏でる少女に手が届かないことを、確信してしまった。
もう策は残されていない、圧倒的な使徒の力を前にひれ伏すしかないのだ。
両手から蒼銀の刃が零れ落ちた。
「……したらね。出日邇公椛」
双対の生命の波動が一人の巫女へ牙を向ける。ラッセンを思わせるハート形のネックレスを握りしめ、少女は物語の終わりを受け入れた……。しかし。
新芽色に塗りつぶされたキャンバスへ、緋色のコントラストが描かれる。
使い物にならない右手を靡かせながら、楪律は持ち前の咬合力で鶴嘴を食いしばり、生命の波動を叩き飛ばしたのだ。
「まだ、心臓は動いていますよ」
鮮血に染められた巫女は、新芽色のキャンバスに赤い雫を落としながら言った。「逃避は弱者のすることです」と。
そうだ、楪律は誰よりも強いだけではない。誰よりも強くあろうとし続けているんだ。
公椛は昔から、アニメや漫画の世界が好きだった。そこに登場するキャラクターたちが好きだった。様々な意思があり、夢があり、それを実現させようと努力する姿がなによりも美しいと思っていた。
護衛として選んだこの蒼銀の刀も、技名を付け叫ぶのも、そのキャラクターたちのように生きてみたい、という憧れからきたものだ。
ある剣士は言った。「背中の傷は剣士の恥だ」と。ある剣士は言った。「少しずつでいい、前に進め」と。
——あたしも、そんなかっこいい剣士になれるのかな……。
楪律は涙に濡れる少女の瞳を見つめ、静かに頷いた。
零れ落ちた、大切な蒼銀の刀を強く握り上げる。どんな時代でも、世界でも。剣士に”後退”の文字はない!
これまでの人生で閲覧してきた作品の剣士の勇気に倣い、一人の少女は強敵を討ち取るため立ち上がった。
「たったひとつだけ、作戦があります」
楪律は芸術の演奏を聴きながら練り上げた作戦を話し始める。……それは、あまりにも現実味を帯びていない、不確定要素だらけの策だった。
成功する確証など、どこにもない。しかし。
「それしか方法は無いんでしょ。なら、実現させてみせるよ。だってあたしは——」
主人の命に従う家人であり、剣士だから。
楪律が提示した作戦を実行するには物語の頁を巻き戻す必要がある。
この戦いでペティの召喚した生命の波動は二匹、全長はおおよそ五メートル。これは誠羅たちが初めて彼と対峙した時に召喚された生命の波動と殆ど同じ大きさだ。
しかし、”静唱:黎明”にて召喚されていた生命の波動は四匹であった。
恐らく彼にとって最終決戦となるこの戦いで、全力を尽くさない理由はない。ではなぜ残り二匹、召喚せずに戦い続けているのだろうか。
『おれって憶晶を使うのに、一番向いてない体だよね……』
ペティは度重なる憶晶の酷使により、吐血や血涙を流していた。明らかに初めて対峙した時よりも憔悴していることの証明に値する。
であるなら、これ以上新たな憶晶を生成できないのではないのだろうか。だから憶晶を使い回す、輪廻転生の選択を取っているのではないだろうか。しかし、その力も無限ではない。
”ダ・カーポ”。芸術がアンコールに応え、再び旋律を奏でる時、ばらばらに砕け散った憶晶の細胞を繋ぎ止める接着剤が必要になるのではないだろうか。
血涙は、微かに消費し続けていく憶晶の代償の証明になるのではないだろうか。
もし、背水の陣で旋律を奏でているのであれば、攻撃を防ぐ憶晶の壁は一度生成できるかどうかだ。
「奴の姿をご覧ください」
演奏の、芸術の邪魔となる視覚を遮断し、ギターをかき鳴らしている。聴覚さえ研ぎ澄ましていれば、雑音が混じろうとすぐに掻き消すことができるからだ。
限界まで芸術に集中し、美しい調和の旋律を奏でる。それが彼の芸術だ。
「奴の情報源は蛟の視覚と、音の振動」
旋律の上で終末の輪舞を踊る巫女たちの足音、地面を蹴り上げる振動。空中から攻撃を仕掛ければ、正確な位置を特定できないのだ。その弱点を消すために、生命の波動が存在する。
たった一瞬だけで良い。すぐに再生されようとも、攻撃の準備と飛び上がる時間さえ稼げれば良い。段取りさえ済ませておけば、一秒あれば充分なのだ。
楪律は連爆の旋律によって瀕死の状態に追い込まれた。生物の頂点に君臨する歩嗚雫楪律へ王手をかけた戦術、ならば同じことをやり返せばいい。
目には目を、歯には歯を。爆裂には、爆裂を!
「公椛流 奥義”激流双”ッ!」
右左方から迫り来る生命の波動、その間に立つは蒼銀の刀を携えた二刀流の剣士。
背後に隠れ、準備を整える主人を護るため、奴らの視界に捉えられないようにするため。生命の波動の片目を切り裂く、激流の斬波を放った。
「今だよ! ゆずちゃん!」
——五。
楪律は屈みこんだ家人を踏み台に、空高く飛び上がる。鶴嘴は置いてきた。右腕が使えない今、弦を引くためには持ち前の咬合力を利用するしかないからだ。
楪律、盛者必衰の理を律する者、という意味だ。輪廻転生を繰り返し、常に頂点へ立とうとする弱き者を裁く使命の元付けられた名だ。
——四。
生命の波動は、飛び上がった巫女を噛み砕くため一直線に空高く打ち上がる。砕かれた大地の断壁に打ち付け上がる、水柱のように。
寸前で矢は放たれてしまったが、その小さな身体と狩人の弓を砕き喰らう。脳も、内臓も全てずたずたに引き裂き、大地の糧となってもらおうか! 歩嗚雫楪律!
「……進め」
——勇敢なる、剣士よ。
おれたちの芸術に、鳶の雑音が鳴り響く。なんで分かんないかなあ。こんなに派手な音を鳴らしたら、いやでも軌道が分かっちゃうよ。
五本だろうが、十本だろうが。細い矢じゃおれの心臓は射抜けない。
ちょっとだけ身体を逸らせば……ほら、簡単に避けられる。さて、後はあの剣士だけ。
一対一ならカノンとフーガも居るし、憶晶を使わなくても倒せるかな——。
そう勝利を確信したとき、カラン、と鏑矢の着弾点から雑音が鳴り響いた。おれはなにか只ならない寒気を感じて、その音の正体を見るためにずきずき痛む瞳を開いた。
その雑音の正体は、矢羽根から無理やり通したと思われる安全ピンと、手榴弾本体が矢尻の固い部分にぶつかった音だった。
——三。
安全ピンが抜かれていないってことは、着弾の衝撃で外れることを願って付けたのかな。こういうものって確か、レバーを握った状態じゃないとピンは抜けないはずだけど……。
戦争っていう概念すら無い世界で生きてきたんだ。映画とかの間違った知識で練られた策なのかもしれない。なら特に気にしなくていいかな。
——ニ。
いや、そんなわけない。いくら戦争の概念が無いあの子たちでも、おれの生命たちを全滅させてきた。使い方も分からずに、こんな危ないもの持ち運んでるわけない。
なら矢を放つ瞬間、起爆しておいたこの手榴弾をピンで固定して、遠距離から爆撃を仕掛けるつもりなんじゃ……。ありえる、ううん絶対にそうだ!
「公椛流 奥義ッ!」
——一。
なら公椛が攻撃を仕掛けようとしてるのも、爆撃を喰らったおれへの追い打ち。有終の美を飾るために、徹底的に叩き潰そうとしてるんじゃ……!
させない、させるものか! 矢が放たれてから着弾するまでの時間は約一秒、それから二秒くらい経ってるとしたら……一般的な手榴弾の作動時間はだいたい五秒だから、投げ返す余裕はあるはず!
フーガ、お願い!
——さあ。
待って、よく考えれば……おれはレバーを離した瞬間を見てない。この子たちの視覚が一瞬失われて、楪律が飛び上がった瞬間までなにも見えてなかった。そんとき手榴弾は……既に装着されてた。
じゃあもう殆ど時間が残ってなくてもおかしくない! 投げ返そうとしたら、逆に自爆するかもしれない! じゃあ、じゃあじゃあ……残された選択肢は……。
憶晶の壁で防ぐしかない……。
「これが、わたくしのッ!」
——鎮魂曲だ。
おれたちの舞台に、雑音の花火が上がる。せっかく、ここまで築き上げてきたのに、最後のさいごでまた壊されちゃうの……?
なんとか身は守れたけど……もう指に力が入らない。おねえちゃんとの芸術を奏でられない。最後の、最終手段は。”鎮魂曲:生命の叫び”だけ。
「”水天一碧”ッ!」
公椛が砕け散った憶晶に入り込もうとしてる。ああ、ばかだなあ……。大真面目に技名まで叫んで、アニメの見過ぎだよ。分かりやすすぎて、不安になっちゃう。
鎮魂曲は発動までちょっとのラグがある。叫び始めてから、大体一秒かからないくらい。だから、おれたちの領域に踏み入ろうとする寸前、今くらいがちょうどいいんだ。
おねえちゃん、蒼夷君、ノイアさん、めえくん。おれには護らないといけない、憶えてなくちゃいけない大切な人たちが沢山居るんだ。
【生命】の使徒として、ううん、ペティ・ライフラインとして。おめえらに負けるわけには、いかないんだ。
petaly、花弁と蝶を掛け合わせた名前。
どんなに小さな命にも、世界中の人たちにおれの芸術を届けて、人生を彩る作品になってほしい。バタフライエフェクトを願ってニューロンが付けてくれた、ノイアさんたちが呼んでくれた大切な名前なんだ。
おれはみんなの芸術作品として、生き続けなきゃならないんだ。
だから、見てて。
「うわああああああああああッッ!!!!」
これが、おれの……おれたちの鎮魂曲だ。
憶晶が光り輝いて——。
「なあんちゃって」
”打ち潮”。そう言って公椛は輪爆の範囲外へ踵を返した……。ああ、どうしていつもこうなのさ……。最初から、最後まで。……卑怯だべや。
おれの鎮魂曲は、誰の耳にも留まらず砕け散っていった。
「公椛流は、あたしの想像力次第で無限に形を変える。まるで、どんな形にでもなれる水のようにね! あはっ!」
騙しちゃってごめんね! 手を合わせて謝罪の言葉を投げかけてくる。うるさい、黙ってよ。雑音がおれたちの芸術を汚すなよ……。
でも、”ダカーポ”すら使えない。憶晶を使うには、弦を弾かないといけないから。
……。
「カノン、フーガ……」
おれが呼びかけると、二匹とも困惑した様子でおれの顔を見つめた。分かってるよ、これ以上憶晶を使ったらどうなるかなんて。分かってる……。
でも、目の前の巫女たちを倒さなきゃいけない。野放しにしちゃったらノイアさんも、世界も救えないんだ。だから、動けないおれの代わりにギターを弾いて。
結局最後まで、おねえちゃんを越えられなかった。盲目でどうしようもない俺に優しくしてくれて、世界を魅了する演奏ができる。才能に恵まれた、世界でいっちばんかっこいいおねえちゃんだった。
この身体を貰ったからには、おねえちゃんの代わりに生を全うしないとって使命感に襲われてた。おねえちゃんが残すはずだった東桜っていう名前を、俺が代わりに背負わないとって思った。
でも、それは俺が想像するよりも遥かに難しいことだったんだ。
いくら練習しても、舞台に出てもおねえちゃんの芸術には程遠い、醜い旋律しか奏でられなかった。今、この瞬間だって。おねえちゃんが【生命】の使徒に選ばれてたら、とっくに勝ててたのに……。
正しい行いをして、死欲の罪を償ったら一緒に天国へ行けるかなって思ってたけど、そんな望みすら俺にはおこがましかったみたい。ごめんね、おねえちゃん……。
『ペティさんの演奏、僕は世界で一番好きですよ』
気まぐれに弾いた”月の光”を聴いて、蒼夷君はそう言ってくれたっけ。
なんまら嬉しかったよ。でもそんな楽しい記憶も、もしかしたら……。ううん、もう辛いこと考えるのはやめた。オクショウが増えるだけだから。
「おねえちゃん、この曲憶えてる?」
天国に居るおねえちゃんへ声をかける。返事が返ってくるわけないけど、きっと憶えててくれてるだろうな。
『この曲……ほんとに吹雪が作曲したの?! すんげーべや! 言ったしょや? 私なんかよりずっと、吹雪は才能あるんだって! 私は……良くも悪くも、弾くことしかできないからさ。きっとこれならパパとママも……ううん、なんでもない!』
ほんとかなあ……。
『なら聴いてみてよ! 私が弾くからさ……いや、初めて弾くのは作曲者のほうがいいはず。そっちのほうがきっと、この曲も喜ぶはずださ!』
カノンとフーガが動かなくなったおれの手を取る。
『私がサポートするからさ。それなら吹雪でも弾かさるべ?』
おねえちゃん……っ!
もう血流で、殆ど前が見えないけど……。幸せな記憶に、後遺症が残るかもしれないけど……。おねえちゃんと一緒なら……!
「……この曲は、俺が初めて作曲した。思い出の曲です……。聴いてください」
”桜吹雪”。
ペティ・ライフラインの、最後の曲が始まった。”月の光”をオマージュしたであろう前奏に呼応し、舞台に散らばった憶晶の欠片が彼の元へ集結していく。
そして憶晶は仄かな桜色を帯びた白い花弁に形を変え、一気に解き放たれた。
吹雪のように激しく、舞台を切り裂いていく。左から渦巻き状に殴り降り注ぐ芸術の嵐はこの世の醜さを、儚さを。それでいて美しさをこれ以上無く秀逸に表現していた。
盲目の少年が夢にまで見た光景、たった一人の姉に向け製作した芸術作品だ。
雑音は彼の芸術を前に凍り付く。肉を削がれ、いつしか白銀の大地へ還るだろう。真っ白のキャンバスに、新たな命が吹き込まれる、新芽が咲き誇る瞬間まで。
「ゆずちゃんっ!」
公椛は瀕死の主人を庇い、もう吹雪を身体で受け止める。痛く、切なく、虚しい。このぶつけようない感情は自身だけではない、彼の辛く苦しい過去の感情まで旋律の嵐に乗って伝わってきているのだろう。公椛は直感的に、そう思った。
吹雪、吹雪と凍り付く世界で最愛の弟の名を呼ぶ東桜の姿がフラッシュバックする。消し去るべき醜悪の歴史に限って繰り返される。
どうしようもない不幸に、少女たちは呪われているのだ。
「背中の傷は、剣士の恥ではなかったのでは……」
おびただしい、幾億もの傷を背中に負う公椛へ、憂いの声を上げる。しかし、苦悶を交えた笑顔で家人は答えた。
「主人の傷は家人の恥、だよ!」
「瀕死の私が、わたくしこそが肉壁になるべきです! これは命令です、今すぐ私を——」
やだ! と公椛は拒否をする。
「あたしは主人を護る家人、これが使命で生まれた意味だから……!」
しかしだ、この猛吹雪がいつまで続くか分からない。それこそ巫女二人が凍り付くまで、肉片となって消えるまで止まない可能性もある。
幸い憶晶の壁はもう生成されないのだ。何とかして彼の演奏を止めなければ……。
公椛には、考えがあった。
「ゆずちゃんを護りながらだと、さすがに厳しすぎるけど——」
そう嘆くと、白い芸術の嵐に乗って黒い何かが飛んで来る。奇跡的にそれは公椛の携えた鞘に引っかかり、最後のピースを揃えたのだ。
「コートだ……ペティちゃんの」
小さい身体に見合わない、重く頑丈に作られた黒いメンズコート。
そうか、羽織っているだけにも関わらず、激しい動きに付いてこられていたのは、カノンとフーガが落ちないよう繋ぎ止めていたからだったのか。
芸術の定義にてカノンとフーガを攻撃の手段に使った時、徐に襟を握っていたのはそういうことだったのか。
カノンとフーガは今、ペティの指先を動かすためにコートを捨てた。これなら、猛吹雪を堪えられるかもしれない。そう思い立った公椛は、迷わず楪律へそのコートを羽織らせた。
「死にたいのですか……?」
蒼銀の刀を構える公椛の姿を見て、楪律は察する。突っ込む気だ、と。渦を巻く嵐は中心に向かうほど、必然的に花弁の密度が上がる。
ならばなぜ、この少女はコートを着ないのだ。本当に、自分もろとも相打ちの斬撃を放とうとしているのだろうか。
「ゆずちゃん、あたしはぜったい帰ってくるから。だってあたしは、ゆずちゃんの家人だから!」
「認めません、やめてください。おねがい……いかないで」
裾を握ろうとする寸前で、楪律は静止する。もう流れ始めた川は、誰にも止められないのだ。
「ゆずちゃん」
——あたしを、信じて。
勇敢なる剣士は、家人は。猛吹雪を泳ぎ始めた。
桜吹雪は反時計回りに、花弁を降らせてる。ならその流れに従って泳げば、ある程度の距離までは無傷で詰め寄れるはず。けど、それだけじゃ斬撃は届かない。
ペティちゃんの演奏を止めるには、高密度の花弁を受けながら進まなきゃならない。
あはっ。ゆずちゃんてば、あたしのことになったらすぐ感情的になって。そういうとこ、弱いよね。……でもあたしはそんなところが好きだよ。
もっといろんな人にも弱みを見せればいいのにって思ってる。それこそ、ちーちゃんとかみーちゃんとか、みやびんとか、せいちゃんとか。
そうなったら、もっと仲良くできると思うし、ゆずちゃんがほんとは優しい子なんだってわかってもらえると思う。
あたしは心配なんだよ。一人でなんでも熟せるからこそ、寂しくなったときどうするんだろって。
十二歳って、あたしから見たらまだまだ子供だし……もっと甘えてほしいなって思ってるよ。みんなそう思ってると思うよ。
だってあたしたち、家族みたいなもんじゃん!
あたしは思い出す。葉緑龍が津波を起こした時、自分はどうやって切り抜けたのか。”断崖の剣”? いや違うね。もっと確実に、広範囲に美しい調和をもたらす。奥義は既に編み出してる。
「公椛流 奥義……」
花弁の合間から見え隠れするあの子の姿は、おおよそ五メートル。この距離なら、一瞬の隙間を作り出すだけで抜けられるはず。
「”凪”」
静かに、軽く刀を振るう。——花弁に満ちた公へ、調和をもたらした。
ペティちゃん。君の演奏は今まで聞いてきた演奏の中で、一番きれいだった。それこそあたしの趣味にバッチリはまったよ!
……もしかしたら、違う世界線ではあたしたち、とっても仲良くできたのかもしれないね。でもこの世界線のあたしは、君を殺すことを選んだ。そして、勝利の運命はあたしに傾いた。
世界って、ほんとに残酷だよね。でもあたしたち巫女は、そんな残酷な世界を変えてみせるよ。だから……。
「公椛流 最終奥義ッ!」
安らかに、死んじゃって!
「”鯉の滝登り”」
流れゆく残酷な秩序を断ち斬る、流派に依存する固定観念を斬り裂くあたしの最終奥義。主人を護るため牙を向いたフーガすら、あたしの激流を前に海の藻屑と化す。
刃がペティちゃんの身体に届こうとした刹那——瞳に刻まれた新芽色の十二本の紋章と見合わせた。
生まれの場所、時が違えど。環境や才能、生の理由が違えど。生命は皆平等の価値を持つ。
その思想を芸術に乗せバタフライエフェクトを起こすあの子の願いは、たったひとつの鏑矢と手榴弾、あたしとゆずちゃんの絆を前に崩れ去っていった。
「なしてや……」
ぐしゃりと悲壮の笑みを浮かべる。そしてあたしは、小さな命を、願いを断ち斬った。
蒼い斬光は緩やかな滝の一閃を映し出す。生命の鮮血が舞い散り、流れゆく紅葉のように芸術的な剣術を彩った。そして——。
ライフラインの名は、その緩やかな滝の流れに深く、深く沈んでいった。
桔梗色の朧に包まれた空間から、誠羅の元へ一人の影が静かに迫ってくる。シープ・カヅィフェルト。
手榴弾の爆撃により、頬に微かな火傷痕を生んでいるが、死の兆しからは遥かに遠い。知優の命を懸けた策は、失敗に終わったのだ。
「あの野郎……全体攻撃なら幻影も関係ないって思ったのか? ああ全くもってその通りだ! しかし、威力が足りなかったようだな」
……。
爆風により吹き飛んできたロケットペンダント、床へ落下した衝撃により写真を保護していたガラスが割れている。
偶然にもその罅は、幸せそうな男女の脳天がかち割られているような形になっていた。もう二度と、帰らぬ人へとなってしまったことを暗喩しているかのように。
——ちひろ……。
その名を呼ぼうとすると、胸ぐらを鷲掴みにされているかのような強い苦しみに襲われる。ひっひっと涙袋から押し出されるように、痛いほど溢れ出る涙に嗚咽を漏らす。
もう、彼女が描く物語の続きは誰にも読まれない。いくら待ちわびようと、懇願しようと、作者が居なければ誰にも描けないのだ。
夕立の空に見舞われるようにぽつり、ぽつりとペンダントに雫が落ちる。泣いても何も変わらない、しかし人間の誠羅がどう足掻こうと、巫女を超越する使徒を殺せる道理はない。
火を見るよりも、明らかなことだ。
「心底同情する。お前も、あの巫女たちも。だが、これはニューロンのせいなんだ。ニューロンが全て仕向けたんだ。お前らにオクショウを与え続けるためにな」
「ニューロン、てぇ……だれなのよ……」
「さあな」
かちん、と三本目の煙草に火を付ける。
「ニューロンが過去にどんな死欲の罪を犯したのかは、家族みんな認知している。だがそこまでなんだ。今どこでどんな生活をしているか、そもそも人間の形をしているのかすら定かではない。巫女に成り済ましている可能性だってある。まあ、少なくともその可能性は低いだろうな。この世界で巫女はどうしても、目立ってしまう」
ふう、と忌々しい煙を吐き出す。
「そんなことどうだっていい……ちひろをかえしてよぉ……」
お前から訊いてきたんだろ、と少々困惑した表情を見せるも、すぐに凛とした雰囲気に戻る。友人が死んで気が動転しているんだ、情緒不安定にもなるだろう、と慈愛に満ちた、大人びた対応であった。
「ずっと手榴弾を握っていたんだ。木っ端微塵になったっておかしくない。それでも「霧を晴らしてくれ」と願うなら、お前の意思を尊重しよう」
ただし条件がある、とシープは人差し指を立てた。
「まずはこの壁をどうにかしろ。弟として、姉兄が心配なんだよ」
『誠羅、私の合図があるまで、それ以外の行動は絶対にするな』
静かに、首を横に振る。交わした約束は、果たさなければならない。
「……そうか」
だが否定して何が変わるというのだ。憶晶の壁など、既に衰弱し切った誠羅に護り切れるわけがない。無傷の使徒を前にはいくら足掻こうと、無理やり腕を掴まれ憶晶を破壊する道具として扱われるまでだ。
四肢を切り裂かれ、文字通り手も足も出ない状態になり、最悪な未来を迎える。想像するに難くない。
ならば素直に従うべきだろうか。生命を殺戮し尽くした、知優と同じ巫女であるあの二人なら、既にペティを殺しているかもしれない。
もしそうならば、恐れていた相乗効果も見込めないだろう。このまま彼らの兵器として利用されるよりも、ずっと賢い選択だ。しかし。
『私を、信じてくれ』
誠羅は降伏の音を吐き出す寸前、微かに聞こえた知優の言葉を思い返し下唇を噛みしめる。少し血が滲むほど強い力だった。これは知優の戦いだ。
助けを乞うなど、裏切らないと誓い合った戦友への冒涜だ。崩れゆく魂への、冒涜だ。誠羅に与えられた選択肢は、最初からひとつしか用意されていないのだ。
「わだ、……じはあっ!」
疑問を越えた先にある輝かしい未来を、親愛なる友と共に。
「ぢひろをじんじるっ!」
疑問の壁に打ちひしがれていた時、必ず友が居た。才能や地位の違いなど関係ない。一人の人間として、一人の少女として認めてくれる友が居た。
置き去りにはできない、目を背けるわけにはいかない。希望の光に、手を差し伸ばせ。恐れるな、彼女は必ず——。
「……っ。ペ、ティ?」
シープは喉元に手を当て、微かな違和感を覚える。……そうだ、この瞬間を待ちわびていた。友が【生命】を討ち取り、生命維持とやらに必要な能力が失われる、この瞬間を。
時は満ちたのだ。
誠羅の差し伸ばした指先に、山吹色の稲妻が駆け巡る……。——誰よりも瞬発力に優れているのに。いつも、いつもいつも……最後の最後に、この人はっ!
瞬く間に、いや瞬くよりも速く、雷撃がシープを狩り飛ばす。
朧に満ちた命がけのかくれんぼは、砕け崩れたコンクリート製の壁と彼の血飛沫が辺りに飛散する音。そこから雪崩込んでくる凍て付いた外気の匂いを皮切りに終焉を迎える。
何が起きたか理解できないまま瓦礫に埋もれ、ぴくりとも動かなくなった彼の前に、彼女は立っていた。
火の付いたまま床を転がっていく煙草を力強く踏み仕切る。どんな時代でも、世界でも。英雄は遅れてやってくる。
「明らかだ」
血痕で薄汚れた白衣が誇り高く靡いた。
……そうか、全て理解した。俺はただ、夢の世界を彷徨っていただけなんだと。
綏操知優、こいつはあの自爆特攻すらも顧みず、朧に身を潜めていた俺に一撃を喰らわせた。一撃だ、たった一撃で俺の肉体は破壊しまった。
【冥府】、特に自力で酸素を取り入れられない俺は現存する使徒の中で最もひ弱で、脆弱。オクショウが目覚めかけているこいつらとまともに戦えば、こうなることなど馬鹿な俺でも分かっていた。
分かっていたからこそ、黴氣で窒息死させようなどと、姑息で回りくどい戦略を取っていたのだ。
……理由は、それだけだ。
仲間を救った、英雄気取りの憎たらしい笑み。その顔は切創痕どころか粉塵すら浴びていない。
特攻の瞬間、まさかなとは思った。その策が実行可能なほど綏操知優の力が成長しているとも、実行する勇気もあるとは思えなかったからだ。
朧を切り払うたったひとつの策、そのトリックは至って単純だ。
ほぼ同時にピンを抜いた二種類の手榴弾、ひとつは破片手榴弾、もうひとつは閃光手榴弾。そしてこいつは、俺の黴氣を発煙弾として利用した。
ほぼ同時にピンを抜いた、と言ったが、ほんの僅かに閃光手榴弾の方が早く起爆するよう調整されていた。
数秒、誤差に収まるほどの僅かな時間だ。
誠羅に閃光手榴弾を投げさせた時、こいつは対照実験をしていた。黴氣を操る使徒に、閃光の目眩ましがどれほど効果があるのかを。
きいんと鼓膜を強張らせる爆音で足音を消し、情報を単純な視覚反応だけに絞る。その状態で攻撃を避けられるかを見極めるためにだ。
俺は使徒だが、ベースは人間だ。閃光を喰らっては暫くの間視覚障害に陥ることだろう。だから俺は、閃光が放たれる寸前に黴氣を目元に集めた。
これならサングラスのように遮光できるだろうと思っての行動だ。その動作を、綏操知優はしっかりと見て覚えたのだろう。
閃光を遮断できるほどの黴氣、当然その分視覚情報に淀みが生じる。だから本命の破片手榴弾が起爆する瞬間、こいつが逃げ出したことに気付かなかった。
足音も、閃光手榴弾で掻き消されてしまった。音よりも遥かに速く動ける、こいつだからこそなせる業だ。
その後は簡単だ。ペティの助けが消えるまで、吐き切った酸素を再び肺に貯め切るまで、朧に身を潜めていればいい話だからな。
常に空気中を舞っている黴氣を見て、足元付近ならまだ酸素が滞留していることも最初から分かっていたのだろう。
宿敵ながら称賛に値する。俺の負けだ、綏操知優。だが、このまま死ぬわけにはいかねえんだよ。
「……まだ生きているのか?」
肩で這うように、瓦礫の山から抜け出す。奇しくも骨が粉々に砕けたことで、あまり苦労はしなかった。これではまるで、蛸みたいだな。
立ち上がることさえ数十秒かかるほどの重症だが、まだ心臓は動いている。……諦めるわけにはいかない。
『おれの勝手な見解だけど、見た感じ巫女が扱う憶晶はまだ未熟だと思うのさ。……きっとニューロンは巫女の中でもポテンシャルの高い人を故郷に連れ込んで、オクショウを増やそうとしてる。入り乱れた世界を平坦に戻すための、仕上げ作業に入ったんだと思うのさ。だから実質、唯一の使徒であるおれたちと……ノイアさんが、最終防衛ラインになる』
幼体のうちに仕留めないといけない、ペティはそう言った。だが少し息が苦しいのを察するに、ペティはあの悪魔どもに追い詰められてしまっているのだろう。
そんな時に俺が敗北すれば、俺たち家族はどうなる? 世界はどうなる? 考えるまでもない。
「てぐ、り。ちひろ……!」
痛みがどうした、苦しみがなんだ。そんなもの、ペティが味わってきた苦痛と比べれば造作もない。俺はペティと違って臆病者だ、恐怖に立ち向かえなかった弱い人間だ。
今までも、恐らくこれからも、偉大なる姉兄を越えられることはないだろう。だが、俺も男だ。こんな時くらい、カッコつけても良いだろう!
「俺の、憶晶は……まだ、尽きていないぞ」
seeph染み渡る一時の安眠という意味の名前だ。どんな善人も、悪党も等しく一時の安らかな猶予を与え、死神として平穏な眠りへと委ねてほしいと願いが込められている。
ニューロンが付けてくれた、ノイアやペティたちが呼んでくれた、替えの効かない大切な名だ。
生命が皆、幸せな死を遂げるわけではない。交通事故、殺害……惨たらしい死などいくらでも起こりうる。中には死の走馬灯さえ救いようのない奴まで居た。
そんな奴を弔うために、黴氣が存在しているんだ。痛覚を遮断させる、この力なら。
「ここが、お前らの墓場だ」
黴氣が俺の傷跡を蝕んでいく。痛覚が、神経が腐り落ちていく感覚。ああ、心地良い。だらしなく垂れ下がった両手も、もはや必要ない。切り落としてしまおうか。
その思考を理解してなのか、黴氣は両肘付近に纏わさっていき、鎖で締め切るようにして切断した。血管すらも腐敗しているのか、ぽつぽつと黒い雫が滴り落ちていく。
ぐしゃりと両腕が地面に落ち、黒く変色していく。その様子を見て綏操知優は、この世のものではない醜悪な死体を見てしまったような、惨い殺人現場を覗いてしまったかのような顔をしていた。
お前だって隻腕じゃないか、なぜそこまで否定するんだ。出来事に蓋をしようとするんだ。
「なあ綏操知優、俺は今どんな姿をしている?」
断面から肉が融け始め、三日月状に変形していく。砕けた骨が断片的に露出し、刃こぼれしたノコギリのように新たな腕を彩っていった。
……この形には、覚えがある。獲物を捕らえたら最後、絶対に逃れられない逆刃の構造。カマキリの腕にそっくりだ。
いや、夜の淡い光によって映し出された俺の影を見るに、どうやら飛行虫の翅のようなものも生えてきているらしい。
醜い、気味が悪い。だがこれが俺を表した姿だとすれば、不思議と納得してしまう。
獣神化すらにも満たない、人間の形を捨てきれなかった羽化不全の姿。愛する人を自分の中で殺しきれなかった、俺の人生を上手く表現している。
綏操知優、お前ならはどう言い表す?
「死肉にかける言葉などない。諦めて、さっさと腐り堕ちろ」
……お前らはいつも、俺たちの存在すら認めてくれない。迫害され、腐りゆくさままで見届けてくれない。ずっと、居ないものとして扱ってきたじゃないか。
醜い、どうしようもない人間だと差別してきたじゃないか。俺たちから幸せになる権利を他愛もなく奪い取って、楽しそうに笑っていたじゃないか。
だから俺はいつも、逃げてきたんだ。
『坂本君、だよね? 本……好きなんだね。いやなんも変とかじゃなくて! 私活字とか、苦手だから、すごいなって思って』
初めて出会った時、君は俺の名を呼んでくれた。
『さかちゃんはいつも素っ気ないけど、すごく優しいんだってわかるよ』
この手では、醜い姿では君を抱きしめることも、共に過ごすことさえ叶わない……。
『さかちゃんが将来どんなひとになっても、私はずっと応援してるからね』
凍てついた触覚に、微かな温かみが伝う。
『来世も、そのまた来世も。ひとじゃなくても、私はきっとさかちゃんと出会って、好きになる自信があるよ。だって、こんなに』
愛してるから。
優華……。
そうだ、何かを護るために何かを犠牲にするなど間違っている。捨てられなくたっていい、失うことを恐れたっていい。大切なものが増えていくのなら、全部この手に収めてやればいいんだ。
ペティ、ノイア、蒼夷。俺には手放してはならない家族たちが居る。交わした約束を、家族みんなでラッピを食いに行く約束を果たさなければならない。
綏操知優よ、生命は皆平等だ。お前に想い人が居るように、俺にも優華の魂と愛する家族が居るんだ。自分だけが悲劇の主人公だと思うなよ、馬鹿猫が。
「お前らの物語に句点を打ってやろう」
黴氣を纏わせた翅を羽搏かせる。俺は誰よりも死を知っている、そして誰よりも恐れている。終焉は何時も儚く、一瞬であると。
水底から夢見た月夜へ舞いゆく、蜉蝣のように。
桔梗色の十二本の紋章が悍ましく煌めきを放つ。昆虫特有の細く、屈折した鎌のような前脚から垂れ下がる死肉の鎖。
不規則に生え並ぶ骨や歯の残骸。そして、背中からは肋骨の一部が変異したであろう大きな翅脈に、黒い血液が滴る肉骨から噴き出ている黴氣によって構成された半透明の翅……。
まるで羽化寸前に命を落とした蛹を思わせる、あまりにも痛々しい形状であった。
黴臭さではない、何ヶ月も忘れ去れた死肉の臭いに知優は顔を顰める。明らかに、命あるものが発していい臭いではない、と。
「ようやく本性を現したな。ヴィランの貴様にお似合いの姿だ」
獣神化だか何だか知らないが、それすらにも成り得ない死体に負ける動議はない。最後に立つのは正義だ、と知優は斧を掲げる。
彼のトリックを暴いた今、優位に立っているのは四体満足の知優である。にも関わらず、黒く変色し始めている口角を上げ、嵐の前の静けさを語るように彼は口を開いた。
「時に綏操知優、お前は自身の死を恐れているか? 失うことを憂いているか? 言わずとも分かっている。恐れているからこそ俺を殺そうと奮起しているんだろう? しかし、しかしだ。死神に心臓を握られようと、俺は恐れていない。何故か分かるか?」
「狂っているからだろう、明らかだ」
「いいや、違うな!」
振り払われた鎖が床を削り取る。
「信じているからだ。ペティを、ノイアを! たとえこの身体が腐り果てようと、俺の名前を呼んでくれる家族が居ると信じているからだ! お前がその男を想うように、友を想うようになッ!」
死体が英雄ぶるな。木製の柄がへし折れてしまいそうなほど強く握られる。
「一緒にするな。貴様らのような腐り切った家族愛と、私の掛け替えのない友達を……凌芽をッ! 社会の癌が驕り高ぶるなよ!」
「同じだ。人への想いに大小など存在しない、比べるものではない。それすら理解していないお前は今、俺の家族を侮辱した……。ヒーローに相応しくないとは、思わないのか?!」
……死人に口なしだ。知優は戯言を掻き消すように、轟音と共に駆け出した。奴は風前の灯火だ、一発でも叩き込めれば殺害できる。
霞を失った奴に、音すら置き去りにする雷撃から逃れられる術はないはずだ。しかし。
雷撃が如く貫く直前、重低音と共にシープの姿が消える。なぜだ、幻影の源とされる霞は外気によって流されているのに。彼は戦いを再び繰り返すように、背後へ瞬間移動をしていた。
「過ちに怖気付くな。力で捻じ伏せ、過ちを誤魔化し続けることこそ己の弱さだ、罪なんだ」
逃げ続けた先に何がある? その言葉は知優の脳を撃ち抜くように響き渡った。鮮明に記された、二十年分の記憶を越えた奥底に眠っていた記憶。
豪雨と雷鳴が轟く、思い出してはいけない物語……。開かれてはいけない、自分かもしれない誰かがその扉を必死に押し戻そうとしているような感覚に襲われた。
——知りたい。
知優、他の誰よりも優れた知者、という意味だ。彼女にとって無知とは、何よりも許し難い弱さなのだ。
思い出さなければ、泥水に脚を取られながらも、知ることを恐れている誰かへ踏み寄る。
そしていざ、そのか弱き背中を叩き切ろうとした瞬間、記憶の外でシープがその行為を阻害するように語りかけてきた。
「これが最後の警告だ綏操知優。人の心を失う前に、その斧をなげろ。使徒を前に降伏しろ」
記憶の扉を押さえる女性と目が合う。酷く、怯えている目をしていた。
——邪魔だ。
ぐしゃり、と頭蓋を叩き切る感覚、人を殺すのは初めてでなかった。この身で初めて殺人をしたのは……両親だっただろうか。
しかし、知優にとっては思い返すに至らない、どうでもいい記憶だった。不要な物を捨てた、目障りな虫を潰した。その程度の認識だったからだ。
豪雨が降り注ぐ記憶の扉から、雷鳴が轟いた……。
「大層偉そうな命乞いじゃないか」
知優の身体に帯びる白藍の稲妻。ばち、ばちと迸る心臓と連動し放電している。誠羅はその姿を見て酷く動揺していた。
人の形を保っているにも関わらず術を操っている、原力と思われる憶晶をものにしている……。これではまるで奴らと——。
『一夜で王国を滅ぼせるほどの力を持っている——』
『自然現象を操る紋章が瞳に刻まれた人』
『天を切り裂く轟雷【叡智】の青』
——使徒だ……。
「ち、ひろ?」
友を失ったのでは、と恐怖と不信感に押し潰されそうな声で名を呼ぶ。しかし振り向いた彼女の瞳は、穢れの無い山吹色を保っていた。
「誠羅、信じてくれ」
爆発の寸前に吐いた言葉と全く同じだ。友を護るため、平和な世界を取り戻すため戦う正義の言葉だ。しかし……なぜ恐れてしまうのだろう。彼女を信じた先にある輝かしい未来を、幸せな日常を。
——もしも私が、あの人たちと同じ立場なら、家族なら……。
誠羅。
知優、公椛、楪律。心の中で友が誠羅の名を呼ぶ。ペティ、シープ、蒼夷。同時に彼らもその名を呼んだ。
どちらの未来も輝かしく、先が見えない。そして残された銃弾は四発……。敵となる人物を殺すのに三発、一発余る計算だ。残った一発は恐らく……選択を間違えた愚かな自分へ放たれるのだろう。
——誠しいのは……。
誠羅は差し伸ばされた手を取らず、その場に膝を付く。選択を運命に委ねるしかできなかった。また、問題から目を背けてしまったのだ。
「そうか……。残念だ」
黴氣で構成された翅が羽搏き、重低音を響かせながら知優へ迫り来る。恐らくこの瞬間移動は種も仕掛けもない、憶晶本来の力を用いた能力なのだろう。
度重なる憶晶の酷使により衰弱していたペティを見るに、憶晶の消費には身体的な代償を払う必要がある。使徒に並ぶ巫女を殺害するには、搦め手を駆使しなければならなかったのだ。
黒い血涙が滲み出しながら放たれた鎖、しかし。
「遅すぎる」
瞬くよりも速い速度で、知優はシープの背後で斧を振り被る。痛みや苦しさ、身体的な異常は見られなかった。彼女は今まさに、使徒の次元を追い抜いたのだ。
轟雷が降り注ぐ寸前で、シープは重低音を鳴らす。今までの余裕な表情とは打って変わり、絶対に敵わない天敵を前にした小動物のような、生命の危機に怯えた表情だった。
そこでようやく気付いたのだろう。眠っていた【叡智】が、彼女に宿ってしまったことを。
「その力はあいつのものだ……お前が手にして良い力ではない——」
シープがそう言い切る前に、彼女は次なる一撃を放っていた。瞬間移動で逃げ続けるのなら、その影を雷の速さで追い続ければ良い。単純な力勝負なら、知優が圧倒的に上だ。
その攻防が何十も、いや誠羅が目視できなかったものも含めれば何百と行われていたのかもしれない。
零れ落ちた血涙、吐血痕が辺りに広がり、ようやく動きを止めた頃には、シープは避け切れなかった斬撃を身体中に浴びていた。……知優は依然として、血の一滴も流していない。
「そんな状態でまだ立っているとはね。神経が腐り果てているなら、痛みも感じていないのか」
「死神に痛覚や味覚など不要だ……。死を見届ける視覚と、聴覚さえあればそれ以上は望まない」
足るを知っているんだ。黴氣で死肉をつぎはぎに繋ぎ合わせ、黒血を拭い取る。精神的な限界を取っ払ったシープを討ち取る手段は、一撃で脳を破壊するしかない。しかし、それは彼も承知の上だ。
「教えてやろう綏操知優。お前が使徒へ昇華しない限り、この俺を越えることはできない。【冥府】の絶対的な境地を、強さを!」
翅を羽搏かせ、シープは飛び立つ。させまいと放たれた白藍の雷撃は、変異した腕を今までで最も深く死肉を削ぎ落した。
しかし、痛覚を失った彼にとっては肉体という名の衣服を切り取られたようなものだ。この巫女を、使徒の名を手にしようとする女を倒す意思は揺らがない。
シープは負け戦を仕掛けるほど勇敢でなければ、愚かでもない。地上での速さで劣るのなら、自分の有利な位置で見下ろせばいい。いくら手を伸ばそうと届かない空の境地へ。
かつて家族が住んでいた屋敷をこの手で破壊するのは、断腸の思いよりも遥かに苦しい選択だった。しかし、それよりも家族がまた平穏に暮らせる日常を取り戻すためにはこれしかない。
断腸で済むのなら、何度だって切ってやろう。腐り果てた身体を切り落とすだけで、贖罪となりえるのなら。
「まずい、誠羅ッ!」
鎖が天井を貫き、黴氣と共に瓦礫の雨を降り注がせる。部屋の隅で縮こまっている誠羅を守りながらでは、いくら知優の速さでも天空へ飛び立つシープを打ち落とすに至らない。想定通りだ。
そして、勝利の条件は今揃った。
巫女は驚異的な身体能力を持ち合わせている。憶晶を操れば、その力は人知を凌駕するものになるだろう。
五十メートル、百メートル、二百メートル。今の知優なら脚力のみで飛び上がることだって可能だろう。ならばその先、人型の生物では絶対に到達できない天空まで飛べばいい。
翅を持ち合わせるシープなら、それができる。
仄かに蒼く輝く夜空から、陽炎のように揺らめく【冥府】の影。月の存在しない故郷に、黴氣を纏う新月が現れた。
何か只ならぬ予感がする……しかし、目測では測れないほど遠く飛び去った彼に迫る手段は、今の知優に残されていない。
『ふんふん、ふん……ふんふんふん、ふん』
——”月の光”……。俺の、一番好きな曲だ。
時は満ちたのだ。
「”良き終焉を”」
断罪の黴雨が罪深き少女へ降り注いだ……。
幾億年とも思える長い数秒が経ち、雨音は静かに止んでいった。辺りには奴が黴氣と呼んでいた霞が散布し、至る所に奴の骨と思われる黒い残骸が突き刺さっていた。
幸い誠羅は咳き込んでいるが、目立った外傷は見当たらない。ひとまずは安心した——。
「ち……ひろ? うそっ、でしょ?」
誠羅が憂うのも無理もない。なぜなら私の身体は、奴の骨によって作られた何本もの槍に貫かれていたのだから。
「あんしんしろ……。こんな傷、憶晶でどうとでも」
「どうやって使うか、まだ分かってないんでしょ……?」
……その通りだ、と答える代わりに吐血してしまう。服を汚してしまって済まない、不可抗力なんだ。慌てて口元を押さえようとすると、不覚にも左腕に負った傷口の様子を知ってしまった。
三点に貫く骨、そこから黒く淀んだ血潮が滴り落ち、黴氣が徐々に皮膚を蝕んでいっている。あまり痛みを感じていないのは、奴と同じように神経が腐り始めているからなのだろう。
どちらかと言うと、痛みより虫刺されのような痒みが不愉快だ。
怖い、死ぬのがこわい。冷静を保っているつもりではあるが……聡明な誠羅なら、気付いているのだろう。いや、もっと前から分かっていたのかもしれない。
才能を持って生まれた私が否定され、見下される。そんな結果から逃げ続けていたことを、虚勢を張って威嚇し続けていただけっていうことを。
ずっと、ずっとずっとそうだった。超記憶症候群も、私が強ければ才能として崇められるものだった。私が強ければ、辛い記憶など記されないのだから。
身体に力が入らない……倒れこまないよう必死に堪えるのが精一杯だ。
ここまでして、大切なものを幾度となく失って、誠羅までも奪われてしまうのだろうか……。辛い記憶が、刻まれてしまうのだろうか……。
もし、もしもだ。私が使徒だったのなら……この害虫を、社会の癌を容易く殺せていた。蒼夷も、凌芽も失うことはなかった……!
何も願っていただけではない、私なりに憶晶を使いこなそうと模索していた。巫女の限界を試していた、越えてみせようと努力していた。
オクショウ、今までの旅路の中で、”オクショウ”は”憶晶”と表すべきではないと考えていた。
巫女の再生能力、身体能力……それがオクショウの力ではないかと誠羅が定義したとき、私の中でひとつの仮説が立ったんだ。
……それを証明するために、みんなが寝ている間自傷行為を繰り返しながら、蒼夷や凌芽のことを想い出してみた。凄惨な記憶を掘り起こしてみた。
そうしたら、左手に微かな電気が帯び始めたんだ。
ペティは言っていた。『死にたくない、裁かなくちゃ駄目だ——その意思が憶晶になって、輝き始めたんだ』と。そこでようやく、気付いたんだ。
オクショウとは、幾億もの傷を背負う者が創り出す結晶体。”億傷”こそが、”憶晶”の源だと。それなら、億傷を想い出すことさえできれば、奴らのように使徒になれるのではないか……?
シープ・カヅィフェルトを、殺害できるのではないか……?
今までの言葉、憶測が全て正しいのであれば。私にも誠羅と同じように、前世の記憶が残っているはずだ。
そして脳の奥底で眠る、開きかかった扉さえ開けることができれば。使徒になれる、奴を殺せる、英雄として幸せな日常を護れるんだ。思い出さなければ、ならないんだ。
私は扉の縁に左手をかけようとした。しかし、寸前で白藍の憶晶が生成される。私の脳内で邪魔をする奴など、一人しか居ない。
『これ以上は、進ませない』
さっき頭蓋を叩き割った女性、まだ意識が残っているのか。
『君はここで死ぬべきなんだ、シープに殺されるべきなんだ。【叡智】を渡すわけにはいかない』
ここで殺されるべき? ふざけるな。私が死んだら、誰が凌芽の魂を憂いてくれるんだ? 天国で再会したとき、私はどんな顔で彼に会えばいいんだ?
貴様はきっと【革命】に殺された、私の前世なんだろう? 死人が私に、指図するなよ。
私は弱い自分が大嫌いなんだ。だから何度も弱さを戒めてきた、殺してきた。そしてここまで、自らの力で辿り着いた。あと一歩のところで、なぜ私の脚を引く?
大人しく、死んでくれ。
『もう君は充分物語に名を刻んだ。ここで終われば、君は”惜しくも成し得なかった英雄”として後世に語り継がれる……それで充分だろう? それ以上何を望むんだ』
足るを知れよ。血に塗れた死体は、名台詞を語るのように醜く言った。
私の境遇なんて、何も知らないくせに。
『それは君にも言えることだろう……? シープたちがどんな想いで戦っていると思っているんだ? 彼なら逃げ惑うことなく、君がこの境地に辿り着く前から倒すことだってできたんだぞ? いいや、初めに出会ったときから、君たちを腐り堕とすことだってできたはずだ。なのになぜ、虫笑いを殺させた? 憶晶を見せるような真似をした?
代わりに答えてやろう。君たちが帰って来るのを信じていたからだ! 辛い現実があったことを、それでも必死に生きた証を消し去ろうとする黒幕が居ることに気付いてほしかったんだぞ! 分かり合える未来を、望んでいたんだぞ……』
分かり合った結果が『操られているから死んでほしい』? 蒼夷のように『巫女を殺す生物兵器として利用されてほしい』?
冗談じゃない、私たちの命をなんだと思っているんだ。
『それが君たちにとって、最も幸せな生きざまなんだ。及百合誠羅はそれを証明してくれる。君たちさえ死ねば、誠羅は必然的にシープたちへ靡いてくれるだろう。安心してくれ、彼らならきっと、誠羅を家族として迎えてくれるはずだ。どうしようもない私でさえ、そうしてくれたのだからな』
分からない、なぜ貴様はそう間違った御託をべらべらと話せるんだ? 自分が何を言っているのか、本当に理解しているのか?
信じてほしいのなら、もうちょっとマシな行いをしてくれよ。
いいや、できないだろうな。最終的な目標は『死んでほしい』だからな!
『……ああ、その通りだ。しかしだ、私はシープの優しさを知っている。……生前の記憶の最後の頁、死にゆく私の前に現れたのは、シープだった。彼は私の成し得なかった願いを静かに聞いてくれた、誰にも認めてもらえなかった私に『よく頑張ったな』と褒めてくれた。不愛想で、少し煙たい少年だったが、慈愛に満ちていた。
だからエインから授けられた【叡智】を持って、死欲の罪を償いながらこの魂を家族へ捧げることにしたんだ。罪のない命へ知識を与えた、生命はみな平等の価値を持っていることを教え続けてきた。
君はきっと、その【叡智】を用いて人殺しをする、世界を滅ぼすだろう。そんな未来など、あってはならないんだ』
勝手に決めつけるな。私は幸せな日常を護るため、掛け替えのない人たちを護るためこの力を使う。この意志は誰に何と言われようとも揺らがない、明らかだ。
『私の恩人を、家族を侮辱した君なんて信用できない。明らかだ』
……。
きっと彼女が吐いている言葉は、全て真実なのだろう。シープの想いも、彼女の過去も、【叡智】としての役目も。しかし、明らかになっていないものがある。それは、この先の未来だ。
未来というのは出鱈目なものだ。バタフライエフェクトという言葉がある通り、予測される事象が寸分でも違えば、大きく未来が変わる。その可能性を常に孕んでいるんだ。
ここでシープに殺される選択を取っても、殺す選択を取っても、その先の未来は誰にも分からない。たとえそれが、この物語の執筆者とされるニューロンであったとしても。
誠羅、君は私が人殺しをしていたと聞いたら、きっと怒るだろう。もしかすると、築き上げてきた友人関係を断ち切られてしまうかもしれない。でも、仕方なかったんだ。
巫女がなんであるかを知るために自傷行為を繰り返していた、両親はそれを無理やりにでも止めようとしたんだ。
精神異常なのかもしれない、とがらがらな病院へ連れて行って、知らない間に入院の手続きを進めていたんだ。
当日になっていきなり、両親は私を拘束した。二人がかりで組み伏せて、まるで危険な猛獣を捕獲するみたいにだ。
彼らは私の障害になってしまった、だから邪魔だなと思った。殺したって問題ないと思ったんだ。君なら分かってくれるはずだ、幸せな日常を壊された憎しみを、恐怖を。
問題から目を背けてはいけない、だから私は逃げずに立ち向かったんだぞ? それでも、完全な悪と定義できるか?
「誠羅、頼みがある」
誠しさとは、正解のない未来へ進む理由であり、自分の信じた正義であり、揺るぎない意思を表した言葉だ。私はそう解釈している。
私は君と歩む未来こそ、正解であると信じている。君を一人の人間として、友達として。尊敬している、認めている、憧れている。
だから君が憂いなく未来を歩めるよう、私が先頭で道を切り開いていこう。だから、だから……私を裏切らないでくれ。
「君を護るために、使徒にしてくれ」
君が触れれば、憶晶の壁は破壊されるはずだ。
『駄目だ、だめだだめだめだッ! 綏操知優、私はその名の意味を知っている! これ以上、これ以上進ませるわけにはいかない!』
知優、他の誰よりも優れた知者、という意味だ。
『そうだ、その通りだ。だが君が思うより美しいものではない! シープからの恩を仇で返すようなこと……もう二度と』
「誠羅、信じてくれ」
『誠羅、こいつを殺せッ!』
……正しい未来など、誰にも分からない。しかし、存在すると信じている。それが何千、何万、何兆何億光年先でも、私は辿り着いてみせる。そして、君を導いてみせよう。
私は、一直線に引かれた運命に……従おう。
…………。
長い長い沈黙の末、誠羅は重く頷いた。君の命は、輝かしい未来は私が保障しよう。
この星に靡く【叡智】の名の元に。
差し伸べた左手に誠羅の柔らかい手が触れた瞬間、閉ざされていた前世の記憶が開かれた。流れる、流れる……綏操知優として生きてきた人生より、約二年分長かった記憶が。
生を受けた瞬間から、シープと出会い人間としての生を全うする瞬間まで。この物語では語り切れないほど、凄惨な人生だった。ただ、たったひとつ、読者となる人へ伝えるとするなら——。
私は昔から、何も変わっていなかった。願いも、生きざまも、何もかも。
数分静寂に満ちていた。綏操知優は無事討伐された、夜風がさすらう音を聴きながら、シープはそう確信する。煙草でも吸いたいところだが、変異した腕では細い葉束を掴むことはできない。
ペティに頼み込めば『百害あって一利なしって言ってるべや!』と怒られるのが目に見える。口うるさい姉兄のことだ。
「ペティは、上手くやったのだろうか」
喉に宿る、ペティが創り出した生命を軽く撫でる。未だに、少しだけ息苦しい。虫の知らせを信じているわけではないが、何か嫌な気がしてならない。
一刻も早く会いに行かなければ。幸い、今のシープなら誠羅に憶晶を破壊しろと強要せずとも、天井を破壊してペティの居る空間へ行ける。
大切な友人を失った挙句、宿敵に道具として扱われるのは、あまりにも可哀そうだ。
まだ憶晶は充分残っている。【冥府】は【生命】とは対照的に、非常に燃費の良い使徒だ。その気になれば月が昇り沈む、十時間ほど獣神化を保っていられるほどに。【生命】の丁度十倍だ。
上手く使いこなしているとはお世辞にも言えないが、巫女を数人仕留めることなど容易い。
さて——。
シープがペティの元へ向かおうとした瞬間、目の前に雷が落ちる。
故郷の天気は場所によって固定されている。この場所は柔らかな新雪が静かに舞っていた、雷など落ちるわけがないのだ。
だとするなら、と思考を巡らせる前に、視界の中心で斧を構える隻腕の少女が答えた。
「いつから、虎は空を飛べないと錯覚していた?」
靡く薄汚い白衣、痛々しい三肢の身体、莞爾とした笑み、目、目、瞳に刻まれた十二本の紋章……。全身に纏う稲妻と同じ、白藍色の紋章……! 黄みを含んだ淡い水色。過る、過る、家族として迎えた彼女の顔。その名は……。
「あ、ああ……っ!」
名を呼ぶつもりで吐き出した悲鳴が物語る。彼女の存在は、綏操知優として完全に置き換わってしまった。本当の意味で、死を迎えてしまったのだ。
シープの記憶に残されたのは……天翔ける一閃の波動、【叡智】の使徒”フラッシュバック”。役割を現す名だけだった。
彼女の身体を貫き蝕む肉骨、黴氣が帯びた白藍の稲妻によって焼け焦げる。失われていた肉体が物語の頁を巻き戻すように再生されていく。
臨界まで追い詰められた綏操知優は、掛け替えのない友と幸せな日常を護るため、使徒としてこの星に君臨したのだ。
単なる速さを武器にした斬撃であれば、憶晶で裂傷を再生すればいい。痛みに怯える必要のない【冥府】であれば憶晶が尽き果てるまで、憂うことなく戦い続けられる。
しかし、雷に打たれるとなれば話は別だ。
白藍の稲妻を纏うあの斧が掠るだけ、いや触れそうになるだけで骨髄まで深刻なダメージを負わせる。
人間、巫女であったとしても、それだけで感電死に至ってしまうだろう。いくら燃費の良い【冥府】でも、雷撃の嵐を受けながら彼女を討ち取ることはできない。
シープは故郷で戦った先代フラッシュバックの姿を知っていた。そして同時に、【革命】にどう殺されたかも。
——今のあいつは、俺と同じくらい脆い。
たった一撃、致命傷を負わせればいいのだ。
「お前は【叡智】に相応しくな——」
彼女を捕らえようと放たれた鎖は雷鳴を置き去りにした斬撃に斬り弾かれる。
夜空に刻まれる大振りに屈折した残光、視界では収めきれないほど大きな距離を駆け巡った一閃にシープは驚愕を越えた悟りの境地に達した。
ペティは言っていた。『巫女は人間よりも遥かに強い。知恵も、力も』と。
知優は使徒に昇華する前から五メートルはあろう芸術の高波を、誠羅を抱えながら飛び越えてみせた。身体を折りたたみ、人間なら潰れてしまいそうな無理な体制でも彼女はバネのように活用して飛びかかり、試験管をノイアにぶつけた。
彼女は、巫女は最初から人間を凌駕する力を持っているのだ。
元人間の使徒と元巫女の使徒、使徒としての強さが同じなのであれば、基礎値を凌駕する巫女のほうが強い。馬鹿でも理解できる単純な方程式だ。
勝てるわけがない。
「どうした? 足が早いくせに、私には追いつけないか」
骨髄を伝い、脳へ電流が走る。迸る黒い血液が焼け焦げていく。……だが、しかし。
『もし知優があの子と同じ【叡智】の使徒なら、最大の武器は”速さ”と”雷撃”。【還命】と違って、霞を無効化する風とかは使えないはず。……したら、めえ君の黴氣を上手く与え続けられれば、腐った身体を再生させるのに憶晶を使わなきゃならない。その分、スピードは落ちるはず』
それに加え、神経が腐り堕ちた今の状態ならば、感電によるショック症状もない。つまり、相性は有利なのだ。問題は、彼女をどう捕らえるかだ。
「地獄に堕ちろ」
知優はそう言い放ち、空気を蹴り上げる。何度も落ち続ける雷撃の嵐を、シープは重低音を響かせながら躱し続けた。夜空を駆け回る、白藍の稲妻を観察し続けた。
【叡智】の動き方にはある程度規則性が見られる。身体にかかる衝撃を極限まで抑えるため、直線的な動きしか出せないという点だ。
つまり、仕掛けてくるタイミングさえ見極められれば、速度に追いつけずとも迎え撃つことができる。
数百回の雷撃躱し続けた末、シープの翅は白藍の斧により斬り焦がされる。夜空を飛び回る手段を失った今、彼に雷撃から逃れる手段はない。
仄かに蒼く輝く夜空にひとつの閃光が立ち昇った。
「貴様に空は似合わない。死体は死体らしく、大地に朽ち果てるべきだ」
知優は勝利を確信する。狙うは脳髄。
——堕ちろ。
裁きの雷が、罪深き少年へ落とされる……しかし、シープはこの瞬間を狙っていたのだ。
徐に彼女の狙う的を横に傾け、裁きの雷は肩首へと深く、深く突き刺さる。命を絶つに至らなかったが、それがどうしたというのだ。
多大なる電撃を浴び、重く圧しかかった罪により、地面へ叩き落そうと一直線に加速させている。着地と同時に物言わぬ肉塊になることは火を見るよりも明らかなことだ。
しかし、地面へ衝突する僅かな時間、知優は斧を再度振り下ろすことはできない。なぜなら大きく斬り込まれた傷口は、斧の刃ごと黴氣により繋ぎ合わされていたからだ。
——肉を斬らせて、骨を断つ!
シープは透かさず、自身の身体を斬り付けた知優を両腕で捕らえる。不規則に、坂刃状に並んだ鋭い肉骨からは逃れることはできない。間一髪、皮膚を憶晶で硬化させようとも。
「堕ちるのはお前だッ! 綏操知優ッ!」
【叡智】を奪いし罪人を捕らえた鎖が振るわれ、立場は翻される。シープの見た【叡智】の最後はそうだった。偽りの強さに溺れ、自身に宿る力によりその身を滅ぼした。
彼女の凄惨な過去を、他でもないシープ自身が再現しようとしているのだ。
歴史は繰り返される——しかし、シープにも同じことが言える。
知優は囚われの身になりながらも抵抗を続けた。一、二、三度白藍の放電を浴びせ続ける。しかし、痛覚を捨てた彼には失われつつある肉体を焼き焦がされるだけに過ぎない。
間もなくして、誠羅の居る崩壊した空間へ二人の罪人は叩き付けられた。桔梗色の朧、白藍の稲妻が大地を揺るがした。
知優に目立った外傷は見られない。しかし、黴氣を大量に吸い込んだ影響か、着地の衝撃による脳震盪か、稲妻の速さは抑制されていた。この時を待っていた!
シープは誠羅が握りしめているランタンへ叫んだ。
「リーノッ! 俺は今から最後の攻撃に移るッ! 誠羅を殺されたくなければ、俺を止めたければ憶晶の壁を創れッ! 俺とこいつだけの空間を創り出すんだッ!」
灯が淡く光り輝き始める。誠しい運命へ導く英雄へ想いを託すように、この瞬間を待ちわびていた、と賛美するように。
「どこまでも卑怯な奴だな。誠羅を人質に取るとは」
徐に形成されていく、ドーム状の壁を認めながら知優は黴氣を纏うシープを背負い投げる。拘束から解放された、しかし武器となる斧は未だ彼の肩首に突き刺さったままだ。
白衣の内ポケットには拳銃があるが、今の知優よりも遅い弾丸では彼を撃ち抜くのは不可能と言える。
代わりとなる武器を憶晶で創り出そうと試みたが、どうやら【叡智】はそういった類の能力を持ち合わせていないらしい。
——ならば追いついて見せよう。
「黴氣よッ! 集結せよッ!」
翅を失ったシープへ、漆黒の黴氣が集まり——。
「【冥府】の名の元に、お前を殺すッ!」
閉ざされた冥府の墓場が、漆黒に包まれた。酸素は黴氣により腐り堕ちる。肺に残された僅かな酸素で、彼を殺害しなければならない。その時間は、知優の手指で数えられるほど短いだろう。
白藍の稲妻はシープとの最短距離を一線で結ぶ。しかし、黴氣を取り込み始めている身体では、最高速度を出すことはできない。そして、その速度は徐々に衰えていくだろう。
この一撃が彼に届かなかった、つまり。
知優はもうシープに追いつけない。
それでも彼女は諦めず駆け続ける。肩首に突き刺さった斧を取り返すため、手を伸ばし続ける。しかし、だが——。稲妻に若干劣るほどの瞬間移動を捕らえるには至らない。
シープの策略に、完全にはまってしまったのだ。
藻掻けば藻搔くほど、墓場から伸びる死体の手に引き込まれていく。蜘蛛の巣に囚われた蝶のように、蟻地獄の罠に囚われた無力な蟻のように、終焉の奈落へ引きずり込まれていく。それだけではない。
衰弱していく知優へ放たれる黴氣の霧撃、鎖の薙ぎ払い……今まで知優が得意としていた一方的な蹂躙、シープはその戦い方を見事に体現していた。
切創痕から黴氣が蝕み、筋肉が痙攣し始める。視界が歪んでいく……。
「お前にターンは渡さないッ!」
しかし、知優の瞳は震えていない。ただ一点、輝かしい未来を見つめていた。
シープの重い鎖の一撃により、知優はついに床へ崩れ落ちる。血涙で黒く染め上げられた彼の視界には、勝利の光景に映ったであろう。
黴氣で淀んだ空間では、彼女の表情までは見て取れないのだから。
床に耳を当てるような体制で、知優は倒れ込んでいる。そしてその表情は苦悶でも、恐怖でもない……莞爾とした笑みを浮かべていた。
「——ろおおおっ!」
こつ、こつ、とひ弱な足音が聴こえる。それは誰にでも予想できる、シープでも危惧していた結果だ。確かに憶晶の壁に覆われれば、いくら使徒が願おうと破壊できない。たった一人の少女を除いて。
及百合誠羅。彼女はこの物語の主人公として、どちらが正義であるか定義することを恐れていた。生命は、意思は皆平等であり、同じ価値を持っている。比べることのできない尊いものだ。
この選択が正しいという保証はどこにもない。もしかしたら凄まじく、大きな間違いをしてるかもしれない。度し難い、愚かな選択なのかもしれない。
しかし、それでも。自分の選択を信じ、前に進んで行かなければならないのだ。自分が信じた未来を、道を。勇気をもって、自信を持って歩んで行かなければならないのだ。
……それが誠しさだ。
誠羅、誠しさを美しく着こなす、という意味だ。その名を持つ少女は、比べようのない対立する正義を選択する。
ひとつ、たったひとつ選んだ理由を挙げるとするなら……そこに、掛け替えのない友が待っているからだ。
構築された憶晶の壁は、少女の体当たりにより音を立てて崩壊する。美しく光り輝く虹色の罅から漆黒の黴氣が散布し、冷気が満ちる空間へと消えていった。そして——。
「……タイムアップだ、シープ・カヅィフェルト」
肺へ注がれる新鮮な酸素を目一杯吸い込み、白藍の稲妻は再び輝きを取り戻した。獲物に飛びかかる虎のように低く構えられた姿勢、今度は逃さない。
シープは急いで瞬間移動をしようと試みる。肉骨から黴氣を蒸気機関のように噴射し、強化された身体能力と掛け合わせることで実現できる業だ。
しかし、雷鳴を置き去りにする【叡智】を前には、迸る黒い血液を黴氣に変える僅かな時間でさえ、珈琲を一杯嗜めそうなほど遅い。
知優はシープの肩首に突き刺さった斧を掴み、一気に振り下ろす。腐敗物が雷撃によって焼け焦げていくような匂い、内臓が黒い血飛沫と共に飛び出していく。虫笑いと同じだな、知優はそう嘲笑した。
これでようやく……そう思われたが、シープはまだ瞳に希望を宿していた。憶晶の酷使により、死神として重要な視覚のひとつまで、黴氣に腐食されてきているというのにだ。
「永遠に眠れ……! お前なんか、家族じゃない……ッ!」
残された憶晶を最大限解き放つ、英雄の命運を決める攻防は僅か十秒間の出来事であった。
シープは腐肉を垂れ下げながら、今までにないほど速く鎖を放ち、振り回す。
知優はその嘆きの嵐を躱し反撃、受け止め反撃……痙攣する死体がぴくりとも動かなくなるまで雷撃を浴びせ続けた。
瞬間移動——。
シープは黴氣の波動を放つ、放つ。
知優は白藍の稲妻を纏い、黴氣の波動を最低限の屈折で避け、雷撃を浴びせる。黒い血涙に塗れた片目が腐り堕ちた。
……瞬間移動——。
シープは鎖を床に突き刺し、桔梗色の死脈が伸び走る。そこから生え出た、虫の脚に似た触手が一斉に襲いかかってきた。
知優はそれをいとも容易く斬り焦がし、シープのはらわたへ雷撃を浴びせる。もはや人間としての意思すら腐り堕ちてそうな鳴き声を聴いた。
……高速移動——。
人間性すら腐り堕ちてしまった彼は、慈愛により制御されていた殺意のみで動く。黴氣を動力源に腐敗した身体を強制的に動かし突進、躱されようと構わず鎖を薙ぎ払い、振り回す。床とは呼べない地面を抉り、黴氣の烈波を起こしていく。
知優は依然として冷静な表情を保ち往なす、往なす。死体を貫く雷撃は、露出した心臓の痙攣を止めた。
……移動——。
彼の涙とも思える黒い黴雨が降りしきる。彼に残された唯一の色である片瞳の紋章が美しく輝きを増し、無秩序に鎖を靡かせる。泣き声、烈波……全てが死者を弔う嘆きの鎮魂曲に聴こえる。
知優は憂うことなく、彼の首元へ雷撃を浴びせる。斬り裂かれた腐肉から、眼球を抉り取られたような白骨体に似た寄生虫が露わになる。
……動く——。鎖を地面へ叩き付け、彼は飛び上がる。そして、溢れ出す全ての黒血を黴氣に変え、裁きの礫を爆裂と共に四方へ解き放った。
知優は少し離れた場所でうずくまっている誠羅の元へ駆けつけ、おびただしい数の肉骨を全て斬り焦がした。まるで強きを挫き、弱きを救う英雄のように。
……。
彼は重力に従い、腐り切った墓場へ堕ちる。まだ、まだだ——と言っているように蠢き続ける。
知優は彼へ徐に詰め寄り、脳髄へ斧を振り上げた。
「【叡智】の名の元に。シープ・カヅィフェルト、貴様を殺す」
十二本の紋章が互いの瞳に映りあう。
双方に宿る戦いの意思、目的は恐らく同じだろう。大切なものを護るため、平穏で幸せな日常を取り戻すため。差異はない、平行線上に双方の誠しさが伸びているだけだった。
ひとつ、たったひとつだけ、勝利の命運を分けた差を挙げるとするなら。
【叡智】が生涯において呪い続けていた、生まれ持った才能の差だった。




