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芸術の定義


 北の大地とはやはり過酷なものだ。次の憶晶を求め歩いている際、また牙を向くように吹雪荒れ始める。双粛清が残した雪道も、直に埋もれてしまうだろう。リーノが導いてくれるのなら楽なのに、と都合の良い考えが浮かぶ。新雪を踏み固める作業に疲労してきたからだ。


 しかし、この短時間で空の機嫌が変わるのはどうにも理解し難い。先程までは満点の青天であったはずなのに、と未練がましく数分前の記憶の中で空を見上げる。――そういえば、日光はどこから届いているのだろう。


 故郷は地球の裏側のような創りだ。頭上を見上げれば、反対側にある地表をはっきりと確認できる。それは単なる幻影などではなく、歩めば同時に空の景色も連動して動いていく。実際に、天気が良ければ虫笑いの居た都市が、形を変えずそこに存在し続けていた。では、上から降り注いでいた日光はどこから来ていたのだろう。重力もそうだ。物理学に従うのであれば、物体は天体の中心に引き寄せられるはず。それが、この宇宙で生きるものに課せられた絶対的な秩序なのだ。


「また考え事かい?」知優が肩を軽く叩き、顔を覗かせる「私にも聞かせてくれよ」


 誠羅は今ある疑問を事細かに説明した。異常な気候変動、太陽の存在、重力が機能していないこと。あるべき秩序が乱されていること。知優は記されてきた記憶の頁をめくり返し、ノイアが言っていた言葉を発見する。


 ――ノイアはこの世界の秩序(ちつぢょ)(つかさど)る神だ。


 あの時ノイアが手を翳した瞬間、エレベーターの重力が反転したように空へ落下した。恐らく気候変動や時間、重力までも奴の思うがままなのだろう。もし、故郷と呼ばれる世界も奴が作り出した次元なのだとすれば。その力で世界を滅ぼすことも簡単だ。


「それが元々リーノ、もしくはリーノを仕えている神の力であれば、秩序を守るために奪い返そうとするのも自然だ」


「そうね、それが一番合理的。だけど……」


「だけど?」


「……いや、なんでもない」


 頭を過った些細な疑問を掻き消すように首を振る。ノイアの一人称がその時だけ”俺”から”ノイア”に変わっていたことなど、追及しても意味のない疑問だからだ。しかし、知識への欲望が、無意識にノイアのしたり顔を思い出させる。常人では気が付かない程薄く刻まれた両眼の紋章、瞳を中心に伸びた十二本の虹色の線。それはペティやシープ、リーノにも色は違えど同じ形、同じ場所に刻まれていた。それぞれ新芽色、桔梗(ききょう)色、深緑色のように。


 もし、あの時指していたノイアが”自分”ではなく”役割の名称”だとしよう。ノイア()秩序司る神、では他にも定められた事象を司る神が居るのではないのだろうか。たとえば、生や死を司る神、ましては自然現象の全て。人間では制御できない大いなる力を持つ、神と呼ばれる存在に相応しい人物が。


 十二本、十二本——。



 

 しばらく、冷たい風に歯を食いしばりながら歩いていると、足元に硬いものが当たる。降り注ぐ雪に埋もれたミサンガの形の憶晶だ。こんなに小さいもの、歩幅が少しでも違えば見逃していただろうと自身の幸運に感嘆しつつ、同時になぜこんな何もないところにあるのだろうと疑問に思う。


「この色、ペティが付けていたものじゃないか?」


 結晶化と煩わしい雪のせいで色がよく見えないが、確かに白と黄緑色で構成されている。


「弟からの贈り物、もしくは両親からか?」


「今でも大事そうに身に着けているから、思い入れ深いものではあると思う。でも、その人たちからではない気がする」


 桜の弟は盲目、今まで憶晶に両親が出てきていないことと、桜が言っていた『芸術のあるべき姿』。恐らく彼女の才能ばかりを注視して、趣味すらも満足に認めてもらえなかったのだろう。では、やはり弟からの贈り物なのだろうか。考えうる限りでは、桜の手を借りながら作った――彼女からすれば、それでも掛け替えのないものになるのかもしれない。


 誠羅は憶晶を入れる直前、ノイアの一人称に関連して思い出す。桜は自分のことを”私”と呼んでいた。しかし、同一人物だと思われるペティは”おれ”と言っている。そして桜は胸を押さえ、自分の先が短いことを予感していた。一人称が変わる瞬間など、彼女に訪れるのだろうか。






 景色は大した変化を見せなかった。強いて言うなら日が沈み切り、吹雪がより強まったくらいだろうか。白い息が掻き消される、こんな環境で記された記憶とは、一体なんなのだろうか。


 寒さで縮こまり、震えている人影が見える。誠羅たちは雪を押しのけるように向かい、彼女の姿を見て絶句した。到底外出を想定した格好ではない寝間着姿の桜と、長い時間真冬の強風にさらされ続けたであろう弟が、青ざめた顔で抱きしめられている。身体を震わせるエネルギーも、当の昔に尽き果てたのだろう。もしかすると、もう既に凍死していたのかもしれない。


 フブキ、フブキと弟を呼びかけ続ける。身体を限界まで密着させ、自身の体温を分け与えようと試みる。しかし、その程度では彼の冷え切った体温は戻らない。無駄な足搔きだと、彼女自身も理解しているのか、眼に涙を浮かべながら必死に現実を拒み続けていた。


 桜の純白の綺麗な素足が赤黒く変色し、(ただ)れている。長い時間、靴も履かずに雪の上を駆けていたのだろう。まだ十にも満たないだろう子供たちが、なぜこんな状況になっているのか分からない。両親は一体何をしているのだろうか。


『ごめんね……ごめんね。全部、私のせいだ』


 私が生まれたから、私が守ってあげられなかったから。桜は自分のせいだと懺悔するように責め立てる。次第には『こんな才能なんて要らなかった』『フブキと同じ体で生まれたかった』と生まれ持った命を放棄するような発言まで。このまま、二人で大地の一色になろうとしていたのかもしれない。


 良心を締め付けられるような想いだった。可能なら、彼女たちをこの手で救ってやりたい、抱きしめて温めてやりたいと誰もが思うだろう。彼女がペティであったとしても、今は罪のないただの少女。才に溢れて生まれただけ、盲目として生まれただけの小さな命だ。


 歯を軋ませる、自分が傍観者であることを呪う。無駄と分かっていても、救いの手を差し伸べようとする。そして、想定通りの奇跡が起こった。


『神様……』間違いなく、誠羅に向けられた言葉だった『そこに、居るんですよね……?』


 え、と予想外の展開に間抜けな声を漏らす。「嘘だろ……」と知優は呆気に取られた表情をする。時間を超え、次元を超え神の目線である誠羅たちに干渉した。死の間際に、彼女はまた神の存在に気付いたのだ。


『お願いします、神様……』


 震える声で、少女は懇願する。


 『私は、どうなっても構いません――でも、フブキだけは、フブキだけは助けてあげてください。幸せにしてあげてください。フブキが私みたいに、パパとママに愛されるように。もう、()()()()()なんて言われないようにしてあげてください……! 私が独り占めした愛を、フブキにも……』


 首を突き出し、遠吠えのように振り絞った願いを誠羅は心に刻み込む。そうか、私たちは東桜がペティだと勝手に思っていただけだったのか。東桜はここで、想定通りの死を弟の代わりに請け負ったのだ。

 東フブキの左腕には、黄緑色のミサンガが付けられていた……。






 消えかけていた道に、だんだんとはっきりとした足跡が伸び始めている。双粛清との距離が縮まってきているのだ。痕跡と積雪状況から察するに、ほんの数十分前、奴が憶晶を求めてここを通ったのだろう。だとすれば、この大きな一軒家が立ち並ぶ住宅街のひとつが、あの二人が住んでいた家なのだろう。


 その一軒家は予定よりも早く見つけることができた。足跡を頼りに、直線的に並ぶ表札の雪を払う。竹内、白田、本田。誠羅たちが探していた”東”の表札は、畑と思われる広々とした白銀からふたつ隣の家だった。二階建てにしては、十分すぎるほど立派な家だ。


 雪で半分くらい埋もれていた扉を無理やり引き、中へ入る。久々に吹雪の無い世界に安堵しながら身体に積もった雪を払うと、石造りの玄関が白色に染まった。まつ毛に付いた霜も直に溶け始めるだろう。北海道旅行は夏に行こう、と思うくらいには雪が嫌いになっていた。


 田舎の一軒家は玄関から独特の雰囲気を醸し出していた。どれくらい昔に作られたか分からない四十センチほどの埴輪(はにわ)と、精巧につくられた箱庭。不必要な大きさの縦鏡や天井までよく見える吹き抜け構造。誠羅の記憶に地方の家というものがどんなものなのか記されていなかったため、まるで博物館に来ているように心が躍った。


 玄関とリビングを隔てる透明な引き戸を開け、やっと内装を一望する。この扉も、知優に教えてもらうまでは何のために存在しているのか分からなかった。どうやら部屋の暖気を外へ逃がさないようにするものらしい。ならば、暖房の前に置かれている季節外れのサーキュレーターも、温かい空気を循環させるために使っていたのだろう。流石北海道民、といったところだろうか。


 しかし、雪と風がない分多少マシなだけで寒いのは変わりない。今すぐにでもストーブを付けたかったが、動力源を失っているようで反応がない。消えることのないランタンの灯火だけが、誠羅の身体を仄かに温めていた。


「なぜそこまで我慢していたのか。私の白衣を貸してやると、何度も言っただろう」


「そんな薄っぺらい布じゃ大して変わらない、って何度も言った」


 安物みたいな言い方をするな、と品質を証明するように指で擦り合わせる。この一連の会話をここに来るまで五回は(おこな)っただろう。数少ない友人から贈ってもらった、大切なものであることも。


 そんなことより憶晶だ。誠羅は迷うことなくリビングを探し回る。テーブルの上、ソファの下、テレビの後ろ。円卓テーブルに備え付けられた三個の椅子に違和感を覚えつつ、同階の和室、二階の部屋全てをひっくり返していった。しかし、それらしい輝きは全く見当たらなかった。


 家を見違えたのだろうか。しかし、”東”という苗字は近くの表札を確認しに行っていた知優曰く無いとのことだ。同性の違う家、という線は消えた。その間見落としが無いよう、再び家内をなぞっていったが、やはり見つからなかった。


 外に埋もれている可能性を信じて、雪かき用のスコップを探している最中、二階に居る知優が呼びに階段を駆け下りてきた。


「細長い鉄の棒は無かったか?」


「鉄の棒? なんでそんなもの――」


「屋根裏だよ、勘の良い君にしては珍しく見逃していたようだ」


 そういえば、と階段の前にある部屋の天井を思い出す。不自然に取り付けられた金属の枠、あの時はあんなところに部屋があると思ってもみなかった。もしなんらかの空間があっても、子供が到底行ける高さではないと思っていたからだ。


 誠羅は古いキッチンのさらに奥、洗濯機とボイラーが設置されている部屋にある重たい鉄の棒を渡す。どうやって使うのか、知優自身も不明瞭であったが、小さく開けられた穴に鉄の棒を入れ回すと、がちんと音を立てて折りたたまれた梯子が姿を現した。


「屋根裏なんて初めて見た……でもこの高さ、あの子の身長じゃとても手が届くように思えないけど」


「恐らく小学生、しかも人間の女の子だ。椅子に教科書を積んでようやく手が届く程度。彼女の力では梯子を下ろすことも、戻すことも一苦労だっただろう。それでも、行く理由があったはずだ」


 知優が梯子を下ろし、屋根裏へ登っていく。誠羅も続いて登っていくと、シープの家と同様に憶晶で覆われた美しい光景が目に入る。しかし、その光景を目の当たりにした誠羅は、思わず吐き気を催した。


 妙な生活感があったのだ。屈まないとまともに歩けない狭い空間に加え、かろうじて膝下に存在する窓にはすりガラスフィルムが張られており、内外問わず光だけを通すようにされている。にもかかわらず、屋根裏に散乱したぬいぐるみや知育玩具に、紙とその上に置いてある太い針のような道具。近くにあった本を見て、それが盲目の人用に使われていた”点字”を書くための道具であることが分かった。


 そして、何よりも気持ち悪く存在感を放っているのは、白いプラスチックに入ってある生の豚ひき肉だ。しかも、少しだけかじった後がはっきりと残されている。あの時、空地の憶晶で桜が、わざわざおにぎりを作って渡していた記憶がつながる。()()()()()という意味を理解してしまう。


 フブキが両親にされていた行為が、”虐待”と呼ばれていることを知るのは当分先の出来事だ。誠羅が住んでいた世界では、そんな言葉は存在しないに等しいからだ。桜が言っていた『守る』は両親からの虐待を指しており、先程の憶晶は両親から捨てられたフブキを桜が必死になって探し見つけた後の話なのだろう。


 その事実を直感的に感じ取った誠羅は、ついに我慢の限界点に達し、その場で胃液を吐き零す。食道が酸で焼き爛れるような感覚、体がその反動でさらに拒否反応を起こし、何度も胃袋をしゃくった。この記憶を本能的に吐き戻したかったのかもしれない。


 えずきと咳が収まった頃、自分がどんなに恵まれた環境で生まれていたのかを思い知った。愛してくれる両親が居て、慕ってくれる友達が居て、尊敬する人まで居る。なにひとつ障害のない生活をしていた自分を恥じた。人生をある程度思うがまま選択できる自分がいかに幸せであったかを苦しく理解した。何が才も運もない人間だ。この子たちと比べて、同じ言葉が吐けるのか。


「……憶晶を見よう」


 とても鑑賞するに至らない精神状態だった。しかしここで逃げてしまえば、不幸の連鎖を断ち切ることはできない。蒼夷のためにも、これ以上不幸な人間を生むわけにはいかなかった。




 一人の少女が膝を抱え、冷たい月夜に照らされながら啜り泣いている。幼い身体を優しく包む毛布もなければ、冷え込んだ空気を温める暖房もない。同じ屋根の下であるのにも関わらず、こんなにも残酷な独房を作り出せるのかと誠羅は驚愕した。


 彼を東桜と呼ぶにはあまりにも白く、澱んだ感情を孕んでいた。例えるなら鮮やかな色を知らない、雪景色のような心情。何も描かれずに何年も放置された白いキャンバスのような心情だ。彼は与えられた猶予の中でも、”幸福”という文字を教えられなかったのだろう。


『こんなはずじゃなかった……』


 原型がなくなるほど打ちのめされ、壁に寄りかかるような体制の肉塊を握りしめる。それが一体なんだったのか、想像に難くない。しかし、ここまで残酷な姿にまでする方法を彼が持ち合わせていたのか、そこだけは分からなかった。


『おれは悪くない……パパとママがおねえちゃんの壊すから……。おれにこんな思いをさせておいて、間違った常識を擦り込ませておいて、なんでおれが悪者みたいになるの……?』


 信じてたのに。消え入りそうな声で、そう呟いた。


 たった一人の姉を失った彼に残されたのは、盲目によって隠されていた醜悪な現実。きっと、秀才な姉の皮を被っていたとしても、両親に認められることはなかったのだろう。いや、もしかしたらもっと彼を追い詰める形になったのかもしれない。遥か上の存在である姉の立場を模倣しないといけないのだから。


 誠羅は思う。幸せな日常とは、このような醜い現実を隠し続けた果てのものなのかもしれないと。不幸の渦に飲み込まれ、嘆きの声すらも出せない。幸せの道を歩んでいる者たちには届かない。誠羅が覗こうとしていた問題が、いかに表面的なものであったのか。憶晶がなければこの事実も、今まで起こっていたであろう苦しみも虚無に葬られていただろう。それを平和と言い切るには、あまりにも愚かしいことだ。


 誠羅は彼の前にしゃがみ込む。やはり、彼には存在を認知できないようだ。先程のことは単なる偶然の産物なのか、はたまた別の条件があるのか――考えがまとまらないまま、静かにランタンの縁をなぞった。


『ああ、神様……』俯き、顔を覆って悲壮の声を漏らす『殺して……俺を、殺してください。おねえちゃんと、一緒の場所に……連れてって』






 ガシャン、目の前が瓦礫と雪煙に覆われる。突然の出来事に思わず悲鳴を上げそうになったが、いち早くそれを察した知優が誠羅の口元を塞ぎこむ。双粛清だ。憶晶が消えていくことを感知して、ここまで戻ってきたのだろう。事の仕業であろう誠羅たちを探すように、鍵爪が木製の床を撫でていく。


 ——サクラァ? ドコぉ、どこにイィタのォ?


 まだ、見つかってはいない。音を殺せ、今はまだその時ではない。心臓の音が奴に伝わらないよう願いながら、二人は徐に距離を取る。微かな足音でさえも奴へ届かないように。


 ここに桜は居ない、そう悟ったのか双粛清は奇妙な唸り声を上げ、その場を去った。吹雪は既に止んでいる。奴の姿が完全に見えなくなるまで、誠羅たちは静かなる殺意を抑え込んでいた。殺す手段ならこの辺にいくらでもある。後はそれを運ぶ手段と奴の動きをどう止めるかだ。




 深く刻まれた足跡を辿り約三十分、誠羅は辺りの民家を注意深く観察する。ひとつ、ふたつ、やはり古い時代なのか、どの民家にも火を扱うためのものが設置されている。しかし、担いで運ぶにはあまりにも大きすぎる。台車など、使えそうなものがあればよいのだが。


「誠羅、ここだ」


 知優が指した先、そこに建っているものは住宅だらけの風景から逸脱した大きなコンサートホールだった。奴が最終的に行きつく場所にはこれ以上に無いほど相応しい。乱暴に押し開かれ、だらしなく歪んでいる扉が証拠だ。


 誠羅は凄惨な叫び声を思い出す。蒼夷は、奴によって失った。救えるかもしれなかった仲間の顔を拝むことさえも、あの集団に属する誰かによって掻き消された。償わせなければならない、誠羅たちにはその責務がある。


「準備は良い? 必ず、奴を倒して、蒼夷を取り戻す」


「ああ、確実にだ」


 二人は見つめ合い、決心した表情を見せつける。なんとしても成さなければならない目標がある。蒼夷のため、誠のため、世界のため。誠羅たちは一歩、足を踏み入れた。


 館内は薄暗く、不気味な雰囲気を醸し出していた。壁は闇雲に傷付けられ、運んでいた途中であろう段ボールとひとつの台車が床に散乱している。これは使えそうだ、と入り口付近まで移動させる。誠羅の奇妙な行動に知優は首をかしげたが、作戦の内容を大まかに伝えるとその意図を理解したようだった。


「なるほど。確かにそれならあの装甲も簡単に突破できそうだ。しかし、不安定要素はいくつもある。もし奴が私ではなく君を狙ったら? もし上手く誘導できなかったら? もし起爆できなかったら? とは言っても、君は全部対策してるだろうけどね」


「そうね。知優も私の事、わかってきたみたいじゃない」


 頼りにしているぞ、その言葉が誠羅にとってなによりも嬉しい言葉だった。今まで邪険に扱われていた自分が、唯一信頼していた人に裏切られた自分が、今ではこんなに煌びやかに、生き生きとしている。


 誠羅は胸に手を当てる。生きている実感を全身へ染み渡らせるように。そして、ステージへと繋がる扉へ手を掛けた。


 映画館のように、規則的に並ぶ客室と豪勢なシャンデリアを中心とする装飾。芸術的な演奏が泳ぐ空間にただひとつ、美しい光を反射する黒い鍵盤に小さな人影が動く。新雪のように白く長い髪、春に息吹く新芽のような浅葱色の眼。「姉とは似ても似つかないわね」その言葉を聴いた彼がゆっくりとこちらを見留めると、世界が凍り付くように沈黙した。


「やっぱり……めえ君の言うとおりだ」


 都合がいい。わざわざそちらから迎えに来るとは、と知優は鈍い眼光を向ける。


「蒼夷はどこだ」


 知優の問いにペティの表情が曇る。規則的にパタパタとさせていた脚を止め、鍵盤椅子から降りる。ブーツの硬い音がステージに鳴り響いた。


「蒼夷君なら……死んだよ。おれが殺した」


「そうか、ならなぜ死体を隠すような真似をした? 痕跡を隠したのはなぜだ? 私たちが知ることを恐れたんだ?」


「うるさいなあ、ぐちぐちぐちぐち……」


 小さな手に爪が食い込む音、歯を軋ませる音。怒りの振動が鼓膜を撫でていく。そして舌を鳴らす音を皮切りに、ペティは押さえ込んでいた感情を弾け飛ばすような怒号を繰り出した。


()()()って言ってっべやっ! なして聞かねえ?! おれが楽にしてあげたのさ! 仲間に裏切られて、死ぬほど痛え目に遭って、生きている方が可哀想だと思ったから!」


「出鱈目を言うな! 君の言っていることは明らかに矛盾している! 医療箱を使った痕跡が残っていること、出血の痕跡がないこと、あの化け物を圧倒する力。君たち以外に誰がいる?! なぜ敵である蒼夷を助けたんだ?!」


「うるさい、うるさいうるさい……汚い雑音を、おねえちゃんのステージに響かせるなっ!」


 ペティは隠し持っていた操作機を取り出し、壁に向かってボタンを押す。強烈な爆裂音と共に侵入した冷気と粉塵がペティを隠した時、誠羅はシャンデリアに向かって伸びる白銀を目視した。蛇のような生き物が爆風から逃すようにペティを引き上げ、身体に対して大きすぎるコートに覆れた首筋へとその身を隠すまで。双粛清に残された無数の噛み跡の正体はこの生き物だろうか。


 ペティは頬に付いた灰色の粉塵を拭いとる。ゆらゆらと感性で揺れ踊るシャンデリアにしがみ付き、誠羅たちを見下ろしながら叫んだ。


「パパーッ! ママーッ! たすけてーッ!」


 防音性を失ったステージから、外へと声が漏れ響く。娘の悲痛な叫びに誘われ、大きく開かれた穴の縁からぎらりと光る鉤爪を覗かせる。引火したガスと唾液の醜悪な臭いが外気に乗って鼻腔を燻る。双粛清は巨大な身体をステージに収めると、娘の宿敵である誠羅たちの方へ向き、舌舐めずりをした。お前の仲間と同じように、この牙でズタズタに引き裂いてやる、と言わんばかりに。


 ——サクラ、は……のモノ、ユルサなイ……。


 かつてない緊張が背筋を走る。一度でも過ちを犯せば即死、間違いは許されない。許されるのは丸のみが描かれた満点の回答のみ。誠羅は頭の中で作戦内容を復唱する。これでいい、これが最適解だ。一度たりと届かなかった翡翠の顔を思い出す。学力、運動能力、友人関係、全て劣っている自分。ならせめて、この瞬間だけは翡翠を超えてやろう。そう自分を鼓舞した。


「あいつなんかの好きにはさせない……おれはみんなのために、ノイアさんのために。責務を——」


 双粛清が壮大な金切り声を上げ、ペティが乗っていたシャンデリアへと飛びつく。衝撃で天井がひび割れ、瓦礫と共に転落したペティは不満そうな顔を浮かべ「おれがまだ喋ってる途中でしょうが」と舌を鳴らした。


 すぐさま誠羅は銃を構える。ペティの注意が双粛清に向けられている一瞬の隙を突こうと思ったのだ。しかし、発砲された銃弾をペティは冷静に避け、虚しく通り抜ける。少なからず、この展開になることを、彼は想定していたのだ。


 小柄な雪白は走る。誠羅たちの後ろにある扉を瞳に映して。予想に無い、ペティを殺害する千載一遇の好機を逃すわけにはいかない、と二人は武器を構える。そして、彼の前に立ちはだかった。


「血迷ったな。素直に通させるとでも?」


 知優は素早く駆け込み、脳天目掛け斧を振るう。仕留めた。そう思った刹那、彼の視線が知優を貫く。にやり、と薄気味悪くペティの表情が歪むと、身体に見合わない大きなコートの裾を掴んだ。


「本当に、そうかな?」


 振り下ろす行為よりも圧倒的に早く、首元に隠れていた白銀が知優の手関節を噛み砕く。筋繊維を切り裂く音、血潮が噴き出る音。痛みの叫びさえも吐くことを許さない、”粛清の一時”の名に相応しい演奏のように思えた。


 しかし、知優は断固として殺意を揺らがせなかった。たかが一本、腕を噛まれたからなんだというのだ。それくらい、覚悟のうえだ、と血に濡れた右手からもう一方の手に斧をすり替える。誠羅も、知優の動きに合わせ銃口を向ける。二方向からの攻撃は避けられない、そう確信していた。


 策は最適であった。問題はペティがそれを上回る程の実力を持っていただけのことだった。二人が冷静に体勢を取る最中、蛇は知優の手関節を嚙み直す。再び走る激痛に悶えた隙を見計らい、踏みしめた足を払いのけ、誠羅からの射線を切る盾ように、知優を持ち上げた。


 二人は不覚にも互いの表情を見てしまう。そして、互いが同じ思考であることを察した。次元が違う、と。


「卑怯な……!」


「おれも、同じこと言おうとしてた」


 掴まれた襟の下からもぞもぞと何かが蠢く。もう一匹、こちらを狙っている、と誠羅は危機を察知した。身体を捩らせ、距離を取ろうとした時、空気を切り裂くが如く飛び出した白銀はただ一点、誠羅の喉元を狙う。ほんの少し、気付くのが遅ければ二度と呼吸できない体になったことだろう。しかし、依然として状況は変わらなかった。


 標的を逃した白銀は滾る闘争心を胸ぐらへ向ける。そして、大地に落ちる稲妻のように軌道をうねらせ、逃げ惑う小心者を捕らえた。


「誠羅ッ!」


 知優の声も空しく、誠羅の体はまさしく蛇に睨まれた蛙のように硬直する。捕食者の思うがまま、絶望の淵に引き込まれた時、囚われていた知優の手関節が砕ける。想像を絶する痛みの中、一筋の光が差し込んだのだ。


 知優は硬い骨に支えられていた筋肉を最大源緩めさせ、左手に握られた斧を振り被る。まさに窮鼠猫を噛む、追い詰められた者に残された最後の抵抗だった。遠心力で絞られた雑巾のように手首がねじれ、届くはずのない刃がペティに迫る。想定外の行動に一瞬、呆気に取られた表情。その美しく整った顔面を削り取る感触が伝わった。


 遅れて走る焼け焦げるような痛み、彼女らに対する危機感が反射的に逃走の意を命じる。鞭のように(しな)る身体で誠羅たちを投げ飛ばすと、頬に負った裂傷を恐る恐る確認する。白い手のひらが赤い鮮血に染まり、ペティの顔色がみるみるうちに青ざめていった。


「ひっ……あっ……顔——おねえちゃんの……なして? そんな……」


 息も絶え絶えに言葉を漏らす彼の顔が酷く、滑稽に思えた。寄生虫のように蠢く二匹の蛇、誠羅たちを仕留める隠し玉として残しておいたのだろうが、強烈な竹箆返(しっぺがえ)しを喰らい狼狽している様子に、誠羅は思わず笑みをこぼす。所詮、子供なのだと。


「誠羅……怪我はないか?」


「私は大丈夫。それよりも知優、手首が——」


「問題ない」食い気味に答える「これくらい、すぐに治る」


 知優はだらんと死んだように垂れ下がる右手を握り締める。最大限繕われた表情と指の隙間から溢れ出る血潮の対比が更に惨く映る。これではペティを殺害するのは疎か、双粛清を相手するのも無謀だ。体勢を立て直そう、と提案しようとするも、それを制止するように言葉を綴る。


「頼む、これは私なりのケジメなんだ。ここで逃げたら、蒼夷に合わせる顔がない。ここで逃げたら、いつか君まで失ってしまう気がするんだ……だから、戦わせてくれ」


「……」


 誠羅は沈黙する。知優が居なければ、あの時死んでいた。知優が居なければ、今ここで殺されていた。彼女の強さに依存している自分ができることは、彼女を信頼することだけだ。


「……わかった、でも」長考の末、包帯と添木代わりの鏑矢を取り出す「応急処置はするから」


 苦し紛れではあるが、無いよりはマシだ。むしろ、使えない右手に役割が生まれる。手際良く治療を後目に、正気を取り戻したペティが出口の扉に向かう。二匹の白銀が扉の縁を噛み音を立てながら閉め始めると、シャンデリアに乗っていた双粛清が標的を定めた。


「ばかたれが。お姉さんたちに良いこと教えてあげる。今から始まるのは、お姉さんたちにとっての鎮魂曲(レクイエム)だ」


 双粛清は声のする方へ飛び掛かる。前奏のように唄われた雄叫びが響き渡り、閉め切られた扉を切り裂こうとした寸前、部屋全体が憶晶で硬化した。無残にも弾かれる鉤爪、勢いのあまり衝突する巨体。そして、ステージに残されたのは誠羅と知優、新たな標的を探す双粛清のみとなった。


 包帯を巻き終え、知優の右手の鏑矢が鳴く。


「お前の相手はこっちだ!」


 双粛清は音の鳴る方へ引き寄せられる。その中でも高い音は性質上、より遠くからでも奴の耳に届くのだろう。デパートに徘徊していた人間たちの息遣い、吐息声よりも、数階下の鏑矢に強く反応を示す。これなら、誠羅が多少の音を出そうとも、注目を知優に集中させることも可能であろう。


「あの憶晶はどうする?」


 誠羅はランタンを握りしめる。


「私なら壊せるはず。作戦通り、私の用意ができるまで耐えてて」


「別に私が倒してしまってもいいのだろう?」


「そうね、もしできたら、私が新しい白衣を買ってあげるわ。とびっきりいいとこのやつをね」


 ふっ、と鼻を鳴らす。


「私は君が思っているよりも、安い女じゃないぞ」


 しかし作戦を実行するためには、まず誠羅を安全に外へ移動する必要がある。ペティが逃げて行った扉、爆発によって空けられた大穴。どちらも距離に対した差は無く、経路を塞ぐように憶晶で覆われてしまった。憶晶を破壊する労力を鑑みるに、扉へ向かう方が最適であると思うが。


 ——イィイ……アァ、オト。さくラの……。


 ぐるりと体勢を立て直した双粛清が振り返る。奴を誘導しなければ、扉に触れることすら叶わない。それも、誠羅を死守しながらだ。


「無難にあっちから出るべきよ」大穴を指す「時間はかかるかもしれないけれど、あいつを思うように動かせる気がしない」


 最も避けなければならないのは、出口へ向かう誠羅と双粛清が一直線に結ばれること。大穴であれば仮に憶晶を破壊する音に引き寄せられたとしても、知優がその場で進行を食い止められる。しかし扉へ向かうとなれば、知優が回り込むかつ前線の位置もその分出口に寄る。誠羅を守るための猶予が短くなるのだ。


「あの巨体からの攻撃を往なしながら立ち位置を入れ替えるなんて、無謀にもほどがあるわ」


「巨体、それこそが鍵なんだ」


 誠羅が考案した作戦のもうひとつの条件、それは双粛清の行動を制限すること。


「ペティがわざわざ手の込んだことをしなくても、扉を開けた状態にするだけで奴を呼ぶことは可能だった。それをしなかったということは、奴はあそこを通れないということじゃないのか?」


 関節を避け、全身を鎧のように纏う憶晶。その煌めきは扉の幅を遥かに超えるほど分厚く構成されていた。


「ペティは全てを見越して行動していたんだ。支柱の設置されていない壁付近を破壊された時、天井が崩落する可能性を。五体満足の状態で奴を利用するためには、自身の逃げ道を確保するためには、建物が最も安定している角付近、支柱の近くを狙って爆発を起こす必要があったんだ」


 双粛清が音の鳴る方向へ飛び掛かる姿勢に入る。


「憶晶が硬度を失う範囲はまだわかってない。もし付近の壁までを硬度失ってあいつが壁を壊したら、私まで崩落に巻き込まれるかもしれない。それはどう考えてるの?」


 反射した鉤爪の光が二人の瞳を射止める。


「……シープの部屋で扉を蹴破った時、金具は壁に固着していた。後は、君が決めてくれ」


 雄叫びと同時に放たれた閃光は煩わしい雑音を漏らす者へ放たれる。巨体から繰り出される重い一撃は知優の痛みを思い出させるのに充分過ぎるものであった。脳を抉られる感覚、蒼夷が最後に見せた、怯えながらも果敢に立ち向かう姿。その一切を断ち切るように、知優は斧を振り被る。


「行けッ!」


 金属の鈍い衝突音が鳴り響く。その瞬間、誠羅は走り始めた。目線はただ一点、憶晶で覆われた扉へ向ける。


 動け、動け。後ろから聴こえる音など気にするな。自分は知優を信じる、それだけでいいと観客席を駆け抜けていく。間もなく目の前に眩く乱反射した結晶の扉が立ちはだかり、誠羅はその速度のまま弾丸の如く身体をぶつけた。しかし、無様にも華奢な身体は弾き飛ばされ、結果を嘲笑うかのように打撲痛が肩を走った。


 遠くで音がした。双粛清の注意が向けられるにはそれだけで充分だった。硬度を失うのではなかったのか? パニックを起こし、無我夢中で固く閉ざされた不動の板を叩く、押す。仕舞には銃で撃てば開くのではないかと突拍子もない発想に飲み込まれる。作戦という名の引かれたレールから脱線するような感覚、知優の頭が切り裂かれた時も、蒼夷が立ち向かった時も、同じ気持ちだった。


 知優が必死に注意を引こうと声を出す。しかし、”そこに娘が居た”という事実に結び付けられた音を上回るほどのものではないことを背中で感じ取る。”過ち”という単語が頭をよぎる。問題から目を背けようと必死に扉を叩く——。


 ……まだ過ちと決まったわけではない。


 人は過ちを認めたくない生き物だ。成功した自分が美しく、誰もがその未来を望むからだ。だから、手の届かないほど高い障害が現れた時、自身の無力さを認めず我武者羅に手を伸ばす。障害を背にし、問題から逃避する。それではいけないのだ。


 誠羅は開かずの扉から背を向ける。いや、迫りくる恐怖へ迎え撃つ。お前は今、どんな未来を想像しているんだ? 小賢しい戦略を立てておきながら、無様に打ち砕かれる標的の声。引き裂き、血肉を貪る快楽。さぞかし雅な未来だろう。しかし、お前は既に過ちを犯している。それは。


 綏操知優という巫女を甘く見ていたことだ。


 轟雷は双粛清の顎を射抜く。分厚い装甲ごと吹き飛ばす強烈な一撃。常識外れの現象に奴は困惑したような呻き声を上げる。盲目でありながら目の前に(そび)え立つ上位存在を認識するように。


「使え」


 知優は左手に携えた斧を渡す。戦う手段を減らしてしまうなど、杞憂でしかなかった。誠羅は木製の柄を強く握りしめ、躊躇なくそれを受け取った。


 大きく移動するたび鏑矢が鳴く。それはまさしく強さの象徴であるように、無視してはいけない驚異の対象であるように存在感を放ち続ける。


「桜を探しているのだろう? しかし、奇遇だな。私も奴に用があるんだ。耳障りな演奏を二度と奏でられない身体にする大事な用さ。言ってる意味、分かるな?」


 駄目押しに知優は自身の声を焼き付けさせる。奴は危険だ。愛する音のためにも、自身の生命のためにも、殺害しなければならない存在だと。近くで聴こえる扉を破壊する音など、もはやどうでもよかった。


 ——サァクラア、もドゥてキテエ!


 怒り狂い、付近の席を切り裂くのを後目に、誠羅はついに扉を破る。目の前に見えるはバリケードのように鎮座した自動販売機、その奥には吐血痕のような鮮血が数滴散っていた。彼はこの場所から出ることすらも想定していたというのか。


 感嘆するのもつかの間、誠羅は借りていた斧を知優へ投げる。「知優っ!」と声と共に舞う愛武器は主人の元へ帰還するように左手へと収められた。


 知優は頭に巻かれた包帯を解く。生傷が痛むが、右手の負傷も含めてちょうどいいハンデになるだろう。


 舞台は整った。さあ、双粛清よ。芸術とは何か定義しようじゃないか。




 準備が整うまでに、少なくとも十分はかかると誠羅は言っていた。つまり、十分以内に討伐すれば追加報酬が与えられるということだ。


 妙に身体が軽い、空気が美味い。(ほとばし)る、秩序を失ったエンジンのように血流が最高出力で駆け巡る。飛ぶように溢れ出る高揚感が、知優の口角を歪ませた。


 知優、他の誰よりも優れた知者、という意味だ。誰が何を願って付けたかなど、どうだっていい。しかし、今の知優にはこれ以上に無い素晴らしい名前だと賞賛する。


 首を一周、凝り固まった筋肉をほぐすため自然と身に付いた習慣だ。手早く済ませよう、時間は有限なのだ。知優は標準を的へ絞るように、じっと好機を狙う虎のように瞳孔を細めた。


 ——おまエあ、サくラなんかジャ……ナイ!


 狂気的に叫びながら飛びかかり、長い舌の奥にある深淵を見せつける。しかし、あまりにも遅い。知優にとっては真面目に戦うのが馬鹿らしくなるほど退屈な攻撃だった。


 一呼吸、酸素を吸い込み脚に力を入れる。刹那、鏑矢の鳴き声を置き去りにするほどの速度で双粛清の背後へ回り込む。奴が着地するまでの間、珈琲を一杯嗜めそうなほどの余裕を見せる。


「何をしているんだ? まさか、それがお前の本気とは言わないだろう?」


 虚空を喰らい、知優が既に行動を終わらせていたことに今更気付く。


「私はまだ本気を出していないぞ——」


 耳障りだ。振り向きざま、自慢の鉤爪で黙らせてやろうと切り裂きにかかる。しかし、それすらも知優にとっては亀よりも鈍い。奴の闘争心をいかにして叩き潰すか、思考する余裕すらある。


 ただ避けるだけではつまらない。がきん、と金属の擦れる心地良いと共に、またしても攻撃を往なされる。本当に一度死の間際まで追いやった生物なのか? 双粛清はきっとそう思うだろう。


 薙ぎ払われ大きく体制を崩した隙を見計らい、知優は奴の懐へ潜り込む。そして一撃、装甲で守られていない首元を深く、丁寧に切り裂いた。遅れて走る激痛に悶え叫び散らす双粛清、酷く滑稽な姿だった。お前が今感じた痛みは、蒼夷が受けた仕打ちに比べれば些細なものだ。殺すという意味を、生尽き果てるその時まで徹底的に刻み込んでやろう。


 まだ削げる肉は残っている。知優はさらに速度を高め、電撃のように関節部分を斬る、斬る、斬る。痛みで悶える前に次の痛みが襲う。数秒経つ頃には、噴き出した血潮と削がれた肉片で辺りは赫い湖へと成り果てていた。


「まだ死なないのかい? 根性あるじゃないか」


 地獄のような苦しみを与え続けた張本人は息ひとつ乱れていない。調子に乗るな、と言わんばかりにばっくりと一対の顎を大きく開く。どうやら、想像よりも頭が弱い生き物のようだ。これだけ痛めつけてなお、まだ喰らい付けると思っているほどに。


 知優は右肘と脚で閉じる顎の動きを封じ込める。確かに、真正面から立ち向かえば相当の力だ。必死に骨ごと噛み砕いてやろうと掛かる圧力が増していくが、それまでだ。最大まで振り絞った力であっても、彼女は一切の小細工無しに耐え抜いてみせた。速度でも、力でも完全に敗北した瞬間だった。


「いい加減気付け。お前がいったい誰を相手しているのかを……誰の味方を手に掛けたかをッ!」


 弾丸の雨が口内へ降り注ぐ。一発、二発、三発目を受けた瞬間、たまらず知優の拘束を解いてしまった。もう命の危機を感じて逃げ出してもいい頃だろうと思っていたが、奴の殺意はまだ揺らいでいない。ここまで来たら後には引けないのだろう。可哀想だ、と知優は嘲笑する。


「ならお望み通り、フィナーレといこうじゃないか」


 銃口は天井に吊られるシャンデリアへ向けられる。ペティや双粛清が乗った拍子に支えである糸が千切れ、最後のひとつとなっていた。そして、真下に居るのはボロボロで動くことさえもままならない弱者。最後の瞬間まで気を抜かず、有終の美を飾る。これが絶対的強者のやり方だ。


 自身と同格の質量に押しつぶされ、轢かれた蛙のように伸びる。ついに身動きが取れなくなってしまったが、露出した部分は硬い憶晶の装甲で覆われている。ひょい、と身軽に頭部へ飛び乗った彼女にできることなど無いはずだ。きっとそう思っているのだろう。しかし。


「お前を完膚なきまでに叩き潰すと決めたんだ。それに、誠羅が戻ってくるまでまだ時間がある……何をするか、明らかだ」


 物語というものは主人公に逆境という名のスパイスを与えるものだ。そうでなければ味気ない、平坦な作品となってしまう。誠羅ならきっと、こんなもの紙の無駄だと酷評するだろう。しかし、いざその立場になってみると案外悪くないものだ。


 足元で無様に蠢く下等生物、覆ることのない力の差で圧倒のは心地良いものだ。刃が振り下ろされるたび罅割れていく装甲、死へと追いやり崖際で命綱を引いているような感覚。生殺与奪の権は自身の意思によって握られている。それがこれほどまでの多幸感を産むとは。


 人は恨みを持つとここまで残酷になれるのか。弔い合戦、敵討ち、復讐。どれも創作物では王道の展開だ。感動とは残虐性の裏返しなのだと理解する。


 やがて知優の猛攻を受け止め続けた装甲は限界を迎え、ついに虹色の結晶体へと砕け散る。急所が隠されているであろう頭部へとどめの一撃を喰らわそうとしたその時、双粛清は最後の攻撃へと出た。


 生への執着心とも言える、弦楽器のような囂々(ごうごう)たる咆哮に輪唱するように、剥がれた装甲が大爆発を起こす。これが奴にとっての鎮魂曲(レクイエム)だというのか。今まで圧倒していた戦況が一気に転調する。爆風で知優は吹き飛ばされ、自身の身体を捕縛していたシャンデリアもバラバラに砕け散る。皮切りに、顎や脚に覆われていた装甲も剥がれ落ち、大層身軽な姿へと成り代わっていった。


 幸い、知優は目立った外傷を負っていない。お前がその気なら、全力で殺してやろう。


 格段に、動きが速くなっている。誘爆によって砕け、鋭さを失った鉤爪で床を抉り瓦礫を飛ばす。それだけなら今の知優の脅威になりえないが、問題はその衝撃で振り撒かれる憶晶だ。着弾する寸前で計算されたかのように煌めき、大爆発を起こす。どこへ移動しようと一寸の欠片が部屋中にばら撒かれている以上、安置は存在しない。地雷の海を生身で泳いでいるようなものだ。


 知優は爆風を往なすので精一杯だった。極限まで高められた速さも、無数に広がる爆薬の種の前では無意味も同然。たった一撃、あと少しのところで捕らえられたはずの標的が遠のく。窮鼠猫を噛むを体現され舌を鳴らす。


 いくら憶晶が有限とはいえ、爆発に巻き込まれるのは時間の問題だ。避けるのに余分な体力を消耗しようものなら、奴の顎に噛み砕かれ蒼夷と同じ運命を辿ることになる。それだけは避けなければならない。ならばどうしろというのだ。多少の被弾を覚悟で突っ込む? もし仮に耐えられたとしても、体制を崩した隙に捕食されるのが目に見えている。


 最悪討伐自体は誠羅に任せればいい。しかし、誠羅の作戦を成立させるためには誘爆の根源を断ち切らなければならない。このとき、誠羅ならどうする。誠羅はどう切り抜けるんだ。


 考えを巡らせているうちに、双粛清は次なる爆薬を仕込むため憶晶を砕く。起爆の引き金……衝撃ではない。直前の行動と言えば、奴の咆哮と瓦礫と共に振り撒かれ着弾する寸前——。


 無秩序に舞う煌めきの数々。避けようと身体を捻らせた瞬間、目の前で感知したかのように爆散する。白灰が頬に付着した時、知優の中で事象の線がひとつに結びつく。今まで散々重要だと釘打っていた特性……。音だ。


 知優は右手に固定された鏑矢の頭を握りしめる。そして、散乱した欠片の近くへ身体を運んだ。……爆発しない、やはりだ。


 音、といってもただ爆音を轟かせる分には憶晶は反応を示さない。鍵となるのは、奴が好んで追っていた少女の声、ピアノの唄。もっと具体的に言うのであれば高い周波数を持つ音だ。奴の咆哮は鼓膜を突き破るほどの甲高い音、鏑矢も鳶の鳴き声によく似た高い音を発する。都合良く知優の周囲の憶晶が爆発するのは、瓦礫を避けようと身体を動かした時に鏑矢が鳴き、憶晶が反応するからくりがあったからだ。


 なら話は早い。鏑矢を取り外せばいいだけの話だ。こうすれば散らばった地雷を起動させることに怯える必要はない。今まで通り速さで翻弄し、奴の急所を貫く簡単な作業だ。しかし、時は来たようだ。


「ちひろーッ!」


 台車に二本のガスボンベを積み、扉の向こうで自信の名を呼ぶ。予定より随分早い到着な気がするが、今の状況では最適なタイミングと言える。起爆の権限が奴にもある以上、無暗に突っ込むのは危険。地雷を撤去する時間を省けたと考えれば、誠羅の作戦通りの方法で殺すのが最も安全なのだ。


 知優は鏑矢を扉の奥にあるスタンドガラス付近へ向けて一直線に投げ飛ばす。発する鳴き声に反応した憶晶が次々と爆散し、まるで勝利の道筋を切り開く派手な演出に思えた。想像よりも無茶苦茶な状況にあんぐりと口を開けている誠羅に「やれ!」と言って駆け出した。


 彼女が動けば爆発が起こる、そう学んでいた双粛清は盲目でありながら迷うことなく知優を追う。大規模な爆撃を受けた彼女は弱っているに違いない、この鋭い牙でお前を八つ裂きにしてくれる。盲目であるからこそ精巧に練られた戦略であったが、盲目であるが故にまんまと思惑に嵌ってしまったのだ。一度ならず二度までも、この少女とたった一本の鏑矢によって。


 大きな図体は半分閉ざされた扉と壁によって阻まれる。頭部だけを必死に伸ばし、喰らい付こうと努力する姿はまるで檻に囚われた猛獣のように滑稽であった。親子共々、最後に行き着く先までそっくりだ。


 誠羅はマッチに火を灯し、双粛清の顎下へ放り込む。続けて重たいガスボンベを一本顎が届かない程度の距離に投げる。これは保険の火力補強用、本命はもう一本の方だ。


 知優の投的技術は虫笑いの時から素晴らしく的確だ。外れてしまいそうなほどばっくりと開かれた大口、バスケットゴールにシュートするように、ガスボンベは放物線を描く。最後まで見届ける必要はない。誰が見ても、入るのは明らかだ。爆発に備え誠羅を抱え込みながら、ステンドガラスを割り脱出する。もちろん、壁に刺さった鏑矢は回収しておいた。


 ——サクラを。かえせェッ!


 どこかで聞いたことがある。芸術は爆発だ、と。ガスボンベを貫き火気に触れた瞬間の独特な匂いと熱。芸術を追い求めた者に相応しい最期だな、と知優は思った。

 



 

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