障壁を乗り越えて
今まで、知ることを恐れることはなかった。知識は美学であり、積み上げるほどその人を美しめるものであると信じていた。
いつしかの記憶、私は先生に質問をする。知らなくてもいいことってなんですか、と。先生は答える。知った時、きっと後悔することだよ、と。記憶は半永久的に残り続け、その人の記憶を蝕み続けていくから。先生は好きな小説について話していた気がする。
先生は幼い私から見てもおかしな人だった。この年の子供たちに幸福度指数について熱弁していたし、そのグラフを用いて知識と幸福度はある一定の値を超えると反比例化するとも言っていた。まともに聞いているのは私だけだと、彼女自身わかっていたはずなのに。
じゃあ、私たちが学校に行くのも、本を読むのも、全部不幸に向かっているってことですか。最終的にはそうなる、と芥川龍之介の名前を出しながら語りだす。それに続いて好きな小説を紹介していた。知的障碍の男性が手術を経て賢くなった、というあらすじだった。
それでも、人類は学ぶことをやめない。その理由はなんだと思う、と訊かれる。答えを出す前に先生は言った。自身が不幸を吸い取って、周りに幸福を与えるためだよ、と。まるで神様みたいに、と。
早く死んで、また学び直したいなあ。それが、彼女の最後の言葉だった。
エレベーターが最上階に到達したことを伝える。どくどくと腹部に生暖かい液体が染み込んでくる。それが知優の涙と血液であることを知ったのは、数十秒後だった。
意識を失っている。大量出血によるショック症状なのか、蒼夷の死を受け止めきれなかった果ての防衛本能なのか。恐らく、両方だったのだと思う。
エレベーターを降り、すぐそばの壁に寄りかからせる。傷口は切り裂かれた音では到底想像できないほど深い、指先から爪の生え際まですんなりと入ってしまう程だ。もしかすると、頭蓋骨を通り越して脳まで損傷していたのかもしれない。手のひらに付着した血液を見て、最悪の状況を想定した。
応急処置として、ポケットに入れておいた包帯を巻きつける。これでも、応急処置としては不十分なのかもしれない。
ショッピングモール内に大掛かりな医療施設があるとは思えない。簡易的な医務室があったとしても、現状以上の治療は望めないだろう。しかし、これ以上友人を無くすようなことはしたくなかった。
誠羅は盲目の怪物を誘き寄せるために利用した手芸用品店を思い出す。この傷口を塞ぐには、手術のように肉同士を縫い合わせるしかない。一人の命を見捨てた者として、その対価を払うためには一人の命を救わなければならなかった。
再び、エレベーターを動かすためボタンを押す。奴のことなんか、もはやどうでもいい。行動を起こさず生きるよりも、足掻いた結果死ぬ方が美しいだろうと思ったからだ。知優を差し置いて生きる勇気がなかったからだ。
階層を示すランプが光り、狭苦しい空間から誠羅を解放する。警戒する素振りなど見せない。ただ普通に、堂々と目標に向け歩いて行った。
店内は今の誠羅の心情のように、静かだった。先程のことは、悪い夢だったのではないかと淡い期待を持つが、塀に付着した血肉と崩れ去った道が直ぐに現実へと呼び戻す。わざわざ、遺体となった蒼夷を見下ろす必要などなかった。
手芸用品店に到着した時、目の前で二人の動作を見て笑った自分が見えた。数分前の自分と今の自分を無意識に比べ、歯を食いしばる。なぜあの時、知優の静止に従わなかったのだろうか。なぜあの時、憶晶があるから大丈夫と思ってしまったのだろうか。命というのはたった一度のミスで終わってしまうものだと、知っておきながら……。
もしこの記憶を失くすことができるのなら、もし過去に戻れるのなら。その後の自分はどんな顔をしているのだろうか。一緒に笑って、無事に脱出できたことを喜ぶだろうか。誠羅のお陰だ、と称えられるだろうか。いや、違う。これは神様が決めた運命なんだ。たとえ過去に戻れたとしても、また同じ過ちを繰り返す。たとえ記憶を失おうとも、また友人を殺してしまう。
これは自分に侵された罰であり、呪いであり、救済でもあるんだ。忘れてはいけない、逃げてはいけない。同じ過ちを繰り返してはいけない。そのことを学ばせるために、神様はこんな物語を描いたのだ。ああ、なんて憎い存在なのだろう。それほどまでに、知識を得ることが気に入らなかったのだろうか。代償を払わなければいけない行為だったのだろうか。神様は、本当に酷い存在だ。
誠羅、誠しさを美しく着こなす、という意味だ。恐ろしいほど自分に合っていると思っていたが、今ではその名前もどこか遠く、煌びやかな存在となっていた。手芸用の針と糸で知優の縫合を終えるまで、自分の名前は誰が何を願って付けたのかを考えていた。……神様なら、この答えを知っているのだろうか。
永遠とも思える時間が経過する。泣き、疲れて眠り、起きて泣く。その繰り返しを何億としたような気がする。知優が身を寄せていたことに気付いたのは、彼女が目を覚ましてから約四十分程経過していた時だった。
「蒼夷を……弔いに行こう」
知優はまた記憶に呪われてしまった。にもかかわらず、誠羅の精神状態を気にしている。誠羅のせいで死んだ、誠羅のせいで生きづらくなってしまった。誠羅のせいで、そう思っているはずなのに。
エレベーターに二人で乗り込む。肩を摩られて、自暴自棄に泣きわめく。帰ってくることのない魂の名を呼ぶ。知優はそんな情けない誠羅を優しく抱き寄せた。数センチだけ高い彼女の身体が、今だけはさらに心強く、温かい存在だった。無価値な自分になぜ優しく接するのか分からなかった。自分に愛される権利はないと思っているからだ。
扉が開いた時、二人はその美しい光景に仰天する。自分たちが想定していた凄惨な様子ではない、無数の小さな噛み傷を負い中央で息絶えていた全盲の怪物が壮大な力によって押し潰され、辺り一面が氷で覆われている。寒く、喉の奥を凍てつく空気。ノイアと同じ能力を思わせた。
また奇妙なことに、ひと際大きく広がった血だまりには、そこで眠っていただろう蒼夷の姿がない。応急用の医療箱が開いたまま、虚しく鎮座していた。
助けられたのだろうか、盲目の怪物をいとも容易く捻じ伏せた力を持つ者が。ノイア、ペティ。いや、ありえない。であればなぜ最初に誠羅たちを襲う必要があったのか。敵の行動に矛盾が発生する。
「蒼夷は、生きているかもしれない……」
眉根を寄せていた知優の顔が一気に明るくなる。
「そうだ! きっと助けられたんだ! ノイアでも、ペティでも誰だっていい、彼女は生きているんだ!」
傍から見たら狂気じみた笑顔をしていたのだろう。しかし、その言葉は二人に生きる勇気を与えた。どんな形であれ、また会えるというならそれでいい。彼女と会話を交わせる未来があるなら、それに縋って生きていたかった。
「血はかなり前のものだ。継続的な出血の痕跡はない、死んでいる可能性はかなり低いぞ」
蒼夷を追うために、奴らの行動を探ろう。そのために憶晶があるのだろう? 知優は近くに落ちていた張り紙の憶晶を渡す。ランタンに入れるには大きかったが、誠羅はそれを丸め込め、生じた破片全てを灯火で焼き尽くした。
美しい音色が聴こえる。”月の光”演奏者は電車の少女、ペティだった。流れるように、旋律に命を吹き込むように。幼い見た目とは裏腹に、優雅で気品のある姿だった。
白い髪が揺れる。鍵盤を叩くたび、透き通るような気持ちのいい感情に包まれる。聴衆は皆、視覚など必要ないと目を瞑り、徐にハンカチで目元を押さえる人も少なくなかった。雑音は彼女の演奏を前に主張をやめ、まるで人間と同じように聴き入っているとも感じられた。
彼女の隣に貼ってあるポスターのキャッチコピーには”粛清の一時”と書かれていた。物騒だとは思わない。誠羅を含め皆がそう口を揃えて言うだろう。この演奏を聴いた人であれば、その意味を理解できるのだから。
演奏が終わった後も、しばらくは静寂が続いていた。感嘆の拍手でさえ、彼女の芸術を汚すものだと心で理解していた。美しさには終わりがあることを、散ってしまった花を憂うことを、それが芸術であることを。
彼女は椅子から立ち、礼をするまで芸術的だった。無駄な音は発さず、無駄な表情を作らず、そこに存在し続けた。名前である桜のように。
「国の宝、ねえ」
誠羅は聴衆の死体から憶晶を折り取り眺める。内容はそれぞれの思ったこと、感情を共有し合う記憶だった。東桜は我が国の宝、まだ余韻に浸っているから静かにして。概ね襲ってきた時に発していた言葉と一致していた。やはり、憶晶で作られた生き物は元となる記憶に沿って動いているということだ。
最後の一人、誠羅はランタンには入れず握りしめる。試しておかなければいけないことがあったからだ。既存の憶晶はたとえほんの一部であったとしても、ランタンで燃やした時に消滅してしまった。
「おい……」
知優は指す、盲目の怪物が居たところに。死体が無い。奴もまた息があったようで、入り口を破り雪道に足跡を残しながら移動していた。つい数分前の、憶晶を見ていた時にだ。
「むしろ都合が良いじゃない。次の目標まで道案内してくれてるのだから」
もし出くわしたとしても、音を出さなければいい話だ。誠羅たちは落ちていた斧と鏑矢を持つ。次は失敗するものか、と覚悟を決めながら。
昼間を伝える空の光が白銀の大地を照らす。人工的な光に慣れていたのもあって、一層眼球への刺激を強めていた。
除雪車が通ったように舗装された雪道を進みながら、手のひらに乗せている憶晶を注意深く観察する。それは一歩、また一歩と歩くたび散布し、やがてその姿を消滅させる。憶晶は記憶された場所から離れると存在できなくなるのだ。
思ってみれば単純なことだ。虫笑いも、盲目の怪物も憶晶を中心に行動する。いや、正確に言えば”その範囲でしか行動できない”ということだ。記憶に宿る寄生虫のように、憶晶をエネルギー源として動いているからだ。だから、自分の生きる世界を守るため誠羅たちを殺そうとしているのだ。
いい加減、盲目の怪物の呼称するのは飽きてきた。敬意を表して名前を付けてあげたい。そうだ、”双粛清”なんてどうだろうか。奴を前にしたとき、誰もが大人しく音を殺さなければならない。憶晶のペティとも関連付けられていて、良い名前だと思う。
「君のセンスはどうも尖っているようだね」知優はまるで年頃の男の子のようだ、とからかう。「でも、その考察はかなり信憑性が高い」
憶晶で作られた生物は、エネルギー源を破壊しない限り死なない。虫笑いのように頭を撃ち抜かれたとしても、双粛清のように押し潰されたとしても。しかし、気になる点がある。吹雪の中、楪律たちによって仕留められた怪物はなぜ死んだのだろうか。既に憶晶は誰かの手によって破壊されていたのか、はたまた憶晶と関係のない普通の生き物だったのか。それとも、楪律に特殊な能力があるか。全て想像し難い予想だが、この世界ではありえないという言葉はない。
いずれにせよ、双粛清と憶晶には念密な関係がある。目の前の山に埋もれているエレキギターの形をした憶晶、これを破壊することが双粛清を殺す一歩となるなら。
「にしても、大きなギターだな」
雪を掻き、全貌を露わにした憶晶を見て知優は感嘆の声を漏らす。ちょうどペティが使っていたギターと同じくらい、高さにして一メートルほど。小学校低学年くらいある。
「一部分だけでいいのだろう?」
そう言って憶晶を地面に寝かせ、思い切り力を籠めて斧を振る。しかし、相当の硬度なのか傷ひとつ付かない。
馬鹿だな、ノブの部分があるのだから、これを引き抜けば簡単に取れるじゃないかじゃないか。誠羅は実演するように楽器体にあるつまみを手に取る。しかし、つまみは引き抜けるどころか、誠羅の力によっていとも容易く楽器体を巻き込んで砕け散った。
二人とも、開いた口が塞がらない。巫女でもないただの人間が、巫女の全力を受け止めた物体を指先ひとつで破壊したのだ。特別力を掛けた意識はない、詰められた栓を抜くような軽い心持で。
「……何をした?」
分からない、自分でも何が起こったのか。自分が壊してきた憶晶は特別脆いものだと思っていた。しかし、それは全くと言っていいほどの間違いだった。
時々、おかしいとは思っていた。札幌にあった憶晶の壁も、知優なら罅くらい付けられるものだと思っていた。憶晶で固着された扉を破壊できる知優なら、そうなってもおかしくないと。ノイアと戦った時もそうだ。憶晶を纏ったチェーンソーを鉄板一枚で受け止められる。あの強大な力を持っていたとしても、鉄板ごときに刃こぼれする武器を愛用するのかと。
記憶を遡り、共通点を見つける。全て誠羅が関わっていた。憶晶で固着されていた扉は、誠羅に触れられた後破壊されていた。ノイアの攻撃を受け止めた時、誠羅は知優の身体に触れていた。今も、知優がどんなに衝撃を与えようとびくともしない憶晶は、誠羅に触れられた瞬間その硬度を失わせた。
いや、ありえない。これはただの偶然だ。たまたま、扉の憶晶は年月を経て風化していた。たまたま、ノイアのチェーンソーは切れ味が悪かった。今も、衝撃を蓄積していて、たまたま誠羅に触れられた瞬間爆発しただけだ。誠羅はただの人間、才も運もない普通の人間だ。能力が開花したなど、そんな創作物みたいな展開あるはずがない。
――その光に神の御加護があらんことを。
マザリノが渡したランタンを見る。そうか、やっと理解した。誠羅が触れているということは、それと同時にランタンも間接的に触れているということだ。普通の、この世界では役立たずの人間に役割を与えるため、マザリノが神の御加護とやらを与えたのだ。これがあるから、誠羅は生きていられる。ランタンのお陰で、道筋を示してくれている。そういうことだったのか。
誠羅はランタンの能力を絡め、今の出来事を説明する。マザリノの忠告など疾うの昔に忘れていた。知優は冗談のつもりか、と疑惑の念を表情に浮かべていたが、今までのことを話す度段々と真実であることを確信していった。そうでなければ説明が付かないからだ。
「マザリノ……いったい彼女は何者なんだ? 彼女の目的は?」
「多分、ノイアたちの敵。奴らを殺すために、このランタンを渡したと思う。なんで知優とか、強いはずの巫女にじゃなくて私に託したのは謎だけど」
――どうか死なないでください。
単に一人の少女を案じた言葉なのか、誠羅でなくてはならない理由があるのか。……彼女は飛龍や奇特と関係しているのか。知るしかない、彼女たちの目的を探るには。たとえこの先に不幸が待ち構えようとも、問題から目を背けて生き続けるようなことは二度としたくなかった。
憶晶を燃やす寸前、誠羅は小さな疑問を思い出す。そういえば、自分の名前を彼女に教えていなかった気がする。感極まって無意識に話していただけなのだろうか。
『おねえちゃん、それなんてがっき?』
空地のような、ベンチひとつしか置かれていない公園で少年は訊く。視点は桜ではなく、斜め下の地面へ向けられていた。彼女の声を効率よく聞くため、その体制になっているのだろう。
『これはね、”エレキギター”っていうんだよ』楽器には詳しくないが、到底数万円程度で済まない、ペティが持っていた立派なギターと全く同じだ。
好きなバンドメンバーさ居てね、先生から特別にもらったんだ。そう言ってペティはまた弦を弾きならす。ピアノとは全くと言っていいほど別の音色だが、それでも彼女の演奏は心が惹かれてしまう。彼女はまた”月の光”を演奏していたが、エレキギターの特徴に合わせてアレンジされていた。元がクラシック曲とは、知っている人でも気づかない程に。
先程の桜とは別人のようだった。可憐で、優雅な印象が、今では無邪気な少女のように身体を揺らす。公園で楽しく遊んでいるように、広い大地を元気に駆けまわるように。旋律の波を通じて、ペティの純粋無垢な感情が伝わった。自分らしさ、それを音楽で表現している。
『なんでみんなのまえでえんそうしないの?』
ひとしきり演奏が終わった後、少年が疑問をぶつける。この才能を隠しているのはもったいない、誠羅のような素人でもそう感じさせるものだったからだ。しかし、桜は嬉しさと悲しさを合わせたような顔をして、徐に口を開く。
『私だってこっちの方が楽しいって言ったよ。したっけ、パパとママもみんな、ピアノとかヴァイオリンとか上品な音色を求めてるって言うのさ。それが芸術のあるべき姿だって。でも思うんだ、芸術的価値なんて他人が決めるものじゃないって』
難しい話さしてごめんね、と不格好なおにぎりを少年に渡す。空腹だったのか、口元まで寄せられた白米の塊を口一杯に頬張った。桜はその様子を見て子供とは思えない優しい微笑みをし、頬に張り付いた米粒を拭い取る。まるで、子守をする母親のようだ。
『いつまで、一緒に居られるかな……』彼女は胸を撫でる。まるで、自分の命は長くないと悟っているように。
夕暮れを知らせる”蛍の光”が町中に響く。『帰んなきゃ』と桜はギターと小型のスピーカーをケースにしまい、茂みに隠すように置く。ケースの上から”拾わないで!”と簡素的な書き置きをガムテープで張り付けていた。盗まれる可能性よりも、家に置いておけない理由があるのだろうか。たとえば、両親が所持していることさえ許してくれないとか。
白銀の世界へ戻る。それすらも気付いていないのか、誠羅は胸の前で腕を組み辺りを歩き回る。憶晶についてまた疑問が芽生えたのだ。
「これって誰の記憶なの」
「なにを今更、ペティの記憶だろう?」
「そうじゃなくて」
自分たちは憶晶を通じて、誰の目線からペティを見ているのかという話だ。誠羅たちは確かに、その記憶の世界に実在している。地面を踏む感覚、辺りの匂い、物に触れ動かせる。しかし、ある条件下ではその行動を制限させた。具体的に言うのであれば、彼女たちに存在を認知させる行為が抑制されるというところだろうか。
「ふと思ったの、叩いたらどんな反応をするのかなって」
誠羅は先程まで憶晶の世界における規則、過去への境界線を探っていた。砂利をわざと蹴り上げてみたり、草をむしってみたり、少年の耳元で話しかけてみたり。しまいには物理的な接触まで図ろうとした。しかし、砂利はそよ風に煽られるような自然な飛び方をしたし、耳元で囁くも聴こえていない様子。生命に接触しようものなら、頭で分かっていたとしても身体がそれを拒むように固まった。
「私が最初に彼女を殺そうとしたのはどう説明する?」
「でも、結果的に殺さなかったじゃない」
知優が本当に殺そうとしていたかは定かではない。感情では殺意に突き動かされていても、理性がそれを良しとしていなかった可能性もある。しかし、結果だけ見るのなら東桜は死ななかった。過去が改変されることはなかった。誠羅と蒼夷に止められることを、あたかも予知していたかのように。
彼女たちと同じ空間に居るのに、彼女たちから認識されない。それだけであれば、別次元から覗いている神の目線として話を付けるしかない。ここまで、話をややこしくしているのは電車での出来事だ。東桜は誠羅と衝突し、目を見て謝罪をした。別次元の神であるのなら、互いに接触できないものだ。
「何が言いたいんだ?」
知優は終わりの見えない会話に帆を立てる。誠羅が立てた仮説、奇天烈な発想。常人では想定し得ない狂った思考、それは。
「今、ここで私たちの認識できない存在が居るかもしれない。神、とまではいかなくても、それに最も近い存在が」
「……はあ?」
知優は梟のように九十度首をかしげる。あたりまえだ、神に最も近い存在が今、誠羅たちを見ているなど到底考えられるものではない。その証拠に、辺りを見渡すも人間どころか小動物、虫一匹でさえ存在していないのだ。
「とうとうここまで来たか。呆れを通り越して賞賛に値するよ」
「本当に。とうとうここまで来ちゃったみたい」誠羅は爪でランタンをつつく「これは、神の眼かもしれないって話よ」
マザリノが言っていた『神の御加護』、神からの視点、そして出会った時からずっと瞑られていた左目。全てが収束する、焦点があっていく。ランタンの光を受けた憶晶のように。
故郷へ来て最初に出会ったマザリノという人物はこそが、この世界で最も神に近しい存在なのかもしれない。誠羅は気付いたのだ。気付いて、しまったのだ。
誠羅は神の執筆を超えた――。
見えざる神の視点、それは次元を凌駕する発想だった。話を聞き終えた知優が目を見開き、口を覆っていることからも容易に想像できる。世間のあたりまえ、常識をたったひとつの疑問で翻す及百合誠羅。彼女はまるで、今世紀に生まれた新たな哲学者のように思えた。
「しょ、正気か?」苦し紛れに言葉を放つ「神というものは……人間の創りだした空想の存在だろう」
「でも、人間は今までそれを証明できなかった。逆に言えば、神は存在しないっていうのも空想の話でしょう?」
暴論だ、狂っている。そんな言葉を知優は喉元で押し殺す。彼女が何を喚こうと存在の否定とはなりえない、常識という抽象的な理由に基づく逃げの言葉でしかなかったからだ。
人というのは単純なものだ。未知という暗闇に恐怖し、街灯で照らされた道を憂いなく歩み続ける。そして、あたりまえの日常という灯火を掻き消す者が現れたなら、集団で弾圧し自身の安定を死守するのだろう。翡翠や誠、いやもっと大きな単位で表さなければならない。誠羅以外の人類全てが、常識に呪われているのだ。既知に支配されているのだ。
マザリノの目的、そしてなぜ誠羅に神の御加護を託したのか。その理由が今はっきりとした。死神を名乗るノイアは神の力を利用する反逆者。その真実にたどり着けるのは世界でただ一人、及百合誠羅にしか成し遂げられないのだ。
「それが正しいとは限らないけれど、でも私はそうだと信じたい。恨みとか殺意じゃなくて、世界を守るためにノイアを殺したい」
それがマザリノの願いなら、死んでいった誠の救いになるなら。誠羅は自分に課せられた使命を全うしたい、と。
静寂の時、知優は思考を巡らす。今の誠羅は、昔の自分と酷似していた。巫女とは何か、何のために生まれ何を目指し生きるのか。人間を超えた身体能力、知性、再生能力。日々、自分の身体を切り刻み、細胞を痛めつけ、時には猛毒までも注入した。生に抗った、何度もこのまま死んでもいいと思った。神に授けられた身体が、どこまで耐えられるか知りたかった。しかし、彼女は死ねなかった。細胞は映像を巻き戻すように、元の形へ返り咲く。痛みで歪んだ記憶だけを残して。
知優はただ、知りたかっただけなのだ。巫女がなぜここまで優遇された存在なのか、なぜ独立した生物ではなく、人間の雄に頼らなければ繁殖することさえできない種なのか。なぜ、自分より歳を重ねた巫女が居ないのか。巫女は、どこから産まれてくるのか。
知優が常和学園に居続ける本当の理由は、同じ思想を持った人間が存在していなかったからだ。どんな企業、大学から能力を買われようと”巫女とは何か知りたい”と言うだけで存在を否定され続けてきた。巫女を解剖しようなど罰当たりだ、神から授かった身体を傷付けるなど神への冒涜だ。そんな罵詈雑言、失望の表情、恐怖の声。特別であるにもかかわらず、自分より劣った思想の巫女を見下すような眼を幾度となく見てきた。だから、人間が嫌いだった。
しかし、凌芽は違った。医学部へ進学した彼は母親を癌で亡くしていた。知優の研究に興味を持ったのは、巫女の再生能力を不治の病の治療に生かせると思ったからだ。彼は来る日も、来る日も彼女の研究を見守った。猛毒で苦しんでいる時は優しく見守った、小指を切断した時は再生していく様子を何時間も観察していた。精神を病んだ時は、ずっとそばにいた。生きる勇気を与え続けた。
傍から見れば異常な関係だったかもしれない。傷付く彼女を傍観する頭のおかしい人間に見えたのかもしれない。しかし、それが彼女の願いだと、幸せな日常を手にする夢の過程であると彼は理解していた。知優にとってそれは、何物にも代えがたい愛だった。自分の行動を肯定してもらえる唯一の存在だった。
また、彼の声がする。記憶の中で知優を呼ぶ声が。僕が知優さんの生きる目標であり続けるから、と。
「君と居ると、頭が痛くなるよ」
顔面が蒼白に染まる、頭痛がする。痛みを想い出す。しかし、心の中で消え去った生の灯火がまた、暗闇を照らした。
「信じてみようじゃないか」誠羅に言った。鏡に映る自分へ向けて言うように。
知優は、自身を呪う脚かせを外した。




