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優を知り花が散る

 吹雪が止めば積雪も容易いものだ。それまで悪戦苦闘していた移動という行為は、目の前の都市に着く頃には歩みに集中せずとも行われていた。靴に入り込んだ雪が溶け、足を濡らしていることを除けば。


 誠羅は新しく備えた武器を上機嫌にくるくると指先で回す。先程楪律が投げ捨てた、先の欠けた鏑矢(かぶらや)だ。「そんなもの拾ってどうするんだ」と知優からはゴミ漁り乞食と言われたが、まったくもってそんなことは無い。リサイクル上手だと言うべきだ。


 確かに弓が無ければ飛び道具としては不十分。近接用としても、この細さではすぐに折れてしまうだろう。しかし、目を付けたのは”音が鳴る”という特性だ。これさえあれば、相手に情報を伝えずに合図を送ることだってできる。それ以外の応用も、考えればそのうち出てくるだろう。戦いの選択肢が増えるのは、悪いことではない。


 とはいっても、ずっと手に持っているのは邪魔になる。生憎、楪律が背負っていたリュックサックなどは持ち合わせていない。都市へ行く前に、今いる小さな町で装備を見直さねば。あわよくば新しく武器となる物も欲しい。


 民家には鍵が掛けられていなかった。ぎい、と木造特有の唸り声を上げ、暗かった部屋に光が差さる。白昼堂々と盗みを働くのも、もう慣れていたし、知優はついに何も言わなくなった。


 木製の円テーブルに最低限の卓上調味料と煙草、マッチ。床は古くから愛されていたのが分かるほど綺麗に、壁は少し黄ばんでいたが、それも昔の良さを体現しているように思えた。


 目的の物を探すため、ありとあらゆる場所をひっくり返すが、どれも要求にそぐわない。肩下げバッグや革製の上着、強いて言えば子供部屋に置いてあったランドセルだろうか。もっと小柄な体系であれば問題なく背負えたというのに。


 二件目に期待しようか、と思い始めた時、二階にある最後のクローゼットで丁度いいものを見つけた。男性用のジーパンに付いているベルト、一番奥の穴まで締めれば誠羅の細いウエストでも驚くほどぴったりのサイズだ。これであれば身体の体積を増やさず、身軽に動ける。予想だにしない良い収穫だ。


 矢を装着したベルトの間に刀の要領で収める。少し激しく動いたところでは抜けることもないし、足に刺さるといったこともなさそうだ。鏡を見て自身の姿を確認すると、改めて無駄のない秀逸な容姿に思わず笑みがこぼれる。拾い物で舞い上がれるなんて幸せ者だな、知優にはそう言われるのだろうか。


 手すりを伝い、上場気分でリビングに戻ると、灯油ストーブの前で座り込んで暖を取っている蒼夷と、倉庫を漁っていた知優が椅子に座っていた。なにか金属を削っている音がする。


「戻ったか!」


 いつにも増して元気な声を聞いて思わず面食らう。そんなに良いものを見つけたのか、と訊くまでもなく、彼女は手に持っていたものを見せびらかした。


「これって……斧?」


 知優が見つけてきたのは、薪を割るために作られた鉄製の斧。人体に振るえば間違いなく四肢が叩き切られてしまうような代物だ。北海道ではこんなものまで一般家庭に備え付けられているのか。


「そうだ。少々錆び付いているが、手入れすればまだ使える。君にナイフを取られてからというもの、銃弾の消費が激しくなってしまったからね」


「あなたは素手でも十分戦えるでしょう? 公平に基づいて、よ」


「責めてなんかいない。むしろ、そいつは君に使ってもらった方が輝いて見える」


 知優は研ぎ終わったであろう斧を肩に担ぐ。ただでさえ強い彼女がこんなものを持っていたら、大概の生物は恐怖で逃げ出してしまうだろう。それほどまでの威圧感と風格を纏っていた。たった一人の巫女を除いて。


「さむいー。知優さん、もう少しだけゆっくりしてましょうよー」


 はあ、と二人してため息をつく。この人は自衛となる武器も探さず何をしているのだか。


「だって、自分は戦闘で役に立たないですし……というか、誠羅さんたちが強すぎるだけなんですよ。……どうして、そんなに戦えるんですか?」


 蒼夷は膝を抱え込み、呟くように訊いた。どうして、と訊かれても誠羅にとってはなぜ息をするのかと訊かれているような気分だ。そんなもの、生きるために決まっている。生きて、飛龍に再び会いに行く。そして、世界から自分たちのような思いをする人、世界で起きている不幸を無くす。その夢をかなえるために、生きる。そんな簡単なことだ。


 しかし、知優はその言葉を聞いて酷く動揺していた。いや、瞳を震わせ怯えていた、と言うべきだろうか。額を押さえ、元々猫背だった姿勢がさらに前のめりになり、高らかに担いだ斧も、弱々しく力の抜けた腕に吊るされていった。


「それは……」ありえないくらい、悄然(しょうぜん)とした声で言った「怖いんだよ。君たちを死なせてしまうことが、何よりも」




 超記憶症候群(ハイパーサイメシア)、知優が患っていた生まれつきの特性の名だ。彼女は日常のありとあらゆるものを瞬時に記憶することができる。それは幸福であった友との一時から、人生における最大の不幸。普通の人では忘れてしまうような記憶でさえ、自分の意志とは関係なく、ふとした拍子に映像として再生される。思い出したくない、故郷に来た時の記憶までも。匂い、感覚、音、言葉。寸分狂わない記憶が彼女を蝕んでいた。


 知優にはリョウガというひとつ下の恋人がいた。人間嫌いで、友人関係なんてものは殆ど築いてこなかった、薬の研究でしか生きがいを感じられなかった知優を、一人の女性として心から愛してくれる人だ。彼から何かを施した訳では無い、知優からも特別なことをする訳でもない。ただ、彼と過ごす日々が、騒がしい世間からの期待という欲望の声から逃れられる、唯一の安息の時間だった。


 彼と出会ってから一年、つい昨日の話だ。これまで才能だと思われていた超記憶症候群が、人生における障害となりえるものになったのが。


 愛するリョウガは、学園理事長の奇特千陽春に殺害された。彼の家で一夜を過ごし、学園までの通学路。知優にとっては当たり前の日常で、今日も同じ風が吹くのだろうと思っていた。いや、そうであるべきだった。


『やあ、知優ちゃん。今日も彼氏君と一緒なんだね』


 いつもは校門で朝礼をしていた千陽春が、今日は通学路を巡回していた。最近は物騒な事件が多いから、と。


 それ以外はなんら変わらない、いつもの千陽春だった。いつ結婚するの、結婚式には呼んでね。会うたび交わされる台詞のような会話。そのからかいも、既に飽き慣れていた。


『ところでさ』通学用のバスが横切る『話があるから、ちょっと人目の付かない場所に行かない? 彼氏君も一緒にで良いけど』


 いつもと変わらない笑顔、優しい声色。千陽春のことだから、きっと何か意図があってのことだろう。悪い予感など、ぬるま湯の日常に浸っていた二人には持ち合わせていなかった。


 近くの路地裏に入り、用件はなんだと訊く。早朝であるにもかかわらず、暗く湿った環境で若干の不信感が湧く。それでも、振り返った千陽春の笑顔を見て安堵してしまった。最悪の展開を予測できなかった。そうなるしかなかったのだ。


 千陽春は内ポケットから煙草を取り出し、火を付ける。銘柄はウィンストンだった。


『先に謝っておくよ。ごめんね。ずっと前から決めていたことなんだ……』


 首筋にわずかな刺激が走る。注射器で刺されたような、ほんの少しの痛みで知優は気づいてしまった。日常が、安定していた幸せの歯車が動きを止めてしまったことを。


 刺された場所を思い切り叩くも既に遅かった。皮膚は赤く炎症を起こし、事の仕業であろう大きな蟻が腕を伝って顔を覗かせた。知優の無意味な自傷行為を嘲笑っているようだった。


 蟻酸はやがて体中を巡り、蝕んでいく。熱い、視界が歪む、呼吸さえも難しくなっていき、その場で倒れこんだ。


 ――知優さんに何をした?! 意識が混濁した彼女を見て叫んでいる。知優さんに近づくな、知優さんに触れるな、知優さんに……。怒りの感情に満ちていた声が、数を重ねるうちに悲痛に嘆く懇願の声に変わっていった。しかし、それさえも受け入れられず、彼は千陽春に胸ぐらを掴まれ、あっけなく投げ飛ばされてしまった。


 身を捩る。二人して、蟻の大群に襲われた芋虫のように。虚しく、切なく。ようやく視界が前に進んだかと思えば、後ろから何者かから頭を押さえつけられた。小さい手のひら、身体。ちょうど楪律くらいの年頃の女の子だった。


 千陽春は吸い終えた煙草を携帯灰皿に入れる。そして一息、決心させるように息を吐いた後、もう一方の胸ポケットから銃を取り出す。


 やめ、て。ひねり出した悲鳴のような囁きは彼に届かない。苦しませぬよう、急所である頭をよく狙い。周囲を赤く染め上げた。



 

 そこからの記憶は曖昧だ。千陽春がなにか話していた気がするし、自分がなにか言っていた気もする。唯一覚えているのは、誠羅のように細い棒状の物で瞳の間から脳を突かれた感覚だけだった。


 知優はこれから生きていくうえで、記憶という呪いと歩まなければならない。まるで、誠羅が嬉々として集めていた憶晶のように、知優の中に形として残されてしまった。


 だから、怖い。また大事な人を、自分の無力さのせいで失うことが。目の前で当たり前のように生きていたものが、ただの肉塊に変わる瞬間が。知優は記憶することを恐れていた。


 初めて誠羅たちと出会った時も、初めて憶晶を見た時も、煙草の臭いを嗅いだ時も、今この瞬間だってそうだ。あの時の映像が再生され、そのたびに記憶を吐き出そうと胃液がせりあがってくる。誠羅たちを危険から遠ざけると同時に、自分の記憶を再生させうる要素を排除したかった。


「私は、正義の奴隷だ……」


 自分は巫女として生まれた。人間よりも才を持って生まれた、強い存在だ。弱き者を守らなければ、愛すべき人を守らなければならない存在なのに、それを果たせなかった。才能による代償は彼女にとってあまりにも重すぎる代物だったのだ。


 私にとって君たちは罪滅ぼしの道具に過ぎないのかもしれない。俯いたまま、知優は言った。


 外で風の吹き抜ける音がする。


「そんなことありません!」


 突然、蒼夷が勢い良く立ち上がった。


「知優さんは、そんなこと思ってません! 知優さんは何度も、何度も僕たちを守ってくれたじゃないですか! それが罪滅ぼしの道具としてなら、どうして優しい言葉を掛けてくれたんですか?! 私が君たちの命を保証する、死んだら私が許さないって」


 あんなに大人しかった蒼夷が珍しく感情的になっている。ぼそぼそと聞き取りにくかった小さな声が、今では一言一句はっきりと聞こえた。一人称もいつの間にか変わっている。


「知優さんは僕の英雄(ヒーロー)なんですよ。かっこよくて、勇気があって、でもちょっとだけ心配性な知優さんが。知優さんにだったら一生付いていける、そう思った僕の気持ちを考えてください!」


 蒼夷は知優の胸ポケットから銃を取る。


「これはお仕置きです。僕にだって生きる勇気が無くても、死ねない理由くらいあります。たった一人の弟が居ますから。それに、今ひとつ増えました」


「何をする気だ?!」


「僕も戦うってことですよ! 小さくて情けないやつだと思ってるなら、その固定観念ぶち壊してあげますよ! そしてみんなでここを出て、忘れられない良い記憶を残すんです! 僕を信頼できるまで、せいぜい後ろで見ているがいいです!」


 そういって蒼夷は尻尾を振るい、乱暴に扉を開ける。冷たい外気に若干怯みつつも、彼女は歩みを止めなかった。誠羅の知っている蒼夷ではない。別人格に乗っ取られたかのようだった。


「僕、信じてますから」


 誠羅は思う、やはりあの一人称は女性として不適切だ。しかし、これは彼女にとって、自分を表す最適な言葉なのかもしれないと。




 蒼夷が勇ましく先陣を切り、少し後ろで誠羅と知優が鈍く進む。横でくしゃみをするも、知優はからかう素振りを見せない。先程まで仲良く歩いていたとは思えない異様な光景だ。


「ねえ」沈黙の空気に切り込む「怒こっているの?」


「怒るに決まってるじゃないですか。友達なのにこんなこと隠してるなんて、知優さんの気も知らず楽しくなってた僕たちが馬鹿みたいじゃないですか」


「君たちは悪くない。私が勝手に思い出して、嫌な気分になっているだけだ」


「ほら、そういうとこ」振り向き、知優に指を指す「人の事心配しておきながら、一人で抱え込みだす。協力し合おうと誓った仲なのに、ですよ」


 医者の不養生ってこういうことなんでしょうね、と皮肉じみた冗談まで吐く。本当に委碧蒼夷なのだろうか。


「気持ちは痛いほどわかりますけど……でも、許せません」


 また、つかつかと歩き出す。時々寒さで震えながらも、泣き言を吐かずにいた。


 協力し合おうと誓った仲なのに、誠羅の中でその言葉が反響する。ここまで怒っているのは、蒼夷自身に似たような経験があるのではないだろうか。一人で抱え込んで、苦しい思いをしたから、友達である知優に同じ気持ちを味わってほしくないと思っているのではないだろうか。例えば、一人称のこととか。


 今の蒼夷が本当の姿だとすれば、今までの蒼夷は偽りの存在となる。控えめで、おどおどとした様子は相手を窺う、いわば警戒の状態。人に合わせ、環境に合わせ、態度や表情を操る。人間社会という荒波に身を委ねる海藻のように、芯の無い状態だ。”僕”という一人称も、異端な存在として見られないように”自分”と呼称していたのではないだろうか。


「……蒼夷は、なんで自分のことを”僕”って呼ぶの?」


 訊く。誠羅にとって一番の疑問を。しかし、蒼夷は一瞬だけ目を合わせて、顔を背けた。


「知優さんが元気になった後話します。でも、これだけは言わせてください。二人は僕の大切な友達で、一番信頼していることだけは」


 蒼夷は歩みを止める。そして目の前の大きなショッピングモールを指して言った。


「憶晶を探すんですよね? 早く、行きましょうよ」



 

 中には意外にもにぎわっていた痕跡が残されていた。本屋、スーパーマーケット、内蔵する飲食店の数々。そのどれもが写真のように、切り取られて残っているようだ。電気が通っていないのか、店内は暗闇に包まれていることを除けば、ごく自然の内装をしていた。


 しかし、違和感を感じられる点もある。例えば、床がつるつるとしたタイルではなく木製であることや、ショッピングモールとしては明らかに広すぎる内装など。昔はこういった構造だったのかもしれないが、ショッピングモールを見たことない人が想像で構成したような印象を覚えた。


 誠羅は視線を上げ、吹き抜けの天井まで連なる階層を数える。――四階まである。この中を三人で探すとかなりの時間を要するだろう。嫌いな人とはいえ、楪律たちの顔を思い浮かべる。彼女らが一緒に居れば、多少なりとも捜索が楽になったのだろうか。


 まずはメインホールを探そう、そう思い大きなクリスマスツリーの奥まで進む。ランタンの灯火を注意深く照らしてみると、黒く大きなピアノが設置されているのが見えた。最近使われたのか、よく手入れされている。しかし、そのすぐそば、観客用として設置されているベンチに大量の人間が座りながら意識を失っていた。


 生存者だろうか。誠羅は一目散に駆け寄り、肩を揺らし問いかける。彼はそれに応えるように唸り声をあげ瞳を開けた。あの少年のように白く濁った瞳だった。


 ――演奏中はァ、シずかにィ。ゥルさいで、スよ? 常、識でシょ。


 何人も、連鎖するように起き上がり始める。正気を失っている。もはや人間ではないのではないか。よろよろと立ち上がり、覚束ない足取りで近づいてくる。腐敗しているとまではいかないが、その様子は創作物によく出てきたゾンビと酷似していた。


 誠羅は銃を向けるのに躊躇する。虫笑いのような明らかな化け物ならともかく、仮にも人間の形をして、助けようとした人たちだ。人殺し、という意識が邪魔をしてその場を後ずさりすることしかできなかった。


「誠羅さん! 下がってください!」


 大切な友人を守るためなら、知優に信頼されるためなら、蒼夷に迷う理由などなかった。


 十は居る大群へ一人で突っ込む。尻尾を駆使し、床へ抑え込みながら慣れない手付きで頭を撃つ。動かなくなったそれを投げ飛ばし辺りを制する。蒼夷という存在を軽視していた。彼女も立派な巫女であるのだ。しかし、暗闇の中から一人、迫ってくる影を見逃していた。


 それは蒼夷に雄たけびを上げ掴みかかると、力一杯に首を締めあげる。やがて、彼女の抵抗も空しく足先は踏んでいた床へ手を振るように別れを告げた。


 早く、助けなければ。震える手で照準を構えるも、蒼夷に当たってしまうのではないかと想像してしまう。自分のことであれば、どの結果になろうとも最善を尽くせる。間違った選択だろうと最終的に後悔するのは自分だ。しかし、今は違う。蒼夷を撃ってしまった時、最も不幸なのは誰だろうか。蒼夷が死にゆく時、誰を恨むだろうか。


 生きるために戦うのは簡単だ。しかし、生かすために戦うのはこんなにも難しく、辛いことだったとは。知優はこんな気持ちで戦っていたのだろうか。


 ――あズまちゃンはッア、ワガくにのタカラだァ。


 苦しく、唾液を垂らす。命の灯火が消えかけるように、蒼夷は脱力していく。身体が動かない。助けろ、何のために銃を持っている。本当にただの自己防衛の手段に過ぎないのか? そうじゃないだろう。


 思い出せ、誠はなんで死んだのか、なんで助けられなかったのか。それは、自分に助けられる力が無かったから、勇気が無かったから。今は違う。私には手段がある、勇気がある。二度とあんなことが起こらないように、それが私の生きるべき理由なのだから。


 目標の幅はわずか数センチ。誠羅はできる限り瞳孔を狭め、焦点を絞る。そして、引き金に指を掛けたその時。


 隣から風が駆け抜けた。


 瞬く間に大群の頭を切り飛ばす。ぐしゃり、ぐしゃりと一人一人から発せられているはずの音が同時に聞こえた。まるで、そこに稲妻が走ったかのような。


 驚愕、そんな言葉では表せない。生物が築き上げてきた歴史がひっくり返された瞬間だ。なぜ彼女が人間の形をしているのか、なぜ今まで自分なんかと関わっていたのか。誠羅は記憶の辞書をめくる。彼女を表す言葉が無いか、必死に探す。しかし、今の知優を表す語彙力は本を読み漁った誠羅でさえ持ち合わせていなかった。


 あっという間に本来の静けさを取り戻す。徐に、斧に付着した血肉を白衣で拭い取ると、こちらの安否を確かめるように振り向いた。


「……蒼夷」


 その言葉を聞き、二人は顔を上げる。あの仲間思いで優しい知優から発せられたとは到底思えない、低く重苦しい声だったからだ。


 ゆっくりと穏やかに、戦慄するような足音。知優はまだ苦しそうに首元を押さえて咳をしている蒼夷の前に立ち、左手を頬に振るった。本気、とまではいかないが、音から察するにかなりの強さだったと思う。何が起こったかを理解するまでの数秒間、蒼夷は痛みに震えながら瞳を丸くしていた。


「君はまた私にトラウマを植え付ける気だったのか? なあ」


「ち、ちがっ……」頬を押さえながら身を捩る「じ、自分は……知優さんにっ、信用してもらいたくて……ご、ごめんなさっ――」


「良い訳なんか聞きたくない」


 いくら気に障る行為であったとしても流石に責め過ぎだ。蒼夷が口元を歪ませ子供のように泣きじゃくっている。


「蒼夷は知優のことを想ってやったことよ。ただ空回りしただけで――」


「それが駄目だとなぜ分からない?!」


 込み上げた感情が一気に爆発する。


「いいか、命というのは一度限りなんだ! その空回りで終わってしまうことを考えろ! 巫女だから? 人間よりも強いから? その甘さゆえ死んでしまうことを君たちは分かっていない。虚勢のくせに、驕り高ぶるな!」


 言葉の節々に知優の苦い思い出話が頭の中を過る。多分、知優は泣いていたのだと思う。誠羅は揺れ動く彼女の感情を感じ取っている気がした。それほどまでに、彼女の言葉は心を突き動かす重いものだった。


 知優は取られた銃を乱暴に奪い返す。弾は一発しか使われていなかったが、それすらももったいないと思ったのだろう。歯を食いしばりながら白衣の内ポケットにしまい込んだ。


「二度とこんな真似をするな。君たちは私に守られていればいい、簡単な話だろう」


 せかせかと向こう側の壁に歩き、腕を組みながら寄りかかる。もう話したいことは残っていないようだ。


 誠羅は蒼夷の様子を窺うも、なんと声を掛ければいいのか分からなかった。まだ、自分のしでかしたことを悔やみ泣いている。結果的に生きてるから大丈夫、蒼夷は頑張った。どんな励ましをしようとも、全て彼女を苦しめる言葉になってしまう気がした。だから、ただ茫然とその光景を眺めていた。


 隣で息絶えているそれは、吹雪の中討ち取られた怪物と同じように結晶化を始める。これは憶晶なのだろうか。指先だけもらっておこうと軽く力を入れると、いとも簡単に砕け折れる。その際、微かに人の声を聞いたような気がした。この憶晶の内容だろうか。しかし、今は憶晶を見る気にはなれなかった。




 昔、誠から相談を受けた。”友達はどうやったら楽にできるのか”という内容だ。誠は自分の意志とは関係なく、自分を大きく見せるための嘘を付く。その特性が祟り、クラスからは浮いた存在として、関わってはいけない存在として扱われていた。それこそ、誠と仲良くしている人は同じ類の人か、笑いの道具として扱っている人かなど。そんな言われようだった。


『私は狭く深くのタイプだからなー』翡翠が背もたれに体重を掛けながら言う。


 誠羅も人より友達が少ない自覚はあった。授業で分からないことがあればその都度質問する。たとえそれが授業の円滑な進行を妨げる場合であっても、誠羅にとってはそれが美学で、正しい行為であると思っていたからだ。教師から、生徒から嫌な顔をされようとも、最後まで信念を曲げることはなかった。


 それに比べて翡翠は自虐するほど友達が少ない訳では無い、むしろ多いくらいだ。クラスメイトに飽き足らず、他のクラスや学年、バイト先の先輩後輩。翡翠のメッセージアプリからは毎日通知音が鳴っていたし、授業中に確認しようとも注意されるだけで半ば許されているような雰囲気だった。寝ていようが、本を読もうが、執筆をしようが。彼女に後ろ指を指すような人は居ない。翡翠はいつも自由だな、でもそれが翡翠のいいとこだよ。なぜ誠羅や誠が認められていないのに、翡翠だけ自由を認められているのか。甚だ疑問であった。


『でもさあ』豆腐ハンバーグを口に放り込む『本当の意味で友達ってのは、ほとんど存在しないと思うよ』


 蕎麦をすする動作を止める。予想外の回答に思わず耳を疑ったのだ。


『だって、人ってどこかしら普通じゃないもんだよ。私は授業をまともに受けないで好きなことするし、誠羅は正義的自己中だし、誠も時々何言ってるのかわかんないことあるし。それを自分以外、赤の他人に認めろよって言っても無理な話だよ。みーんなそう。友達って呼んでいる人はその人の気に入らない部分を見ようとしてない、目に入った部分は切り捨てるか見なかったことにする。それか正そうとするかね』


 私、多様性って言葉嫌いなんだよね、と文頭に着けさらに話す。


『自分の認められない部分を”多様性”って言葉を使って押し付ける。私から言っちゃえば、そういう人って友達作りに必死なのかなって思うよ。使い方間違ってるんだって。だってその言葉がまかり通るんだったら、多様性を認めない多様性だって認められるはず。自分を守る盾だと思ったら、いつの間にか自分に向けられた刃だった――おっかしっ。いいじゃん。気に入らないって思ったら、気に入らないって思われたら、そんな関係殺しちゃったら。真の意味でわかりあう日が来ないなら、都合の良い関係のままでいた方がきっと楽だよ』


 自分のことを好きでいてくれる友人が数人いれば、それで十分。翡翠は黙って聞いていた二人を指す。


『私にとっては、誠羅と誠が友達。二人も私が友達。それ以上何を望むの?』




 誠羅はその話を正しいと思っていなかった。人はみんなに愛される権利があって、認められなければならないと。しかし、今の二人の関係性が違うと囁く。


 蒼夷は知優に認めてもらいたかった。しかし、それは逆に知優を信じていなかった裏付けともとれる。いつものようにおどおどと助けを乞うていれば、知優の神経を逆撫ですることはなかった。思想のすれ違い、本当の意味で分かりあえない存在を誠羅は肌が焼けるほど感じ取っていた。


 誰が悪い訳ではない。強いて言うならこんな結果を執筆した神様が悪い。今後、表面的に仲を紡ぎ直したとしても、二人の思想が寄り添う訳ではない。理解した気になるか、我慢するか。それ以外に選択肢はない。思想というのは創作物のキャラクターのように、ペン一本で設定できるほど安いものではないからだ。


「あの……」隣で嗚咽混じりに蒼夷が話す「知優さんと、仲直りしたい、です……」


 数秒、沈黙する。翡翠の言葉が正しければ、無駄な神経を使う前に無理と突き放すべきだ。しかし、それではあまりにも可哀そうだ。せっかく運命的で、数奇な出会いをしたというのに、あんなに楽しそうに話していたというのに。その思い出を否定するような決断をする訳にはいかない。


「それは……」考えた末に選んだ言葉は「まだ、時間を空けるべき、だと思う」


 膝を抱え、問題を先送りにした自分を恥じる。誠羅はまだ、自分が思ったよりも未熟だった。


 突然、壁に寄りかかっていた知優が奇妙な行動をし始める。耳を立て、しゃがみこんだかと思えば床に耳を当てだす。何か聞こえるのだろうか。誠羅や蒼夷には全くと言っていいほど感じない気配に、二人は困惑の表情を隠しきれない。


「なにしてるの――」


「静かにしろ」


 真剣な表情、ただ事ではない様子。疑惑の念はやがて確信へと変わり、急いで二人の方へ走ってきた。


「外からなにか近づいてくるぞ。小動物かとも思ったが、この響き方は相当の質量だ」


 どういうことだ。大きな生物があえて足音を立てずに動いているとでも言いたいのか。いったい何のために――。


 ばごん、と向こう側の壁が破壊される。あの壁はコンクリート製なのに、一撃で。外からの逆光でよく見えないが、全体像だけは確認できた。虫笑いをひと回り大きくした体形、四足歩行、そして岩でも破壊するのかと思わせるほどの湾曲した大きな鉤爪(かぎづめ)。あれを使って刺し壊すように入ってきたのだろうか。


 誠羅は咄嗟に銃を構えるも、少しだけ気になることがあった。それは、先程対峙した人間たちと憶晶に出てきた少年の共通点。白く濁った瞳は、光を当てても眩しそうな素振りを見せない。それはノイアにも言えることでもある。光を認識できない、全盲の特徴と一致している。だとすれば、この怪物も。


「知優、こっちに」


 誠羅はできる限り小さな声で呼び、物陰に隠れるよう手招きした。問題ない。もし予想が外れたなら、さっき拾った憶晶を使って逃げればいい。


 身体に似合わない優雅な足音。こつん、こつんと木製の床を叩きながら、誠羅の真横まで来た。


 ――サクラぁ、ドコにイルのオ?


 恐る恐る光を当てる。垂れ下がった眼球は、やはり白く濁っていた。


 全盲の怪物は女性とも、男性とも言える声色で”サクラ”を探している。鋭く、ちぐはぐに生えた歯から、酷い臭いの唾液が垂れる。生暖かい吐息が誠羅たちを煽り、声を出せ、悲鳴を上げろと耳打ちしているようだった。


 何よりも特徴的なのは、二匹の鰐の頭部だけがつながったような見た目と身体にまとった憶晶。鎧のように装着しているのではなく、関節部分を避けて皮膚が硬化しているようだった。銃が通用するか、試してみないと分からない。


 ――パパだよ、ママだよ。デておイデェ?


 全盲の怪物はやはり気付いていない。真横に潜んでいた誠羅たちを素通りし、奥のスーパーマーケットまで歩いていく。餌を求めている爬虫類みたいだ。大きい身体は周りにある棚を全てなぎ倒し、調味料などの割れていく音がうるさく響いていった。


「今なら行ける」


 誠羅は足音を立てずに二階までの階段を上る。その際、知優に「外に出るんじゃないのか」と小声で怒られたが、そんなもったいないことをする訳ない。


「虫笑いの行動を思い出して。あいつは憶晶を守るように動いていた。なら、こいつもそうだと思う」


 もちろん、脱出までの算段は立てている。店内の案内マップ、そこには立体駐車場までの階段が各階層にあると書かれていた。たとえ、あの怪物が一階に陣取ろうとも、そこから出られれば問題ない。暗闇で、目の前の敵に気が付きにくいことは心配であるが。


 存在を認識される前に憶晶を探さねば。情報はあればあるだけ良い。姿勢を低く保ち、三人は一直線に並ぶ蟻のように進んで行く。時々、人間らしくテレビの前でコーヒーの空き缶を握りしめている人や、ベンチで休息を取る親子。全員誠羅たちに気づく素振りを見せず、眠るように大人しくしていた。


 二階層を一周、ある程度散策を終えいざ三階層に上がった時、突然ショッピングモール内を眩い光が照らす。照明が自分の役割を思い出したのだ。電気が復旧した? しかし、この荒廃した世界でいったいどこからエネルギーを生み出しているのだろうか。いや、それよりも誰が何のために復旧させたのだろうか。


 なんにせよ、これは都合の良い話だ。いつどこに敵が居るのか怯えずに済むし、憶晶もこれなら容易に見つかる。場合によってはエレベーターも利用できるだろう。


 三階層もいよいよ大詰め。未だに憶晶らしきものを見つけられていないことに焦りを覚える。やはり逃げるべきだったのだろうか。しかし、緊急時の憶晶は残してある。ポケットの上から微かにその感覚があることを再度確認し、最上階への階段に向かう。


 がつ、がつと重い質量に引っ張られ、壁が軌跡をなぞるように欠け落ちていく。盲目の怪物だ。奴は階段付近で張り付きながら、気に入らない音を探すように耳を澄ませる。いくら忍び足だとしても、何かの拍子に気付かれてしまえばそれで終わりだ。誘き寄せるか、立ち去るのを静かに待つか。


 ふと、隣の店が手芸用品店であることに気付く。そして、腰に付いているのはちょうど音の鳴る矢だ。普通に使えば自分の居場所を示すだけの道具だが、条件が揃えばもっと安全に奴を惑わすことができるだろう。


 誠羅は念のため、二人に自分から離れるよう指示する。少々気まずいだろうが、今だけは我慢してほしい。


 店頭に置いてあった手芸用の毛糸を鏑矢の羽に何重にも重ね結びつける。長さは一階付近まで届くくらいに。それを手の平に巻き付けた後、ゆっくりと手すりの上から降ろし始めた。穴から音が出ないよう、うっかり鉄の部分をぶつけないよう、慎重に下ろしていく。


 毛糸が伸びきった。誠羅は祈るようにつまんでいた指を離す。支点を失った鏑矢は残り僅かの距離を泳ぎ、一階付近で、鳶のような鳴音と着地したときの金属音で自分の存在を主張した。


 作戦は素晴らしく、完璧に実行された。盲目の怪物は同階層に居た人間の罠だとは露知らず、音の正体を確かめるため、再び一階層へ降りて行った。歓喜の声を上げたかったし、この喜びを二人にも分かち合いたかったが、その感情をぐっとこらえ手招きした。しかし、二人が手と表情で誠羅を褒め称える様子を見て思わず口元が綻んだ。動作が全くの同じ、そして同時に行われたからだ。二人はそのことに気付いているのだろうか。


 さあ、後は簡単だ。四階層に上がり、直線の廊下を見通す。そして、立体駐車場へつながるエレベーターの前に目的の輝きを見つけた。薄く、張り紙のような憶晶が床に落ちている。


 早く回収して、先程のことを二人に伝えよう。そうすればきっと、また同じように笑いあえるはず。分かり合えなくていい、理解しようとする必要はない。ただ、一緒に居て楽しいと思えれば、もう立派な友人と言えるのだから。


 ざざ、真上のスピーカーから音がする。嫌な予感がする。この感覚は初めてじゃない。飛龍に殺された時、虫笑いに殺されそうになった時。”死”という概念が形となり、肺と心臓を鷲掴みにされるような。全身の血が床へ零れ出るような。心波が激しく揺れ、赤く染まるような。


『今話題の東桜ちゃん。彼女の演奏するクラシック曲を全国に広めたい、という店長の願いから、ただいまから店内音楽を変更します! 是非耳を傾けてください』


 流れ出す。美しいクラシック曲が、ユウカが口ずさんでいた”月の光”が。


 響き渡る。自分たちを中心に、死を伝える弦楽器の声が。


 誠羅はもはや正気で居られなかった。簡単なことだ、目の前の憶晶を回収してエレベーターに乗ればいい。奴が動き出す前に、事を済ませればいいと。


 走り出す。知優の声も聞かず、ただ真っすぐに。いざとなれば、ポケットの憶晶を使えば。自分たちには命綱があると思っていた。ここまで上手くやっていけたなら、今回だって――。


 まずひとつ、計画が打ち破られる。手を伸ばせば届く距離まで来た憶晶が、行くはずだった道筋が目の前で崩れ落ちた。立ちはだかったのだ。床から這い出てくるように、埋められた地雷が起動するように。罠に嵌めた憎き人間を殺すために。


 ――サクラァッ? ソコにイたんだネィェ。


 ぎらりと照明の光を反射する鉤爪が振るわれる。腰が抜けた誠羅は避けようとするも力が入らない。


 間一髪、知優が駆けつけ投げ飛ばされるも、知優は満足に避ける余裕がなかった。できる限り身体を引き、顔を背ける。最大限の防御姿勢を取るも、たった少し掠った鉤爪の先が頭部からこめかみにかけて、ばっくりと大きな裂け目を付ける。大量に溢れ出る血液が辺り一面に散布した。


 「反対側から抜けるぞ!」


 傷口を押さえつけながら二人に叫ぶ。もはや足音を気にしている場合ではない。一刻も早くこの状況を抜け出さなければ。


 知優なら大丈夫だ。瞬間速度なら誰にも負けない、反対側のエレベーターまでの距離を駆け抜けることなど造作もないことだろう。そう思っていた。しかし、いつまで経っても誠羅たちを追い抜く様子はない。むしろ、段々と走る速度が落ちてきている。


 曲がり角、ここを抜ければ後は一本道。知優は差し掛かった直後、身体の制御が効かないまま正面の壁にぶつかり、硬直した。呼吸が速い、顔色が蒼白に染まる。人は死ぬ瞬間こんな顔をするのかと呑気に考える。信じたくはないが、彼女はもう駄目だと決めつけてしまったのだと思う。だから、漠然とその様子を眺めてしまったのだと思う。


「知優さんっ!」


 先に動いたのは蒼夷だった。知優がかろうじて握っていた斧を奪い取り、彼女を誠羅の方へ押し退ける。とっさに倒れ行く知優を受け止め、彼女を見た。最も弱々しく、情けなく、恐怖に歪んだ表情。しかし、この中で最も、いや世界で一番勇敢な少女。言葉で表現するのなら、蒼夷は最弱の勇者だった。


「はやくっ!」


 鉤爪が振るわれる、不格好な牙を向ける。蒼夷は二人を守るため、必死に抗った。二度、三度と斧を使って弾き返し、四度目の薙ぎ払いによって……。


 唯一の武器は払い飛ばされた。


 蒼夷は奴に背を向ける。奴は蒼夷にふたつの喉元を見せつける。誠羅は照準もまともに付けず引き金を引く。身体にまとう憶晶で弾かれる。


 そうだ、憶晶だ。ここから抜けるには、もうこれしかない。ポケットに手を突っ込む。探る、かき回す、やっとの思いで掴み取る。手にしたのは、美しさなど微塵もない砂埃だった。


 あ、と場違いな声が漏れる。まるで、簡単な問題をつまらない見落としで間違えてしまったような。ああ、と落胆する。やっぱり自分はつまらない人間なんだと、テストを折り曲げてその場を諦める。たった一問落とした九十八点のテスト、隣の翡翠は満点だった。


 蒼夷が手を伸ばす。助けを懇願する。自分が蒔いた種だ、そうなっても文句は言えない。言っていただろう。命というのは一度限りなんだ、たった一度のミスで終わってしまうものだと。そうだろう? 及百合誠羅。


 蒼夷に背を向けた、脱力した知優に肩を貸しながら。問題に背を向けた、到底受け止めきれないものだと知っていたから。蒼夷がどんな顔をしているか、どんな気持ちだったか。想像もしたくなかった。


 肉の潰される音がする。誰かの痛々しい叫び声がする。知優はなぜか抵抗した、戻ろうとした。誠羅はその理由を考えず、エレベーターへ向かった。


 現実は非情だ。向こうのガラスの塀に叩きつけられる遺体、重力に逆らえず落ちていく遺体。どぱん、と衝撃で弾ける遺体。誠羅は出口のシャッターを下ろし、奴の進行を止めようとした。いや、他にも理由があったのかもしれない。問題から目を背けるため、心を閉ざすために蓋をしたかったのかもしれない。


 エレベーターのボタンを押す、乗り込む。全ての動作は虚無的に行われた。


 知優は最後まで泣き叫んでいた。

 

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