【新約・第2話】無明の檻
## 【新約・第2話】無明の檻
どれほどの罪を重ねれば、人はこれほど無様に死ねるのだろうか。
宙に浮かぶ武田剛の意識は、地上三メートルほどの虚空から、己が引き起こした「地獄」をただ見下ろしていた。
視界の底で激しく燃え盛っているのは、彼が人生の一発逆転を賭けてハンドルを握った、あの初配送の10トン大型トラックの残骸だ。
ひしゃげたフロントバンパーは商業テナントのコンクリート柱を深く抉り、割れたフロントガラスからは猛烈な火花と黒煙が噴き出している。
つぶれた燃料タンクから漏れ出したガソリンが引火し、耳を聾する爆音とともに、店舗ごとすべてを焼き尽くさんと業火が渦巻いていた。
「嘘だ……嘘だろ、こんなの……っ」
叫ぼうとした声は、肉体を失った霊体からは音にならず、ただ冷たい思考の泡となって虚空に消える。
遠くから幾重にも重なって近づいてくる救急車やパトカーのサイレンが、まるで厚い水層の底で聴くかのように、ひどく遠く、歪んで響いていた。
剛の胸を焼き尽くさんばかりに満たしていくのは、被害者への純粋な謝罪などではなかった。
己の脳髄を直接灼くような、圧倒的な「恐怖」と「自己防衛の呪縛」だ。
一体、何人を巻き込んだ?
さっき横断歩道で確かに弾き飛ばしたあの影は、今どうなっている?
まともな人間として、誰かに認められる人生を歩みたかった。
そのために血の滲むような思いをして手に入れた最後の希望が、大型自動車免許だったはずなのに。
もし生き永らえたとしても、待っているのは重犯罪者としての極刑だけだ。
だが、それ以上に彼の心をナイフのように抉ったのは、故郷に残してきた家族の顔だった。
自分の素行不良や自由奔放な生き方のせいで随分と迷惑をかけ、今では絶縁状態にある年老いた母親と、漫画家志望の妹。
(――いや、待てよ。なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ?)
極限の絶望の中でなお、剛の脳裏にはドス黒い自己保身と他責の思考が醜く這い回る。
(悪いのは配送初日にこんな欠陥車を掴ませてきたあの運送会社だろ! ブレーキさえ壊れてなけりゃ、俺は今頃まじめに人生やり直せてたんだ! 俺は悪くない、運が悪かっただけだ、あいつらが全部悪いんだ……っ!)
他者を呪い、環境のせいにしなければ、己の魂の形を保てない。
彼はそれほどまでに、芯から歪みきっていた。
その時だった。
「《《また》》……またなんですか、武田さん……」
この世の終わりを体現したような凄惨な現場のただ中に、およそ不釣り合いなほど、鈴の音のように美しい声が響いた。
しかし、その響きには、一滴の同情も、哀れみも含まれていない。
ただただ退屈で、心底からウンザリしたような、冷徹な諦念が混じっていた。
「また……? またって何だ!? お前は誰だ!?」
剛が狂ったように虚空を見回すと、世界からすべての音が消失した。
火災の爆音も、サイレンの喧騒も、一瞬にして真空に吸い込まれるように消え去る。
あたりを支配したのは、光すら凍りつくような無明の闇。
剛の身体は、まるで見えない巨大な鋼の手に鷲掴みにされたかのように、指一本動かせなくなった。
闇の奥から、粉雪のような淡い光の粒子が舞い降りる。
それはゆっくりと収束し、輪郭の曖昧な、しかし神聖な女性のシルエットを形作った。
「はぁ……。記憶は転生の都度、消却しているので覚えていないのも無理はありませんが」
シルエットは、冷淡極まる口調で淡々と告げる。
「あなたがこうして自業自得の大惨事を引き起こして死ぬのは、これが初めてではない、ということです。色んな時代やシチュエーションでやり直しをしてきたんですが、すべて同じ結末ですね」
「意味が……分からねえよ……! 頼むから説明してくれ、俺は頭が悪いんだ!」
現実感のない説明に、剛は霊体の口を開けたまま慌てふためく。
しかし、シルエットの声は、彼の取り乱した言葉を無慈悲に切り裂いた。
「ええ、知っています。おまけに運も悪ければ人付き合いも下手。やる事なす事がすべて空回りして、自分語りを聞かせたら5秒で他人が嫌になるようなクズなんですよねぇ、武田さん」
「ぐぅ……っ」
痛いところを正確に抉られ、剛は喉を詰まらせる。
直後、彼の脳髄に、これまで都合よく「忘却の檻」に閉じ込めていた前世の生々しい悪業の記憶が、濁流となって強制的に逆流してきた。
――ガキ大将と身内を自称し、気の弱そうな同級生から小遣いを巻き上げては「俺が守ってやってるんだ」と本気でうぬぼれていた中学時代。
――仕事もできず職場で孤立していた自分を、唯一「お前は根は良い奴だから」と私生活まで面倒を見てくれた、あの優しい先輩の笑顔。
(やめろ……思い出したくない……!)
その先輩が大切にしていた恋人を、剛は「俺のほうが男として上だ」という歪んだ承認欲求のためだけに強引に誘惑し、寝取った。
裏切りが発覚した日、先輩が流した血の涙のような絶望の表情。
我に返った剛を襲った、凄まじい自己嫌悪。
その現実から逃げるようにパチンコと競馬に溺れ、雪だるま式に膨らんだ借金。
催促の手紙を破り捨て、泣きつく老いた母親の手を振り払ってアパートを飛び出し、夜逃げを繰り返した暗い足跡――。
それだけでは、なかった。
現世の醜い記憶に混ざり込むようにして、これまで彼が潰してきた『6生分』の、異なる時代の黒歴史の断片が、万華鏡のように脳裏で弾け飛んだ。
刀を振り回して街を恐怖に陥れた粗暴な浪人だった時代。
異国の戦場で仲間を裏切り、背後から刺した兵士だった時代。
詐欺的な甘い言葉で、領民から財を貪り尽くした悪徳商人だった時代――。
服装も、言語も、世界すら違う。
だが、そこにいるのはすべて、保身のために他者を踏みつけ、のぼせ上がってきた『武田剛』という男の、共通したクズの魂だった。
「違う……俺は、俺はそんなつもりじゃ……ただ、舐められたくなくて……っ」
霊体でありながら、剛は己のあまりの醜悪さに激しい嘔吐感を覚えていた。
自分を正当化するために塗り固めていた『天下無双のガキ大将』というハリボテの仮面が、6生分の真実の重みによって、跡形もなく木端微塵に粉砕されていく。
「本来なら、あなたの魂はここで地獄行き、あるいは完全な消滅が確定しているんです。なんか自分は悪くないって感じの都合の良い他責回想をしてましたけど、本当に救えないクズですわー……」
シルエットの纏う空気が、一瞬だけ、ゾッとするほどの嫌悪に染まる。
しかし、彼女は小さく溜息をつくと、信じられない言葉を口にした。
「ですが、不本意ながら、貴方がこれまでに遺した『功績』に免じて、もう一度だけ転生を行います。事故というか、ある意味では他殺のようなものですしね」
「他殺……!? トラックに細工でもされていたってのかよ! ていうか功績って、俺にそんなものがあるのか……?」
自嘲気味に、そして恐怖に震えながら問い返す剛に、シルエットはクスクスと、しかし刃物のように冷たい笑みを返した。
「いえ、悪行の功績ではありません。あなたがこれまでの『六生』の中で、トラック運転手として通算100人もの人間をはね飛ばし、異世界へ片道切符を送り届けた――その『特典』ですよ」
シルエットからは、判別できないはずの軽蔑の眼差しが突き刺さる。
「いやー見事なものですよ。これがなければ、今度こそ完全に消去できたのに」
心臓を素手で掴まれたような衝撃が剛を襲った。
人を異世界へ送る、最強の物理兵器。
前世で自分が無自覚に重ねてきた「はね飛ばした歴史」が、この世界のシステムにおいては「転生者を供給した功績」としてカウントされていたのだ。
「そんな……なんて不名誉な特典だよ。業が深すぎるだろ、俺の人生……っ」
「ハーイッ、うるせー!! もうこの世界では面倒見切れませんので、今ハヤリの異世界転生を行いまーっす!」
先ほどまでの冷徹なトーンから一転して、シルエットの女性はお調子者のような軽い口調で告げた。
直後、剛の身体が煌々と輝き始め、その輪郭が境界を失って光の粒子へと崩壊し始める。
四肢が水に溶ける砂糖塊のように消えていく恐怖が、剛の魂を貫いた。
「ま、待ってくれ! 俺はまだ、何も解決しちゃいない! 反省も、謝罪も,、何もかも――」
「向こうで『贖罪プログラム』を実行しますので、気兼ねなく、いくらでも後悔と反省を行ってくださいな。ではっ、いってらっしゃーい!」
アトラクションのスタッフのように軽薄な声が、無明の闇に響き渡る。
境界の消えゆく恐怖の中で、剛の叫びは光の渦に呑み込まれていく。
それが、武田剛という男の「過積載な人生」の第一幕が終わり――。
そして「アルデバラン」という、世界を救うための最悪の悪役演技へと引きずり回される、異世界リデンプションの幕開けだった。




