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道具に名前はいらない

 蜜蝋みつろうの匂いが満ちていた。


 百本以上の燭台が広間を照らし、空気が甘くあたたかかった。香水と料理の匂いが重なり、その底に必ず蜜蝋がある。七年間、この匂いの中で立ち続けてきた。


 ルイーゼは壁際で、静かに立っていた。


 宴席の喧騒はどこか遠い。貴婦人たちの笑い声、薄いグラスが触れ合う音、楽団の弦楽——すべてが、水の底で聞くような鈍さで届いた。


「失礼します」


 若い侍女がかたわらに来て、深くお辞儀をした。


「外交府のクレマン書記官が、署名の件でお時間をいただきたいと」


「三時間後にと伝えてください。宴が終わってから」


「はい」


 侍女は去りかけて、少し迷うように立ち止まった。


「……あの、お飲み物はよろしいですか。補佐役様は今夜もずっと立ちっぱなしで」


「結構です」


「そうですか。……失礼しました」


 侍女は行った。


 名前を、ルイーゼは知らなかった。七年間、侍女たちは入れ替わり立ち替わりで、誰もルイーゼに自分の名前を告げなかった——告げる必要がないのだろう。補佐役に用があるのであって、ルイーゼという人間に用があるわけではないのだから。


 それは正しかった。道具に、名前はいらないのだから。




 式台の向こうで、エドワード王太子は大臣たちの輪の中に立っていた。


 背が高かった。笑みが上手かった。誰に対してもほどよく親切で、誰に対してもほどよく傲慢だった。七年間、そうだった。変わらなかった。


 ルイーゼは視線を壁に戻した。


「あれは使えますか」と、傍らで声がした。


 振り向くと、中年の侯爵が立っていた。大臣の一人で、農業政策を担当する男だ。


「どうぞ」とルイーゼは答えた。「何でしょう」


「来月の試験場の報告なのですが」と侯爵は小声で言った。「数値の見方がわからなくて。補佐役様に説明していただければ」


「わかりました。明後日の午前中に、試験場で」


「助かります。いつも本当に助かる」


 侯爵は肩の力を抜いて、また宴の輪に戻っていった。


 助かる。


 その言葉が、ルイーゼの耳の中で奇妙な響きを持った。何百回も言われた言葉だった。しかしそれは「補佐役に助けてもらった」という意味であって、ルイーゼという人間への言葉ではなかった。


 七年間、ずっとそうだった。


 式台の方で、大臣の一人が恭しく口を開いた。


「殿下、来期の宮廷体制の件でございますが。補佐役の処遇を——」


「あの道具は、もう不要だ」


 エドワードは軽く手を振った。話が終わった、という動作だった。


「道具に名前はいらない。機能してくれればいい」


 大臣たちが頷いた。誰もルイーゼの方を見なかった。


 見る必要が、なかったから。


 壁際に、ルイーゼがいた。


 それだけのことだった。七年間の仕事が、エドワードの手を一度振るだけで終わった。大臣たちはすでに次の話題へ移っていた。宴席の喧騒は続いていた。グラスが触れ合い、弦楽が流れていた。


 七年前も、同じことを言っていた。


 別の宴で、別の話の中で、まったく同じ台詞を。あのとき十五歳だったルイーゼは、その言葉を自分のこととは思わなかった——いや、そう思わないようにした。


 今夜は違った。


 聞こえた瞬間、すとんと腑に落ちた。


 怒りではなかった。悲しみでもなかった。


 ただひとつ——もう遅い、という静かな確信が、胸の奥でひとつ固まった。




 宴が終わったのは、燭台が半分ほど燃え尽きた頃だった。


 廊下へ出ると、外交府の書記官が待っていた。五十がらみの、いつも額に皺を刻んでいる男だ。


「補佐役様、先日の条約改定の件ですが」と彼は書類を差し出した。「隣国の署名欄に誤りがありまして。代筆していただけますか」


「明朝、七時に外交府に参ります」


「ありがとうございます。本当に助かります。補佐役様がいなければ外交府は——」


「では明朝に」


 ルイーゼは会話を切って、廊下を歩いた。


 書記官が言いかけたことは知っていた。「補佐役様がいなければ外交府は立ち行かない」。七年間、何度も聞いた言葉だった。本当のことだった。しかし誰も、そこから先へは進まなかった。


 廊下の角で、またすれ違いがあった。社交部の副長官だ。


「補佐役様、ちょうど良かった」と彼は足を止めた。「来月の夜会の席順なのですが、ヴァルム伯爵家とニーア侯爵家の配置を確認していただけますか。あの二家はまだ揉めているので」


「明後日の午後三時に、社交部の部屋で」


「助かります。あなたがいなければ宴席は——」


「では明後日に」


 副長官の言葉を切って、歩いた。


 皆が同じことを言った。「あなたがいなければ」。それなのに誰も、「あなたは」とは言わなかった。道具というのは、そういうものだから。




 自室の扉を閉めると、沈黙が降りてきた。


 燭台の炎がひとつだけ揺れて、静止した。廊下の足音も、楽団の弦楽も、エドワードの笑い声も、何も届かなかった。部屋の中に、ルイーゼだけがいた。


 机の上に、七冊の台帳が積まれていた。


 外交文書の索引。人脈の覚書。魔法陣の維持記録。農業試験の報告書。調薬の処方控え。孤児院の収支帳。そして最後の一冊——綴じ紐が解けたまま、開いた頁が暗い部屋に白く浮かんでいた。


 王家の秘密。


 七年間、誰にも話さなかったことが、そこに書かれていた。


 三年目の冬だったか——ルイーゼは一度だけ、誰かに言おうとしたことがあった。もう続けられない、と。だが声が出なかった。その夜から、怒りも悲しみも、少しずつ薄れていった。薄れた末に残ったのが、今夜の「もう遅い」だった。


 扉を、誰かがノックした。


「どなたですか」


「農業試験場のマクベル主任です。申し訳ありません、こんな時刻に」と、扉の向こうで声がした。「来月の種麦の配給計画を確認していただきたくて」


「明日は取れません。再来月の一日に、試験場でお会いしましょう」


「わかりました。……ところで補佐役様、最近お顔色が優れないように見えますが」


 ルイーゼは少し間を置いた。


「大丈夫です」


「そうですか。それならよかった。いつも本当に助かっています。あなたがいないと試験場は——」


「では再来月に」


 足音が遠ざかった。


 顔色を心配してくれたのは、七年間でマクベル主任だけだった。ルイーゼは扉に手をついて、その言葉を一度、確かめた。心配してくれた。でも名前は、呼ばなかった。


 ルイーゼは扉から離れ、部屋の隅から旅行用の鞄を取り出した。七年前、この王宮に来たときのものだ。革の縫い目が白く浮き上がっていた。


 再来月の約束は、果たせない。


 そのことをマクベル主任はまだ知らない。農業試験場の者たちも、外交府の書記官も、孤児院の院長も——誰も知らない。明後日の午前中に侯爵と会う約束も、明朝七時に書記官に会う約束も、果たせない。


 詰めるものは少なかった。着替えを二着。薬草の小袋。金貨二枚——七年分の積み立てが、それだけだった。


 鞄が閉まった。


 部屋を見回した。


 台帳は積まれていた。棚の薬瓶は並んでいた。窓辺の刻印石は磨かれていた。七年間の痕跡が、きれいに整然と残っていた。どれも、置いていくものだった。


 壁の鍵掛けから、束ごと鍵を外した。


 外交府の書庫。農業試験場。魔法陣の維持小屋。孤児院の金庫。封印塔の管理扉。七年かけて増えた鍵が、一本の革紐に結ばれて、手のひらの中で冷たかった。


 台帳の上に、静かに置いた。


 カチン、と小さな音がした。


 七年分の重さが、それだけの音しかしなかった。




 夜明けの空が、青みがかった灰色だった。


 王都の城門を抜けるとき、ルイーゼは一度だけ立ち止まった。


 石畳の続く道が、朝の霧の中に伸びていた。門番の兵士がひとり、眠そうに立っていた。


「早いですね」と彼は言った。「どちらへ」


「辺境の方へ」


「お一人で?」


「はい」


「旅慣れてらっしゃいますか」


「……あまり」


「そうでしたか」と兵士は少し首を傾けた。「霧が出てますんで、道を外れないよう。三日ほど歩けば村があります。リムノという村で、村長のヘンリクさんに声をかければ泊めてもらえます」


「ありがとうございます」


「お気をつけて」


 初めてだった。


 七年間、「お気をつけて」と言われたことが一度もなかった。


 ルイーゼは少しの間だけ止まって、それから歩き出した。


 靴底に石畳の硬さが伝わってきた。


 ひとつ。またひとつ。


 霧の中を歩くと、王宮の灯りが後ろに遠ざかっていった。蜜蝋の匂いが、だんだんと薄くなった。朝の土の匂いが、代わりに鼻に届いた。


 王都の石畳が、やがて土の道に変わった。


 歩きながら、ルイーゼはひとつのことに気づいた。


 七年間。


 一度も泣いていなかった。


 今夜も、泣けなかった。


——泣き方を、もう覚えていないのかもしれない。


 そう思ったとき、心の中には何もなかった。


 怒りも、後悔も、悲しみも——ただ、霧の道が続いていた。


 三日歩けば、村がある。


 そこでは、誰かが自分の名前を尋ねてくれるかもしれなかった。そして初めて、自分でそれを答えられるかもしれなかった。


 ルイーゼ、と。


 ただそれだけの名前を、誰かに向けて口にできるかもしれなかった。


 振り返らなかった。


 振り返ったとして、何が見えるだろうか。


 王宮の窓には、まだ燭台の灯りが見えているかもしれなかった。廊下を足音が行き来しているかもしれなかった。明朝七時に来るはずの補佐役を、書記官が扉の前で待っているかもしれなかった。


 見たくなかった、わけではなかった。


 ただ——そこには、ルイーゼを呼ぶ声がなかった。七年間、なかった。これからも、なかっただろう。


 鞄の重さが、肩に伝わってきた。


 そのとき王都では、まだ誰も気づいていなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第一話は、ルイーゼが「出ていく」だけの話です。怒号も、涙も、感動的な啖呵たんかもない。ただ静かに鍵を置いて、朝霧の中を歩いていく。


この「無反応」を書きたかったのは、七年間の侮辱の本当の重さというのはそういうものだと思うからです。怒鳴ったり泣いたりできるうちは、まだ相手に感情のエネルギーを使っている。それすら消えてしまったとき——「もう遅い」は怒りではなく、静かな事実の確認です。


エドワードの台詞「道具に名前はいらない」は七年前から変わっていません。成長していない。それがある意味でこの物語のもっとも残酷なところだと思いながら書きました。


門番の「お気をつけて」——七年間一度も言われなかった言葉が、名前も知らない兵士から届く。ルイーゼはそこで初めて、自分がどれほど人として扱われなかったかを静かに受け取ります。


「泣き方を覚えていない」という一文が出てきた瞬間、ルイーゼという人物がいちばん明確になった気がしました。


次話から、彼女は辺境への道を歩みます。


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