第8話 旅立ちの日
旅に出ると決めてからの五年間は、思っていた以上に忙しかった。
ただ剣を振るい、勉強していただけの以前とは違う。
旅をするために必要なことを、一つずつ学んでいった。
まず最初に覚えたのは貨幣価値だった。
貴族として育った俺は、今まで自分で金を払ったことがない。
欲しい物があれば使用人が用意し、移動先も宿も全て誰かが整えてくれていた。
だが旅をするならそうはいかない。
貨幣の種類、一般的な物価、値切り方。
そういったことを平民出身の使用人たちに教えてもらった。
この世界の貨幣は銅貨、銀貨、金貨、大金貨、白銀貨の五種類。
一般的に使われるのは金貨までで、大金貨や白銀貨は国家間の取引や大商会同士の契約くらいでしか使われないらしい。
平民が白銀貨を見る機会は、ほぼないとか。
貨幣価値は意外と分かりやすかった。
銅貨三枚でパン一つ。
銀貨三枚で平均的な宿へ一泊。
一般家庭なら、一か月金貨十五枚あれば余裕を持って暮らせるらしい。
逆に金貨十枚だと少し切り詰める必要があるとか。
独身なら金貨十枚でもかなり余裕があるらしいので、前世の日本より物価は安いのかもしれない。
ちなみに金貨一枚が、大体一万円くらいの感覚だった。
宿にも色々ある。
安すぎる宿は治安が悪く、盗難や揉め事も多いらしい。
「絶対に金を惜しんで安宿に泊まらないでください」
平民出身の使用人に真顔で忠告された時は少し笑ってしまった。
だが、旅人を狙った犯罪は本当に多いらしい。
貴族として育った俺は、平民から見ればかなり危なっかしいようだ。
それから、剣の訓練も増えた。
ロベルトと共に連携訓練を行い、魔物との戦闘を想定した動きも覚えていく。
ロベルトは最初から距離感が近かった。
「お前、本当に公爵家の人間か?」
初めて二人で訓練した時、そんなことを言われたのを覚えている。
「どういう意味?」
「いや、もっとこう……偉そうかと思ってた」
「それ、かなり失礼じゃないか?」
そんな軽口を叩き合っているうちに、自然と打ち解けていった。
ロベルトは騎士団長の息子らしく剣の腕はかなり良い。
身体強化魔法との相性も抜群で、訓練では何度も地面に転がされた。
その代わり、勉強は苦手らしい。
「文字見てると眠くなる」
と真顔で言うので、流石に呆れた。
そんなロベルトと、「いつかどこへ行きたいか」を話す時間は楽しかった。
海を見たい。
雪国へ行きたい。
巨大迷宮を見てみたい。
話しているうちに、ただの護衛というより友人に近い存在になっていた。
そして、適正魔法についても少しずつ理解が深まっていった。
魔眼は相変わらず常時発動状態だった。
最初は鬱陶しかったが、今では半分無意識で情報を整理できるようになっている。
空間魔法は、かなり便利だった。
物を異空間へ収納できるだけでなく、一度行ったことのある場所へ瞬時に移動できる。
短距離なら瞬間移動のような使い方も可能だった。
異空間に収納は条件がある。
生き物は収納できない。
人間はもちろん、小さな虫でさえ入らなかった。
植物は根から抜けば収納できたので、“生きている”判定が関係しているのだろう。
さらに異空間内では時間停止が働いていた。
つまり、出来立ての料理をそのまま保存できる。
大量に食料を備蓄しておけば、餓死の危険はかなり減る。
(……旅との相性、良すぎないか?)
最初に気づいた時は本気で驚いた。
テイム魔法については、ほとんど試せなかった。
街中の魔物は既に誰かが契約しているものばかりだからだ。
勝手に契約すれば大問題になる。
召喚魔法も同じだった。
何が出るか分からない上、危険な魔物だった場合被害が出る可能性がある。
結局、この二つは旅先で試すしかないという結論になった。
そして――。
気づけば五年の月日が流れていた。
長かった冬が終わり、春の暖かな風が吹き始めた頃。
俺は、ついに旅立ちの日を迎えていた。
屋敷の玄関前には家族と使用人たち、それから騎士団長が集まっていた。
「父上、母上、リュシカ。行ってきます」
そう言うと、母上が少し寂しそうに微笑む。
「行ってらっしゃい、レオルド。それからロベルト、あなたも気をつけるのですよ」
「はい、奥様」
ロベルトは真面目な顔で頭を下げた。
「レオルド様のことはお任せください」
「ロベルト」
騎士団長が息子を見る。
「レオルド様を頼んだぞ」
「分かってるよ、父上」
「次に会う時は、少しくらい成長した姿を見せてくれ」
「努力する」
そう言いながら笑うロベルトを見て、騎士団長もどこか安心したようだった。
視線を横へ向ける。
そこにはリュシカがいた。
去年、無事に鑑定の儀を終え、正式に火魔法適性が確認された。
今はランハード公爵家の跡取りとして勉強の日々を送っている。
「リュシカ、行ってくるね」
「兄様……」
今にも泣きそうな顔だった。
「来年の収穫祭には戻ってくるよ」
「……本当ですか?」
「もちろん」
しゃがみ込み、目線を合わせる。
「また一緒に勉強もできる」
「……約束ですよ?」
「約束だ」
リュシカは唇を噛みながらも、必死に笑顔を作って頷いた。
「だからそれまで、リュシカにできることを頑張れ」
「……はい!」
少しだけ強い声で返事をする。
きっと、この子なりに必死なのだろう。
そんな弟の頭を軽く撫で、今度はエリーへ視線を向ける。
「エリーも今までありがとう」
「いいえ。私は侍女として当然のことをしただけです」
「戻ってきた時は、またお茶を淹れてくれる?」
そう言うと、エリーは少し目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。
「はい。いつでも“おかえりなさい”をお待ちしております」
その言葉に胸が温かくなる。
本当に、この屋敷は居心地が良かった。
辛いこともあった。
苦しいこともあった。
それでも、家族も使用人たちも優しかった。
「レオルド」
最後に父上が声をかける。
「怪我と体調には気をつけなさい。無理だけはするな」
「はい」
「いつでも帰りを待っている」
真っ直ぐな言葉だった。
「……ありがとうございます、父上」
自然と頭が下がる。
皆の顔をゆっくり見渡す。
家族。
使用人。
十五年間を過ごした、大切な場所。
そして俺は、ロベルトと共に玄関を出た。
広い庭園を歩き、正門へ向かう。
春風が心地いい。
門番たちにも挨拶を交わし、最後に一度だけ振り返る。
巨大なランハード公爵邸。
生まれ育った家。
もう以前のように毎日帰ることはない。
それでも――。
「行ってきます」
小さく呟く。
そして俺は、ロベルトと共に街の中心へ向かって歩き出した。
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