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跡取りになれなかった公爵嫡男は、前世の夢だった“自由な旅”を選ぶ  作者: みのり
三章 湖畔の街ルグレイス

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第35話 湖の主

 湖の主―ノクスレヴィアの黄金の瞳がゆっくりと開かれる。

 その視線が真っ直ぐこちらへ向けられた瞬間、凄まじい重圧が周囲へ広がった。


「っ……!」


 思わず息が詰まる。

 威嚇されているわけでもないし殺気も感じない。

 だが、存在そのものが圧倒的だった。

 少しでも気を抜けば意識を持っていかれそうになる。

 ライオネルとロベルトも顔を強張らせていた。


『……人の子か』


 低く重い声が脳内へ直接響く。


「!?」


 念話か。

 いや、これはもっと強制的なものだ。

 頭の中へ直接声を流し込まれている感覚に近い。


『何故、人の子がここへ来た?』


 警戒はしているが敵意はない。

 俺は慎重に口を開いた。


「湖の異変を調べに来た。魚が毒に侵されているらしくてな」


『……そうか』


 ノクスレヴィアはゆっくり目を閉じる。

 その動作だけで巨大な水流が発生した。

 改めて見ると本当に大きい。

 全長は軽く数十メートルを超えているだろう。

 湖の主と呼ばれるのも納得だった。


「見たところ、お前もかなり苦しそうだな」


『……ああ。そろそろ限界だ』


 ノクスレヴィアの身体から黒い靄のような毒素が漏れ出している。


『数年、この湖へ撒かれた毒を我が引き受けてきた』


「……数年?」


 最近始まった事じゃないのか。


『我らの感覚では短い時間だ。だが人の尺度では長かったのだろうな』


 なるほど、寿命の差か。

 長命種と人間では時間感覚が違う。

 それにしても―数年間、ずっと毒を抱え込んでいたのか。


「どうしてそんなことを」


『湖に生きるものたちを守るためだ』


 ノクスレヴィアは静かに答える。


『本来なら魚も魔物も既に死に絶えていた。我が毒を引き受け続けたから、まだこの程度で済んでいる』


 その言葉に周囲を見る。

 弱った魚。汚染された湖底。

 確かに限界寸前だ。

 もしノクスレヴィアがいなければ、湖全体が死んでいた可能性すらある。


『だが、もう限界だ』


 巨大な身体が僅かに震える。


『毒を抑えきれぬ』


 このままなら暴走する。


「……エーテルキャット」


 俺が呼ぶと、小さな白銀色の猫が前へ出る。


『ご主人、浄化を行いますか?』


「ああ。ノクスレヴィアの体内にある毒を取り除けるか?」


『私だけでは困難です。ライオネル様、光魔法でサポートをお願いできますか?』


「ああ、もちろんだ。タイミングは任せる」


 ノクスレヴィアがゆっくりとこちらへ視線を向ける。


『……助けるのか?』


「見捨てる理由がない」


 それに、この湖の主が暴走したらルグレイスの街が終わる。

 どちらにせよ放置はできない。


『ふふ……変わった人の子だ』


 ノクスレヴィアは小さく笑った。


『ならば頼もう』


 エーテルキャットが前へ出る。

 その身体から淡い白銀色の光が溢れ始めた。


『浄化を開始します』


 次の瞬間、光が湖底へ広がる。

 黒い毒素と白銀の光がぶつかり合い、水中が激しく揺れた。


「うぉ……!」


「すげぇな……」


 ライオネルが目を見開く。

 ノクスレヴィアの身体から黒い靄が徐々に剥がれ落ちていく。

 だが、それと同時にエーテルキャットの表情も険しくなっていた。


『……毒の量が多いです』


 数年間蓄積された毒だ。当然か。

 数秒後。


『ライオネル様、今です!』


 ライオネルの魔力が一気に膨れ上がった。


「光よ、癒しとなれ――《ヒールライト》!」


 黄金色の光が湖底を照らす。

 その光がノクスレヴィアを包み込んだ瞬間、苦しげだった表情が少し和らいだ。

 黒い毒素が次々と消えていく。

 重苦しかった圧力がゆっくり薄れていった。


『……終わった、か』


 ノクスレヴィアが深く息を吐く。

 先ほどまで濁っていた魔力もかなり安定していた。


『助かった』


 黄金の瞳が静かにこちらを見る。


『久しく感じていなかった軽さだ』


 どうやら成功したらしい。


「良かった」


『感謝する、人の子よ』


 だが、ノクスレヴィアの視線はすぐに湖全体へ向けられた。


『だが、問題は終わっていない』


 黒い毒素は依然として湖中へ漂っている。


『我の毒を癒しても、この湖が汚染されたままでは再び同じことになる』


 それはそうだ。

 根本的な原因が解決していない。


「湖全体の浄化か……」


 正直、かなり厳しい。

 湖は広い。毒も既に全域へ広がっている。


「ティル、ノア。どう思う?」


『うーん……難しいねぇ』


『エーテルキャットの浄化でも湖全体は厳しいわ』


 ノアが真面目な顔で続ける。


『半分浄化できればいい方じゃないかしら』


 つまり、現状の戦力だけでは足りない。


「……一度ギルドへ戻るか」


 ロベルトの言葉に頷く。


「俺たちだけじゃ限界があるな」


「国レベルで動かないと無理そうだしな」


 俺はノクスレヴィアへ向き直る。


「俺たちは一度戻る。お前は大丈夫か?」


『毒は消えた。しばらくは問題ない』


 その声は先ほどよりずっと穏やかだった。


「必ず何とかする」


『……期待している』


 俺たちは湖上へ戻った。

 冒険者ギルドへ戻ると、ギルド長は驚いた顔をした。


「もう戻ったのか」


「色々分かりましたよ」


 俺たちは湖底で見たことを全て話した。

 湖の毒。《黒蛇》の関与。

 そして湖の主、ノクスレヴィアの存在。

 話を聞き終えたギルド長は深く息を吐いた。


「まさか湖の主まで毒に侵されていたとはな……」


「かなり危険な状態でした」


「湖全体の浄化となると、この街だけでは無理だ。領主……いや、国へ報告する必要があるな」


「その方がいいでしょうね」


 ギルド長は頭を抱える。


「ご苦労だった。調査と湖の主の毒を癒した報酬として金貨十五枚を支払おう」


「ありがとうございます」


 俺たちは礼を言い、一旦宿へ戻ろうとした。

 ――その時だった。

 外が妙に騒がしい。


「……?」


 次の瞬間。


 バンッ!!

 勢いよく扉が開かれ、ギルド職員が飛び込んできた。


「ギルド長!!大変です!!」


「どうした!?」


「湖の主が暴れています!!」


 空気が凍りついた。


「何だと!?」


「突然です!湖付近にいた人たちは避難させましたが、怪我人が多数出ています!!」


 ありえない。

 ノクスレヴィアの毒は浄化したはずだ。

 あの時も理性は保っていた。

 なのに、何故。


「……っ!」


 嫌な予感が走る。


「ギルド長、俺たちは湖へ向かいます!」


「待て!危険だぞ!」


「住民の避難を優先してください!」


 返事を待たず、俺たちはギルドを飛び出した。

 街の人々が悲鳴を上げながら逃げている。

 遠くから巨大な水柱が見えた。

 そして――。

 湖の中心部で、巨大な黒い影がゆっくりと姿を現していた。

読んでいただきありがとうございます!

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