第20話 海猫亭
冒険者ギルドを出た俺たちは、そのまま隣にあるという宿屋へ向かった。
言われた通り、本当にギルドのすぐ隣だ。鳥とベッドが描かれた看板の下に、小さく“海猫亭”と書かれている。
「本当に隣だったな」
「近くて助かるけどな」
ロベルトがそう言いながら扉を開ける。
中へ入ると、潮風と料理の匂いが鼻をくすぐった。港町だからか、どこか魚介の香りが混ざっている。
受付には恰幅のいい男性が座っていて、分厚い本を読んでいた。年齢は四十代くらいだろうか。俺たちに気づくと穏やかな笑みを浮かべる。
「いらっしゃい。お泊まりですか?」
「はい。泊まりたいんですが」
「何泊の予定で?」
「とりあえず七泊でお願いします。それと、従魔二頭と獣人のこの子も一緒なんですが、大丈夫ですか?」
従魔を部屋に入れられない宿は多い。獣人に対しても良い顔をしない店は少なくない。
だが男性は特に嫌そうな顔もせず頷いた。
「ええ、構いませんよ。部屋は四人部屋と二人部屋がありますが、どうされます?」
「四人部屋でお願いします」
「かしこまりました。一泊銀貨十二枚。七泊で銀貨八十四枚ですね。冒険者の方ならギルドカード提示で割引もありますが」
「あ、それなら三人とも持ってます」
三人分のギルドカードを渡す。
男性は確認すると、慣れた様子で計算した。
「では三割引で銀貨五十八枚と銅貨八枚になります」
「はい」
料金を払い、鍵を受け取る。食事は部屋まで持って来てもらうよう頼み、俺たちは二階へ向かった。
部屋は思っていたより広かった。簡素だが清潔感があり、窓からは港が少し見える。ベッドも四つ並んでいて、しばらく滞在するには十分だ。
部屋に入るなり、俺は鍵を閉め、その上から空間魔法で簡易結界を張る。
淡い光が一瞬だけ部屋を包み込み、すぐに消えた。
「どうした? 鍵だけじゃ駄目なのか?」
ロベルトが不思議そうに聞いてくる。
「いや、受付の男の人、信頼度が二十だったんだよ」
「……低いな」
「ギルド長の妹さんの旦那さんなのは本当みたいだけど、一応念のため」
信頼度二十。
前の王都ギルドの受付嬢と同じくらい低い。
ただ、今回は別に悪意を感じたわけじゃない。むしろ対応自体は丁寧だった。
だから余計に気になる。
「その信頼度って、結局誰基準なんだろうな」
「分からないんだよなぁ」
職場からの信頼なのか、家族からの信頼なのか、周囲全体なのか。
魔眼は便利だけど、たまに説明不足すぎる。
「まあ、とりあえず結界張ったし、少し休むか」
ベッドへ腰を下ろしたところで、ラナがおずおずと手を挙げた。
「あの、お兄さんたち」
「ん?」
「あたしに文字とか、計算とか教えてくれない? その……疲れてなかったらだけど」
遠慮がちな声だった。
俺は少し驚く。
スラムで暮らしていたなら、生きることで精一杯だったはずだ。なのに文字を覚えたいと思ったのか。
「いいよ」
「え?」
「やることもないし、文字は読めた方が絶対いい。計算もできれば騙されにくくなる」
俺がそう言うと、ラナはぱっと顔を明るくした。
「ほんと!?」
「ああ。ロベルト、紙とペン貸して」
「はいはい」
荷物から筆記用具を取り出し、机へ向かう。
ラナは最初かなり緊張していたが、一文字ずつ教えていくと真剣な顔で覚え始めた。
「これは“あ”」
「あ……」
「こっちは“い”」
「い」
意外と飲み込みが早い。
獣人だからなのか、元々頭がいいのか。
ルナとノアも興味津々で机の周りに集まっていた。
『ラナ、がんばれ』
『字を覚えると色々な本を読めて面白いわよ』
「ノア、字読めるの?」
『当然よ』
偉そうである。
ライオネルはソファーに座って本を読みながら、時々こちらを見て笑っていた。
「平和だな」
「お前、王族だったんだからもっと緊張感ある生活してただろ」
「だから今が楽しいんだ」
ライオネルはそう言って笑う。
確かに、こうして友人たちと宿で過ごすなんて、王族なら滅多にできなかったのかもしれない。
そんな風に過ごしているうちに、窓の外が少しずつ赤く染まっていった。
夕陽が海へ沈み始め、東の空が藍色に変わっていく。
その頃、部屋の扉がノックされた。
「夕食をお持ちしました」
「はい」
扉を開けると、料理を乗せたワゴンを押した女性が立っていた。
どこかギルド長に雰囲気が似ている。
「お待たせ。今日の夕食は白身魚の蒸し焼きとポークソテー、パンとスープだよ」
魚の良い匂いが漂ってくる。
ラナ、ルナ、ノアの目が一瞬で料理へ向いた。
「ありがとうございます。もしかしてギルド長の妹さんですか?」
「ああ、そうだよ」
女性は朗らかに笑った。
「姉さんから話は聞いてる。面倒な依頼を引き受けてくれたんだって?」
「あー……まあ」
圧に負けたとは言えない。
「姉さん、すごく喜んでたよ。海魔物のせいで漁師たち困ってたからね」
「頑張ります」
「頼んだよ」
女性は笑った後、ふと思い出したように言う。
「そういえば、受付にいた男、うちの旦那なんだけど、何か失礼なことされなかったかい?」
「いえ、丁寧でしたよ」
「そうかい。それならよかった」
やっぱり旦那さんだったのか。
でも信頼度二十。
奥さんからの信頼が低いのか? 本当に基準が分からない。
「じゃあ、ごゆっくり。食べ終わった皿は外に置いておいてくれればいいから」
「はい、ありがとうございます」
料理が並べられると、ラナたちの目が完全に夕食へ固定された。
「……食べていい?」
「誰も取らないから大丈夫」
そう言った瞬間、ラナは勢いよく食べ始めた。
ルナも負けじと肉へ飛びつく。
ノアは見た目は上品なのに、食べる速度はかなり速い。
「ルナとノア、それだけで足りるか?」
『今日はいいわ』
『狩りで食べすぎた』
今日の食事量、普段の三分の一くらいなんだけど。
どれだけ狩って食べたんだ。
食後はまた少しだけラナへ文字を教えた。
ラナは一生懸命ノートへ文字を書いていく。
「上手くなってきたな」
「ほんと!?」
「ああ。この調子ならすぐ読めるようになる」
嬉しそうに笑うラナを見て、何となく胸が温かくなった。
それからルナとノアを撫で回しているうちに、段々眠気が襲ってくる。
『もっと撫でなさい』
『僕もー』
「はいはい」
柔らかい毛並みを撫でながら、俺はぼんやり思った。
旅に出る前は、こんな風に誰かと笑いながら夜を過ごす未来なんて想像もしていなかったな、と。
窓の外では、港街の波音が静かに響いていた。
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