第二話 あなたを誘惑させて
「いいか、アイリス。男を翻弄したいなら、言葉よりも『間』を使うんだ」
ライアンはアイリスの背後に立ち、彼女の細い腰に手を添えた。
ダンスの練習ではない。彼はアイリスを鏡の前に立たせ、自分の方を向かせた。
「……こう、かしら?」
アイリスは教わった通り、少しだけ首を傾け、潤んだ瞳でライアンを見上げる。
唇をわずかに開き、何かを言いかけて止める。ライアンが教えた『誘いの表情』だ。
「……及第点だ。だが、その時に相手の服の裾を、ほんの少しだけ掴むといい」
ライアンの声が、これまで聞いたことがないほど掠れていた。
アイリスは言われるがまま、ライアンの騎士服の袖を指先でキュッと握る。
その瞬間、ライアンの大きな手がアイリスの手を上から包み込んだ。
「ひっ……」
「動くな。……男は、こういう弱々しい抵抗に弱い。そして、こうして耳元で囁かれたら、逃げずに目を閉じるんだ」
ライアンの顔が近づく。熱い吐息が耳朶をくすぐり、アイリスは背筋にゾクゾクとした震えを感じた。
(おかしいわ。これ、練習なのに……心臓が、耳のすぐそばで鳴っているみたい)
オードリック王太子を誘惑するための練習。
そう自分に言い聞かせているのに、アイリスの頭に浮かぶのは、オードリックの華やかな笑顔ではなく、目の前で自分を射抜くように見つめるライアンの、琥珀色の瞳だけだった。
「ライアン、あの……これ、本当に王太子様にも効くのかしら?」
「……さあな。だが、少なくとも俺なら、こんな顔をされたら正気ではいられない」
ライアンは自嘲気味に笑い、アイリスの髪を一房掬って、その先に唇を落とした。
アイリスの顔が、一気に沸騰したように赤くなる。
「そ、そんなところまで教わらなくても!」
「『悪い女』になりたいんだろう?殿下は、もっときわどいことをしてくるはずだ。その時に動揺して逃げ出すようじゃ、公爵令嬢の名が廃るぞ」
ライアンの言葉は正論だった。
しかし、アイリスは言いようのない焦燥感に駆られていた。
ライアンに触れられるたび、教わった技術を身につける喜びよりも、彼の手の熱さや、彼から漂うサンダルウッドの香りに意識が持っていかれてしまう。
(練習だから。幼馴染だから。……そうよね?)
数週間後。
アイリスの『教育』は、最終段階に入っていた。
ライアンは、アイリスに『扇の使い方』や『酒の注ぎ方』、そして『男性の膝に手を置く際の間合い』を徹底的に叩き込んだ。
だが、ライアンが決して許さなかったことが一つだけある。
それは、『唇を重ねること』だ。
「……ライアン、一番大事な『口づけ』の練習をしていないわ」
アイリスが意を決してそう切り出した時、ライアンの表情は一瞬で氷のように冷えた。
ライアンは、アイリスの無垢な瞳を見つめたまま、拳を強く握り締めた。
彼女は幼馴染だから安全と、何の疑いもなく身を預けている。
その信頼の上に立っている自分が、もし一線を越えれば――それは教育ではなく、ただの搾取だ。
「……それは、本番で殿下とすればいい」
「でも、経験がないと失敗してしまうかもしれないし、あの方を幻滅させてしまったら……」
「アイリス!」
ライアンが声を荒らげた。
驚いて目を見開くアイリス。
ライアンはすぐに我に返り、顔を覆って深く息を吐いた。
「……悪い。だが、それだけは教えられない。……俺には、無理だ」
「ライアン……?」
彼が何を拒んでいるのか、アイリスには分からなかった。
ただ、彼の背中がひどく寂しそうに見えて、アイリスは胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「……分かったわ。口づけは、自分でなんとかするわね」
アイリスがそう答えると、ライアンは力なく頷いた。
その翌日、アイリスのもとに、待望の……そして運命を変える招待状が届く。
『今度の週末、二人きりで庭園を散策しないか?――オードリック』
ついに、練習の成果を試す時が来たのだ。
アイリスは喜び勇んでライアンに報告したが、彼はただ、いつになく静かな声で「頑張ってこい」とだけ言った。
その時のライアンの瞳が、今にも泣き出しそうなほど悲しげだったことに、アイリスは気づかない振りをすることしかできなかった。
ついに迎えた、オードリック王太子とのデート当日。
王宮の秘密の花園は、色とりどりの薔薇が咲き誇り、甘い香りに包まれていた。
アイリスはライアンとの特訓で身につけた、もっとも自分を美しく見せる角度、そして『悪い女』らしい、少しだけ隙のあるドレスに身を包んで現れた。
「やあ、アイリス。今日の君は、いつになく艶やかだね」
オードリック王太子が、見惚れたような表情でアイリスの手を取った。
いつもなら、その熱い視線に赤面して俯いていただろう。
けれど今のアイリスは、ライアンに教わった通り、ふわりと微笑んでから、わざと視線を外してみせた。
「……殿下にそう言っていただけるなんて、光栄ですわ」
伏せた睫毛の隙間から、上目遣いで彼を追う。
ライアンが『男を狂わせる』と言ったその視線を向けられたオードリックは、あからさまに喉を鳴らし、彼女の腰を引き寄せた。
「おや、そんな顔もできるのか。……これまでの君は、少しばかり堅苦しすぎたと思っていたが」
オードリックの腕がアイリスの細い腰に回る。
その瞬間、アイリスの脳裏を過ったのは、連日の特訓で感じた『ライアンの手の感触』だった。
ライアンの手は、剣を握るタコがあり、ゴツゴツとしていて熱かった。
それに対して、オードリックの手は驚くほど滑らかで、どこか冷たい。
(……あれ?)
アイリスは違和感を覚えた。
オードリックが耳元で甘い愛の言葉を囁く。
ライアンに教わった『間』を使い、アイリスは彼を見つめ返す。
オードリックの顔が近づき、彼特有の高価な香水の匂いが鼻を突いた。
(ライアンは、もっと落ち着く……木のような、日向のような匂いがしたのに)
オードリックが彼女の頬を撫でる。
ライアンに触れられた時は、あんなに心臓が跳ね上がり、呼吸が苦しくなったのに。
今のアイリスの心臓は、驚くほど冷静に、規則正しく時を刻んでいた。
「アイリス、君をもっと知りたくなった。……あちらの東屋で、二人きりにならないか?」
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