第一話 悪い女になるために
「……ライアン、お願い。私を、『悪い女』にしてちょうだい」
公爵家の広大な庭園、その一角にある東屋に、アイリス・ヴァレンタインの声が響いた。
対面に座っていたライアン・ヴァン・アシュードは、口に含んだばかりの紅茶を危うく吹き出しそうになった。
騎士団の若き副団長として、日頃からどんな魔物や暴漢を前にしても眉一つ動かさない彼だったが、幼馴染の突飛な発言には抗えない。
「……アイリス。今、なんと言った?」
「ですから、私に『男の人を惑わす術』を教えてほしいと言ったのよ」
アイリスは大真面目だった。
彼女は、金糸を紡いだような美しいブロンドと、春の湖を思わせる瞳を持つ、社交界でも一際目を引く公爵令嬢だ。
これまで『非の打ち所がない淑女』として育てられ、王太子オードリックの婚約者候補として最有力と目されてきた。
しかし、アイリスは昨日、見てしまったのだ。
夜会を抜け出した先のバルコニーで、オードリックが名もなき男爵令嬢の腰を抱き、耳元で淫らな囁きを落としている姿を。
そして、その令嬢が頬を赤らめ、とろんとした瞳で彼を見つめる様子を。
「オードリック様は、清純なだけの女には飽きていらっしゃるのよ。あの方の周りには、いつも情熱的で、駆け引きの上手な女性たちが溢れているわ」
アイリスは拳を握りしめ、身を乗り出した。
「私、あの方に相応しい女性になりたいの。今のままじゃ、退屈な置物だと思われて終わってしまうわ。だから、ライアン。女性の扱いになれている……その、あなたに手解きをしてほしいのよ」
ライアンはこめかみを指で押さえた。
「……俺が女性の扱いになれているだと?どこからそんなデマを」
「だって、ライアンは格好いいもの。騎士団でもご令嬢たちの視線を独り占めしているって聞いているわ。実際、今のあなたなら、私をドキドキさせることくらい簡単にできるでしょう?」
アイリスは無邪気に、そして残酷にそう言った。
ライアンは内心で深い溜息をつく。
彼が他の女性に目もくれず、剣を振り、公務に励んでいるのは、すべて「公爵令嬢であるアイリスの隣に立っても恥ずかしくない男」になるためだ。
幼い頃から、彼はアイリスだけを愛していた。
だが、彼女は彼を『一番信頼できる幼馴染』という、鉄壁の聖域に閉じ込めている。
(……よりによって、別の男のために『悪い女』になりたいだと?)
ライアンの瞳に、かすかに暗い色が宿る。
拒絶するのは簡単だ。
だが、もしここで断れば、彼女は他の男……それこそ、下心に満ちた軟派な貴族に同じ頼み事をするかもしれない。
それだけは、死んでも避けなければならない。
「……後悔しないか、アイリス」
ライアンの声が、少しだけ低くなった。
「ええ、もちろんよ!私は真剣だわ。ライアンになら、何から何まで預けられるもの」
アイリスはライアンの葛藤など露知らず、満面の笑みを浮かべる。
ライアンはゆっくりと立ち上がり、アイリスの座る長椅子の前まで歩み寄った。
そして、彼女の逃げ場を塞ぐように、その横に腰を下ろす。
「……いいだろう。そこまで言うなら、教えてやる」
「本当!?さすがライアン、頼りになるわ!」
「ただし」
ライアンの大きな手が、アイリスの白い頬に触れた。
指先が耳たぶをかすめ、首筋をなぞる。それだけの動作なのに、アイリスの身体に微かな電流が走った。
「淑女の教育とはわけが違う。俺が教えるのは、男を狂わせるための……不道徳な振る舞いだ。練習とはいえ、優しく扱う自信はないぞ」
「そ、それは……望むところよ」
アイリスは強がってみせたが、至近距離で見つめるライアンの瞳があまりに熱く、射抜くような鋭さを持っていて、思わず息を呑んだ。
いつもは爽やかな兄のように笑う彼が、今は全く別の生き物に見える。
「……まず、一つ目だ。男を誘いたいなら、そんな風に真っ直ぐ目を見てはいけない」
ライアンが顔を近づける。鼻先が触れそうな距離。
「視線を少しだけ伏せて、睫毛の影を見せるんだ。そして、わざとらしくなく、でも誘うように……こうして、上目遣いで相手を追う」
ライアンが手本を見せるように、アイリスの顎を掬い上げた。
アイリスは心臓がうるさいほどに脈打つのを感じた。
(……おかしいわ。これ、練習なのよね?なのに、どうしてこんなに苦しいの?)
「アイリス、顔が赤いぞ。……これだけで音を上げるなら、オードリック殿下の前になど出さないほうがいい」
「あ、赤くないわ!続けてちょうだい。私、完璧に習得してみせるんだから!」
ライアンは、アイリスの潤んだ瞳と、微かに震える唇を見つめ、自身の理性を総動員して欲望を抑え込んだ。
彼女を誰にも渡したくない。
だが、彼女が『悪い女』を演じようとするたびに、彼女の隙は増え、自分への無防備な信頼が牙を剥く。
「……分かった。では、次は『触れ方』だ」
こうして、公爵令嬢アイリスの、方向性を激しく間違えた自分磨き……
そして、ライアンにとっては拷問のような『特別講義』が幕を開けたのだった。
その日から、公爵邸の図書室は二人の『密室』となった。
本来、未婚の男女が二人きりになるのは憚られるが、幼馴染という免罪符と、ライアンへの絶対的な信頼がアイリスの父である公爵を黙らせていた。
それがライアンにとって、どれほど残酷な特権かを知る由もなく。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




