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8-3

 海を見た、あの日。

 クイは、父親と大喧嘩をした。

 何が原因だったかは、もう覚えていない。でも、自分をいちいち否定してくる父に耐え切れなくなって、その日、クイは家を出る決心をした。

(もう、嫌だ!)

 母はもういない。先代軍将も死んでしまった。兄弟たちはもう、父が望む立派な結界士だし、彼らの兄弟として醜聞をまき散らしながら生きるぐらいなら、外界で野垂れ死んだ方がいい。外界なら、誰も文句を言わない。死体も魔獣が片付けてくれる。

(さよなら!)

 クイは、手あたり次第、食料とクズ結界石を鞄に詰め込んで、家を飛び出した。障壁をよじ登り、アムイリア領軍の制止を振り切って、外界へと走り出す。

 家が遠くなればなるほど、自分を縛っていた現実から解放されていくような気がした。自分の選択を後悔する気はない。

 なのに、何だろう。

 どうでもいいことが、頭から離れない。

 クイは立ち止まって、後ろを振り返った。

 外界の荒野の向こうに、小さくアムイリア領の障壁が見える。その向こうにアムイリア領があり、そのずっと先に、王都がある。

「どうでもいいけど、変な国だったな。」

 アムイリア領で暮らしている分には、気にもならなかった。だけど、今振り返ってみれば、変わった国だったなと、今更ながら思う。


 それが気になっていたのは、一年ほど前の事だ。

 あの頃、妹に王族との縁談が持ち上がって、クイは、妹の結婚相手はどんな人なんだろうと、調べ始めたのがきっかけだった。

 そこで、クイは、初めて「知らない」ということに気がついた。クイは、妹の結婚相手の名前どころか、王の名前さえしらない。結婚相手と王との関係も、王の家族構成も、いつ即位したかも、実は何も知らないまま暮らしていた。

 初めは、てっきり勉強をさぼっていたせいで、学び損ねたんじゃないかと思った。が、そうでもないことはすぐにわかった。誰に聞いても、皆、知らないと答えたのだ。試しに、旅商人たちに訊いてみても同じだった。どの領地の学校も、自領の領史は学ぶが、王国史は学ばない。そのうち、国王直轄地出身の商人に会うことがあって、同じ質問をして速攻で怒られた。「王に関わる話を口にするのは、不敬に当たる。」と。

 そのとき、クイは不思議に思った。

 巨大な結界で王国を守ってくれている王を、国民が知らないままでいいのだろうか、と。

 よくよく考えれば、この国がいつ興ったのかも、クイは知らなかった。それっぽい神話も聞いたことがない。年号も、最古の領地であるアリシア領暦が使われている。では、アリシア領より古いはずの、この国の始まりは、一体どこに消えてしまったのか。

(この辺の事、全部禁忌なら、この国は、知っちゃいけないことが多すぎる!)

 知らないという事を知って、クイは腹が立った。

 が、結局、妹の縁談が白紙になって、どうでもよくなった。

 王や国のことは、普通に暮らしている分には関りがない。

 たぶん、今思い出さなければ、忘れてしまっていた事も忘れていたのだろう。

(ううう。)

 でも思い出してしまった。

 思い出したがために、急に気になってきた。

 この辺をスッキリさせないと、死んでも死にきれないような気がしてくる。

(よし、この国の外へ行ってみよう。)

 クイは、外界の向こう側へ行こうと心に決めた。

 他国から見れば、きっと、この国の事も分かるはず。

 はるか昔、この国の先祖たちが外界を越えて、この地にやってきたように、比較的瘴気に耐性のあるクイが生死をかけて挑むのだ。やってできないことはない!

 

 クイは、若いオスのムンガリを捕まえて、その背に跳び乗った。

 外界の奥へ奥へ。

 ひたすらムンガリを走らせると、だんだん瘴気が濃くなってきた。切り裂く空気も重くなり、次第に息が苦しくなってくる。クイは、兄弟たちが練習用に作った結界石を使って、自分の周りだけを浄化して、なおも外界の奥へひた走った。

 結界石がなくなったら窒息死する濃度だったが、帰りのことを考えていなかったので、怖いとは思わなかった。

 そのうち、周りの木々の藍色がどんどん深くなり、感じたこともないような凶悪な魔獣の気配をそこかしこで感じるようになった。立ち止まったら、ムンガリもすくんで動けなくなっただろう。クイは、さらに奥へとムンガリを走らせた。

 そして、唐突に森は終わった。

 眼前に広がる白い砂浜。

 黒っぽいものが繰り返し砂浜に打ち寄せている。

(これが海か。)

 外界の森の奥にあるという、誰も見たことのない伝説上の「海」。

 近づいてみて初めて分かった。

(なんだこれ。)

 その黒く見える海水は、金属光沢のある液体で、水銀のように見えた。足元の砂浜は、ガラスの欠片のようで、一つ一つは小さな透明な粒でできている。砂や石とは明らかに違っていた。生き物の残骸もない。不純物の一切ないガラスの砂浜は、どこか言葉にできない違和感で満ちていた。

(何ここ。)

 波以外、動いているものは何もなかった。生き物の姿はどこにもない。海の中も論外だった。触れるのもはばかられるその液体に、生き物が住んでいるとは思えない。

 見上げると、空は真っ黒だった。星もない。知っている夜空とも違う。瘴気が濃すぎて、光が歪んでしまっているのか。それは完全な暗闇というより、すべてを吸い込む虚無のように見えた。ふいに、気持ちがそちらに吸い込まれそうになって、クイは急に怖くなった。

(……世界の果て……。)

 直感的にそう思った。

 多分、この先には何もない。

 クイは、慌ててその場から逃げ出した。ムンガリも本能的に嫌がっていたから、鼻先を返すと勢いよく走りだした。早く、早く。記憶に刻んでしまったものを振り払うように。クイは夢中でムンガリの背にしがみついた。


 そこから、どうやって家に戻ったのかは、覚えていない。森の手前で倒れているところを、アムイリア領軍が奇跡的に救助したらしい。人肉を食う魔獣が闊歩する外界で、よく生きていたものだと自分でも思う。それから、濃い瘴気のせいで三日間寝込み、回復した時には、熱で記憶の一部を失ったことにした。

 そして、クイは、考えるのをやめた。

 仮定から派生した絶望に囚われるのが怖かった。


 もし、あれが世界の果てだったら。

 人間はこの国にしかいない、ということになりはしないか。

 もし、この国にしか人間がいないのならば、

 我々と魔獣は、同じ祖から分岐した生き物だということになるのではないか。

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