取引にはしない
(エレノア)
七日目の朝に、医務室の先生がわたくしの手の布を外した。
手のひらの真ん中が薄い桃色になっていて、指の付け根には霜の跡が白く残っていた。握ってみると、皮が突っ張り、開くと少し楽になった。
「ペンは、今日は半刻まで。痛くなったらやめること」
「はい」
医務室を出ると、廊下に寮監の先生が待っていて、学院長がお呼びですと言った。
*
学院長は机の上の紙を一枚、わたくしのほうへ向けた。
「二年の生徒の保護者が三家、連名で申し立てを出した。合同演習の朝の術具庫の当番に責任がなかったかを、教授会で確かめてほしいという」
紙には三つの家の名と三つの印があったが、当番の名は書いていなかった。書かなくても、あの箱の点検の欄に名があるのはわたくしだけだった。あの朝の当番はもう一人いたが、その子が見たのは戸の側の棚で、細工のあった箱はわたくしの受け持ちの窓の側にあった。
封を見落とした者。自分で手を入れた者。奉献の日の階段の下で聞いた声と同じだった。エレノア様が、上にいらしたの。誰かが、わたくしの立つ場所を先に決めて、紙に書いている。わたくしは膝の上で、まだ突っ張る手を開いたり閉じたりした。
「封の破れを見落としたのではないか。あるいは、当番の者が自分で手を入れたのではないか。そう書いてある」
学院長の声は平らだった。
「学院の決まりでは、申し立てがあれば教授会が査問を開く。二日後、二の鐘から、講堂の二階の教授会の間で。あなたは記録を出して話してよい。保護者が一人、付き添える」
「はい」
「特待生が怪我をした件なので、宰相府から立会いが一人来る。特待生の手当は国の費えから出ているからだ。それと」
学院長は手元の帳面を見た。
「速報は、演習の翌々日に宰相府へ出してある。怪我人のことと、細工があったことまでだ。細工の中身の報告は、魔法理論の先生と実習の先生が石を別々に測り直していて、二人の書付が揃うのが査問の前の日になる。査問の記録と一緒に、その日の夕方に出す」
学院長は帳面から目を上げた。
「査問の席では、封と当番と貸し出しのことは全部出す。細工の中身は出さない。話を聞く相手が、聞いてもいないことを知っていれば、それが手掛かりになるからだ」
わたくしは頷いた。誰がいつ何を知ったかは学院長が書いている。あの日の部屋でそう決まった。
「出すものを、考えておきます」
「父君には、私から知らせる」
*
昼休みに北の棟のリリアさんの部屋へ行った。リリアさんの手の布はまだ肘の上まであった。
「二日後に、査問があります。わたくしの当番のことです」
リリアさんは寝台の上で背を伸ばした。
「わたしも、行っていいですか」
「行くかどうかを、聞きに来ました。行くなら、何を話すかも」
リリアさんは少し笑った。毎回です、と言ったのはリリアさんだった。
「行きます。医務室にいたこと、わたしが言います。わたしが見たことだから」
それから窓のほうを見て付け足した。
「コルネリア様の名前は、言わないでください。まだ」
「言いません」
「よかった。……エレノア様の手、桃色ですね。わたしのと同じになる」
*
夕方は図書館の表の書架で、ミーナが写してくれた今日の授業の帳面を読み返していた。ペンは夜に使うつもりで取っておいた。窓の外では、二年の剣術の稽古の掛け声が途切れ途切れに聞こえていた。
「手はもういいのですか」
顔を上げると、書架の端に黒い髪の人が立っていた。二年の徽章をつけていて、目は兄君と同じ色なのに少し冷たかった。春に掲示板の前で、君が首席か、と言った人だった。言葉を交わすのはそれ以来だった。
「今朝、布が取れました。アレクシス殿下」
「それはよかった」
殿下は向かいの椅子を引かずに、卓の端に指を置いた。左手だった。
「二日後に査問があるそうですね」
「はい」
「一つ、役に立つ話があります」
殿下は窓の外を見ながら言った。
「演習の前の晩、夕方の鐘から夜の鐘までのあいだに、あの箱が誰の手にあったか。僕はそれを裏付けられる。学院の帳面と、僕の目で」
わたくしは帳面を閉じた。
「誰の手にあったかは、今は言いません」
殿下はそこでわたくしの顔を見た。
「査問で、その者の名を言ってほしい。家の名も添えて。君が言いにくいなら、アーヴェル嬢でもいい。光の乙女が名を言えば、誰も疑わない。そう約束してくれたら、刻も名も全部話します」
「お断りします」
思ったより早く声が出た。
「お名前を皆の前で言う時は、その都度、先にリリアさんに聞くと決めています。リリアさんは、まだと申しました。それに、リリアさんのお役目は、どなたかとの約束に使えるものではありません」
「では、この話はなかったことに」
「いいえ」
わたくしは帳面の端をそろえた。
「殿下が裏付けられることがあるなら、それは殿下が学院長にお話しになれます。わたくしとの約束にしなくても」
殿下は少しのあいだ黙っていた。
「取引にならないなら、僕が話す理由がない」
「話すかどうかは、殿下がお決めになることです。でも、その前に伺ってもいいですか」
殿下は答えなかった。わたくしは続けた。
「その方のお名前が皆の前で言われたら、殿下には何が手に入るのですか」
殿下の目がほんの少しだけ細くなった気がした。
「帳面の行が、一つ埋まる」
「どの帳面ですか」
「それは言わない」
嘘ではないのだろうし、全部でもないのだろうと思った。
「それなら、わたくしにはお受けできません。何が手に入るのか分からない約束に、リリアさんの名前も、あの方の名前も載せられません」
「あの方、か」
殿下は卓の端から指を離した。
「君は、顔色を読まないんだね。条件を聞き返す」
「読めないのです。殿下のお顔は」
「それは褒め言葉として受け取っておく」
殿下は書架のあいだを戻りかけて、一度だけ振り向いた。
「一つだけ、ただで教えます。君は、数えられる側に近い」
左手の指が袖の中へ引っこんだ。何本が折れていたのかは見えなかったし、何を数えているのかも聞かなかった。聞けば、また条件の話になる気がした。
殿下の言う刻も名も、これで聞けなくなった。査問までに分かったかもしれないことが、分からないまま査問の日が来る。
*
その足で学院長の部屋へ行った。図書館から三歩うしろを歩いてきたカイル様が、先に扉を叩いてくれた。
「第二王子殿下から、演習の前の晩に箱が誰の手にあったかを裏付けられる、と伺いました」
査問で名を言うと約束すれば全部話す、と言われたこと。断ったので、中身は聞いていないこと。それだけを話した。
「殿下の仰った帳面がどれなのかは、わたくしには分かりません」
学院長は紙に短く書いた。
「あの晩、二年が出ていた帳面なら心当たりがいくつかある。剣術の補講の名簿もその一つだ。今日のうちに見る。第二王子殿下には、私から改めて話を聞きに行く。条件は付けない、と言って」
「ありがとうございます」
「ヴァレンシュタイン嬢」
部屋を出かけたところで呼ばれた。
「断った理由を、あなたは自分の言葉で言えたかね」
「言えたと思います。言いすぎたかもしれません」
「言いすぎたら、次に直せばいい」
*
その晩は部屋の机で査問に出すものを書いた。リリアさんが向かいに座って刻を数えてくれた。今日ペンを持つのは、これが初めてだった。
書いたのは、学院長の部屋で見た帳面の行と、わたくしがどこにいたかだけだった。七行になった。三行目のあたりから手のひらの皮が引きつれて、字が大きくなり、ところどころ震えた。
「半刻です」
リリアさんが言った。わたくしはペンを置いた。握っていた指は、すぐには開かなかった。
「お名前の行がありませんね」
「ありません。わたくしが出すのは、わたくしがどこにいたかだけです」
リリアさんは七行を読んで、布の手の先で最後の行の医務室のところをなぞった。
「ここは、わたしが言います」
「お願いします」
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