でも、怖かった
(エレノア)
リリアさんが医務室から寮へ戻ったのは合同演習の三日後だった。
リリアさんの部屋は女子寮の北の棟のいちばん端にある。窓は小さくて朝日は入らないが、午後になると机の端まで日が届く。わたくしは昼の鐘のあとで、ミーナと一緒にその部屋を訪ねた。ミーナは手の使えないわたくしのために、もう二日学院に残ってくれていた。
リリアさんは寝台に腰かけていた。肘から先の布は医務室の時より薄くなっていたが、手のひらにはまだ厚く巻いてあった。わたくしの手も同じだったので、二人で布の手を見せ合って少し笑った。
「お茶、淹れられないんです。すみません」
「わたくしも淹れられません。ミーナが淹れます」
「淹れます」
ミーナが部屋の隅の小さな炉で湯を沸かし始めた。
壁の釘にリリアさんの紺の上着が掛かっていた。右の袖口には夏の前にわたくしが縫った跡があって、縫い目は少しだけ斜めだった。
「その袖、まだ着ていらっしゃるのですね」
「毎日着てます。斜めなの、気に入ってるんです」
「まっすぐに縫ったつもりでした」
「二回ほどいてましたよね。見てました」
ミーナが背中を向けたまま小さく咳をした。笑いをこらえた咳だった。
お茶が入ると、寮監の先生から聞いたことを話した。コルネリア様は一昨日の晩から別棟にいて、リリアさんの部屋の合鍵も、ほかの鍵と一緒にもう寮監の先生が預かっている。皆には、体調を崩して休んでいると伝えてある。
「それから、お名前を皆の前で出すのは、まだ待ってもらっています。決まっていないことを決まったように言わないために。リリアさんも、そのほうがいいと思って」
そこまで言って、茶碗を持てないことを思い出した。ミーナが口元まで運んでくれた茶碗から一口飲んだ。
リリアさんは自分の茶碗を布の手で包むように持ったまま、口を付けずに見ていた。
「コルネリア様が守られるのは、いいです」
リリアさんはゆっくり言った。
「本を包んでくれた時、うれしそうだったの、覚えてます。わたしが、パンの包み紙よりきれいって言ったら、ほっぺたが赤くなった。あれは、うそじゃなかったと思う」
「はい」
「だから、守られるのは、いいです」
リリアさんは茶碗を膝の上に下ろした。
「でも、怖かった」
声は大きくなかった。茶碗の中の湯が少し揺れた。
「手が離れなかったんです。息を止めても、止まらなかった。自分の光なのに、自分のじゃないみたいで。板が焦げる匂いがして、エレノア様の手が熱いのに冷たくて、それで」
リリアさんの肩が上がって下りた。
「それで、あの環に挟まってた紙が、わたしの本の紙と同じ折り方だった。わたしの本を包んでくれた手が、あの環を回したのかもしれない。かもしれない、だけど。そう思ったら、また手が離れなくなる気がして」
言うことがあると思っていたのに、何も出てこなかった。
リリアさんがわたくしの顔を見た。
「エレノア様。わたし、そのほうがいいって、言いましたっけ」
言っていない。
わたくしは一昨日、寮の面会室でお父様に「リリアさんも同じ考えです」と言った。言った時はそれが本当だと思っていた。リリアさんならきっとそう思う。奉献の日に「エレノア様は上にいました」と自分から言ってくれた人なのだから。
でも、聞いていなかった。リリアさんの考えをわたくしが先に決めて、お父様に渡していた。
名を伏せておく時期を決める時は、決める者を数え間違えるな、とお父様は言った。わたくしは数えなかった。
「言っていません」
わたくしは言った。
「わたくしが、あなたに聞かずに、あなたの考えだとお父様に言いました。ごめんなさい」
リリアさんは少し目を丸くしてから、首を振ろうとしてやめた。
「怒ってるわけじゃないです。鍵を外してくれたの、うれしかった。別棟にいるって聞いて、ちゃんと眠れました。それは、本当です」
「はい」
「でも、怖かったのは、なくならないです。コルネリア様が守られても」
わたくしは頷くしかできなかった。コルネリア様を守ると決めたことを、わたくしはまだ間違いだとは思っていない。
「もう一度、聞かせてください」
わたくしは布の手を膝の上に重ねた。
「今度は、わたくしが決めないで聞きます。何が怖いのか。どうしてほしいのか。いつ、誰に話すのか。リリアさんの言ったとおりに、書いてもらいます」
ミーナがわたくしの横に椅子を寄せて、帳面とペンを出した。二人とも手が使えないので書くのはミーナだ。
リリアさんはしばらく窓の外を見ていた。日はもう机の端まで届いていた。
「実習室が怖いです。あと、自分の光が」
ミーナが書いた。
「しばらく、灯りの練習は休みたいです」
ミーナのペンが止まるのを待って、リリアさんは続けた。
「またする時は、いつからにするか、わたしと一緒に決めてください。それで、する時は先生がいる時だけ。エレノア様もいる時だけ」
「わたくしも、ですか」
「止める時は吐きながら、って言ってくれたので」
ミーナが書くあいだ、わたくしは黙っていた。何か言うと声が震えそうだった。
「コルネリア様が、この棟に来ないこと。鍵を持たないこと。これは、もうしてもらってます。でも、ずっとそうだって、誰かに約束してほしいです。エレノア様じゃなくて、先生に」
「寮監の先生に」
「はい。それと」
リリアさんは布の手で置きにくそうにしながら、茶碗を自分で卓に置いた。
「皆の前で言うのは、今じゃなくていいです。わたしの名前がまた噂になるのは嫌だから。でも、言う時は、先にわたしに聞いてください。一回聞いたからずっといい、じゃなくて、毎回」
「毎回」
「毎回です。それから、お父さんとお母さんには全部話してください。わたしからも話すけど、大人の人からも」
ミーナのペンが走り終えるまで、三人とも黙っていた。
「最後に一つ」
リリアさんは少しだけ笑った。
「聞かれたら、わたし、見たことは言います。紙の折り方のことも。思ったことは、思ったことって言います。警備の長さんに教わったので」
ミーナが帳面をわたくしたちの前に置いて、書いたことを一行ずつ読み上げた。六つの行になっていた。
「これで合っていますか。違うところがあれば」
リリアさんは帳面を覗きこんで、指の代わりに布の手の先で一行ずつなぞった。
「合ってます」
それから四つ目の行のところで手を止めた。
「ここ、アーヴェル様、じゃなくて、リリア、でいいです」
ミーナが少し笑って、二つの行を書き直した。
*
北の棟を出ると、廊下の窓の外が夕方の色になり始めていた。
六つの行のうち、わたくしが自分で守れるのは二つだけだった。ほかの行は大人に頼むしかない。
その足で寮監の先生の部屋へ寄った。わたくしの手では渡せないので、ミーナが帳面からその一枚を外して先生の前に置いた。先生は一行目の、休む、のところで目を上げた。
「今日のうちに、実習の先生に伝えます。三つ目の行は、私が約束します」
先生は紙の端に自分の名を書いた。
「ミーナ。お父様にお手紙を」
「何とお書きしましょう」
「会いたいです、とだけ」
ミーナは廊下の窓の桟に帳面を当てて、言ったとおりに書いた。
「お嬢様。もう一行、お書きになりたいお顔をしておいでです」
「……リリアさんと二人で、と」
ミーナがその一行を書き足した。
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