細工痕
(エレノア)
学院長の部屋の卓に箱と帳面が並んでいた。
卓を囲んで学院長と実習の先生と魔法理論の先生と警備の長と寮監の先生が座っていた。箱の前に立ったノアの横にわたくしも立った。手の布はまだ取れない。
リリアさんも肘から先を白い布で巻いて、寮監の先生の隣の椅子に座っていた。来なくていいと、医務室の先生に言われて、見ないで聞くのは嫌です、と答えたという。
お父様は来ていない。寮の面会室で待っていると、朝のうちにカイル様が教えてくれた。
「先に、封を」
学院長が言った。実習の先生が箱の結び目の蝋を皆に見えるように向けた。昨日、実習室で先生が押した印が割れずに残っていた。夜のあいだ箱を見ていた警備の者の帳面にも、誰も触れていないと書いてあった。
「ノア。見なさい」
ノアは実習の先生が封を割るのを待ってから、箱の蓋を開けた。
調律石は箱の中の固定台に据えたままだった。外れた一つ目の環が箱の隅にあって、二つ目と三つ目の環はまだ石を囲んでいた。ノアは手袋をはめないまま、三つ目の環に触れない高さで手のひらをかざして、目を閉じた。
部屋の誰も口を開かなかった。窓の外で鳥が一度鳴いた。
「外側は、ぐちゃぐちゃだ」
ノアが目を開けた。
「アーヴェルの光と、ヴァレンシュタインの水。昨日のが重なって、外側からは何も読めない。でも、留め爪の裏には光も水も届いてない」
ノアは細い針を出して、三つ目の環の留め爪の裏を指した。
「ここに、細い痕がある。灯りでも水でもない。留め爪を緩めて環を回す時に使う、道具の術の痕だ。整備の時にも同じ痕は付く。誰が付けたのかも、いつ付けたのかも、痕からは分からない」
針の先が環の縁の刻み目に移った。
「でも、刻みが半目ずれてる。逆の向きに。散らす環を逆に回すと、光を絞る環になる。それで、ここ」
針の先が留め爪の裏に入って、何かを引き出した。
爪の先ほどに畳まれた小さな紙だった。端が熱で少し茶色くなっていたが、留め爪の裏に隠れていた折り目はそのまま残っていた。ノアが針で畳み目を開くと、紙は細長い三角に開いた。角が三角に折りこまれて、先が内側へ差しこまれていた。
わたくしはその折り方を知っていた。
春の教室で、コルネリア様がリリアさんの机の端で一冊目の本を包んだ時の折り方だった。角を三角に畳んで表紙の内側へ差しこむ包み方の本は、組の中に一冊しかなかった。
「わたしの本の紙と、同じ折り方です」
リリアさんの声は小さかったが、はっきりしていた。
ノアが紙を卓の白い布の上に置いた。
「紙で環を止めてある。止めなきゃ、環は勝手に戻る。整備で回したなら、紙は挟まない。刻みのずれと、紙と、留め爪の裏の痕。三つ合わせて、誰かが細工したと言える。誰が、は言えない」
「中を検めた時には」
学院長が魔法理論の先生を見た。
「ありませんでした。合同演習の前の晩、夕方の鐘の前に、私が術具庫で中まで検めました。環は三つとも正しい向きで、留め爪にも緩みはありませんでした。署名と刻を残しています」
痩せて声の低い先生だった。先生はそこで一度言葉を切った。
「検めて術具庫を出る時、戸口で術具係のブラントが待っておりました。二年の班が夕方の練習に一つ借りたいと。私は検めの札を下げて、あとを術具係に任せて出ました。前の晩に検めるのは、その日の貸し出しが済んでからのつもりでした」
学院長が貸し出しの帳面をこちらへ向けた。夕方の鐘のすぐあとの刻で、一行あった。二年二の班、調律石、一刻。受け取った者の名を書く欄は空いていた。行の字は細くて、払いの先が少し丸かった。
「貸し出しの行は術具係が書く決まりで、この字はブラントの字だ」
実習の先生はそう言ってから口を一度閉じた。
「返ってきたのは夜の鐘の前だ。ブラントが私の部屋まで箱を持ってきた。私はその場で外を見て数を確かめ、蓋に紐を渡して封をした。中は見なかった」
「前の晩に中を検めたあとで、また貸してよいことになっていた。それは学院の落ち度だ」
学院長はそう言ってから、夜の見回りの帳面を開いた。夜のあいだ術具庫の封に破れはなかった。翌朝の当番の行には、一の鐘のあとにわたくしが書いた名がある。
「当番は鍵を持たない。封を開けない。外を見て書くだけだ」
実習の先生が言い足した。わたくしのために言い足したのだと分かった。
最後に学院長は医務室の帳面を開いた。
「前の日、夕方の鐘の少し前に、アーヴェル嬢が医務室へ来た。付き添いはヴァレンシュタイン嬢。二人とも夜の鐘まで医務室にいた。医務室の先生が刻を書き、同じことを申している」
リリアさんが小さく息を吸った。九回目の灯りのあとで、リリアさんの膝が折れたのは、実習室の窓が夕焼けの色になった頃だった。
「中を検めてから封をするまで」
学院長がゆっくり言った。
「箱に触れることができたのは、術具係と、借りた班の誰かだ。受け取った者の名がない以上、班の誰が触れたのかは、まだ分からない」
わたくしは自分の布の手を見ながら、言わなければならないことを順に並べた。
「その折り方は、教われば誰にでもできます。わたくしも春に、教わりたいと申しました。ですから、紙だけでは、どなたがしたとは言えません」
学院長がわたくしを見た。
「でも、貸し出しと返すところでコルネリア様が箱を持っていたことと、受け取った人の名がないことと、この紙を並べると、まずコルネリア様と、二年二の班の方々に伺わなければなりません。伺っているあいだに、また誰かの手が焼けることがないようにしたいのです」
「二の班の四人には、今日のうちに一人ずつ聞く。ブラントにも、寮監の立会いで聞く」
わたくしは寮監の先生のほうを向いた。
「では、伺う前に、コルネリア様を術具庫の鍵から外してください。寮の厨房の夜の当番の鍵と、一年の部屋の合鍵からも。リリアさんの部屋と、わたくしの部屋の合鍵を、二年の世話係が預かっているはずです」
「預かっています。ブラントは南の棟の世話係です」
寮監の先生は学院長を見た。学院長が頷いた。
「それから、皆の前でお名前を言わないでください。まだ伺ってもいないので」
寮監の先生は少し考えてから立ち上がった。
「鍵は今から私が受け取りに行きます。部屋も、今日のうちに寮の別棟へ移します。体調を崩してしばらく休む、ということにしましょう。別棟の鍵は私が持ち、移るあいだも私が付き添います」
寮監の先生が出ていくと、学院長は卓の上の紙と帳面を見渡した。
「ノアの見たことは、今日のうちに書きとめる。この部屋の者のほかには出さない。ただし、安全のために要ることは保護者に伝えてよい。ヴァレンシュタイン嬢の父君とミーナには、私の許しで、環の細工の中身まで伝えてかまわない。アーヴェル嬢の父君には、私から伝える。誰にいつ伝えたかは、私が書いておく」
学院長はそこで実習の先生を見た。
「学院の術具の事故は、宰相府へ届ける決まりだ。明日、起きたことと怪我人と、細工があったことまでを速報で出す。細工の中身は、石を測り直してから記録係が清書して届ける。中身を伏せておけば、話を聞いた相手が聞いてもいないことを知っていた時に、それが手掛かりになる」
ノアは頷いて紙に書き始めた。字は撥ねの丁寧な字だった。
*
寮の面会室で、お父様は窓の外の洗濯物の竿を見ていた。ミーナはわたくしの手の布を見るなり立ち上がりかけて、お父様に手で止められた。
「学院長のお許しをいただいてきました。三つ目の環の中身まで、お父様とミーナにはお話ししてよいと」
わたくしは、環と紙と貸し出しの帳面のことを短く話した。寮監の先生がもう鍵を受け取りに行ったことも。
お父様は手帳に書かずに聞き終えると、一つだけ聞いた。
「鍵を外すのは分かる。名を伏せるのは、なぜだ」
「まだ伺ってもいないからです。それと」
わたくしは少し言葉を探した。
「コルネリア様には、侍女がいません。春に、制服の染料を買った侍女は王都を離れました。コルネリア様はいつも一人で来て、一人で帰っていきます」
お父様は何も言わずに待っていた。
「わたくしも五つの時に、先生の言うとおりにしていれば、お父様に見ていただけると思っていました。言われたことを、断れませんでした」
お父様は長いあいだ黙っていた。ミーナがお父様の顔を見てから床を見た。
「理由は聞いた。俺も確かめる。寮監に、ブラントの家からの手紙がどう届いているかを聞いてみる。確かめてから、どうするかを考える」
「はい」
「それと、名を伏せておく時期を決める時は、決める者を数え間違えるな」
わたくしは頷いた。
「リリアさんも、同じ考えです。急いで公にするより、確かめるほうがいいと」
お父様はわたくしの顔を見て、何か言いかけてやめた。ミーナが一歩前に出て、今夜はお嬢様の髪を私が結います、と言った。それでその話は終わった。
*
夕方の鐘のあと、ミーナと一緒に寮の中庭の渡り廊下を歩いていた。
向こうから寮監の先生が来た。半歩うしろにコルネリア様がいて、小さな鞄を一つ提げていた。別棟へ移るところなのだと分かった。巻いた髪は朝のままきれいだった。コルネリア様はわたくしを見ると、いつものように明るく笑った。
「ヴァレンシュタイン様。わたくし、体調が悪いことになったのですって。しばらく別棟で休むの」
ミーナがわたくしの半歩前に出た。寮監の先生が足を止め、コルネリア様もそこで止まった。わたくしたちの間には、渡り廊下の柱三本分の距離があった。
「お大事になさってください」
「ええ」
笑ったまま鞄を持ち直したコルネリア様の指の先が、取っ手の上で白かった。
「……ヴァレンシュタイン様」
声が少し低くなった。
「父には、言わないで」
わたくしは返事をしなかった。できる約束ではなかった。
「寮監の先生に、お話しください。わたくしは、もう寮監の先生に申し上げました」
コルネリア様の笑顔は崩れないまま、目だけがわたくしから外れた。寮監の先生が一度だけわたくしに頷いて、コルネリア様を促した。二人は別棟のほうへ歩いていった。コルネリア様は一度も振り向かなかった。
あとで寮監の先生の部屋へ行くと、先生はさっきの言葉をもう紙に書いて、日付と刻を添えていた。父には、言わないで。わたくしが聞いたとおりの言葉だった。
部屋に戻ると、ミーナが髪をほどいてくれた。鏡の中のわたくしの髪は、春にミーナが巻いたのとは違うまっすぐな淡い銀金だった。
五つの頃の髪はいつもきつく編まれていた。編まれている間のわたくしは、背筋を伸ばしていた。
ミーナの櫛が髪を梳いていくあいだに、窓の外の別棟に一つだけ灯りがついた。
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