待つ側
赤い「急ぎ」の印を押した学院からの封は、三の鐘の少しあとに届いた。
――本日の合同演習にて術具が暴れ、アーヴェル嬢とご令嬢が手に火傷。命に関わるものではありません。医務室にて手当て中。学院長
読み終えてからもう一度読んだ。命に関わるものではない、の一行は二度読んだ。
セバスは戸口で待っていた。
「馬車を。それと、屋敷の医者に火傷の薬を持たせて、別の馬車で学院へ。川沿いのアーヴェルの店にも一台回してくれ。親父さんが乗れるように」
「三台でございますね」
「三台だ」
セバスは頭を下げて出ていった。俺は上着を取る前に、机の引き出しを開けて、手帳の日本語の頁を見た。入学の前の晩に書いた予定表には「秋の実習で術具が暴れる」の行がある。夏には、学院の行事の写しの合同演習の行にも鉛筆で印を付けて、学院長に前の晩の検めを頼んだ。
頼んだうえで、起きた。
引き出しを閉めた。悔やむのは馬車の中で一度だけにすると決めて、玄関へ下りた。
*
医務室の扉の前にカイルが立っていた。二年の授業の途中から走ってきたらしく、上着の釦が一つずれていた。
「閣下。中にはお入りしておりません。医務室の先生がお二人を診ておられます」
「娘は」
「歩いて医務室へ入られたと、警備の方から聞きました。私は見ておりません」
廊下の奥から学院長が来た。白い眉の下の目が赤かった。学院長は俺に頭を下げてから、何があったかを順に話した。調律石の光が散らずに絞られ、石の熱が上がった。
「実習の先生が一つ目の環を外して止めました。外せたのは、ご令嬢が石を冷やして、アーヴェル嬢が息を吐いたからだと、先生は申しております」
娘が何をしたのかを、俺はそこで初めて知った。知りたかったことの半分だった。残りの半分は娘の口から聞くことだ。
「調律石は」
「先生がその場で封をして、今は私の部屋で警備の者が見ております。一年のノアが中を見たいと申し出ました。明日の朝、実習の先生と魔法理論の先生の立会いで見せます」
「前の晩の検めは」
「済んでおります。魔法理論の先生が中まで見て、異常なしと署名しました。閣下が夏にお申し出くださった検めです」
学院長はそこで言葉を切った。その先は調べてからだという顔だった。俺もその先は聞かなかった。前の晩に何もなかったのなら、いつ何があったのか。それを調べるのは学院と、たぶん娘たちだ。
「学院長。お願いが二つあります」
「伺います」
「屋敷の医者を連れてきました。医務室の先生の下で手伝わせていただきたい。アーヴェル嬢の手当てにも同じように」
「助かります。医務室の先生にお伝えします」
「もう一つは今夜の警備です。二人は医務室で休むのでしょう。扉の外に誰が立つのか。医務室の鍵を誰が持つのか。夜の出入りを誰が書くのか。それを伺いたい」
学院長は警備の長を呼んだ。袖口のすり切れた上着のまま来た警備の長は、その場で答えた。扉の外には学院の警備が二人立ち、夜の鐘で交代する。医務室の鍵は医務室の先生と警備の長が一本ずつ持つ。夜は断りなく誰も入れず、医務室の先生や医者が出入りする時は扉の外の二人が刻と名を書く。
「カイルもここに置かせてください。寮の門の持ち場は今夜は学院の警備に」
「承知しました」
学院長と警備の長が戻っていくと、廊下には俺とカイルだけが残った。
*
屋敷の医者が着いたのはそれから四半刻ほどあとだった。
医務室の先生は、白髪の混じった背の低い人だった。医者が薬の壺を出して名を言うと、医務室の先生は蓋を開けて匂いを嗅いでから頷いた。二人は扉の内側で短く話し、医者が先に中へ入った。
扉が閉まる前に、奥の寝台が少しだけ見えた。膝の上に布を巻いた手が二つ置いてあった。誰の手なのかは分かったが、顔は見えなかった。
しばらくして医者が出てきた。
「お嬢様は手のひらの真ん中と指の付け根です。冷やした時の霜の跡もございます。治癒の術で治りを早めておきましたが、布は七日ほど。指は動きますがペンはしばらく持てません」
「アーヴェル嬢は」
「肘から先が広く、手のひらに水ぶくれがいくつも。熱を長く受けておられます。痕が残るかどうかは十日ほど見ないと申せません。いまは眠っておられます」
痕が残るかもしれないのは、パン屋の娘の手だった。
「お嬢様は起きておられます。ただ医務室の先生が、今はお一人にしてさしあげたいと」
「分かった」
分かったと言ってから、廊下の長椅子に座った。
*
アーヴェルが着いたのは夕方の鐘の前だった。
前掛けは外していたが、袖と髭にはやはり粉が残っていて、手に籠を提げていた。扉の前でカイルに止められて名を言い、それから俺に気づいて頭を下げた。
「公爵様。馬車を、ありがとうございました」
「娘さんは眠っている。医者は、痕が残るかどうか十日は見ないと分からないと言った」
医務室の先生が扉を開けてアーヴェルだけを中へ入れた。籠は扉の外に置いていった。
出てきたのは少ししてからだった。アーヴェルは籠を拾い上げて、俺の隣の長椅子の端に浅く腰を下ろした。
「熱かったでしょうね」
「熱かったと思う」
「あの子、小さい時に窯の扉で腕の内側を焼いたんです。泣かないで、熱いって三回言いました」
アーヴェルが籠の布を少しめくると、パンが四つ入っていた。
「焼き上がりを持ってきちまいました。食べられないのは分かってるんですが、手ぶらで来られなくて」
「起きたら匂いだけでも、と思えばいい」
「……はい」
二人で長椅子に並んで扉を見ていた。前の会社で、部下が怪我をした時に手術室の前の長椅子に部長と並んで座ったことがある。何もできない時間をどう座ればいいのか、あの時も分からなかったし今も分からない。
扉の内側で椅子の脚が床をこする音がした。俺は立ち上がりかけて、扉が開かないのを見てから座り直した。籠のパンの匂いが、さっきより冷めていた。
夕方の鐘が鳴った。扉の外の二人が、帳面に鐘の刻を書き足した。
「公爵様のお嬢様が、冷やしてくださったと聞きました」
「そう聞いた」
「ありがとうございます。父親として、先にそれだけ言わせてください。あの子の分は、あの子が自分で言います」
「娘に伝えます」
アーヴェルはパンの籠を膝の上に抱え直した。
*
夜の鐘の少し前に医務室の先生が扉を開けた。
「お嬢様が、お父様をと」
中は灯りが一つだけで、薬草の匂いがした。奥の寝台でリリアが眠っていて、その隣の寝台に娘が座っていた。両手は膝の上で布に巻かれていた。
娘は俺を見ると、背筋を少し伸ばした。
「お父様」
「痛むか」
「はい。ずきずきします」
「医者は、布は七日だと言っていた」
「伺いました」
娘は自分の手を見下ろして、少し間を置いた。
「手を離せと言われていたのに、離しませんでした」
何を言えばいいのか、すぐには分からなかった。叱る言葉も褒める言葉も、その夜の娘の顔に合わなかった。
「離さなかったことは、明日でも十日後でも話せる。今夜は手を冷やせ」
「……はい」
「それと、一つだけ言っておく。今日のことを防ぐのは、学院と俺の仕事だった。お前の仕事ではなかった」
娘は俺の顔を見ていた。何を思っているのかは、灯り一つの中では読めなかった。
「お父様の気にしていたのは、このことですか」
「近いことだ」
それ以上は言わなかったし、娘も聞かなかった。代わりに娘は布の巻かれた手を少しだけ持ち上げた。
「明日の朝、ノアさんが石を見ます。わたくしも立ち会いたいのです。学院長にお願いしてよいでしょうか」
「お前が頼め。調べるのはお前たちと学院だ。俺は外で待つ」
「外で」
「外だ。呼ばれたら入る」
娘は少しだけ笑った。
「明日の朝は、お手紙が書けません。この手なので」
「書かなくていい。外にいる」
扉を出ると、長椅子でアーヴェルが籠を抱えたまま壁にもたれて眠っていた。カイルは扉の脇に立っていて、警備の二人が俺の出た刻を帳面に書いた。
俺はアーヴェルの隣に座り直すと、上着を脱いで眠っている男の肩に掛けた。
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