夏の終わりの父と娘
娘は書斎の椅子に座ると、帳面を膝の上で開いて、読めたことを順に話した。
話し終えると、娘は帳面を閉じて、膝の上に両手を重ねた。
俺は手帳を開かずに聞いていた。聞きながら指輪の石を親指でなぞっていたのに気づいて、手を机の上に置き直した。
娘は帳面の角を指でそろえた。それから顔を上げて、帰り道で決めてきたらしい問いを出した。
「お父様は、続きの葉をお読みになりたいですか」
すぐには答えなかった。指輪の内側にある字の続きなのだから、読みたくないはずがない。読みたいと言えば、娘はノアと北の院の返事を急かすだろう。
「読みたい」
嘘をつく理由はなかった。
「だが、急がない。ノアが院長に手紙を出したんだろう。返事を待つ。返事が来たら、お前とノアが読む。俺はその字が読めない」
「先生も、半分しかお読みになれません」
「だから、急がない」
娘は少し笑ってから、帳面の、写した行の下を指でさした。そこには鉛筆で四角が二つ描いてあって、中は空いていた。
「発する条と、その代です。空けておきました」
四角の横の行には書きかけて消した跡があった。何の字だったかは読めなかった。読もうとはしなかった。
俺は手帳の外の欄の頁を開いた。
「こっちも一つ話す。アーヴェルの親父さんの許しはもらってある」
推薦状の空欄と、取次の欄にあった会の名のことを話した。
娘は途中で一度も口を挟まなかった。銀環の盟のところで重ねていた手がわずかに動いた。
「銀の環」
「何か思い当たるか」
「写本に、環に手を置く、とありました。王の誓いの時に。母の家の者が立ち会って、王が環に手を置く。……それだけです。同じ環なのかどうかは、分かりません」
「分からないなら、並べておくだけでいい」
「はい。並べておきます」
娘は帳面を開き直して、外の欄の話を一行だけ写した。どの欄に書いたのかは覗かなかった。
*
午後、娘は東の棟の塔へ上がった。
北の院の地下の箱のことを先生に聞くのだと言っていた。俺は塔の下の露台で待った。半刻ほどして下りてきた娘は、聞いたことを口で話した。
先生は院にいた六年のあいだ、地下の書庫のいちばん下の段の箱を一度も開けたことがない。鍵は代々の院長が持っていて、院長しか開けない。中に古い本があることは知っていたが、何の本かは聞かなかった。院長が見せない物は見ないのが院の決まりだったからだという。
「ノアさんは子供の頃に一度だけ中を見たそうです。先生は、あの子らしい、と笑っておられました」
「院長の返事は」
「巡礼の便は北へは月に一度ですので、夏の休みの終わりごろだろうと。先生のところにも、院長から手紙が来るはずだとおっしゃっていました」
それで、その日の調べの話は終わりになった。
*
夏の休みが始まると、娘は屋敷にいる日のほうが多くなった。
十日目の朝の食堂で、娘がパンを取るのを見ていて気づいた。娘は籠の中から端のほうを選んで取り、塩のきいたバターを塗った。ミーナが杏の煮たのを勧めると、少しだけ載せて、甘いのは少しで足ります、と言った。
前は真ん中を取っていた。端は硬いから、とミーナが切り落としていたはずだ。
「端を取るようになったんだな」
「……リリアさんが、端がいちばんおいしいと言うので。食べてみたら、本当でした」
娘はそう言って端をちぎった。ちぎる手つきが、春に屋敷へ来た時のリリアに似ていた。
ミーナが盆を下げに来て、俺にだけ聞こえる声で言った。
「お嬢様は、寮で朝のパンの端をリリア様と取り合っておいでだそうです」
「取り合うのか」
「お嬢様が勝つと、一つ譲るそうです」
その話を俺は知らなかった。手紙に書くようなことではないから、手紙には書いていない。娘の朝には俺の知らない取り合いがある。
知らないことが増えたと思って、少し寂しかった。その寂しさの半分くらいは、端を取る娘の手を見ているうちに別のものになった。
その日の午後、娘は庭の奥の東屋でノアから借りた古い字の表を写していた。夕方に俺が露台へ出ると、娘も上がってきて手すりにもたれた。空に一つ目の星が出ていた。
「お父様。竪琴の星は、北では糸巻きと呼ぶのです。下の小さい星は、糸の端」
「春の茶会で聞いた話だったか」
「はい。殿下にお書きしたら、殿下はご存じなくて、竪琴を弾く人が糸を巻きすぎて弦を切った星だ、と考えてくださいました。考えたので、知らなかったことは帳消しだそうです」
「帳消しになるのか」
「次のお手紙で、その帳消しを取り消しておられました。糸の端が、切れた弦の端に見えてきたからと」
殿下の話になると、娘の声は少しだけ高くなる。俺は手すりに置いた手をそのままにして、眉間に入っていた力を抜いた。娘は星を見ていて、こちらを見ていなかった。
*
夏の休みの残りが五日になった日に、先生から使いが来た。
北の院の院長の手紙が、巡礼の便で届いたという。塔の上の部屋で、先生は手紙を卓に広げて待っていた。娘と俺は並んで座った。
「ノアの問い合わせに、院長が答えております。わしのところにも同じことを書いてよこしました」
先生は手紙を指で辿った。
「地下の箱には、板の表紙の本が三冊ある。字は院長にも読めぬ。葉を外して送ることは、院の決まりでできぬ。読みたい者が院へ来るなら、院長が箱を開けて立ち会う。……ということでございます」
「切られた葉が、その三冊にあるかどうかは」
「院長は読めませぬので、ある、ともない、とも書いておりません。三冊ある、とだけでございます」
娘は膝の上で帳面を開いたまま、しばらく何も書かなかった。少しして、空けてあった四角の横に小さく、院へ行く、とだけ書いた。
「ノアさんは、行くでしょうか」
「行きましょうな。あれは、読めぬ字のために山を越える子でございます」
先生は手紙をたたんだ。
「ただ、夏の休みは残り五日。院までは北街道を五日、そこから崖道でございます。往きだけで休みが尽きます」
「写しを送っていただくことは」
「院の者は、あの字を読めませぬ。読めぬ者の写しは、ノアが表の書架で拾った字の形と比べることもできぬ写しになります。読める者が行って、自分の目で写すほかございません」
先生は窓の外の北の空を見た。
「崖道は初雪で閉じます。秋の実習が済んで、雪の前の十日ほどを、ノアが学院長様に願い出ることになりましょう」
続きの葉は、秋の終わりまでは読めない。娘はそれを聞いて静かに帳面を閉じた。
*
学院へ戻る前の晩、娘は書斎の戸を叩いた。
「お父様。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「秋のことです。お父様は、夏のあいだずっと、秋の暦をご覧になっていました」
見られていたらしい。机の上には学院の行事の写しが置いたままになっていた。秋の欄の魔法実習の合同演習の行に、俺は鉛筆で小さな印を付けていた。
「気になることがある」
娘は扉の前に立ったまま待った。
「秋の実習で使う術具が気になる。どの術具か、何が起きるのかは分からない。なぜ気になるのかは、言えない」
「四本目の指ですね」
「四本目の指だ」
「言えない理由はある。それはお前のせいではないし、お前が背負うことでもない。危ないことを防ぐのは学院と俺の仕事だ。学院長には、実習の前の晩に術具の中まで検める人を置いてくれるよう頼んだ。返事はもう来ている」
「……では、わたくしは」
「お前は、危ないと思ったら手を離せ。それだけでいい」
娘はしばらく俺を見てから頷いた。
「手を離す練習をしておきます」
「練習するものなのか」
「たぶん、いたします。わたくしは、つかんだ物をなかなか離さないので」
自分で言って、娘は少し笑った。俺も笑ったが、笑いながら、言えない理由がまた一つ娘の前に残ったことを思った。娘はそれを拾わずに扉を半分開けた。
「おやすみなさいませ。明日の朝、パンの端を一つ残しておいてください」
「残しておく」
翌朝、娘は端を二つ取った。一つは俺の皿に置いた。
玄関で、娘は馬車の段に足をかける前に振り向いた。
「行ってまいります」
「気をつけてな」
馬車が並木道の角を曲がるまで、俺は玄関の段の上にいた。
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