推薦状の空欄
学院長からの封は、娘が先生の写しを帳面に挟んで学院へ戻った三日後に届いた。
一年のアルシュタインが、特待生の推薦の手続について学院へ正式に照会を出したという。春の噂の中に「アーヴェル嬢は頭を下げて入れてもらった」という言い回しがあった。それが紙の上で本当かどうかを確かめたい、というのが照会の理由だった。
学院の答えは短かった。特待生の推薦状の原本は学院にはない。特待生の手当は国の費えから出るので、推薦状は宰相府の書記の間に綴じてある。推薦者の名は慣例で封紙の下に伏せてあり、封紙を開けるには本人か保護者の願いが要る。
封の中にはもう一枚、学院の紙ではない紙が入っていた。
――娘の推薦の紙を見ることを、ヴァレンシュタインの公爵様にお頼みします。朝の窯は空けられません。アーヴェル
字は大きくてまっすぐで、紙の端に粉の指の跡が一つ付いていた。
学院長の添え書きによれば、リリア本人も承知しているという。わたしも誰がわたしを推したのか知りません、と本人は言ったそうだ。
宰相府の書記の間へは、どのみち行く用があった。返書の控えの綴りが揃ったと、秘書官から書付が来ていた。秘書官に書付を送って、同じ刻に推薦の綴りも出してもらうよう頼んだ。どちらも宰相府の帳面で、一度に済めば書記の手間も一度で済む。
*
約束の朝、書記の間の戸口にユリウス・アルシュタインが立っていた。
十五にしては背が高い。父親に似た細面で、目だけが鋭かった。学院の制服の上に外出用の外套を羽織って、脇に紙挟みを抱えている。
「公爵閣下。照会を出したのは私です。立ち会う許しは学院長からいただいています」
「ここは君の父上の役所だが」
「ですから、父の名は使っていません」
ユリウスは紙挟みから学院長の許しの紙を出して見せた。
「使えば、もっと早く見せてもらえたでしょう。早く見せてもらえた紙は、見せてもらえた理由まで疑われます。噂を追うのに使った手が、あとで噂の種になるのはごめんです」
十五の言うことにしては理屈が立っていた。噂を追うのは噂を流すのと同じだけ手間がかかる、と春に書いてよこしたのもこの少年だった。
奥から灰色の服の男が出てきた。
「閣下。ユリウス様も。帳面は二つとも揃えてございます」
秘書官の声は前と同じに穏やかで、何の色もなかった。背中がまた冷たくなった。俺は外套の裾を指に一度巻いてから中へ入った。
先に返書の控えの綴りを開いてもらった。春の三の月の欄に、殿下の夏の公務の予定についての王太子府あての返書の控えが一通あった。字は月ごとの欄と同じ書記の字で、控えの余白に小さく一行が添えてあった。
――用紙二枚のうち一枚、書き損じにつき火に入る。
「書き損じは、私が焼きました」
戸口の脇にいた若い書記が言った。耳が赤かった。
「宛名の殿下のお名前の一字を、間違えたのです。そういう紙は残さない決まりですので、書記の間の炉で焼きました」
「焼いた時に、ほかに誰か」
「……一人でした」
焼いた紙は数えられない。二枚目は使われたことになっていて、使われた跡は灰の中にしかない。
書記は恥じているように見えた。何を恥じているのかは、顔を見ていても分からなかった。
*
推薦の綴りは、書記の間の奥の鍵のかかる棚から出てきた。
表紙に特待生推薦とあり、年ごとに紐で分けてあった。今年の分は薄くて、推薦状は三通だけだった。そのうちの一通にノアの名があるのが見えた。開かなかった。
アーヴェルの娘の推薦状は二枚綴りだった。
一枚目は教区の司祭の書付だった。去年の冬にパン屋の娘の手のひらから灯りが出たこと、司祭が三度確かめたこと、光の属性と見てよいことが丁寧な字で書いてあった。日付は冬至の十日後。
二枚目が推薦状だった。学院の定めの書式で、上に本人の名と生まれと属性が、下に推薦の理由と推薦者の欄がある。推薦者の欄の上には細長い封紙が糊で貼ってあり、宰相府の印が封紙の両端に半分ずつかかっていた。
「封紙をお開けになるには、保護者の願いの紙を」
アーヴェルの一筆と学院長の添え書きを書記に渡した。書記は二枚を読み終えると、秘書官を見た。秘書官が小さく頷いた。
宰相府の帳面を開ける許しは宰相の名で出ているはずだ。それでも書記は秘書官を見た。
書記は小刀の背で糊を浮かせて、封紙をゆっくり剥がした。
推薦者の欄は空だった。
名前も印もなかった。罫線のあいだには、紙の地の色だけがあった。
紙を窓の光に向けてみた。奉献の下書きでは、削って書き直した所が透けて見えた。この欄には削った跡も、墨を拭った跡もなかった。
ユリウスが卓の端に手をついて身を乗り出した。
「封紙は、名を伏せるために貼るものですね」
「さようでございます」
「伏せる名がないのに、封紙を貼った」
「……受け付けた者が、書式どおりに貼ったのでございましょう」
推薦の理由の欄は埋まっていた。光の乙女の再来たるべき資質ありと認め、王国のため学院にて導かれんことを望む。立派な文句だった。立派な文句を書いた手は、自分の名を書かなかった。
いちばん下の受付の欄に目を移した。受け付けた日は冬の終わりで、その横に受け付けた書記の名がある。その下にもう一行あった。
――取次 銀環の盟
「取次というのは」
「推薦状を届けた方の名を書く所でございます。推薦者がご自分でお持ちになれば、空けておきます」
「この会は」
書記は首を振った。
「存じません。取次の欄に人でなく会の名があるのは、私は初めて見ました。受け付けたのは前の書記で、この春に国元へ帰っております」
秘書官のほうを見た。
「私も存じません。受付の控えをお持ちしております。推薦状の受付は、届いた日に控えへ一行ずつ残す決まりでございますので」
秘書官は脇に抱えていた薄い帳面を卓に置いて、冬の終わりの頁を開いた。頼んでいない帳面だった。前の書記の字で一行あった。
――特待推薦一通、アーヴェル。推薦者名なし。取次、銀環の盟。受理。
行の終わりに、受理の印が押してあった。封紙の両端の印と同じ形だった。
「受理の印は、書記長のものでございます」
受け付けた日から、名はなかった。名のない推薦状を、書記長の印が通した。
「名のない推薦状を受理してよいという決まりは」
「ございません。ただ、名を伏せる慣例がございますので、名のない物と伏せた物を、受付で分けて扱った例も聞きません」
「書記長に伺いたい」
「学院からの照会になさいますか。それならば、私が書記長の予定を空けておきます」
ユリウスが紙挟みを開いた。
「学院長を通して、私の名で出します。受理の印を押した方に、何を見て通したのかを」
銀の環という言葉なら、俺は三つ知っている。
一つは、妹の始めたゲームの最初の画面の語りだ。王冠の銀の環は、正しき王の誓いにのみ白く灯る。二つ目は妻の首飾りで、今は娘の首にある。前の父の記録には、銀の環は外へ出さない、とあった。手帳の最初の頁には、フェルゼン、銀の環、と問いの印を付けて書いてある。
そこへ三つ目が来た。会の名だ。手帳の最初の頁の問いの横に、会の名を小さく書き足した。線では結ばなかった。
ユリウスは受付の欄を見たまま、しばらく口を開かなかった。紙挟みを抱えた指が一度だけ締まった。
「聞いたことのある名です」
「どこで」
「どこでかは、確かめてから申します。確かめないうちに申せば、私も噂を流す側になります」
秘書官は控えの帳面を閉じて、俺のほうへ差し出した。
「控えの写しが要りましたら、明日までに書記に作らせます」
仕事の早い男だった。礼を言って、写しを頼んだ。背中の冷たさは、礼を言うあいだも消えなかった。
*
書記の間を出ると、回廊の窓から昼の光が斜めに入っていた。ユリウスは三歩ほど黙って歩いてから、外套の襟を直してこちらに向き直った。
「父には、私から申します。照会を出したことだけを。中身は申しません」
「君の父上の役所の帳面だ」
「父の役所の帳面だから、です」
ユリウスは一礼して回廊の向こうへ歩いていった。背筋のまっすぐな父親と同じ歩き方だった。本人は嫌がるだろう。
回廊の柱の陰で手帳を開いて、外の欄に一行だけ足した。
――推薦の受付は冬の終わり。案内役の女が口入れ屋へ来たのと同じ季節。
封紙を開ける前に書記が秘書官を見たことは、書かなかった。書記が上役の頷きを待つのは、どこの役所でも珍しくない。書かなかったが、忘れもしなかった。
*
帰りに川沿いの道へ馬車を回させた。
アーヴェルの店は夕方の焼き上がりの前で、窯の口から熱が通りまで出ていた。親父さんは前掛けで手を拭きながら出てきて、俺の顔を見るなり頭を下げた。粉が少し落ちた。
「推した者の名は、書いてありませんでした」
粉袋の積んである店の奥の狭い場所で、写しの紙を見せた。アーヴェルは字を指で追って読んだ。推薦者の欄の空白のところで指が止まった。
「推した人がいないのに、推されたってことですか」
「推した者が、名を書かなかったということです。誰なのかは、まだ分かりません。誰がそれを通したのかは、学院から書記長に尋ねます」
「……リリアには」
「あなたから話してください。それと、もう一つお願いがあります。私の娘にも、この紙のことを話してよいでしょうか。リリアさんの名の出る紙です」
アーヴェルは紙を俺に返して、窯のほうを一度振り向いた。
「お嬢様なら、いいです。リリアの友だちですから」
帰りの馬車で次の休みまでの日を数えた。娘が帰ってくる。外の欄の話を一つ渡せる。
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