知らなかった文字
(エレノア)
資料室は図書館のいちばん奥にあった。
窓は北の高いところに一つだけあって、その下に卓が一つと椅子が三つ置いてあった。椅子の一つは司書の方のもので、司書の方は卓の端に座り、白い手袋をはめた手を膝の上に重ねていた。
インクは入口の箱に預けて、鉛筆と紙だけを持ち込んだ。カイル様は図書館の入口の石段で待っている。
一度目の日に、司書の方は革の箱から一冊の写本を出した。
表紙は板で、角の金具が黒ずんでいた。綴じ紐は新しかった。中の紙は茶色く、端が波打っていた。
「建国の頃の誓いの写し。この学院にある中では、いちばん古いものです。葉はわたくしがめくります」
一葉目が開かれた。わたくしの読める字は、一行に二つか三つだった。王。誓い。銀。
隣でノアが息を止めた。止めたまま、鉛筆の先を紙の上で動かし始めた。読みながら写すのではなく、形だけを先に写していた。
その日は七葉目まで進んだ。ノアが読めたのは、わたくしより少し多かった。王の誓い。守る者の血の立会い。環に手を置く。わたくしの知っていることと同じだった。九つの夏に先生から聞いた、母の家の務めだ。
五葉目の終わりで、ノアの鉛筆が止まった。
「ここ、読めるけど、分からない」
ノアは一語ずつ指で追った。
「四つの、声、なくして。新たな、誓い、なし」
司書の方が眼鏡を額から下ろした。わたくしは自分の紙にそのまま書いた。四つの声なくして、新たな誓いなし。
四つの声。誰の声なのか、どこにも書いていなかった。新たな誓いというのが何なのかも。
「意味の取れない条だ。字は全部読める。読めるのに、何のことか分からない」
「分からないまま、写しておきます」
「それでいい」
*
次の休みの日に屋敷へ帰った。
書斎でお父様に口で話した。願い出のこと。ノアのこと。ノアの名を出すと、お父様は、先生が先に言い当てたと言った。補佐が付くとだけ話したら、名を聞く前に、ノアでございましょう、と言われたそうだ。それから四つの声の条のこと。お父様は手帳に書かずに聞いていた。四つの声のところで、ないはずの眼鏡を一度押し上げた。
話し終えると、お父様は机の引き出しから紙を二枚出した。先生の字の写しだった。
一枚目には円を描くように古い字が並んでいた。二枚目は羊皮紙の写しで、三枚目の終わり、と先生の字で添えてあった。
「指輪の内側の字だ」
お父様は右手を机の上に置いた。中指に色のない石の指輪がある。わたくしが覚えている限り、お父様は一度もそれを外したことがない。
「家の箱から、内側をすべて写した紙が出てきた。先生が読めたのは、継願、誓いを守る家に、まで。家訓の類だろうと、先生は言う」
「お父様は、何が書いてあるのか、ご存じなのですか」
聞いてから、聞いてしまったと思った。
お父様はわたくしの目を見て答えた。
「知らない。だから渡す」
嘘の顔ではなかった。言えない時のお父様は、言えない、と言う。言えない理由の顔が先に出る。今のお父様の顔は、知らないことを知らないと言う時の顔だった。
「読めたことは、次の休みに口で聞かせてくれ。急ぐことなら、中身は書かずに、会いたいとだけ書け」
「はい」
紙を二枚、帳面に挟んだ。帰りの馬車では一度も開かなかった。
*
二度目の日、わたくしは帳面から紙を二枚出して卓に置いた。
「父の指輪の内側の字です。父の許しをもらって持ってきました」
司書の方は紙に目を落として、何も言わずに頷いた。ノアは円の紙を見るなり、自分の紙片を出して横に並べた。
「爺さんの写しだ。撥ねで分かる」
司書の方が写本の八葉目を開いた。一度目の日の続きだった。ノアは円の後ろ半分の形を左手の指で押さえたまま、一葉ずつ同じ形を探していった。葉をめくる音のほかは何も聞こえなかった。
十八葉目で、ノアの指が止まった。葉の上に見出しがあった。わたくしにも一字目が読めた。継ぐ。二字目は、願う。
「継願」
ノアが言った。円の始まりの二字と同じ形だった。
見出しの下に細かい字が続いていた。ノアは円の紙と写本の葉を交互に見て、鉛筆で一字ずつ読みを付けていった。速くはなかった。一字ごとに、紙片の形と比べた。
途中で一度、司書の方の手袋の指が動いた。葉の端を押さえ直しただけだった。
ノアが鉛筆を置いた。
「読む」
ノアは自分の書いた読みを一語ずつ声に出した。
「継願は。誓いを守る家の、当主に、授けらるる。術、なり」
術。
わたくしは自分の紙に書いた字を見た。書き間違いではなかった。
「家訓じゃない。術の名前だ」
ノアが言った。
「王の誓いと同じ字、同じ組み方で書いてある。同じ頃の、同じ書き方の術だ」
「円の後ろ半分は」
「見出しの下の、この二行と同じ形が並んでる。誓いを守る家に授けらるる、の続きだ。指輪の内側に、術の名前と、誰に授けたかが彫ってある。……そういうことだと思う。思うだけだ」
円の紙を見た。お父様は当主だ。
何をする術なのか。
「続きは」
「次の葉」
司書の方が葉をめくった。十九葉目にも細かい字が続いていた。その次をめくると、二十三葉目だった。
ノアが写本に顔を近づけた。触らないように、鼻の先が紙から指一本ぶん離れたところで止まった。
「切ってある」
綴じ紐の内側に紙の切れ端が細く残っていた。三葉分。切り口はまっすぐで、紙の繊維がささくれていなかった。
「刃物だ。綴じ紐の際で、まっすぐ。慌てて破ったんじゃない」
司書の方が立ち上がって棚から別の綴りを出した。写本の修繕の記録だった。
「四十年前に綴じ直しています。その時の書き込みに、十九葉と二十三葉の間、綴じ直し以前より欠く、とあります。綴じ直す前から、なかったということです」
「十九葉の終わりに、見出しがある」
ノアが言った。十九葉のいちばん下の行に、見出しが二つ並んでいた。ノアはその二つを読んだ。
「発する、条。……その、代」
発する条。その代。
術を発する条件と、その代わりに払うもの。そう読むのだと思った。その先の葉がない。
わたくしは鉛筆を握ったまま円の紙を見ていた。
お父様は、わたくしが五つの春に変わった。熱のあとの朝、お父様はわたくしの名前を呼ぶ前に、一度だけ息を吸った。
その春に何があったのか。わたくしは十年、聞かずにいる。
そこまで考えて、やめた。
何をする術なのか、わたくしは知らない。代々の当主の指輪だ。誰も使わなかったのかもしれない。発する条と、その代の葉はない。
わたくしは自分の紙の、発する条、その代、と写した行の下に四角を二つ書いた。中は空けたままにした。
「抜けた葉は、どこへ行ったのでしょう」
声は思ったより落ち着いていた。
「この写本は、どこから来たのですか」
司書の方が写本の最初の見返しの紙を開いた。古い字ではなく、昔の学院の字で一行あった。
「北の院の本より写す。……と書いてあります。学院ができてまもない頃に、北の修道院の本を写させたもののようです」
ノアが顔を上げた。
「北の院」
「ノアさんの育った」
「地下の書庫の、いちばん下の段。爺さんが読んでた棚の、さらに下に、鍵のかかった箱がある。院長しか開けない。子供の頃、一度だけ中を見た。読めない字の本が三冊。……同じ板の表紙だった気がする。気がするだけだ」
ノアは自分の言ったことを自分で紙に書いた。
「写しのもとの本に、切られる前の葉が残っているかもしれない」
「残ってないかもしれない」
「はい。だから、確かめます」
ノアがわたくしの肩の少し上を見て、それからほんの一瞬、わたくしの目を見た。
「院長に手紙を書く。地下の箱のこと、聞いてみる。巡礼の便は北へは月に一度しか出ないから、返事は夏の休みの終わりごろになる」
「先生には、わたくしから箱のことを伺います。口で」
「……口で?」
「手紙に書かない約束なのです」
ノアはそれ以上聞かなかった。
*
資料室を出ると、北の窓のない廊下は暗かった。図書館の入口の石段で、カイル様が立ち上がった。
「お嬢様」
「ただいま戻りました。何もありませんでした。危ないことは」
カイル様は頷いて、三歩うしろに下がった。
寮へ戻る道で帳面を開いた。お父様の指輪、と書きかけて、消した。消した跡が紙に残った。
次の休みまで、あと六日あった。手紙には書かない。口で話す。
話す順番は、寮の門が見えるまでに決めた。読めたことを話して、それから一つだけ聞く。お父様は、続きの葉をお読みになりたいですか、と。
夏の休みは、その次の休みから始まる。
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