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【1万PV突破】悪役令嬢の父親に憑依した俺、娘を見捨てる未来だけは絶対に認めない  作者: 白川 透


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オズワルドの塔

 屋敷の東の棟の端は低い丸い塔になっている。


 塔の上の部屋は露台の隣で、北と東に窓がある。学師がここへ移ったのは去年の秋だった。廊下の部屋より北の窓の光がいい、古い字は北の光で読むものだ、と言って本を全部運び上げさせた。それから屋敷の者は、この部屋を先生の塔と呼んでいる。


 階段の下と上に騎士が一人ずつ立っていた。上の騎士が扉を叩くと、中から杖の音がした。


「旦那様。こんな刻に、何事でございますかな」

「王宮の図書館の返事だ。帰りに預かってきた」


 学師は白い髭の先に墨を付けていた。卓の上に写しの紙が三重に重なり、読み石が二つ、紙の上で文鎮の役をしていた。学師は封を切って、読み石の横で返事を読んだ。読み終えると紙を卓の端に置いた。


「奥の棚にあるのは、王の誓いの写しが二冊。どちらも、わしが院で読んだ写しより新しいものだそうです。古い形の字の入った写しは、ない、と。……一つ、道が閉じましたな」


 用が済んだところで、娘の手紙のことを一つだけ話した。娘が自分の名で学院の記録の棚を願い出たこと。補佐が一人付くこと。補佐の名は言わなかった。

 学師は杖を椅子に立てかけてゆっくり座った。


「ノアでございましょう」


 名を言う前に答えが出た。


「聞くつもりはなかった。先生が言い当てたと、娘に伝えておく」


 学師は目を細めて、杖の頭を撫でた。


「北の院で育った子でございます。わしが院にいた六年のあいだ、字を教えました。教えたと言うより、勝手に覚えていった。わしが写本を写していると、隣で同じ頁を写す。五つの子が、わしより先に写し間違いを見つけるのです。あれには参りました」


 学師が髭を撫でると、指に墨が移った。


「学院の特待生になったと、院長の手紙で知りました。わしからも手紙を出しております。巡礼の便に託して、院を回して。わしの居所は書きません。あの子も聞いてこない。……あの子が、お嬢様の補佐を」


 学師は窓のほうを向いて少し笑った。


「人の目を見ない子です。お嬢様は、さぞお困りでございましょう」

「娘の手紙では、困っているようには見えなかった」

「それは、ようございました」


 話はそこで終わるはずだった。俺は娘の手紙の続きを娘の口から聞くと決めていた。

 だが学師は卓の上の紙を一枚抜いて、俺のほうへ向けた。


「ちょうど、旦那様にお見せしようと思っていたものがございます。ノアの先月の手紙に、これが」


 手紙の紙ではなく、細長い紙片だった。古い字が二十ほど縦に並び、それぞれの横に小さな印と短い書き込みがある。撥ねの丁寧な字だった。


「学院の表の書架の写本で、あの子が拾った字の形でございます。古い字の教本には載っていない形ばかり。わしの知っている形が十二。残りの八つは、わしにも読めません」

「先生にも」

「わしが院の地下で読んだのは、建国の頃より百年ほど後の写しが多かった。あの子が拾ったのは、それより古い形のようでございます。ここ」


 学師は紙片の下のほうを指で叩いた。


「この形。旦那様の指輪の内側の、縁の陰になっていた三つ目の字。あの時わしが見えたのは、上の半分だけでございました。上の半分が、これと同じ曲がり方をしております」


 右手の中指の指輪を親指でなぞった。色のない石の、節で止まって抜けない輪だ。六年前の秋、この人は見えた二字を読んだ。継ぐ。願う。残りは指の陰とすり減りで読めなかった。


「残りを読むには、指輪の内側をすべて見るか、さらに古い字に通じた者が要る。三年前、文庫を二巡りしたあとで、わしはそう申しました。さらに古い字に通じた者が、どうやら学院におるようでございます」

「指輪は外さない」

「存じております」


 学師はあっさり言った。


「ですから、内側を写した物があれば、と思うのです。代々のご当主のどなたかが、写しを残しておられれば」


 家の書庫は三年かけて俺とセバスが当たった。古い目録に一行あるだけだった。当主の指輪の内に古い字あり、読みは伝わらず。


「書庫にはなかった」

「書庫の目録に載っている物の中には、でございましょう」


 学師はそう言ってから、ノアの紙片をもう一度手に取って、下のほうの形を長いあいだ見ていた。


「旦那様。前に見せていただいた、家の記録の箱がございましたな。建国の頃の羊皮紙の束で、三枚目の終わりに、すり減った見出しが一つあった。一字目が読めずに、わしは継とは読まなかった」


 学師の指が、紙片の一つの形の上で止まった。


「あの一字目に残っていた線が、この形の線と同じでございます」


 見た覚えはあった。書庫の棚のいちばん下の段の奥にある古い革の箱で、中は紐で綴じた羊皮紙の束だった。読めない字ばかりだったので、学師に見せて、建国の頃の家の記録の写しだと聞いた。継願の二字が並んだ形はなかったと、学師が言ったので、閉じた。

 閉じた箱の中を底まで見たかどうか。見ていなかった。


 箱を塔の上まで運ばせた。運んできたのはセバスで、燭台の替えも一緒に持って上がってきた。

 セバスは箱を卓に置いたあと、蓋に手を載せたまま少しのあいだ黙っていた。


「……申し上げるべきか、迷っておりましたが」


 言い出すまでの間は、六年前に指輪の話をした日と同じだった。


「閣下が倒れられる前の冬でございます。夜遅く、この箱をお一人でお開けになったことがございました。私はお呼びになるまで廊下におりましたので、中は存じません。閣下ご自身のことと思い、これまで申し上げずにおりました。翌朝、書庫の蝋燭が二本、燃えきっておりました」


 セバスはそれだけ言って、蓋から手を離した。


 羊皮紙の束は記憶のとおりだった。紐を解いて一枚ずつ卓に移していくと、箱の底が見えた。

 浅かった。外から見た箱の高さに比べて、底が指二本ぶん高い。底板の端に指をかけると持ち上がった。

 底板の下に、紙が一枚入っていた。


 羊皮紙ではなかった。普通の紙で、角が少し黄ばんでいる。真ん中に、円を描くように古い字が並んでいた。輪の内側を開いて、紙の上に置き直したような並びだった。

 円の外の余白に小さな字で日付が一つだけあった。十一年前の冬。

 字は隠し棚の記録と同じ字だった。帳簿の「暇を出す」と同じ、流れるような癖のない字。この身体が署名の時に勝手に書く字。


 セバスが息を吸う音がした。何も言わなかった。


 前の持ち主は、この字の全部を知っていた。指輪を外して写したのか、別の写しから写したのかは分からない。分かるのは、セバスの見ていないところで、蝋燭が二本燃えきるまで一人でこの箱を開けていたことだけだ。


 学師は読み石を紙の上に置いて、長いあいだ黙っていた。


「円の始まりは、ここでございましょう。指輪の内の印のところ」


 学師の指が円の一か所に置かれた。


「継ぐ。願う。これは六年前に読んだ二字でございます。続けて、継願。その次」


 指が円をなぞって進んだ。


「誓い。守る。……誓いを守る、と読んでよいかと存じます。その次が、家。誓いを守る家に、とでも。ここまでは読めます」


 学師の指が止まった。


「ここから先が、ノアの拾った形でございます」


 学師は紙片を円の横に並べた。円の後ろ半分の字の形と、ノアの紙片の下の八つの形が、いくつも重なった。


「わしの知らん字でございます。知らん字を、知っている字の並びから当て推量で読むのは、わしの若い頃の悪い癖でした。いまは、いたしません」


 学師は紙から指を離した。


「旦那様。これは、言葉でございましょうか」

「言葉」

「継願。誓いを守る家に。……家訓の類か、代々の当主が唱えた言葉か。わしには、そう読めます。ただ、言葉なのか、別の何かなのかは、申せません」


 別の何か、と学師は言った。それ以上は言わなかった。


 俺は円を見ていた。指輪の内側にずっとあったものだ。十年前の朝、目が覚めた時から俺の指にあった。

 継ぐ。願う。誓いを守る家に。

 円から目を離した。卓の端に、羊皮紙の束が積んであった。


「この羊皮紙のほうは」


 学師は束の三枚目を燭台の灯に寄せた。


「建国の頃の、家の記録の写しでございます。前にも申しましたが、誓いを守る者が王の誓いのそばに立つ、ということが書いてある。守護者の務めでございますな。そして、三枚目の終わりの見出し」


 学師は三枚目の下の端を指した。


「いま円と並べると、継願と同じ形でございます。その下は、以下別紙、とある。別紙はこの束にはない。三年前にわしが見たのもここまでで、その時は見出しを読めませなんだ」


 学師は紙を卓に戻した。


「別紙がどこにあるのか、わしには分かりません。家の箱になければ、写しのもとになった本のほうに残っているやもしれません。古い記録を残す所は、そう多くはない。王宮の奥の棚は、今日の返事で閉じました。大聖堂の文庫は、わしの名では入れません。それから」

「学院の記録の棚」

「そこも、わしの名では入れぬ棚でございます」


 娘の名なら入れる。娘はもう願い出の紙を出した。


 塔を出る前に、俺は卓の上の円の紙をもう一度見た。


 これを娘に渡せば、娘は問うだろう。お父様の指輪には何が書いてあるのか、と。

 答えを、俺は持っていない。


「先生。これを写してくれ。円のほうと、羊皮紙の三枚目を。原本は箱に戻して、箱は書庫に」

「お嬢様にお渡しになりますか」

「娘とノアに。学院の棚の写本と並べて読めば、先生の読めない字が読めるかもしれない」


 学師は頷いた。


「文書で確かめられたら、旦那様にはその日のうちに、お嬢様には次にお帰りの日に。そういうお約束でございましたな」

「そういう約束だ。だから、渡す」


 学師は新しい紙を出して、円を写し始めた。インクで黒い指が迷わずに動いた。撥ねは、ノアの紙片の撥ねと同じ形をしていた。

 写し終えるまで、俺は窓のそばに立っていた。北の窓の外はもう暗かった。

 その晩は手帳を開かなかった。開けば一行書いてしまいそうだった。自分はこれで来たのではないか、とは。

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