快気祝いの茶会
茶会の客は九人だった。
九人のうち俺が顔と名前を一致させられるのはゼロだ。この身体の前の持ち主は全員と何度も会っているはずで、向こうは俺を知っている。俺は向こうを知らない。取引先の名刺を一枚も持たずに先方の役員会に放り込まれたようなものだ。
「お見えです」
セバスが俺の半歩うしろで言った。庭に面したサロンの扉が開き、淡い黄色の服を着たふくよかな婦人が入ってきた。
「ブラント伯爵夫人。旦那様とは亡き奥様を通じてのお付き合いでございます。あの方のサロンで話されたことは三日のうちに王都じゅうのお屋敷に届きます」
セバスの声は唇がほとんど動かないくらい小さかった。社交界の耳というやつらしい。
俺は教わったとおりの角度で頭を下げようとしたが、身体が勝手にそれより少し浅く下げた。公爵が伯爵夫人に下げる角度はこちらが正しいらしい。
エレノアはサロンの入口で一人ずつ客を迎えていた。
薄い水色の服に、昨夜ミーナが遅くまでかかって巻いた髪を高い位置でまとめている。客が入ってくるたびにスカートの裾をつまんで礼をした。
「ようこそおいでくださいました。父の快気をともにお祝いいただけますこと、うれしく存じます」
声が少し上ずっていた。九回言って九回とも同じところで上ずり、それでも一度も止まらなかった。
最後の客を迎える少し前にミーナが東の棟のほうから小走りに戻ってきた。エレノアのうしろに立って前掛けの隠しを上から一度だけ押さえ、何事もなかった顔で主人の髪の後れ毛を直した。
俺はサロンの奥の椅子からそれを見ていた。見ていることしかできなかった。父親が横で口を挟めばそれは娘の失敗になる。茶会の前にクラウディアにそう言われていたし、その時は俺もそれが正しいと思っていた。
茶会は庭の見える長い卓を囲んで始まった。
エレノアが客の一人一人に茶を注いで回る。小さな手で大きな茶器を持ち、注ぎ口を茶碗の縁に寄せてこぼさない高さで傾ける。茶器は陶器だった。銀の茶器は十五時からの後半のお茶で出すのだと、さっきセバスが言っていた。
エレノアのうしろには給仕の侍女が二人ついていた。一人はミーナ。もう一人は見覚えのない若い侍女だった。
「冬に入ったドーラという者でございます」
俺の視線に気づいてセバスが言った。ドーラは盆を持ったまま客の背後に控えていた。手は素手だった。
「こちらは料理長の自慢の、すみれの砂糖漬けでございます」
エレノアが菓子の皿を手で示すとブラント夫人がころころと笑った。
「まあ。これは、薔薇ではなくて?」
エレノアの耳が一瞬で赤くなった。皿の上の砂糖漬けは確かにすみれより大きな花びらだった。
「……失礼いたしました。薔薇の、砂糖漬けでございます」
声は震えなかった。耳と首筋だけが真っ赤なままだった。
俺は膝の上で拳を握った。立ち上がって何か言いたかったが、言えばそれが失敗になる。
「よろしいのよ。お小さいのに本当によくお出来になること」
ブラント夫人は扇の陰で隣の夫人に何か囁き、それからこちらへ向き直ってにっこりと笑った。
「ご令嬢は完璧ね、公爵様。怖いくらい」
どこにも棘のない褒め言葉に聞こえた。それでもなぜか俺はすぐに礼を言えなかった。
*
茶会が半ばに差しかかった頃ドロステ子爵夫人が席を立った。
細身の物静かな婦人で胸元に古風な金のブローチを留めていた。庭から吹き込む風が思ったより冷たかったらしく、ショールを替えたいので、と控えの間を借りた。ミーナが案内しかけたが夫人は「場所は分かりますから」と一人で出ていった。
少しして夫人は淡い灰色のショールを肩に掛けて戻ってきた。俺はそれを見るともなしに見ていたが、胸元に何が留まっていたかまでは見ていなかった。
その時、俺は別のことで手一杯だった。隣の席の老紳士が「閣下は街道の通行料の照会に二つ目の案でお返事なさったとか。北の街道だけ据え置かれたのは、なぜで」と聞いてきたのだ。
「去年の額で北はもう他の街道より高い。これ以上上げれば荷が南へ回る」
ヘルマンとセバスに一つずつ教わった数字だった。老紳士は「なるほど、なるほど」と何度も頷き、うしろでセバスがごくかすかに息を吐いた。
目覚めたばかりの頃の俺なら「続けろ」しか言えなかった。
それから間もなくドーラが盆を置いた。
「銀の茶器をお出しいたします」
そう言って前掛けの隠しから白い手袋を出し、両手にはめた。
ミーナが一瞬だけ眉を寄せ、すぐに何もなかった顔に戻った。
俺にはその眉の意味が分からなかった。壁際のクラウディアは侍女のほうを見てもおらず、教え子の手元だけをまばたきもせずに見ていた。
侍女が手袋をはめた。それだけのことだ。ドーラは手袋のまま客の背後に下がったが、銀の茶器はまだ運ばれてこなかった。少ししてドーラは「替えのナプキンを」と言ってサロンを出ていった。
九人分を二度ずつ注ぎ終えて、エレノアは三度目に入っていた。大きな茶器は五歳の腕には重い。持ち上げるたびに手首が少しずつ下がっていくのが、俺の席からも見えていた。
ミーナはエレノアのすぐうしろにいた。茶器を一度卓に置けばミーナが代わる。袖を濡らした晩にそう決めて、クラウディアにも俺から伝えてあった。
エレノアは茶器を置かなかった。九人の目が注ぎ口と小さな手に集まっていた。その前で女主人が茶器を下ろし、侍女に渡す。それがこの子にとってどれほど大きな動きなのか、俺は合図を決めた時に考えていなかった。
口を挟めば娘の失敗になる、とクラウディアは言った。だが手首はもう二度目の時より下がっていた。
俺はミーナと目を合わせて小さく頷いた。ミーナがエレノアの肘のそばへ身をかがめた。
「お嬢様。お代わりいたしましょうか」
「……あと、ひとまわり、です」
エレノアは注ぎ口から目を離さずに小さく答えた。茶器は置かなかった。おしまいまで自分で注ぐと言ったのはこの子だ。
それなら、ひとまわりで終わらせればいい。俺は客のほうへ向き直った。
「この一巡が済んだら、しばらく茶は休ませよう。後半の前に庭の菓子を回させる」
老紳士が「それはいい」と言い、何人かが頷いた。エレノアの肩がほんの少し下りるのが見えた。
エレノアは片手のまま次の茶碗へ移った。
ブラント夫人の茶碗の上で注ぎ口がかたりと揺れた。
薄い茶が茶碗の縁を越えてエレノアの水色の袖にかかった。
「あら、まあ」
ブラント夫人が扇を口元に当てた。
エレノアは茶器を、音を立てずに卓に置いた。それから自分の濡れた袖を見下ろした。
顔色は変わらなかった。変わらないまま客たちに向かって深く礼をした。
「お見苦しいところを、失礼いたしました。少しだけお時間を頂戴いたします」
ミーナがすぐにエレノアの背中に手を添え、二人はサロンを出ていった。俺は半分腰を浮かせたまま閉まる扉を見ていた。
客たちは何事もなかったように話を続けた。ブラント夫人だけが閉まった扉のほうを少しのあいだ見ていた。
エレノアは思ったより早く戻ってきた。
淡い黄色の服に着替え、髪は少しも乱れていなかった。卓に戻るともう一度客に礼をして、ブラント夫人の茶碗から注ぎ直した。今度は何事もなく注げた。
次はドロステ夫人の席だった。茶器を持ち替える前に、エレノアが空いたほうの手で手首を一度さすった。俺は一巡を待たずに声をかけた。
「ここで休もう。残りは菓子のあとでいい」
エレノアは少し迷ってから、自分で茶器を卓に置いた。ドロステ夫人の茶碗は空のままで、庭の菓子が回された。
俺はようやく息を吐いた。
九人の客の前で五歳の子がここまでやった。あとで何を見たかをちゃんと言おう。薔薇の砂糖漬けを自分で言い直したこと。お茶をこぼしても着替えて戻ってきて、続きから注いだこと。休もうと言われて、自分で茶器を置いたこと。
ドーラはいつの間にかサロンに戻っていた。手袋ははめたままだった。
置き時計が十五時を打った。銀の茶器が運ばれてくるはずの時刻だった。
その時ドロステ子爵夫人が小さな声を上げた。
「……ない」
夫人は自分の胸元に手を当て、灰色のショールの合わせ目を指で何度も探っていた。顔からすうっと血の気が引いていくのが見えた。
「母の、ブローチが。……さっき控えの間でショールを替える時に外して。小卓の上に。それから……」
付け直した覚えがないと夫人は言った。
セバスがすぐに控えの間へ人をやったが、戻ってきた使用人は首を横に振った。小卓の上には何もなかった。
サロンが静かになった。
九人の客が互いの顔を見ないようにして、互いの顔を見ていた。
その静けさの中でブラント夫人が閉じた扇をそっと卓の上に置いた。
「お気の毒に。亡きお母様の形見でしたわね」
穏やかな声だった。
夫人は俺ではなく、エレノアのほうを見ていた。
「使用人のお部屋もお改めになったほうがよろしいわ。……それに、小さなお子様は光るものがお好きですもの」
エレノアは卓に置いた茶器の取っ手に手を添えたまま動かなかった。
サロンの全員の目がゆっくりと五歳の女主人のほうへ向いていくのを、俺は見ていた。
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