お父様の手
お父様はお熱から起きてから三つ変わりました。
一つめ。使用人に「ありがとう」とおっしゃいます。お皿を下げた人にも、扉を開けた人にも、お手紙を持ってきたセバスにも。前のお父様は言いませんでした。言わないのが上の者のふるまいだとクラウディア先生がおっしゃいました。
だからお父様が「ありがとう」とおっしゃるたびに、わたくしは少しどきどきします。
二つめ。わたくしのお部屋に来ます。毎日夕ごはんの前に、小さい砂時計がひとつ落ちるまでいます。前のお父様は来ませんでした。
三つめは、まだ言えません。
*
お熱のあとからクラウディア先生はお昼ごはんのことを言わなくなりました。
姿勢のおけいこは小さい砂時計がひとつ落ちるまでになりました。前は大きい砂時計でした。小さい砂時計を四回ひっくり返すあいだに、大きい砂時計が一回終わります。数えたので知っています。背中の板は棚の上にしまわれました。
先生は「旦那様のご命ですから」とおっしゃいました。そのお顔は、いつものこわいお顔と少しちがいました。どこがちがうのかは、わかりませんでした。
今日は茶会のおけいこでした。
来月お父様のお熱がなおったお祝いの茶会があって、わたくしが女主人をします。女主人はお客様にお茶を出して、お話をして、お見送りをします。
「給仕の侍女の決まりも、覚えておいてくださいませ」
先生は細い棒で卓の上の銀のお茶道具をさしました。ぴかぴかで、わたくしの顔がさかさまに映ります。
「侍女が手袋をするのは銀の茶器を扱う時だけです。銀は指の脂で曇りますから。それ以外の時に手袋をしている侍女は決まりを知らない侍女です。女主人はそういうところまで見ておかなければなりません」
「使った手袋は洗わずに厨房の籠へ入れさせます。銀の曇りが移りますから朝のかまどで燃やします。女主人はそこまで知っておくものです」
銀の時だけ。わたくしは口の中で二回言いました。
決まりを覚えるのは得意です。覚えるとまちがえないからです。
それからお茶を注ぐおけいこをしました。本当のお茶ではなくて、お水です。陶器の大きなお茶入れは重たいので九人に二回ずつ注いで、三回めになると手首がさがってきます。
「片手でお注ぎなさいませ。女主人は両手でお茶入れを抱えたりいたしません」
わたくしは片手で注ぎました。三回めは、お水が少しお茶わんのふちからこぼれました。
*
夕ごはんの前、お父様がいらっしゃいました。
わたくしは、おねがいをしてみることにしました。砂時計を返す前に言いました。
「今日はお茶を注ぐおけいこを、見ていただけますか」
お父様は少しだけ目を大きくして「見る」とおっしゃいました。
ミーナがお水を入れたお茶入れと、お茶わんを三つ持ってきてくれました。お父様は小さい椅子にすわってお客様の役をしました。お客様は一人なので三つのお茶わんに順番に注ぎます。
お昼に九人分のおけいこをしたので手首は、はじめから少し重たかったです。
一回め。こぼしませんでした。
二回め。こぼしませんでした。
三回め。手首がさがりました。
お水がお茶わんからあふれてお父様の袖にかかりました。
わたくしはお茶入れを持ったまま動けなくなりました。
お父様の袖がぬれています。黒い上着の袖の色がもっと黒くなっています。
しかられると思いました。
前のお父様の書斎でインクのびんを倒した時のことを思い出しました。前のお父様は何もおっしゃいませんでした。それから先生がいらして、わたくしは反省文を三枚書きました。
お父様も何もおっしゃいませんでした。
ぬれた袖を見て、それからわたくしを見ました。そのまま待っていました。
わたくしは数えました。いち、に、さん。お父様は待っていました。しかる前に待つ人もいます。わたくしは息を止めてまた数えました。し、ご、ろく。
「……うでが、つかれました」
言ってしまいました。言うつもりはありませんでした。
「そうか」
お父様はそうおっしゃって、ぬれた袖をちょっとだけ振りました。それから言いました。
「……重いんだな、これは」
しかりませんでした。お父様はお茶入れを見て、わたくしの手首を見て何か考えていらっしゃいました。
「少し、手を貸してもいいか」
お父様が手を出しました。わたくしのお茶入れの下に手のひらを上にして。
わたくしはお父様の手を見ました。大きい手です。左手でした。左手の指は少しだけまがったままでした。
さわっていいのか、わかりませんでした。
お父様の手にさわったことはありません。前のお父様とも手をつないだことはありません。お父様の手は署名をする手です。
お茶入れが、またさがりました。
わたくしはお茶入れの底を、お父様の手のひらの上にそっと置きました。
お茶入れの重さが下から止まりました。お父様の手が底を支えていました。ミーナがあふれたお茶わんを空けてくれて、わたくしは三回めをもう一度注ぎました。お茶入れが急に軽くなって、こんどはこぼしませんでした。
「疲れたら、言えばいい。それは、まちがいではない」
お父様はそうおっしゃいました。それからミーナのほうを見ました。
「茶会ではミーナがうしろにいるな。重くなったらミーナに代わってもらおう。代わってほしい時は茶器を一度、卓に置く。それを合図にする」
ミーナが「かしこまりました」と言いました。わたくしも「はい」と言いました。
砂時計の砂はもう落ちきっていました。お父様は袖がぬれたまま「明日も来る」とおっしゃって帰っていきました。
*
次の日、お昼すぎにお父様の書斎の前を通りました。
扉が少し開いていました。のぞいてはいけません。でも開いていたので見えてしまいました。
お父様は机でお手紙を書いていました。ペンをとって、インクをつけて、紙の上に置きます。そこでお父様の手が止まりました。わたくしが「いち」と数えるくらいです。
それから、さらさらと動きました。前のお父様と同じお手本みたいな字です。でも前のお父様はペンを持ったあとで止まりませんでした。
お庭を歩くおけいこで厩のそばを通った時、お父様が馬丁と話していました。お父様はわたくしの小馬を見て「この馬は」と聞きました。馬丁は「お嬢様の小馬のペルでございます」と言いました。
ペルの名前をつけたのは前のお父様です。ペルの名前を知らないお父様はいません。
三つめのことを言います。
お父様は前のお父様とちがう人みたいです。
顔は同じです。声も同じです。字も同じです。でも、ありがとうと言います。昔話をします。人参を入れません。ペンを持つと止まります。ペルの名前を知りません。袖がぬれても、しかりません。
わたくしは数えるのが得意です。数えたらちがうことが、たくさんありました。
ミーナに聞こうと思いました。聞きませんでした。
聞いたら今のお父様がいなくなってしまう気がしました。いやだと思いました。
だから聞きません。これはわたくしが自分でつくった決まりです。
*
夜お部屋に戻る時、廊下にドーラがいました。
ドーラは冬に来た侍女です。敷布のたたみ方が少し雑で角がそろっていません。
ドーラはわたくしのお部屋の扉の前に立っていました。何も持っていませんでした。わたくしを見るとお辞儀をして行ってしまいました。敷布は朝に替えたばかりです。何のご用ですかと聞こうとして口を開けた時には、もう角を曲がっていました。
お部屋に入って扉をしめてから棚のお人形を見ました。
お父様がくださった大きなお人形です。わたくしはもう五歳だからいりません、と言いました。ミーナが棚に置きました。
それを、わたくしが枕元に持ってきます。夜だけです。朝になったら棚に戻します。だれにも見られてはいけません。そう決まっているわけではありませんが、きっとそうです。
お人形の青い服のしわを手でのばしました。
それから自分の手を見ました。きのう、お茶入れの底をお父様の手のひらの上に置いた手です。
茶会はちゃんとやります。お茶をこぼさないで、お客様のお名前をまちがえないで、お見送りまで。
もしうでがつかれたら、茶器を一度、卓に置きます。そうしたらミーナが代わります。お父様とミーナとわたくしで、そう決めました。
でもお客様が九人見ている前で、女主人が茶器を置いて侍女に代わってもらったら。それはまちがいでしょうか。お父様は、まちがいではないとおっしゃいました。先生は、女主人は両手で抱えたりしないとおっしゃいました。
わからないまま、お人形の頭をなでてねむりました。なでたのは一回だけです。
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